火蛾の恋

 暗闇に立ち上る炎の中に、髪の長い女性が一人いる。火だるまになりながら振り向き、こちらへ向ける眼差しは……飛翔する一羽の蛾によって、隠されて見えない。
 代わりに羽の目玉模様が、私たちを見つめていた。蛾は光に吸い寄せられたのではなく、女性の視線を独り占めするために飛んできたのだろう。
 例えその身が燃えようとも、あの虫のように恋い焦がれ──近づいて触れたい衝動に駆られる。

「……これが『火蛾(ひが)の恋』」
 
 高校1年の冬、私はその日本画と出会った。

「あ、いた! 燈花(とうか)~!!」

 魅入られたように絵の前から動けなかった私は、名前を呼ばれたことで現実に引き戻される。そして声をかけながら歩み寄る香澄(かすみ)に、小声で注意した。

「ちょっと、静かにしなきゃダメだよ!」

 そこで彼女は個展会場にいることを思い出し、ハッとする。そして次からは声のボリュームを落として話し始めた。

「ごめんごめん」
「……それで目当ての相手はいたの?」
「会場をグルッと回ったけど、まだ来ていないみたい」

 今、自分たちがいるアートギャラリーでは「染川(そめかわ)(あい)展 無声の詩〈(ほむら)〉」が開催されていた。香澄に事前情報もなく連れてこられた私は、配布されたチラシに目を落とす。
 記載された簡潔なプロフィールによると、作者の染川藍はまだ15歳の男子中学生だ。
 著名な日本画家である祖父の下で才能を開花させ、14歳の時に先ほど見た「火蛾の恋」を描き上げた。そして大人たちを差し置いてコンクールで入賞し、彼の名前と作品が広く知られるようになる。
 染川は炎をテーマにした絵を多く描くため、遠目から見ると会場が赤く燃えているようだ。

「あぁ~生の『染川藍』を、イケメンを拝みたかった!」

 心の底から悔しそうに言う香澄に、私は呆れた様子で返す。

「この前は『このボーカル、イケメン過ぎて神! ライブに一緒に行こ!』って言ってたのに」
「イケメンには食べ物みたいに旬があるの! 今は彼じゃないだけ!」

 注目を集めたのは非凡な才能もだが、染川のルックスも関係しているだろう。
 モデルのようにスラリとした痩身(そうしん)に、神様が計算して作ったような整った顔立ち。まだ15歳のため幼さが残るが、その大人との狭間にあることが逆に(あや)しい魅力を感じさせる。
 あまり顔の醜美(しゅうび)に関心がない自分ですら彼の写真を見て、その端正な顔に感心してしまうほどだった。

「……やっぱり、他の人も染川藍目当てなのかな?」

 香澄が周りの来場者を見て、呟く。個展に来ている人々の8割が若い女性だからだろう。
 
「私もそう思う。最初は日曜日だから込んでるのかなって思ったけど、週末は学校が休みだから作者が来るかもしれない……皆、考えることは同じかぁ」
「やめて、燈花! そんな呆れた目で見ないで!」
「もう諦めて、絵を見ようよ」
「了解~」
 
 だが混雑しているため、なかなか人が動かない。次の絵を見たいのに見れない状況に、香澄は(しび)れを切らしそうだ。

「それにしても人多すぎ! さっきは燈花が制服のおかげで助かったよ」
「いい目印になったでしょ? アートギャラリーに着ていけるような服を持ってなかったのが、逆に良かったね」
「うぅ、素直に喜べない……燈花は磨けば輝く原石なのに、もったいなさすぎる」
「ありがとう。そう言ってくれるのは香澄だけ……」

 なんて雑談をしている最中のことだった。急に後ろから伸びてきた2本の腕に、私は絡み取られる。

「──見つけた」

 耳元で囁かれた声は、男性のもので。背後から抱きしめられたまま顔を上げると、そこには「染川藍」がいた。

「やっと会えたね」
「……え?」
「あぁ、夢みたいだ」

 言葉の意味がわからなかった。初対面のはずなのに、相手は愛おしそうに自分を見つめている。

「あ、あの、誰かと勘違いしているんじゃ」
「忘れちゃったの? 酷いなぁ」

 どんどん自分を抱きしめる力が強くなる。
 このまま蛇のような腕に締め上げられて、体の骨を砕かれた私は頭から食べられてしまうのではないか。そんな馬鹿げた錯覚すら起こしてしまう。
 彼は私の肩に顔をうずめながら言う。

「俺はずっと、ずーっと会いたかったのに」
 
 その腕の力から「絶対に離さない」という執着心を感じさせるが、自分には全く覚えがない。彼の吐息を首筋に感じながら、恐怖で何もできない私を助けたのは──香澄だった。

「あたしの友達を離しなさいよ! このナンパ野郎!!」

 そう大声で威嚇(いかく)しながら、彼女は私を助け出すために染川の腕を引き剥がそうとする。
 でも相手は年下の中学生とは言え、私たちより上背のある男性だ。苦戦する香澄に、私の肩に顔をうずめていた彼が顔上げて睨む。

「──お前、何? 友達かなんか知らないけど、関係ない奴が邪魔すんなよ」

 染川の声に先ほどまでの甘さはなく、感情など一切ない冷淡な口調だった。
 もしかしたら彼は香澄に危害を加えるかもしれない。そう思った瞬間、石のように固まっていた私の体が動き出す。

「いい加減にして!!」

 私は唯一動かせる足を使って、視界に捉えた染川のつま先を思いっきり踏みつけた。予想外の行動と痛みに、抱きしめていた腕が緩む。

「逃げるよ!」

 その隙を見逃さず香澄は私の手を取って、会場の外まで駆け出す。私たちは建物を出ても、体力の限界を迎えるまで足を止めなかった。

「追っては来てないね……大丈夫? 燈花」
「う、うん……何とか」

 冬だというのに額に滲んだ汗を拭いながら、私は香澄に謝った。

「ごめんね。せっかく染川藍に会えたのに」
「そんなのどうでもいいって! イケメンだからってね、『何してもいい』と思ってるような勘違い男なんて、こっちから願い下げよ!! それに──」

 香澄はそこで私の首筋をジッと凝視する。

「あれ? 首にそんな、(あざ)あったっけ?」
「痣?」

 スマホのインカメラを使って、私は自分の首筋を確認する。そこには小さな内出血痕──キスマークがあった。
 浮かんだ心当たりを彼女に伝える。

「あー……、さっき肩に顔をうずめられた時につけられたのかも」
「はぁ!? あの変態、マジであり得ないんだけど!!」
「制服で隠れないよね。どうしよ……私、風紀委員なのに」
「気にするところ、そこ!?」

 香澄はブツブツ文句を言いながら、バッグから絆創膏(ばんそうこう)を取り出す。そしてキスマークが隠れるように、私の首筋に貼ってくれた。

「応急処置。本当はコンシーラーがいいんだけど、燈花は化粧品持ってないし」
「これで十分だよ」

 香澄は私の手を取って、いつになく真剣な表情で言った。

「もっと自分を大事にして。お願いだから」
「……うん、気をつける。さっきは助けてくれて、ありがとう」

 その言葉を聞いて、彼女は満足気に頷いた。

「なら良し!」
「せっかくだから、ショッピングモールに行こうよ」
「いいね~! あたし、期間限定の苺フラペチーノが飲みたい!」

 その後、ショッピングモール内の様々なアパレルショップに連れていかれ、スタイリスト志望の香澄から全身コーデをされた。ファッションに疎い私にとって目が回るような展開に、個展での出来事は上書きされていく。
 あれ以降、「染川藍」の話題はお互いに出さなかったし、キスマークさえ消えれば思い返すこともない。

 さらに季節が巡って春になる頃には、その記憶は遠い彼方にあった。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ということわざの通り、染川から感じた執着や恐怖、言葉も全て。
 
 ──そして私は進級し、高校2年生になった。

 放課後、いつものように帰宅部の私は自習をするべく、敷地内にある図書館へ向かう。
 通っている高校は創立70周年の際に図書館を建てた。2階建てで膨大な蔵書に加え、パソコン・視聴覚コーナーに学習スペースとサービスがとても充実している。
 小さい頃から本が好きな私は、この図書館の存在で入学を決めたと言っても過言ではないだろう。

 まず新しく入った本をチェックしてから、グルッと図書館を巡回する。
 どんなに興味がなかった本も気分や状況によって、とても魅力的に見える時がある。その瞬間を逃さないように、背表紙を眺めるのが日課だ。
 書架の間を縫うように歩いていると、本を立ち読みしていた望月と出会った。私の存在に気づいた彼は、ページをめくる手を止めて声をかける。

「やぁ、三嶋(みしま)さん」
望月(もちづき)先生、こんにちは」

 眼鏡をかけた彼の名は「望月優成(ゆうせい)」で、29歳。国語を担当し、去年は私のクラスの担任も務めた先生だ。

「こんにちは。またパトロールをしているのかな?」
「はい、先生は?」
「授業で使う本を探しに。ここは市営の図書館より充実しているからね」
「わかります」

 私は力強く何度も頷き、心からの同意を示す。

「あぁ、そうだ。三嶋さんが勧めてくれた本、とても面白かったよ」
「本当ですか!?」
「戦後の人々がとてもリアルで……なのに非現実的な要素も世界観を壊さず、上手く織り込んでいる」
「それがあの作者の良いところなんです」
「なら、この小説も気に入るんじゃないかな?」

 「読書」と共通の趣味を持つ私たちは、時々お互いのオススメの本を紹介していた。望月は気づいていないが、柔和な顔立ちの彼は女子から人気がある。
 そのため2人っきりで話すことができる図書館で、この小さな感想会は密かに開かれていた。

「──そう言えば、また風紀委員に立候補してんだって?」

 話題は本の感想から近況へと変わり、望月が尋ねる。それに対して私は堂々と答えた。

「はい! 去年に引き続き務めさせていただきます」
「三嶋さんは成績優秀で模範的な生徒だからね。適任だって他の教師たちからも評判だよ」
「……ルールを真面目に守れること以外、私には取り柄もないので」

 部に所属する生徒のように、熱心に打ち込めるものがあるわけでもない。香澄のように自分の特技を生かせるような、将来の夢があるわけでもない。
 要するに私には何もないのだ。そんな自分にできるのは、全員に等しく科せられた校則(ルール)をただ守ることぐらい。
 申し訳なさそうな私に、望月は優しく否定する。

「そんなことないよ。ただルールを守る……簡単なことのように見えるけど、人って我儘(わがまま)な生き物だから。小さな違反は結構やってる」

 そこで望月な小さくウインクをして、つけ加えた。

「僕も学生時代は授業中に隠れて読書や内職して、よく怒られからね」
「え? 望月先生が?」
「意外だった? けど皆、こんな感じで自分に甘い……ルールや約束をしっかり守るっていうのは、自分に厳しい頑張り屋さんにしかできないんだよ」

 望月は私の頭に、そっと手を置く。

「三嶋さんの頑張りは、僕や周りの人達がちゃんと認めてる。もっと胸を張っていいんだからね」

 彼の温かい優しさが、体温とともに伝わってくる。そこで望月はハッとした様子で、慌てて手を離した。

「ご、ごめん! こんなオジサンに頭撫でられても嫌だよね」
「……いえ、むしろ」

 私が続けて言った「嬉しいです」は、校内放送の「ピンポンパンポーン」という呼び出し音に掻き消された。

《望月先生、職員室までお戻りください。教頭先生がお呼びです》

 それを聞いて望月は自身の腕時計で時間を確認し、声を上げる。

「しまった! もうそんな時間!?」
「珍しいですね。先生が約束を忘れるなんて」
「いや、覚えてはいたんだよ。ただ三嶋さんと話してると楽しくて、時間があっという間に過ぎるんだ」
「……それって」
「じゃあ、また話そうね」

 そう言って望月は慌ただしく図書館を後にした。1人残された私はボソッと呟く。

「あんな思わせぶりなこと女の人に言ってたら、いつか刺されますよ?」

 私は彼が触れた自身の頭にそっと触れる。無駄だとわかっていても、望月の体温が逃げないように。
 多くの人が見逃してしまうようなことに気づき、自分のことのように大切に扱ってくれる。一回りも上で、生徒と教師の関係だけど、私は──。

「へぇ? あいつのこと好きなんだ?」

 背後から聞こえた声に、一気に血の気が引いた。
 誰にも言わず隠していた恋心を暴かれたこともだが、私はその声に聞き覚えがあったからだ。

「つ〜かまえた!」

 そのまま私は数ヶ月前の個展会場と同じように、再び染川の腕の中へ囚われる。

「ど、どうして……ここに、あなたがいるの?」
「知りたい?」

 小さく頷くと、染川は「逃げちゃダメだからね」と念押ししてから腕を離す。

「だ〜か〜らぁ、逃げちゃダメって言ったでしょ?」

 解放された瞬間、逃げようとしたが失敗した。
 動きを読まれていたようで、彼は私の顔の左右に手をつく。本棚と染川に挟まれて逃げ場がないのに、追い討ちで彼は私の太ももの間に膝を入れた。
 そのせいでスカートの(すそ)(まく)れかけたのを見て、私は必死に手で押さえる。

「いやっ、離して!」
「そんな大きな声、出して大丈夫?」
「何がっ」
「この状況、恋人同士がイチャついてるようにしか見えないよね?」
「……!!」
「俺は全然気にしないけど……風紀委員なのに、図書館でそんなことするなんてイケナイんだ〜」

 ここは図書館でも奥の方にある資料のコーナーなので、生徒はあまり寄りつかない。けれど騒いで、もし誰かが来たら……!
 大人しくなった私を見て、染川は「いい子だね」と頭を撫でる。

 ──やめて! せっかく望月先生が触れてくれたのに。

 そんな私の思いとは裏腹に、染川は気が済むまで執拗(しつよう)にその行為を続けた。

「で、何だっけ? ……あぁ、俺がここにいる理由? 見た通りだよ」

 先ほどまでは背後からでわからなかったが、向かい合って見ることができた染川の格好は──この高校の制服姿だった。
 さらにわかりやすいように、彼は自身のネクタイを摘んで見せる。それは1年生の証である「緑色」。

「個展の時に着てた制服から、どこの高校か調べて受験したんだ〜これで毎日会えるね!」

 一縷(いちる)の望みで偶然の再会だと思いたかったが、私を追って入学したことが彼の発言から裏付けされた。

「どうして? 私、あなたに何かした?」

 私の声は震え、涙声になりかけていた。それに気づいた染川は慌て出す。

「ご、ごめん。ビックリさせすぎちゃった? 泣かないで! 『花ちゃん』」
「……そのあだ名」

 小さい頃に遊んでいた子の中で1人だけ、私をそう呼ぶ子がいた。

「もしかして『あいちゃん』?」
「やっと思い出してくれた! そう! 俺が『あいちゃん』だよ」
「でも、あの子は女の子で」
「やっぱり勘違いしてたんだ。まぁ、あの頃は髪が長かったし」

 思い返せば「あいちゃん」はいつもブカブカな服を着て、髪は伸ばしっぱなしと性別が判断しづらい外見だった。加えて可愛い顔立ちに中性的な名前から、私は勝手に女の子だと思い込んでいたようだ。
 10年前、近所の公園で友達と遊んでいた私は──「あいちゃん」と出会った。

「何してるの?」

 1人で公園の隅っこで、しゃがみ込んでいる彼に私は声をかけたのだ。相手は顔を上げずに答える。

(あり)、潰してる」

 彼の目線の先を辿(たど)ると、生き絶えた十数匹の蟻がいた。私はすぐさま止めさせる。

「蟻さんが可哀想だよ! 何でそんなことするの!?」
「……楽しいから」
「だとしてもダメ!」
「じゃあ、一緒に遊ぼうよ? そしたらもうしない」

 後ろで見守っていた友達は、「やめようよ」とか「あの子、変だからイヤだ」と私に言ってくる。
 学校の先生は「仲間外れにしないで、皆で仲良く遊びましょう!」と言っていたが、嫌がっている他の子を巻き込むわけにはいかない。
 そこで私は彼の手を取って、こう言った。

「遊ぶのは私だけだけど、いい?」

 周りに無理強いせず、目の前の子を一人ぼっちにもしない提案に、我ながら名案だと思った。
 彼はまさか本当に遊んでくれると思わなかったのか、目を見開いて驚いた後。

「うん!」

 満面の笑みで了承してくれた。それから互いに自己紹介をし、「花ちゃん」「あいちゃん」とあだ名で呼び合って遊んだ。
 私は当時1年生で小学校に通っていたが、年下のあいちゃんはまだだ。なので下校した後に合流して遊ぶ日々が続いた。
 雨の日は近くの図書館で、漢字や本で得た知識を教える。一人っ子の私はちょっとしたお姉さんの気分だった。

「悪いことをした人はね、死んだ後に『地獄』に行って炎で焼かれるんだって!」

 なんて、地獄の様子が書かれた絵本を見せたこともあった。

「じゃあ、僕も焼かれちゃうのかな。蟻を潰したから」

 恐ろしい炎の絵を見て泣きそうになる彼を、私は必死に励ます。

「だ、大丈夫! あいちゃんは反省してるもん!」
「本当?」
「もしもの時は私が鬼を説得するから!」
「ありがとう! 花ちゃん、大好き!!」

 嬉しかった。彼が蟻を潰したのを悪いことだとわかってくれたことが。
 そんな日常が半年ぐらい続いて冬を迎えたある日、あいちゃんは突然姿を消した。家が火事に遭って引っ越したという噂は聞いたが、真相はわからず仕舞い。
 懐かしい記憶から戻り、私は大きくなった彼に答えを聞くことにした。

「急にいなくなったから心配したよ。どうして引っ越したの?」
「それはこっちのセリフ。あれから数年ぶりに戻ったら花ちゃんも引っ越していて驚いたよ。せっかくお礼を言おうと思ったのに」

 そして染川は無邪気に告げる。10年前に一緒に遊ぶことを喜んでくれた時のような、喜びに満ちた表情で。

「──『俺の親を燃やしてくれて、ありがとう!』って」
「何、言って」

 理解できずにいる私の顔を染川は冷たい両手で包み、顔を近づけて額同士をくっつける。

「思い出して? 最後に会った日、雪が降って寒かったよね」

 そうだ。彼と最後に会った日は初雪が降っていた。
 いつもなら図書館へ向かうが、休館日で行き場のなかった私たちは──。

「あいちゃんの家に行った」
「あの頃はよくわかってなかったけど、俺は虐待を受けてたんだよ」

 だからいつもサイズの合っていない服を着て、髪は整っていなかったのか。もしかしたら服の下には、暴力による痣があったのかもしれない。

「俺の母親は水商売の帰りに知らない男を家に連れ込むような、アバズレでさ……だから花ちゃんが『行く』って言った時は焦ったなぁ」

 実際、彼は「親が寝てるから静かにね」と何度も念押ししてから、私を家に上げた。
 息を殺して入った私は驚いたのを覚えている。アパートの部屋の中は物やゴミで散乱して、とても汚かったからだ。

「花ちゃんは気を利かせて、静かに部屋を片付けてくれたよね」
「う、うん」

 しかし引き戸の挟んだ寝室と思わしき部屋から寝言が聞こえたため、バレて怒られる前に再び外へ飛び出したのだ。
 その後は公民館で寒さを(しの)いだ覚えがある。

「あの後、さよならして帰ったら家が燃えてた。出火原因はね、『電気ストーブ』……あの日、ストーブをつけたのは?」
「……私?」

 室内はとても寒かったので、片付ける前につけた記憶はある。

「だけどそれだけで火事にならないよ。私のせいじゃ」
「畳んだ服はどこに置いてくれたっけ?」

 染川に問われ、必死に10年前の記憶をさらう。乱雑に置かれた服を畳んで私は──。

「……ストーブの前に置いた」

 生乾きなのか湿ってたから、乾くようにと思って近くに。

「そこから燃えちゃった」
「嘘」
「新聞見て確認する? ちゃんと載ってるよ」

 ──私のせいで火事が起きて、人が死んだ?

 子供ながらに善意でやったことで証拠もなく、裁きようもないだろう。
 さらに言い訳をするなら、私の家では専らエアコンの暖房を利用していたので、当時は電気ストーブの危険性をわかっていなかった。
 だからと言って自分を許せるわけではない。吐き気が込み上げた私は口元を手で覆った。

「安心して! 死んだのは寝てて逃げ遅れたアバズレとよくわかんない男だけだから!」

 何が安心できるのか、わからない。ずっと噛み合わない会話に、限界を迎えた私は叫ぶ。

「さっきから、何なの! 私を恨んでるなら、そう言えばいいじゃない!」
「違うよ! さっきも言ったけど、感謝してるんだ。花ちゃんの言った通りになったって」
「私の?」
「地獄のこと。花ちゃんは悪い奴らを一足先に燃やしてくれた! 俺の救世主なんだよ!」

 そして染川は恍惚(こうこつ)な笑みを浮かべながら、私を力強く抱きしめた。

「ずっと忘れられなくて、描き続けているけどダメ……あの日の炎を超えられない」
「それで炎の絵を?」
「無駄かと思ったけど、おかげでまた花ちゃんと会えた」

 そして彼は何気ない世間話のように言った。

「でもまさか花ちゃんのお父さんが、『あんなこと』になるなんてね〜そのせいで町から引っ越したんでしょ?」
「……あ」

 彼は知っているのだ。私の人生が一変した事件のことを。

「お願い! そのことは誰にも言わないで!」

 やっと誰も事情を知らない町で、新しい生活を始められたのに。あんな辛い日々には戻りたくない。
 必死に懇願する私を、染川はジッと無表情で見下ろす。

「ムカつくなぁ」
「え?」
「俺はず〜っと花ちゃんが大好きで、あの日を忘れられないのに……花ちゃんは他の男を好きになってて、火事よりお父さんのことをバラされたくなくて必死」

 彼は首を傾げながら、苛立ちを隠さずに呟く。

「そんなの不公平だよね?」

 「無茶苦茶だ!」と反論したいが、弱味を握られたも同然の私は何も言い返せない。
 すると染川は急に上機嫌になり、とある提案をする。

「いいこと思いついた! 内緒にする代わりに、俺と付き合って恋人になってよ!」
「い、いや」

 即座に拒否する私に、彼は淡々と話す。

「まぁ、俺は事情を知った教師や個展に来てた友達が離れていってもいいけど……あれ? むしろ、花ちゃんを独り占めできていいかも」
「やめて! 付き合う、付き合うから!」
「本当!?」

 子供のように「やった~!」と喜ぶ染川は、次に最悪なお願いをした。

「じゃあ俺にキスして?」
「なんで」
「恋人同士なら当たり前でしょ?」

 彼は私の唇を撫でながら、奈落のような暗い目で尋ねる。

「……まさか、あの教師ともうしたの?」
「先生はそんなことするような人じゃない!」
「だったら、早く。あ、口以外は無しだから」

 詰んだ私は彼の頬に、そっと手を添えた。
 しかしキスをする前に彼をにらみつけ、啖呵(たんか)を切る。

「あなたは間違ってる。でも歪んでしまった原因は私だから、恋人として正しい方に導いてみせる」
「間違ってようが、花ちゃんが俺のものになるなら何でもいいよ。今度は俺があの日を再演したっていい……二度と離さないから」

 唇を重ねてすぐに終わりにしようするが、染川が私の後頭部に手を回して離れることは許さなかった。
 脳裏に個展で見た彼の絵がよぎる。
 染川にとって私は、あの絵に描かれた恋焦がれる炎そのものなのだろう。飛翔する蛾は彼自身。
 でも私からすれば逆で、染川は過去の罪を償わせに来た地獄の炎──「業火(ごうか)」だ。燃えるとしても彼から離れることはできないし、許されない。

 ──ごめんなさい、先生。私も自分に甘かったよ。

 望月との思い入れがある図書館で、自分可愛さにこんなことをして。
 長いキスによる息苦しさ、ファーストキスを初恋の人ではなく彼としている事実に胸が苦しかった。
 世間では溺れるような恋愛がブームだが、私たちは同じ酸欠でも燃えるような苦痛も味わいながら恋をする様は、まさに。

「……ふふ」
「何が可笑しいの?」

 永遠に続くかと思われたキスを終え、小さく笑った私に染川が聞いた。
 
「あいちゃんの……『火蛾の恋』、その通りだと思っただけ」
「なら、消し炭になるまで愛し合おっか」

 染川は悪魔のような妖しい笑みで、私を道の外れへ誘う。

「どこまでも一緒に堕ちていこうね? 花ちゃん」