月居先生の恋愛カルテ


 星野亜美(ほしのあみ)ちゃん。高校二年生。病名は白血病。一度は退院したものの病気が再発し、今回二度目の入院となっている。現在は抗癌剤と放射線治療を継続しており、白血病の症状が安定するのを待っている状態だ。
 亜美ちゃんは抗癌剤の副作用で髪は抜けてしまったため、最近可愛らしいウィッグをつけるようになった。感染予防のためのマスクは、常にかかせない。
「あたし、このウィッグ、めちゃくちゃ似合ってない?」
 それでも亜美ちゃんはいつも元気に笑っている。口が悪いのが玉に瑕だけど、愛嬌があるせいか憎めない。病室には彼女の笑い声がいつも響いていた。


「先生さぁ、彼女とかいんの?」
「はい?」
「ってか、月居先生って女の子みたいに超綺麗な顔してんじゃん? だから彼女の一人や二人いんのかなって……」
「あははは……いないよ」
 スマホを見ながら問いかけられた言葉に、思わず顔が引きつってしまった。彼女なんかいるはずはない。そもそも俺はゲイだし……。女の子なんて興味がない。
「そんなことより、点滴するから利き腕じゃない方の腕を出してください」
「嫌だなぁ、あたし注射苦手だよ。先生一回で入れてね」
「はいはい、善処します」
 今の女子高校生って怖い……亜美ちゃんを見るとつい尻込みしてしまう。悪い子ではないとわかっているんだけど。とにかくパワーに圧倒されてしまう。
 腕に駆血帯を巻いて、良さそうな血管を見つける。若いだけあって血管はプリプリしていた。よし、大丈夫。これなら一回で終わりそうだ。


「あのさ、先生」
「はい?」
 亜美ちゃんの腕をアルコール綿で消毒しながら、サーフロー針を構えた。
「あたしね、好きな人ができたの」
「へぇ……」
「先生も知っている人だよ」
 集中したいのに話し続ける亜美ちゃんに「少し黙ってらんないのかよ」と心の中で舌打ちをする。雑念を振り払ってから、スッと針を刺した。
 よし、一回で成功したぞ。俺はホッと胸を撫でおろしながら、点滴を落とし始める。「よし成功だ」そう思いながら、針をテープで固定しようと物品を乗せたトレーの上をガサガサと漁った。
「あたしさ、南さんが好きなの」
「え?」
「看護師の南さん」
「へぇ……そうなんだ……」
 内心ドキドキしていたけど、それを亜美ちゃんに悟られるわけにはいかない。無理して平然を装う。テープを使い点滴の刺入部を固定してから、笑顔で亜美ちゃんを見上げた。


「はい、亜美ちゃん点滴一回で入ったよ」
「ねぇ、先生聞いてる?」
「はい? 何をですか?」
「だーかーらー、あたし南さんが好きなの! 先生、南さんと仲がいいんでしょ? お願い、協力して?」
 目をキラキラと輝かせながら顔を覗き込んでくる。でも残念だね。俺にはそういうのは全く通用しないから。
「亜美ちゃん、ここは治療をする場だから、そういうのは許されないよ」
「えー? なんで? 連絡先くらい聞いてきてよ!」
「駄目です。どうしても連絡先が知りたいなら、南君に直接聞いたらいいよ」
 そう。それではっきり断ってもらえば諦めがつくだろう。
 だって彼が好きなのは、この俺なんだから……。って、一体俺は何を考えているのだろうか。顔が熱くなってきたから、口元を押さえる。マスクをしていてよかった。


「月居先生のケチ!」
「ケチで構わないよ。じゃあ亜美ちゃん。明日から抗癌剤の二クール目が始まるから頑張ってね。副作用が辛かったらすぐに教えてください」
 不満そうに唇を尖らせている亜美ちゃんにそっと笑いかけて、病室を後にする。
「どうなってんだよ、最近の高校生は……」
 廊下を歩きながら大きな溜息をついた。

◇◆◇◆

「今、亜美ちゃんに猛アプローチ受けてます」
「亜美ちゃんに?」
「はい、連絡先教えろとか、話がしたいからって、指名でナースコール押してきたり。マジで参る……」
「それは大変だな。南もモテそうだもんな」
「自慢じゃないけどモテますよ」
「へぇ……」
 俺の隣の空いている椅子にドカッと座り込んだ南が、珍しく弱音を吐いた。 
 どうやら亜美ちゃんは、本気で南を口説き出したようだ。
「セクハラされたってイチャモンつけられる前に、師長に頼んで亜美ちゃんに関わらないで済むように対応してもらいました。今の高校生って本当にすげぇ」
「あははは。亜美ちゃんは特に元気だからな」
 あまりにも疲れていそうだったから、そっと髪を撫でてやる。南が時々見せる、駄々っ子のような一面がとても可愛らしいと感じた。こんな表情を見せるのが、俺の前だけだったらいいなって思う。 
 あやすように頭を撫でていれば、その手を掴まれてしまう。びっくりしていれば、今度はひどく真剣な顔をした南と視線があった。


「先生、ヤキモチ妬いてくれますか?」
「はぁ?」
「俺、もしかしたら亜美ちゃんと付き合っちゃうかもしれないですよ?」
「そんなわけ……」
「絶対ないとは言い切れないでしょう?」
「まぁ、確かにそうだな」
 亜美ちゃんに「南のことが好きだ」って聞いたとき、心がチクンと痛んだ。
きっと南は元から男が好きなわけじゃない。だから、亜美ちゃんみたいに若くて可愛い女の子に告白されたら、嫌な思いはしないだろう。
 もし恋に落ちてしまったとしても、南がこの病院を辞めてしまえばいいだけの話だし。全くヤキモチを焼いていないと言ったら噓になる。ううん、寧ろ……。
「そうだね、俺は亜美ちゃんに嫉妬しているのかもしれない」
「え?」
「だから、ヤキモチ妬いてるかも……」
 南が驚いたように目を見開いているから、最後の方は消えてしまいそうなくらい小声になってしまった。


 ——ヤバイ、しくじった。


 恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいだ。慌てて南に背中を向けた。
「先生、俺嬉しいです」
 コツンと背中に南の額が押し当てられる。
「本当にヤキモチ焼いてくれてたなんて……嬉しくて顔がニヤけちゃう」
「勘違いすんなよな、ちょっとだけだ。少し焦げ目がついたくらい」
「ふふっ。素直じゃねぇなぁ」
「誰かに見られると困るから離れろよ」
「嫌です。もう少しこのままいたいです」
「お前は子供か……」
 白衣越しに伝わってくる南の体温が、とても心地いい。口では離れろなんて言ったけど、俺だって本当はもう少しこのままでいたい。
「マジで嬉しい」 
 クスクス笑う南が、ギュっと背中に抱き着いてきた。


 亜美ちゃんの抗癌剤治療の二クール目が開始となって数日が経つ。予想通り、彼女の体を抗癌剤の副作用が襲った。
 吐き気から一切食事が摂れなくなり、倦怠感から起き上がることさえできない。いつも笑っていた亜美ちゃんから笑顔が消えた。
 そんな彼女を放っておけないのか、南もちょくちょく、亜美ちゃんの部屋に様子を見にいっているようだ。
 ——今度こそ、抗癌剤が効きますように……。
 そう祈ることしかできなかった。
 数日後、亜美ちゃんの様子を見に部屋を訪れる。明日でこの辛い抗癌剤の治療が一旦終了となる。


「辛かっただろうけど、よく頑張ったね」
 そっと声をかけると、大きな目がパチッと開かれた。
「南さんが時々会いに来てくれたから大丈夫」
「そっか。亜美ちゃんは余程南君のことが好きなんだね」
 ベッドの脇に置かれている椅子に座り、昨日した検査結果を説明しようと電子カルテを開いた。そんな俺の様子をボーッと見ていた亜美ちゃんが、ポツリポツリと話し出した。
「先生、ごめんね」
「ん? 何がですか?」
 亜美ちゃんに謝罪される心当たりのない俺は、思わず眉を顰めた。


「あたしね、本当は知ってたの。月居先生と南さんが特別な関係だって……」
「は? あ、えっと……亜美ちゃん、大人をからかわないでください」
「先生って本当に嘘をつくのが下手ね」
 わかりやすく狼狽えてしまった俺を見て、亜美ちゃんが小さく溜息をつく。
「多分、あたししか気づいてないよ。南さんのことが好きなあたしだから気付いたんだと思う。南さんは月居先生のことが大好きだっていうのが見ててわかる。だから、ごめんね……先生を困らせたかった」
「あ、いや別に……」
「ごめんね、先生」
 亜美ちゃんの瞳から涙が溢れ、頬を伝う。俺は咄嗟にサイドテーブルの上に置いてあったティッシュを一枚とって、亜美ちゃんに手渡した。


「別にね、今の時代、同性愛なんてことを気にするのはナンセンスだってわかってるの。でも悔しかった。頭もよくて見た目もいい。それに、健康だし。そんな月居先生が羨ましくて仕方ないの。あたしなんて病気持ちだし、馬鹿高に通ってるし……何よりあんなイケメンな南さんに好かれてるなんて、許せなかった。だって、あたし南さんが大好きなんだもん」
「ごめんね、亜美ちゃん。でも俺達付き合ってるわけじゃ……」
「わかってるわよ! だからこそ、あんなに『僕達両思いです』オーラをバラまきながら、いつまでも煮え切らない二人にイライラしてんの! わかる?」
「あ、うん。すみません……」
「さっさとくっついちゃえばいいのに……」
 体が辛いせいか、文句を言う割には声も小さくて弱々しい。でもきっと、言わずにはいられなかったんだろう。
 亜美ちゃんが、本気で南に惚れていることが伝わってきた。


「あたしは、病気がうつるからってキスもできない。大体、あと何年生きられるかもわかんない。だからこそ、先生達を見てると腹が立ってくるの。あたしだって恋がしたい」
「亜美ちゃん、明日で抗癌剤の治療は一旦中止になるから、きっと体調も良くなってくるよ」
「うん。だといいな……」
「よく頑張ったね」
「あたしも頑張ったんだから、先生も頑張りなさいよね」
「は、はい」
 ボロボロと涙を流し続ける亜美ちゃんの前に、俺の心が揺らぎ始める。
 俺は健康だし、誰かとキスをしたって病気に感染するわけじゃない。何をこんなに怖がっているのだろうか……。
 いつまでも涙を流し続ける、亜美ちゃんの傍にいてあげることしかできなかった。
 そっと何かに、背中を押された気がした。

◇◆◇◆

 亜美ちゃんの二クール目の抗癌剤治療が終わって数日が経過した。
 少しずつ体調が良くなってきたようで、いつもの元気な亜美ちゃんに戻りつつある。南を捕まえては、はしゃぐ姿が見受けられるようになった。
「よかった」
 ホッと胸を撫でおろす。このまま回復してくれればいい、そう願ってやまない。
 ある日の午後。それは寒い季節に春を感じる、暖かな午後だった。


「先生!」
 ナースステーションを出て医局へ向かう途中の廊下で、聞き慣れた声に呼び止められる。
「南……」
 慌てて俺を追いかけてきたらしく、息が弾んでいる。「わざわざ追いかけてこないで、PHS鳴らせば済むのに」そう思うけど、南に会えることを嬉しく感じてしまう自分もいる。
 無邪気な笑顔でこちらに走ってくる南との距離が縮まる度に、胸が甘く締め付けられた。
「先生、お忙しいところすみません。この処方箋なんですけど……」
「ん?」
 壁に寄り掛かり待っていた俺に、タブレットを差し出してきた。
小暮(こぐれ)さんの下剤なんですが、もう少し増やせませんか?」
「なんで? まだ便秘なの? この前増やしたばかりなんだけど……」
「それが最近、全然便通がなくて……痛みが強いせいか、一気に薬も増えましたし」
「どれどれ?」
「ここです」
 ぎっしり書き込まれた処方箋の文字が細かすぎて、二人してタブレットを覗き込む。
 南がボールペンの先で指した部分に目を凝らす。待って、字が小さくて見えにくい……南とかなり顔を近づけてタブレットを覗き込んでいるなんて、夢中になりすぎていて気が付かなかった。


「わっ⁉」
「ん?」
 突然頭上から南の悲鳴に近いが聞こえてきたから、顔を上げようとしたその瞬間……南の体が何かに押されてグラッと自分の方に傾く。「なんだ……」と思った時には、頬に息がかかるほど近くに南の顔があった。


 ——あ、ヤバい……。


 壁に寄りかかっていた俺は身動きを取ることができず、自分に向かって倒れてくる南を避けることもできない。咄嗟に南が壁にぶつからないようにと、その体を抱き留めた。


 ——でも、このままじゃ……ぶつかる……。


 そう思った時には、唇にフニッと柔らかいものが押し当てられていた。
「……え……?」
 その瞬間、時が止まる。
 俺の唇は、南の唇に塞がれてしまっていた。


 目の前の南が大きく目を見開き、見る見るうちに顔が赤くなっていくのを呆然と見つめる。
 一体何が起きているのだろうか……事態が全く理解できない。
 南の体が倒れ込んできた衝動で、かなり深く唇が重なってしまっていて身動きがとれない。触れ合う唇から少しずつ熱が伝わっていった。南の唇は温かくて柔らかい。それに、前、南からもらった苺の飴の味がした。
 ——早く離れないと……。
 そう思っているのに、体がまるで凍り付いてしまったかのように動いてくれない。



 ガンッ!
「クソッ!」
 次の瞬間、南が壁に手をついて勢いよく俺から体を離す。南が振り向いた先には、満面の笑みを浮かべる亜美ちゃんがいた。
「ちょっと亜美ちゃん、何すんだよ⁉ 君か? 俺に体当たりしてきたのは?」
「そんなに顔をくっつけてるんだから、キスくらいしちゃえばいいのにって思っただけ」
「はぁ⁉ 悪ふざけが過ぎるよ!」
「なんでよ! 煮え切らない二人を後押ししてあげただけでしょ?」
「そんなの、大きなお世話なんだよ」
「えー⁉ もしかして二人はキスも済ませてなかったの? じゃあこれが二人のファーストキスだね!」
 勢いよく俺から体を離した南が、亜美ちゃんに食って掛かっている。
 そんなことに悪びれる風もなく、ケラケラ笑う亜美ちゃんの声がひどく遠くに聞こえた。


 ——俺達のファーストキス……。


 体が瞬間湯沸かし器のように一瞬で熱くなり、心臓がドキドキ鳴り響く。
 真っ赤な顔をしながら亜美ちゃんに説教をしている南だって、きっと内心パニックになっていることだろう。珍しく取り乱している。
「大丈夫大丈夫! 誰にも言わないから!」
「そういう問題じゃないよね? いい? 亜美ちゃん!」
「お説教とかやめてよね! いつまでもウジウジしている南さんが悪いのよ。男らしくないじゃん!」
「亜美ちゃん、あのね……」
 さすがの南もたじたじだ。でも、俺も助け船を出してやることさえできない。
「二人はさ、あたしみたいにキスしたって感染病にかかるわけじゃないんだから、怖がらないでキスすればいいのよ。キスできるって、超幸せなことなんだから!」
「そりゃそうだけど……」
「じゃあ、後はごゆっくりね」
 ニコニコと手を振りながら亜美ちゃんは行ってしまった。あまりにも突然の出来事に、俺は言葉を失ってしまう。
 ――ごゆっくりってなんだよ……余計なことを……。
 廊下には怖いくらいの沈黙が残される。恥ずかしくて、南の顔を見ることさえできず黙ったまま俯いた。


「あー、あー、ってか、俺達何を話してたんだっけ……」
 南が腰に手を当てながら、髪を掻き毟っている。耳まで真っ赤に染まっていて、こちらにまで南の緊張が伝わってくるようだ。
「あ、そうだ。小暮さんの下剤だ! あの、先生……小暮さんの下剤なんですけど……」
「あ、うん。下剤だったよね。えーっと、下剤をどうするんだっけ?」
「あれ? な、なんでしたっけ?」
 予想もしていなかった俺と南のファーストキスの影響は意外と大きく……しばらくの間、二人の間を気まずい雰囲気が流れ続けた。
 お互い顔を見合わせるだけで赤面してしまうし、一緒に弁当を食べている時も話が弾まない。「あぁ、キスしたんだ」って思い返す度に、意味不明の動悸に襲われた。


 そんな俺達を見て、亜美ちゃんが手をヒラヒラと振りながら笑っている。口元を見ると何かを言っているようだ。
『頑張れ、先生!』
 弾けてしまいそうな笑顔に、俺までつられて笑顔になってしまう。
 このませた女子高校生に、俺は大切なことを教えてもらったのかもしれない。