南が入職して、もうすぐ一ヶ月がたとうとしている。
 厳しい現場に食らいつき続ける南は、顔つきも変わりとても頼もしくなった。頑張ってるんだろうな……っていうのが伝わってくる。
「更にイケメン度が増したな……」
 そんな南をぼんやり目で追っているとバチッと視線が合った。気まずくなって慌てて目を逸らしたが、ニヤニヤしているのが伝わってくる。
 ――あぁ、やっちまったな……。
 そう思った時にはこと既に遅し。何か言いたそうに隣にやってきて、顔を覗き込んでくる。
「そんなに見つめられたら照れちゃいますよ」
「うるさい、ボケが」
 嬉しそうに目を細める南の腹に、一発パンチを食らわせてやった。

◇◆◇◆

「メスください」
「はい」
「あのさ、さっきからメスの渡し方が持ちにくいんだけど……もう少し手の中に収まるように渡してもらえるかな? いちいち持ち直すのめんどいです……」
「は、はい、すみません」
「今僕が欲しかったのはピンセットです。だからさ、右から3番目にあるピンセット。次はペアンを使うから、すぐ渡せるように準備しといてください」
「は、はい、すみません!」
「手術室でメソメソしないでよ。なんで今日は南君がいないんだ……」
 俺はイライラしながら小さく舌打ちをした。
 どうしても手術が長時間になってしまったり、思い描いたようにいかないとイライラしてしまう。
「南君は、今日は遅番です」
「言われなくてもわかってます。早く、ペアンください」
「……は、はい。すみません」
「はぁぁぁ……すみません、つい口調が強くなってしまって」
 今にも泣き出しそうな器械出しの看護師からペアンを受け取ると、気を取り直して再び手術に集中した。


「先生、また器械出しの看護師を泣かせたんですって?」
「あぁ? だってあの子、何回手術に立ち会っても一向に器械出しが上達しねぇんだもん」
「そんな事言ってたら、先生の手術で器械出しできる看護師が俺しかいなくなります」
「ならお前が毎回来ればいいじゃん?」
「俺は、オペナースじゃありません。いいですか? みんな先生を怖がってるから、先生の手術には行きたがらないんです。それで仕方なく俺に声がかかるんですよ。俺だって忙しいのに……」
 どんなに他のスタッフが俺を煙たがっても、南だけは違った。いつも俺の傍にいてくれる。こいつだけはいくら文句を言っても、俺を受け止めてくれるんだ。それはずっと変わっていない。
 ただ、あれから俺達の関係は全く進展していない。期待して待っているわけじゃないけど……寂しい気もする。
「別にこのままの関係だって構わないけど……。はっきりしろよ、南の馬鹿野郎」
 唇を尖らせながら目を伏せる。少なからず南からの告白を待っているなんて、絶対に気付かれたくなんてない。


「はい、先生。これ今日で処方が切れる患者さんですから、処方をお願いします。あと検査結果もありますから、全部見てコメントお願いしますね」
「はぁ? なんでこんなにあるんだよ!」
「みんな先生が怖いからって、自分が担当してる患者の処方を、俺からお願いしてほしいって頼まれたんです。だからこんなに溜まってしまった……全ては話しかけにくい先生が悪いんだと思います」
 飄々と話し続ける南を軽く睨みつけてから、渋々仕事に取りかかる。
「終わるまで待ってますから、頑張って」
「うるさい」
「ふふっ。じゃあ、終わったらご褒美にキスしてあげましょうか?」
「ん?」
「先生、俺からのキス……待ってるように見えたから」
「お前、何言ってんだよ!」
「あ、ナースコールだ。ちょっと行ってきますね」
 俺は、再び頬が熱くなるのを感じて机に突っ伏す。
 心臓がバクバクいってうるさくて仕方ない。思わず自分で脈をとって、不整脈がないか確認してしまった。

◇◆◇◆

「あー、疲れたぁ」
 今日の手術も難航した挙句に、八時間を超える大手術となった。足はパンパンだし、喉はカラカラ……手術室用の帽子でついてしまった前髪の癖を、クシャクシャと手櫛で掻き上げる。
「今日は、南仕事かな……」
 手術室から出てしまえば、一気に現実に引き戻されてしまう。あいつのことが気になって仕方ない。
 なんにせよ、時刻は夜の九時を過ぎている。仕事だったとしても、もう帰ってしまっただろう。
「……会いたいな……」
 真っ暗な廊下で立ち止まる。
 もうすぐ季節は春だ。梅の花が咲いて桜の蕾が膨らみ出す、そんな心踊る季節。それなのに、俺の心は寒くて仕方ない。一度知ってしまった温もりはあまりにも強烈で、心と体がその温もりを欲してやまない。
 でも天邪鬼の俺は素直に「会いたい」なんて言えるはずなどなかった。いつも遠くから南を見つめて、声をかけたいと思うし、スクラブの裾を掴んで振り向かせたいっていう衝動にも駆られる。
 素直になりたい。


 「会いたい」「傍にいて」って言えたらどんなにいいだろうか。
 なのになんでだろう……。気持ちが昂っていくほどに、南がどんどん遠い存在に感じた。
 グスッと子供みたいに鼻をすする。目の前がユラユラと揺れたから手の甲で涙を拭った。


「先生」
「……え……?」
「月居先生」
 ふと顔を上げれば、スクラブを着た南がいた。
「先生、お疲れ様でした。随分時間がかかりましたね」
「なんで? お前、まだ帰ってなかったのか?」
 事態が飲み込めない俺のことを気にする様子もなく、癖のついた俺の髪を優しく撫でながら「すごい髪型だな」って笑っている。
「まさか……待っててくれたとか?」
「別に待ってなんかいませんよ。今日先生が手術してくれた患者さん、俺の受け持ちだったんです。だから心配で」
「そ、そうかよ。そうだよな、待っててくれるわけねぇよな」
「え? もしかして待ってて欲しかったとか?」
「べ、別に待ってて欲しかったわけじゃ……」
 俺の顔を覗き込んで悪戯っ子のように笑う南を見れば、顔から火が出そうになる。ドキドキと胸が高鳴って……息が苦しい。この場から逃げ出したくなった。
「嘘です。本当は待ってたんです」
「南……」
「先生が心配で、待ってました」
 少しだけ頬を赤らめて笑う南は、悔しいけど凄くかっこいい。もう、心臓がうるさい。
「お前に心配されるなんて心外だ。俺が失敗するわけねぇだろう?」
「ふふっ、そうですね。じゃあ、先生の顔を見られたことだし、帰りますね。お疲れ様でした」
 ペコッと頭を下げて背を向けた南が、少しずつ遠ざかって行く……その光景に、俺の心は駆り立てられる。
 ——行っちゃう……。あんなに会いたかった南が、行っちゃう……。


「南!」
 咄嗟に引き止めてしまったことに、自分が一番驚いてしまう。びっくりしたような顔で振り返る南に、何を言ったらいいかわからず俺は俯いた。
 呼び止めてしまったことを、強く後悔する。
 どうしよう、どうしよう……。
「先生……」
 南が俺を見てフワリと笑う。その笑顔があまりにも綺麗で、吸い込まれそうになった。
「疲れたなら、抱き締めてあげましょうか?」
「なッ……」
「ほら、おいで」
 そう言いながらフワリと抱き締めてくれた。その瞬間、俺の呼吸と心臓が止まりそうになる。
 青白い月明かりが、普段誰も来ることのない廊下を静かに照らして……自分の心臓の音がやたら鼓膜に鳴り響いた。
「よしよし、頑張りましたね」
「俺、汗臭いから……離せよ」
「大丈夫。全然気になりませんから」
 そう言いながら俺の首筋に顔を寄せて、クンクンと鼻を鳴らす。
「先生、消毒の匂いがする」
「やめろ、離せ!」
「嫌だ、離しません」
 そう言いながら、更に腕に力を込めて抱き締められる。
「離せよ、嫌だ」
 文句を言いながら南の腕の中で暴れて見せるけど……。「お願い、離さないで」そう強く望む自分もいる。でも南がなかなか離そうとしないから、様子を窺いながら全身から力を抜いた。
「疲れた……眠い……」
 そう言いながら、南の背中に腕を回してギュッとしがみついてみる。他人の体温ってこんなにも心地いいんだ……ボンヤリと思い出した。


「疲れたなら、今日は俺ん家に来ますか?」
「嫌だよ、自分家でゆっくり寝たい」
「えー! つまんないなぁ」
「それより、さっきみたいに頭撫でて……」
「急にどうしたんですか? 余程疲れたとか?」
「うるせぇよ。いいから撫でろよ」
 南が溜息をついたあとフッと笑う。少しだけ呆れた顔をしながらも「はいはい」なんて言いながら優しく頭を撫でてくれた。
 あぁ、やっぱりこいつの手がめちゃくちゃ好きだ。
 言葉になんか出さないけど、俺はそう思いながら南にそっと体を預ける。
 瀧澤と別れた時、身も心もボロボロになった。だからもう誰にも関わらずに生きていきたい……そう思っているのに、なんでこんなに甘く心が締め付けられるのだろうか。
 南の手も体温も好きなのに、素直になれない自分がいて……切なく疼く感情から目を逸らした。


 こんなにも南に会いたいと思ってしまう。
 そして、そんな俺にお前は会いに来てくれた。