ミラがいなくなった翌朝、梓はほとんど眠れないまま、ふらつく足どりで玄関を出た。靴を履く手さえ震えて、うまくかかとが入らない。

「ミラ……どこ……?」

呟いた声は、自分でも驚くほど細くかすれていた。
胸の奥は空洞のようで、そこに冷たい風が吹き抜けるような痛みが続いている。呼吸をすると、その空洞がひりつく。遼の最後の言葉が何度も頭の中で浮かび、また消え、そしてまた蘇った。

歩き出した道は、昨夜と同じ冷えた風が流れていた。けれど、その風の中に混じる何かがあった。

──ニャァ……

どこか遠くで、確かに聞こえた。

「……ミラ?」

梓の心臓が跳ねる。
次の瞬間、身体が先に動いていた。靴底がアスファルトを叩き、冷たい空気を切る。公園へ続く道を駆け抜け、住宅街の細い階段を一段飛ばしで上る。

鳴き声は止まらない。
むしろ、一定の距離を保つように、梓を導くように響いてくる。

(どうして……こんな場所へ……?)

そう思いながら辿り着いた先は──
梓がただ一つだけ訪れたくなかった場所だった。

遼の事故現場。

道路脇には今も花束が並び、色褪せたリボンが風に揺れ、昨日誰かが置いたばかりの小さなカードも見える。その中央に、白い小さな影が座っていた。

「……ミラ……」

呼ぶ声が震えた。
ミラはゆっくりとこちらを見上げる。濡れてもいないのに、泣き出しそうにうるむ瞳。そのまなざしは、懐かしい誰かの面影を宿していた。

梓が一歩近づくと、花束の一つが風に揺れ、かさりと音を立てた。
次の瞬間──風が頬を撫で、耳元でやわらかい声が囁く。

「ありがとう。君が笑ってくれるなら、それでいい。」

遼の声だった。

幻聴なんかじゃない。
音の温度。息遣い。
胸の奥に落ちていく、あの穏やかな響き。

「……っ、や……だって……遼……」

膝から力が抜け、梓はその場にしゃがみ込んだ。伸ばした腕にミラが飛び込んでくる。その小さな身体はしっかりと温かく、震えているのは梓のほうだった。

「遼……遼……っ……!」

嗚咽が漏れ、涙が頬を伝う。
ミラは梓の頬にそっと顔を寄せ、流れた涙を舐めるように触れた。その仕草は、まるで「ひとりじゃないよ」と言ってくれるようで。

あの日、遼が守ろうとした命。
そのぬくもりは、遼が遺した想いそのものだった。

「ミラ……ありがとう……。来てくれて……」

胸に抱きしめるその背中は、初めて出会った夜よりもずっと確かで、温かい。
風も、もう冷たく感じない。

梓は深く息を吸った。
涙の匂いと、ミラの柔らかな毛の匂いと、朝の空気が胸に沁みる。

(ここから……前に進まなきゃ)

ゆっくりと目を閉じる。
遼の声はもう聞こえない。けれど、確かに背中を押された感覚だけは残っていた。

梓はそっと立ち上がり、ミラを抱いたまま空を見上げた。
その瞳はもう、昨日までの自分とは違う光を宿していた。