月居先生の恋愛カルテ


 ようやく終わった……。
 薄暗い廊下をトボトボ歩く。ここ最近は本当に激務で、息つく暇もなかった。連日の早出と残業といった時間外労働。今日なんて、会議のためにわざわざ休日出勤してきたのだ。久しぶりの公休だったのに……。
 ぎっしりと資料が詰め込まれたファイルが重たく感じる。
 今日は会議のためだけに出勤してきたというのに、そんな日に限って急変した患者がいて現場に駆り出されてしまった。会議だけに顔を出してさっさと帰宅しようと思っていたのに……。


 ふとポケットに手を入れると、カサッとビニールに触れる。音の正体は、夜勤の入りだった南がくれた棒付きのキャンディーだった。
「先生、疲れてますねぇ。これあげるから頑張ってください」
 いつもみたいに笑って、頭を撫でながらくれたんだっけ。「ガキ扱いすんなよ」って強がって見せたけど、本当は凄く嬉しかった。それなのに素直にお礼が言えない自分が歯痒くて仕方がない。
 ビニールを破り口に放り込めば、甘い苺の味が口いっぱいに広がっていく。
「あー、疲れた体に染みわたる……」
 ペロペロと飴を舐めながら廊下を歩いていると、南の声が聞こえてきて……思わずある病室の前で立ち止まった。気づかれないように室内を覗き込めば、南が患者と話をしているようだ。


 その患者は菊池聡(きくちさとし)さん、三十二歳。病名は胃癌。映画関係の仕事をしている人だ。
 いつも持参したタブレットで映画を見ている。本当に映画が好きだということが、伝わってくるようだった。
「菊池さん、もうすぐ消灯ですから映画鑑賞は終わりにしてください」
「え? もうそんな時間ですか?」
 ふと壁に掛かっている時計をみればもう夜の十時。消灯の時間だ。
「いくらイヤホンをつけていても、消灯後にタブレットを使っていると同室の患者さんの迷惑になりますからね」
「相変わらず南君は厳しいなぁ」
「それに、手術したばかりなんですから、ゆっくり休んでほしいんです」
 寝るよう急かされた菊池さんは渋々タブレットの電源を切り、寝る準備を始めたようだ。そんな菊池さんに南が声をかける。
「そんなにその映画、面白いんですか?」
「この映画ですか? 凄く面白いです。現代の世界が抱えるジェンダーという概念がテーマとなっているんです」
「へぇ。なんだか難しそうですね? ちなみにタイトルは?」
「お? 興味がありますか? このタイトルはですね……」
「ふむふむ……」
 早く寝ろと言っておきながら、患者の話に食いついてしまっている南が可笑しくて仕方ない。思わずプッと吹き出してしまった。


 本当に素直な奴なんだと思う。そんなところが俺は……「ん?」と思わず首を傾げる。俺は一体何だって言うんだ?
「あー、意味わかんねぇ!」
 頭を掻き毟りながら、飴をガシガシッと嚙み砕いた。
 そして、俺の貴重な公休は、休日出勤という悲しい結末で終わってしまう。めちゃくちゃ疲れたなぁ……。
「明日も仕事か……」
 明日、と言ってももう二時間後なんだけれど。重い足取りで更衣室へ向かう途中、「先生」と呼び止められた。振り返れば、そこには俺に向かい手を振る南がいた。
「夜勤中でもイケメンってどうなってんだよ……」
 大きく溜息をつきながらもヒラヒラと手を振り返す。南は無邪気な笑顔を浮かべながら俺に走り寄ってきた。


「公休だったのに、遅くまで大変でしたね」
「本当だよ。身も心もボロボロだ」
「ふーん……」
 南が上目遣いで何かを考える仕草をしたあと、にっこりと微笑んだ。
「じゃあ、俺が先生を癒してあげますよ」
「南が?」
「はい! 今、菊池さんに面白い映画を教えてもらったんです」
「あー、そうなんだ」
 まさか「立ち聞きしていたから知ってるよ」とは言えずに曖昧な返答をした。
「明日先生の仕事が終わったら、俺んちで一緒に観ませんか?」
「南ん家?」
「いつも先生の家じゃ申し訳ないので、俺の家にも来てください。飯、ご馳走しますから」
「で、でも……」
「いいからいいから、じゃあ仕事が終わったら連絡ください。ここまで迎えにきますね」
 俺の話なんて全く聞こうとしない南に、「いいよ、悪いから」と言おうとした瞬間……南のスクラブのポケットに入っているPHSがナースコールを知らせた。
「あ、ナースコールだ。じゃあ俺行きますね。先生はゆっくり休んでください」
「南、待って……」
 南を呼び止めようとしたけど、そんなのお構いなしに薄暗い病棟へと消えていってしまう。静かな空間に、心臓の音がいやに大きく聞こえた。
「南の家とか、ハードル高すぎる……想像しただけで口から心臓が出てきそうだ」
 俺はずっと持っていた資料を抱き抱えて、その場にしゃがみ込んだ。
 こんなに疲れているのに、今日は眠れそうにない……。

◇◆◇◆

『もうすぐ仕事終わる』
『了解です。先生、今日クリームコロッケでいいですか?』
『なんでもいいよ。ありがとう』
『じゃあ、今から迎えに行きますね』
 つい先程南とやり取りしたメッセージを見返して赤面してしまう。
 クリームコロッケは子供の頃からの大好物だ。でも、こんなに緊張している状態で果たして喉を通るだろうか……。
「南の家に二人きりか……」
 『南の家』というだけで、一気にハードルが上がってしまったのを感じる。
 緊張のあまり頭がボーッとしてきてしまう。呼吸困難から、その場に倒れてしまいそうになった。
「着替えなきゃ……」
 今日家を出るとき、下着に気を使った方がいいのだろうか……と一瞬でも考えてしまった自分が情けない。悩んだ挙句、有名ブランドの下着にしたんだけど……。
「何を期待してんだよ」
 大きく深呼吸をしてから、ロッカーの扉を勢いよく閉めた。


 南のアパートに着いた時には、本当に呼吸困難になってしまうのではないか……というくらい緊張していた。
「先生のマンションに比べたら狭いけど、ゆっくりしてってください」
 そっと背中を押されて入った室内は温かくて、ふわりと南の香りがする。
 リビングは綺麗に整理整頓されていて、棚にはフィギュアやお洒落な雑誌、レコードが並べられていた。殺風景な俺の部屋とは全然違う、南らしい部屋。1LDKの空間が、彼の好きで埋め尽くされているようだった。
 凄く素敵な部屋だけど……なんだかモヤモヤしてしまう。可愛くない天邪鬼がひょっこり顔を出した瞬間……。


「ここにいつも女の子を招いてるの?」
「え?」
「あ、ごめん。突然変なこと言って。ごめん、本当にごめん!」
 無意識に自分の口から飛び出した言葉に、自分自身がびっくりしてしまう。
 でも気になって仕方ないんだ。ここに、南の恋人は来たことがあるんだろうか、って。
 この部屋で、誰かと甘い時間を過ごしていたのだろうか……って考えただけで、心がズキッと痛む。
 ——そんなこと、俺には関係ないのに……。
ギュッと拳を握り締めて俯けば、頭上からクスクスという笑い声が聞こえた。
「それヤキモチですか?」
「え?」
「だから、先生はヤキモチを焼いてるんですか?」
 顔を上げた瞬間、一気に顔が熱くなった。
「もしそうだとしたら凄く嬉しいです。でも……」
「でも?」
「俺は先生に恋をしてから、恋人はいません。だから、ここに俺の恋人を呼んだことはないです。だから、先生が一番初めにこの部屋に来た恋人……になってくれたら嬉しいです」
 悪戯っぽく笑いながら、南がスルッと指を絡めてきた。


「恋人って……」
「ふふっ。じゃあ、クリームコロッケ揚げますからリビングで待っててください」
 クスクス笑いながら黒いエプロンを身に着ける南は、悔しいほど様になっている。
「駄目だ、死にそう……」
 リビングに案内された俺は、床に置いてあるクッションを抱き締めた。


 南が作ってくれたクリームコロッケは想像以上に美味しくて、喉を通らないかも……なんていう心配は取り越し苦労で、ペロリと平らげてしまった。
「美味しかったですか?」
「うん、凄く美味しかった」
「それは良かった」
 満足そうに目尻を下げる。でも決してお世辞なんかじゃない。南は料理がとても上手だ。
 テーブルに並べられているカボチャのスープが入ったカップを手に取れば、フンワリと甘い香りがする。フーフーッと冷ましてから口に含んだ。
「あー、あったかい……」
 思わず口から零れ落ちた。


「菊池さんが言ってた映画、ジェンダーがテーマとか言ってたんですが難しいですかね?」
「でもあの人がお勧めするくらいだから、面白いんじゃん?」
「ネットで検索したら見つかったから観てみましょうか?」
「あ、うん」
 南が隣に腰を下ろしながら「どうぞ」なんて、コーヒーの入ったカップを差し出てくる。テーブルにそっと置かれた砂糖とミルク。コーヒーはブラック派の南だから砂糖もミルクも必要ないはずだ。俺の好みを把握してくれてるんだ……って思うと照れくさい。
 こんなちょっとしたやり取りこそが、まるで恋人同士のように感じられて……また心臓がうるさい程に騒ぎ始めた。
 自分自身の恋愛経験があまりにも少なすぎて、戸惑うことが多すぎる。
 このリビングに着いた瞬間から抱き抱えていたクッション。もはやそれは命綱みたいに思える。そんなクッションを更に強く抱き締めた。