「……本当に、撃たれなかったんだってさ」
「北の奴らの塹壕も最近ずっと静かなんだって」
「なんか……変だよね」
12月も中頃を過ぎてなお、休戦の噂は絶えることがない。
兵舎でも塹壕でも。味方の兵士を見掛ければ場所なんて問わずに。誰もが“分かっているのに言えなかったこと”を、ようやく口にできたのだ。その声色は少し赤みを帯びているように見えた。
旧繁華街の警戒任務から戻った私もまた、その輪の隅に立っていた。
ユキノが隣で、そっと私の袖をつまむ。
「ねえ、アサ。言っていい?」
「……うん。私ひとりじゃ言えないから」
ユキノは深呼吸して、みんなの方を向いた。
「ねぇ、あんたたちも、思ってるんでしょ?もう、戦うの……やめたいって」
ランプの影が壁にうつり、みんなの肩がピクリと揺れた。
そんな中、最初にうなずいたのは小隊の一番年下の子だった。
まだ十二歳にも満たない少年兵だ。
「……イヤだよ。寒いのも、怖いのも……もうイヤだ」
その声に、ポコポコと浮かび上がる泡のように賛同が続いた。
「もう、友達が死んでいくのを見たくない……」
「帰る家なんてないけど……でも……」
「……私だって、毎日祈ってた。明日こそ誰も死なないでほしいって」
どの子も、静かに泣いていた。
きっとみんな捨て去っていた行為だ。戦場では、泣いても意味がないと知っているから。
でも、いまだけは違った。
私は胸のポケットにそっと触れた。
お守りみたいに仕舞い込んでいるリクからの新聞。そして、あの一文。
『この戦争、終わるかもしれない。』
私は勇気を出して、輪の中に一歩踏み出した。
リクから『この話』を聞いてから、決めていたことだ。みんなに伝えようって。
「ねぇ、みんな。クリスマス休戦って知ってる?」
*
────クリスマス休戦って、知ってるか?
リクが手紙で教えてくれた。
『百年以上前の戦争でね、敵同士がある夜にだけ銃を置いたんだ。それがクリスマスの夜だった』
それは第一次世界大戦のこと。
海の向こう。ヨーロッパの、張り巡らされた塹壕が泥と鉄に塗れていた戦場。その最前線のある夜、誰かが小さな声で「歌」を歌い始めた……。
と、リクは書いていた。
『きよしこの夜、って曲だったらしい。
片方が歌って、もう片方が続いて。
気づいたら双方、銃を置いて……塹壕から出てきて、手を振って、握手してさ。
プレゼントまで交換したんだって。
嘘みたいな話だけど、これは実際に起きた奇跡なんだ。
それも上から命令されたんじゃない。兵士たちが自分の意思で動いて実現させたんだよ』
私はその文章を何度も読んだ。
胸が高鳴って仕方なかった。これだ────そう確信する何かが、そこにはあった。
だから私は、みんなにこの逸話を話したのだ。
みんなならきっと、私と同じ“考え”に至るだろうから。
*
「……どうかな?もし、クリスマスの夜、誰も撃たなかったら。私たちが銃を置いて、敵も置いて……それでお互い歩み寄れたら。北も南も関係ない。握手して、笑い合って。そうして分かり合えるかもしれない。そう思わない?」
言った瞬間、兵舎の中がしん……と静まった。
ランプの火がかすかに揺れる。
「……向こうの誰かが“もう戦いたくない”と思ってるって知ってる。だから……私たちがまず手を差し出してもいいんじゃないかなって。大人たちが決めたことじゃなくて。私たちが自分の意思で」
ユキノがそっと私の背中に触れた。
労うように撫でてくれるその手は温かかった。
「クリスマスの夜……だけど丸腰になれっていうの?」
「向こうが撃ってきたらどうするんだよ」
不安げな声がそこここに響く。
当然だ。でもその中に、確かに“前に進みたい気持ち”が混じっているのを、私は感じていた。
やがて、ひとりが言った。
「……こわいけど。でも、やってみたい」
別の子も続く。
「ぼくも……仲良くできるなら」
「……あたしも」
「私も……」
その“私も”が重なっていくたび、兵舎の空気がほんの少しあたたかくなったような気がした。
ランプの光が、涙の跡を照らして、仲間たちはみんな、普段よりもさらに幼く見えた。でも、その声は確かに力強かった。
ユキノが私の方に顔を寄せ、小さく、ほとんど囁きみたいに言った。
「アサ……もう戻れないぜ?」
「……うん。でもいいよ。だって、前に進みたいって思ったのは……私たち自身だから」
そう言うと、何処からかコムギが私の足元に寄ってきて「にゃおん」と短く鳴いた。
抱き上げて頬擦りすれば、ふわりと匂い立つほのかな花の香り。それはまだ遠いはずの春の訪れを予感させるような、そんな気がした。
「しかしまぁ、“クリスマス休戦”なんてね。誰に聞いたんだか。ねぇ、アサ。そろそろ教えてくれないの?」
「いつかね」
「ふぅん。こりゃ、あたしのカンはあながち外れちゃいないかもな〜」
そう言ってイタズラっぽく笑うユキノの視線に隠れるように、私はコムギのお腹に顔をうずめた。
*
その夜、私はリクに手紙を書いた。
『クリスマスの夜、私たちは銃を置いて塹壕を出ます。
だから、リク。北のみんなも一緒に平和な夜を過ごそう』
本当は「私と一緒に夜を過ごそう」と書くつもりだったけれど。途端に恥ずかしくなって、机に突っ伏した挙句「みんな」を付け加えて誤魔化したのだった。
そうして首輪の鈴に丁寧に折りたたんだ手紙を入れたら、コムギはいつものように夜のお仕事に出勤してゆく。
その可愛い背中を気配が無くなるまで見送ってから、私はベッドに入り目を瞑った。
「きっとうまくいく。きっと……」
────そう思っていた。すべて上手くいくと。
けれど、この世界にとっては。ささやかな願いなど、虫けらのように無情に踏み潰されてしまうのだと……私たちは知ることになる。


