どんな顔をして南に会えばいいのだろうか……。
俺は眠れない夜を過ごした。
あの後、南に特に何かをされるわけでもなく、終電前には解散となった。
俺はしばらく誰かに触れられたり、告白なんてされたことがなかったから……正直どうしたらいいかわからない。
半年前に本気で惚れた恋人と別れたとき、身も心もボロボロになった。それ以来、恋愛なんて面倒くさいだけだと、適当に遊んできたツケが回ってきたのかもしれない。
人付き合いを疎かにした結果、相談できる友人もいないし……。
南に触れられた感覚がまだ残っていて、体が熱くなる。南に会うことが、とても怖いことに感じられた。
「一体どんな顔をして会えばいいんだよ……」
考えれば考えるほど逃げ出したくなってしまう。それでも、今日南と顔を合わさずにはいられないだろう。
「はぁぁ……」
大きく溜息をつきながらナースステーションに足を踏み入れた時。
「あ、先生お疲れ様です」
「み、南くん⁉」
肩を叩かれると同時に元気な声が聞こえてきた。その声の正体は南。一瞬で体が凍り付いてしまった。
「先生、六〇八号室の北川さんがなんで食事を残すのか聞いてみました。そしたらやっぱり理由があったんです」
「あ、そうなんだ……」
「あ、そうなんだじゃないでしょ? 北川さんの手術までもう時間がないんだから、ゆっくりなんてしてられませんよ! 今から北川さんの所に行ってみましょう」
「ちょっと、待てよ、南君!」
引きずられるように南に腕を引かれる。
そっとその顔を盗み見れば、いつもと変わらない顔をしていたから心の底から安堵する。意識していたのは自分だけだったんだ。
それと同時に湧き上がる不安。
「なんでこいつは、こんなにも通常運転なんだ? もしかしてこいうシチュエーションに慣れているとか……」
不安が一つ解決すると、また新たな不安に襲われる。
南は、俺と違って恋愛に慣れているんだろうか? それは嫌だな……。そう思ってしまう自分に戸惑う。南といると心がグチャグチャに掻き乱される。苦しいくらいに。
胸がギュッと締め付けられた。
◇◆◇◆
「北川さん、失礼します」
南が声をかけてから閉められていたカーテンを静かに開けた。
北川さんは四人部屋の窓際だから、温かな日差しが差し込んでいる。南の顔を見た瞬間、北川さんの顔がパッと明るくなる。テレビを見るためにつけていたイヤホンをベッドに投げ捨てた。
「おぉ、南君じゃないか!」
「北川さん、今日も朝食食べなかったって聞いたから、心配で様子を見に来ました」
「すみません、どうしても食べる気にならなくてな……」
「もうすぐ手術を控えているんですから、ちゃんと食べなきゃ駄目ですよ」
「わかってるんだけどね……」
二人のやり取りを見て呆気にとられてしまう。だって南はまだ入職して間もないのに、こんなにも患者さんと打ち解けている。つい先程、南の顔を見た時の嬉しそうな北川さんの顔がそれを証明していた。
――南君は凄い。
俺は医師のくせにコミュニケーションをとるのが苦手だから、素直に尊敬してしまう。
「今日は月居先生も心配して駆けつけてくれましたよ」
「え? 先生が?」
突然話を振られてびっくりしながらも、南の隣から顔を出してお辞儀をした。そんな俺に向かい「わざわざ先生に来てもらって申し訳ありません」と逆に深々とお辞儀を返されてしまう。
「北川さん。月居先生に本当のことを話してください」
「そうだな。みんなに心配かけちゃうし……」
そう呟いてから、北川さんはどうして食事をとってくれないのか、という理由を話してくれた。
「私は入院前はそこそこ有名なホテルでシェフをしていたんです。そのせいで、料理の味には人一倍うるさくて……だから病院食はまずくて食べられません。でもそんな子供みたいなこと言えないじゃないですか?」
「あぁ、なるほど……」
「すみません。心配をかけてしまって」
北川さんが再び頭を下げた。
凄い、南の言ってた通り……。南は病気じゃなくて、きちんと患者を見ることができてたんだ。
「昨日食べたカレーだって、食べられたものじゃなかった。俺ならもっと……」
「カレーを美味しく作るコツとかって、やっぱりあるんですか?」
「そりゃあ、あるよ」
「有名ホテルのシェフが作るカレーのレシピ……俺知りたいです!」
「仕方ないなぁ。これは企業秘密ですからね」
「勿論! 俺達三人の秘密です」
目をキラキラさせながら南が体を乗り出した。
◇◆◇◆
「カレーって、カレーだけで終わらないんですね」
「な?」
「北川さんが言ってた隠し味……全部覚えてないかも。コーヒーにソースに蜂蜜……」
「林檎もあったな」
「あ、そうそう! そんなにたくさん入れたら隠し味が喧嘩しそう」
「喧嘩?」
「そう、喧嘩です。だって俺だったらカレー粉の一番の相棒でいたいですもん。好きな人の一番でいたいって思うじゃないですか?」
「好きな、人か……」
南の口からその言葉を聞いた瞬間、心臓がトクンと跳ねた。
さっきまで普通に会話ができていたのに、今言葉を口にしたらギクシャクしてしまいそうで怖い。意識したら駄目だと自分に言い聞かせても、心臓が勝手にバクバクと拍動を打ち続けた。
駄目だ、南の前から逃げ出したい。
唇をキュッと噛み締める。こんな俺は俺じゃない。
「ねぇ、先生。先生ってば!」
「あ? なんだよ?」
「北川さん、頑張ってご飯食べてくれるって約束してくれたから、食べてくれるといいですね」
「あ、うん。そうだな」
急にボーッとしてしまった俺を南が覗き込んでくる。俺より背が高いから少し屈む格好の南に、男らしさを感じてしまい……顔から火が出そうになった。
「今日、仕事が終わったら一緒にカレーを作りませんか?」
「きょ、今日?」
「はい! 隠し味を忘れないうちに」
突然の提案に、頭が真っ白になってしまう。そんなに急に誘われたら、断る理由も考えられない。「いいよ」って言う以外にないじゃないか……。
「別に、いいけど……」
「え?」
「だから、いいよって言ってんだよ! 俺ん家に来たらいいだろう! 何度も聞くな!」
南を軽く睨みつける。きっと今の俺は茹で蛸みたいに真っ赤な顔をしているはずだ。
恋愛に慣れていないことがバレバレで、恥ずかしくて仕方ない。めちゃくちゃ格好悪い……。なんでだろう。南の前ではスマートでいたいのに、無様な姿ばかり晒してしまう。
「嬉しい。楽しみにしてます」
「……そ、そうか……」
「先生とカレーを作るのを楽しみに、仕事頑張りますね!」
屈託なく悪う南に、もっと優しく「いいよ。家においで」って言ってやればよかったと後悔する。もう頭も心もグチャグチャだ。
「楽しみです、先生」
南の指先がスルッと自分の指先に触れると、体が小さく跳ね上がる。顔がどんどん熱くなって体が小さく震えた。
でも、それ以上に心が震えて痛かった。
この前みたいに、仕事が終わったら正面玄関で待ち合わせてスーパーへと向かう。
仕事中も体がフワフワしてたけど、私服の南が自分に向かって手を振る姿を見れば、頭が真っ白になってしまった。
仕事中の南もかっこいいけど、私服の南もかっこいい。だからこそ逃げ出したくなってしまう。
なぜ俺は、このイケメンと二人きりでカレーを作らなければならないのだろうか。きっと今日も俺の舌は、カレーの味なんて感じないと思う。
「行きましょう!」
楽しそうに歩き出す南の後を、夢中で追いかけた。



