「ああ……やっぱり厳しいか……」
机に並ぶ検査データを見て、俺は小さく溜息をつく。この患者は杉山佳奈さん。花屋の店員だ。
彼女は治療を中断してでもいいから……と出産を希望した。一ヶ月前に、この病院の産婦人科で元気な男の子を出産し、また腫瘍科病棟に戻ってきたのだ。
出産が終わった彼女を待っていたものは、楽しい育児でも親子三人での楽しい生活でもなく……癌との闘病だった。
妊娠中、癌の治療は中断していたため病状は更に進行し、もう取り返しのつかない段階となっていた。
「先生、私赤ちゃんと旦那さんの為に頑張りたいんです」
そう笑う佳奈さんを久しぶりに見たけど、衰弱しきっていて、もう長くはないことが見てとれた。
それでも何とかしてやりたい。手術に踏み切り残り少ない体力を消耗するか。それとも緩和ケアに切り替えて、穏やかな時間を過ごすべきか……。
悩んでも答えなんか出るはずもない。癌は刻々と彼女の体を蝕んでいるのだ。
「先生、その検査結果、杉山さんですか?」
「え? あ、うん」
「抗癌剤も放射線も効果なさそうですね」
「全然ないよ。でも……なんとかしてやりたいんだ」
「そうですね」
悲しそうな顔をして俯く南を見て、胸が締め付けられる。看護師は俺達医者と違って患者により近い場所にいる。きっと思い入れも深いことだろう。
「ついさっき、旦那さんが赤ちゃんを連れて面会にきてましたけど、杉山さん……もう赤ちゃんを抱く力もありませんでした」
「そっか……」
「俺、切ないです」
「うん。切ないな……」
顔を強張らせる南の肩をポンポンと叩いてやる。頭くらい撫でてやりたかったけど、恥ずかしくてそんなこともしてやれない自分が歯痒かった。
そんな杉山さんが出した答えは。
「月居先生、手術をしてください。全部は無理かもしれないけど、癌を取れるだけ取ってほしいんです。私、子供の為に一日でも長く生きたいから」
「そうですか」
「お願いします。手術をしてください」
「即答は致しかねますので、検討させてください」
そう告げた俺に、佳奈さんは何度も「お願いします」と頭を下げ続けていた。
その後、旦那さんと話し合ったり、色んな職種が集まりカンファレンスも開かれた。
その結果で出された答えは……本人が望む手術をする、というもの。でもそれは、彼女の寿命を縮める行為でもある。俺の心は大きく揺れた。
◇◆◇◆
「先生」
「あ、南……まだ残ってたのか? お前夜勤だったんだろ?」
「はい。先生に挨拶してから帰ろうと思って」
「そっか、帰るのか……」
なんだか寂しく感じて、思わず俯いた。そんな俺の反応が予想外だったのか、少しだけ驚いた顔をしている。
「大丈夫ですよ。先生には俺がついてます。もし杉山さんの手術するのであれば、俺が器械出しやりますから」
まるで俺の心を見透かすかのように、俺の指にそっと自分の指を絡めてくる。
あったかい……。
そのまま顎をクイッと持ち上げられたら、頬に南の吐息がかかる程の距離。
「先生……」
周りには誰もいない処置室で二人きり。
トクントクンと心臓が甘く高鳴る。もう少しで唇が重なる……というときに、白衣のポケットに入っていたPHSが静かな室内に響き渡り、俺は一瞬で現実に引き戻された。
「待って、南止まって! ストップ!」
勢いよく両手を突っ張り南の体を引き離す。
「いいとこだったのに……」
「お前は、油断も隙もねぇなぁ」
弾む息を整えながらPHSをとれば、慌てふためく看護師の声が聞こえてきた。
「先生! 杉山さんが急変しました!」
「わかりました、すぐ行きます」
手短に電話をきって南を見つめた。
「悪い、南。もう少しだけ付き合ってくれないか? 残業代払うから」
「残業代? 先生が、ですか? 別にいいですけど……」
「悪いな」
両頬を手で包み込んでツイッと背伸びをする。びっくりしたように目を見開く南の額にチュッと自分の唇を押し当てた。
「とりあえずこれで……」
「おでこって……全然足りないけど、我慢します」
少し照れくさそうに南が笑った。
「体温が高くて頻脈。呼吸状態も非常に悪いです」
俺が到着した時には肩で息をしている佳奈さんがいた。
「くそっ。腫瘍熱か? すぐに点滴始めます。採血も……酸素はマスクで五ℓから始めましょう」
「点滴、ソルデムでいいですか?」
「あ、うん」
指示と同時に動き出す南にびっくりしてしまう。
こいつ、こんなに頼もしいのか……今ここに南がいることが心強かった。
傍にいる看護師に南がテキパキと指示を出し、誰も取り乱すことなく処置は終了……佳奈さんの容態も落ち着いた。
でもそれも束の間で、きっとまだ熱が上がるだろう。そうやって少しずつ体力が奪われて……手術まで乗り切ることができるのか。今はもう、佳奈さんの生命力を信じるしかない。
「南がいてくれて助かった。お前、あんなに仕事ができるんだな?」
素直に褒めてやれば、「急になんだ?」と言わんばかりに眉を顰める。なんだよ……俺だって褒めることくらいはあるんだ。
「こういうときのために、いろんな科を回ってきましたから」
「そっか……」
「惚れ直しましたか?」
「元から惚れてないし」
ニヤニヤしながら顔を覗き込まれたから、恥ずかしくなってそっぽを向いてしまう。
そんな俺を見て、「素直じゃないな」そう南が笑っていた。
予想通り佳奈さんは発熱を繰り返した。
「胆嚢炎を起こしてるのかもな。全身が衰弱しているから、手術をするなら今しかないだろう」
「え?」
ナースステーションにいた南に話しかける。最近、南を見るとホッとする自分がいた。こいつは本当に優しいから、つい頼りたくなってしまう。
「本人と家族が、今の段階で手術を希望されるようなら、すぐにでも手術に踏み切るつもりだ」
「手術、ですか?」
「ああ。彼女に残された時間は極わずかだ。一秒だって無駄にできない」
「…………」
「どうした? 南」
突然黙ってしまった南に視線を向ければ、眉を顰めて一点を見つめている。いつも柔和な笑顔を浮かべる南の険しい表情に困惑してしまった。
「先生、手術をすれば杉山さんは助かりますか?」
「いや、必ず助かるとは言いきれない。もしかしたら手術中に急変して、命を落とすことも考えられる……」
「そんな賭けみたいなことして、杉山さんが死んじゃったらどうするんですか? まだお子さんが生まれたばかりなんですよ?」
「だから助けてやりたいんだろう? それに彼女はずっと手術をしてほしいって言ってたじゃないか」
「でもあの時とは、杉山さんの状態は全然違ってます」
珍しく言い返してくる南に、イライラしてきてしまう。
「俺は、緩和ケアに切り替えて、残り少ない時間を家族と一緒に穏やかに過ごしてほしいと考えてます。ホスピスに転院したっていいと思うんです」
「緩和ケア?」
「そうです。これからは積極的な治療はしないで、痛みや苦痛をとってあげることを最優先にしてあげてください。手術に賭けるくらいなら、その体力を生きる力にしてあげたい」
「…………」
俺を睨みつけるように見てくる視線を、正面から受け止める。
正直俺は、南が手術に対して反対するなんて思ってもいなかった。
「杉山さんは、もう何度も手術を経験しています。これ以上、痛い思いをさせないであげてください」
まるで俺を諭すかのように話す南に、段々腹がたってくる。だって、南は何もわかってない。
治せるかもしれない患者を目の前に治療を放棄して、緩和ケアに移行するなんて医師としてできるはずなどない。もしかしたら、良くなる可能性だってあるんだ。
旦那さんやお子さんの為にも、治療は継続すべき。俺の意思は固まっていた。
「佳奈さんはまだ治る可能性だってある。俺が彼女を助けるんだ」
「俺が助ける? 何を過信してるんですか? 治療は賭け事じゃないでしょ?」
「誰もそんなことは言ってない。看護師のくせに医師に指図するな!」
「医師が患者の何をわかってるんですか? いつも患者に寄り添っているのは、俺達看護師だ。何もかも、医師の言ったことが正しいわけじゃない。医師より、俺達のほうが患者のことを理解してますよ」
まさに売り言葉に買い言葉。知り合って、初めて南の本気で怒った顔を見た。
『看護師のくせに』言い過ぎてしまったことを後悔したけど、もう後には引けない。今更「ごめん」なんて言えるはずがなかった。
「もういいよ。これからはお前に相談なんてしないから」
「先生は、もう少し看護師の意見を聞いてくれる医師だと思っていたので残念です」
「なんだよ。それ……」
「少し頭を冷やしてください」
嘆くように呟いた南の言葉に、まるでナイフを突き付けられたかのように心が痛んだ。
信頼していた南と分かり合えなかった悲しみが、津波のように押し寄せてくる。それと同時に強い不安に襲われた。
――俺の考えは間違っているっていうのかよ……。
「南の馬鹿野郎」
俺は逃げるようにナースステーションを後にした。



