どこかへいってしまいたかった
いなくなってしまいたかった
いろんなものにつかれていた
猫がやってきてこう言った
「わたしのなかにはいるかね」
どういう意味かわからなかったけど
思わず「うん」とうなずいた
なにやら温かいものがふわっと降りてきて
すっぽりと心地よいぬくもりに包まれた
そのまま眠ってしまったようだ・・・
気が付くとあたりは一面緑色が広がっていた
芝生のようなやわらかなグリーン
新緑のようなみずみずしい緑
空までも、おひさまに透かしたはっぱのような
明るいすがすがしい緑に染まっていた
少し離れたところに猫がいる
「後悔してはいないかね」
「ううん」
言葉を発するのはひさしぶりだ
猫はゆるやかにしっぽをゆすった
「いたいだけいるがいい」
「うん」
それからまたしばらく眠った
夢はみない
もうずいぶんと見ていない
でもいやな夢を見たような気がして
夜更けに何度も起き上がった記憶がある
いまならそんなことはない
緑の先端にくすぐられながら
笑いながら眠りを楽しんだ
なにもかも心地よい
ずっと前からこうだったのかな
目が覚めてあたりを歩き回った
緑のじゅうたんは柔らかく続いている
小さな木を見つけた
根元近くに小さな穴がある
そこはどこか別のところへつづく道のようだ
行ってみたいとは思わない
ここにいることの心地よさはなにものにも代えがたい
ただ、それは暗いだけの穴ではないようだ
ときおり明るくなったり暗くなったりする
その合間にいろんなものが見えるのだ
自分が住んでいた部屋
なにもかも置き去りにしてきた場所
そう、いやなことも全部
ふと気が付くと猫がそばにいた
しなやかなしっぽがゆるやかになでてくれる
「外にでたいかね」
「ううん」
べつに未練のあるところではない
「ながめるのもよいものだ」
そうなのかな
あんまり同意はできなかった
それでもときどきながめることにした
見たことのあるものがたくさん通り過ぎていく
そのなかにミサトをみつけた
ただひとり、話ができたともだちだった
思い出した・・・
ひきこもりになったとき、彼女だけはうちにきてくれた
おいしいものや楽しいことを話すとき
ほんの少しだけ世界があかるく感じたものだ
「もし、万一のことがあったらさ」
「なあに、それ。そんなことないわよ」
「猫を、頼みたいの」
そうだ
なんとなく世話をしていた猫がいたのだ
「なにもなくても、必要ならお世話してあげるよ」
そう言ってにっこり笑ってくれたことが鮮やかによみがえる
「話したいかね」
「そうだね・・・」
またあの笑顔を見せてくれそうな気がする
「まあ、いいや」
こちらがわから見ているだけでいいや
ミサトはだれかを探しているようだ
こちらを見るとどんどん近づいてきた
まさか気づかれた?
いや、そうではなかった
ミサトに抱き上げられた感触がする
どういうこと?
「キミはわたしのなかにはいっているからね」
そうなのか・・・。
あのとき理解できなかったことがいまようやくわかった
ミサトはやさしくなでてくれた
なにか言っているのだがよく聞こえない
「かわらないんだな」
どこかほっとしてあたたかい気持ちになった
ミサトはよくやってきた
世話をしているのだろう
時にはおもちゃで遊んでくれたりする
無理に連れていこうとはしないが
毎日のようにやってきた
「約束を守ってくれているんだな」
このうえなくうれしくなった
ちゃんと覚えていてくれたんだ
ずいぶん長いことミサトは来てくれた
ときどき男の人が一緒だった
彼もやさしくて細かい気遣いのできる人だ
「ふたりは恋人なんだろうな」
外にいたときは考えもしなかったが
いまならそれがとてもよいことだと感じる
素直に応援してあげたくなる
他人にそんなことを思うなんて
以前だったら考えられないことだったのに
少しだけ自分をほめてもいいかなと思えた
それからしばらくして二人は結婚することになったようだ
いっしょだったり、ひとりづつだったり
ふたりとも前と変わらずきてくれる
だが、ある日ミサトが抱きあげたまま離そうとしなくなった
どうしたのだろう
何を泣いているのだろう
彼はミサトを慰めているようだ
「とおくにいくようだね」
猫が後ろから見ていた
「連れていきたいのだろうよ」
そうなのか・・・。
手を伸ばしてみる
ミサトの頬に触れたようだ
あたたかいけれど涙で濡れている
伸ばした手でそっとぬぐってみた
また新しい涙が零れ落ちた
ミサト、いいんだよ
心配しないで
彼女はなかなか離してくれなかったが
彼がやさしく受け取ってくれた
「ごめんな・・・。」
彼も泣いていたようだ
ミサトを頼むね
彼は何度もなでてくれた
二人がこなくなってからも外を眺めていた
向こう側にいたときのことももうあまり覚えていない
とてもつらかったという気持ちだけが
わずかにうずくようだった
でも
いまならそれにも耐えられそうな気がする
「戻ってみるかね」
猫が覗き込んできた
「もう大丈夫だろうよ」
そうなのかな
自信がない
猫はしっぽの先でやさしくなでてくれた
その時、猫の瞳が緑色であることにはじめて気が付いた
やさしい、なつかしい色だった
それからどれくらい過ぎたのだろう
ある日、景色の見え方が違っていた
まわりが緑色じゃない
猫はすぐ後ろにいた
「さあ、行きなさい」
柔らかい手が背中を押している
「またいつか会おう」
そういうと猫は後ろへさがって見えなくなってしまった
まぶしい光の中、やっと目をあけると
だれかが覗き込んでいる
だれだろう
手を伸ばしてみる
なんて小さい手だ
それをやさしく包んでくれる手があった
ミサトの手だ
うれしそうにこちらを見ている
向こう側の鏡に映っているのは赤ちゃんを抱いたミサト
ということは・・・。
外へでたんだ
猫はもうみあたらない
自分は
赤ちゃんになっていた
戻ってきたんだ
でも、いやじゃなくなっていた
あんなにいやなことがいっぱいだったのに
いまなら負けないような気がする
ふと「猫は九つのいのちを持つ」という話を思い出した
そのひとつを分けてくれたのだろう
目を閉じると、あの緑色のやさしい瞳がうかぶ
猫にくるまって過ごしたおだやかな日々
今度はだいじょうぶ
ありがとう
またいつか、必ず会おうね
どこかであの長いしっぽがゆれたような気がした
いなくなってしまいたかった
いろんなものにつかれていた
猫がやってきてこう言った
「わたしのなかにはいるかね」
どういう意味かわからなかったけど
思わず「うん」とうなずいた
なにやら温かいものがふわっと降りてきて
すっぽりと心地よいぬくもりに包まれた
そのまま眠ってしまったようだ・・・
気が付くとあたりは一面緑色が広がっていた
芝生のようなやわらかなグリーン
新緑のようなみずみずしい緑
空までも、おひさまに透かしたはっぱのような
明るいすがすがしい緑に染まっていた
少し離れたところに猫がいる
「後悔してはいないかね」
「ううん」
言葉を発するのはひさしぶりだ
猫はゆるやかにしっぽをゆすった
「いたいだけいるがいい」
「うん」
それからまたしばらく眠った
夢はみない
もうずいぶんと見ていない
でもいやな夢を見たような気がして
夜更けに何度も起き上がった記憶がある
いまならそんなことはない
緑の先端にくすぐられながら
笑いながら眠りを楽しんだ
なにもかも心地よい
ずっと前からこうだったのかな
目が覚めてあたりを歩き回った
緑のじゅうたんは柔らかく続いている
小さな木を見つけた
根元近くに小さな穴がある
そこはどこか別のところへつづく道のようだ
行ってみたいとは思わない
ここにいることの心地よさはなにものにも代えがたい
ただ、それは暗いだけの穴ではないようだ
ときおり明るくなったり暗くなったりする
その合間にいろんなものが見えるのだ
自分が住んでいた部屋
なにもかも置き去りにしてきた場所
そう、いやなことも全部
ふと気が付くと猫がそばにいた
しなやかなしっぽがゆるやかになでてくれる
「外にでたいかね」
「ううん」
べつに未練のあるところではない
「ながめるのもよいものだ」
そうなのかな
あんまり同意はできなかった
それでもときどきながめることにした
見たことのあるものがたくさん通り過ぎていく
そのなかにミサトをみつけた
ただひとり、話ができたともだちだった
思い出した・・・
ひきこもりになったとき、彼女だけはうちにきてくれた
おいしいものや楽しいことを話すとき
ほんの少しだけ世界があかるく感じたものだ
「もし、万一のことがあったらさ」
「なあに、それ。そんなことないわよ」
「猫を、頼みたいの」
そうだ
なんとなく世話をしていた猫がいたのだ
「なにもなくても、必要ならお世話してあげるよ」
そう言ってにっこり笑ってくれたことが鮮やかによみがえる
「話したいかね」
「そうだね・・・」
またあの笑顔を見せてくれそうな気がする
「まあ、いいや」
こちらがわから見ているだけでいいや
ミサトはだれかを探しているようだ
こちらを見るとどんどん近づいてきた
まさか気づかれた?
いや、そうではなかった
ミサトに抱き上げられた感触がする
どういうこと?
「キミはわたしのなかにはいっているからね」
そうなのか・・・。
あのとき理解できなかったことがいまようやくわかった
ミサトはやさしくなでてくれた
なにか言っているのだがよく聞こえない
「かわらないんだな」
どこかほっとしてあたたかい気持ちになった
ミサトはよくやってきた
世話をしているのだろう
時にはおもちゃで遊んでくれたりする
無理に連れていこうとはしないが
毎日のようにやってきた
「約束を守ってくれているんだな」
このうえなくうれしくなった
ちゃんと覚えていてくれたんだ
ずいぶん長いことミサトは来てくれた
ときどき男の人が一緒だった
彼もやさしくて細かい気遣いのできる人だ
「ふたりは恋人なんだろうな」
外にいたときは考えもしなかったが
いまならそれがとてもよいことだと感じる
素直に応援してあげたくなる
他人にそんなことを思うなんて
以前だったら考えられないことだったのに
少しだけ自分をほめてもいいかなと思えた
それからしばらくして二人は結婚することになったようだ
いっしょだったり、ひとりづつだったり
ふたりとも前と変わらずきてくれる
だが、ある日ミサトが抱きあげたまま離そうとしなくなった
どうしたのだろう
何を泣いているのだろう
彼はミサトを慰めているようだ
「とおくにいくようだね」
猫が後ろから見ていた
「連れていきたいのだろうよ」
そうなのか・・・。
手を伸ばしてみる
ミサトの頬に触れたようだ
あたたかいけれど涙で濡れている
伸ばした手でそっとぬぐってみた
また新しい涙が零れ落ちた
ミサト、いいんだよ
心配しないで
彼女はなかなか離してくれなかったが
彼がやさしく受け取ってくれた
「ごめんな・・・。」
彼も泣いていたようだ
ミサトを頼むね
彼は何度もなでてくれた
二人がこなくなってからも外を眺めていた
向こう側にいたときのことももうあまり覚えていない
とてもつらかったという気持ちだけが
わずかにうずくようだった
でも
いまならそれにも耐えられそうな気がする
「戻ってみるかね」
猫が覗き込んできた
「もう大丈夫だろうよ」
そうなのかな
自信がない
猫はしっぽの先でやさしくなでてくれた
その時、猫の瞳が緑色であることにはじめて気が付いた
やさしい、なつかしい色だった
それからどれくらい過ぎたのだろう
ある日、景色の見え方が違っていた
まわりが緑色じゃない
猫はすぐ後ろにいた
「さあ、行きなさい」
柔らかい手が背中を押している
「またいつか会おう」
そういうと猫は後ろへさがって見えなくなってしまった
まぶしい光の中、やっと目をあけると
だれかが覗き込んでいる
だれだろう
手を伸ばしてみる
なんて小さい手だ
それをやさしく包んでくれる手があった
ミサトの手だ
うれしそうにこちらを見ている
向こう側の鏡に映っているのは赤ちゃんを抱いたミサト
ということは・・・。
外へでたんだ
猫はもうみあたらない
自分は
赤ちゃんになっていた
戻ってきたんだ
でも、いやじゃなくなっていた
あんなにいやなことがいっぱいだったのに
いまなら負けないような気がする
ふと「猫は九つのいのちを持つ」という話を思い出した
そのひとつを分けてくれたのだろう
目を閉じると、あの緑色のやさしい瞳がうかぶ
猫にくるまって過ごしたおだやかな日々
今度はだいじょうぶ
ありがとう
またいつか、必ず会おうね
どこかであの長いしっぽがゆれたような気がした

