ミラは、窓の外をじっと見つめる癖があった。
それはただの猫の気まぐれには見えない。
淡いブルーグレーの瞳が揺れるたび、梓は思ってしまう──この子は、どこか遠い場所と繋がっている、と。

夜の街はまだらに光っていた。
ビルの隙間を抜けてくる風が窓辺を震わせ、カーテンがふわりと揺れる。ミラの毛並みも、風にそっと撫でられたようにふるえていた。

「……また外、見てるの?」

声をかけても、ミラは振り返らない。
ただ、前足を窓枠に掛け、夜の深い闇を見つめていた。
その姿は、まるで呼ばれている場所を探すようで──梓の胸の奥がきゅ、と締め付けられる。

視線の先にある方角をたどる。
そこには、遼と最後に訪れた展望台があった。
二人で夜景を眺め、他愛のない未来の話をした、あの場所だ。

ほんの少しだけ、息が詰まる。

「……行かなきゃいけない気がするの?」

問いかけると、ミラはゆっくり振り向き、まっすぐ梓を見上げた。
わずかな灯りを受け、瞳が静かに光る。
その光には、不思議な強さがあった。迷いを押しのけ、誰かの背をやさしく押すような──そんな温度。

「……わかった。行こう、一緒に」

その言葉に応えるように、ミラは小さく鳴いた。
梓はそっと抱き上げ、バスタオルでくるみながらドアを開く。
夜風がふっと頬を撫でた。少し冷たく、でもどこか懐かしい匂いがした。

展望台へ向かう坂道は、街の喧噪から切り離されたように静かだった。
舗装の上に落ちた街灯の光が、途切れ途切れの道しるべみたいに足元を照らす。
風が木の葉を揺らし、さらさらと小さな会話のような音を立てていた。

「遼と来たときも……こんな夜だったよね」

思わず呟くと、腕の中のミラがふわりと尻尾を揺らした。
まるで覚えてると返事をするように。

公園の入口に着くと、視界が一気に開けた。
夜景が遠くまで広がり、家々の灯りが宝石みたいに瞬いている。
遼がよく「ここが一番好きだ」と言っていた場所だ。

ベンチに腰を下ろした瞬間、スマホが震えた。

「……また?」

胸が跳ねる。喉が熱くなる。
画面に浮かぶ名前を見た瞬間、呼吸が止まる。

遼からの通知。

震える指で開いた。
そこには、たった一行だけのメッセージ。

『まだ、ここにいるよ』

その文字を見た途端、心の奥にしまっていた痛みがほどけていく。
泣き方を忘れたはずなのに、視界がじんわりかすんだ。

続いて、自動的に地図アプリが起動した。
表示された位置情報のピンは──
まさに今、梓が座っているこのベンチを指していた。

「遼……ここに?」

呟くと、腕の中のミラが小さく喉を鳴らし、尻尾で空気をそっとなぞった。
合ってるよ、と言うように。

そのとき──

ガタン、と風が何かを転がす音がした。
思わず足元を見やる。
ベンチの下に、小さな金属が淡く光っていた。

しゃがんで手を伸ばす。
指先が冷たい感触に触れた瞬間、胸が一気にざわついた。

「……え……?」

拾い上げたそれは、色あせて錆びている。
けれど、形は忘れようがない。

細身の腕時計。
遼がいつもつけていた──
けれど、事故のあと、どれだけ探しても見つからなかった形見。

「なんで……ここに……?」

膝の上に移動したミラが、そっとその腕時計に鼻先を寄せた。
ゆっくりと、まるで確かめるように。
その仕草は「見つけたね」と言っているみたいで、胸がつまって息が苦しくなる。

視界がぼんやり滲み、風の音が遠のいていった。
耳の奥で──遼の優しい声が、かすかに響いた気がした。

──まだ、ここにいるよ。

奇跡は、もう偶然の範囲では説明できなかった。
導かれている。
誰かが、そっと手を伸ばしている。

梓は腕時計を胸に抱きしめ、寄り添う小さな命の温もりにそっと微笑んだ。

「……ありがとう、ミラ。一人じゃ、きっと来れなかった」

ミラはふわりと目を細め、喉を鳴らした。
その音は、夜風よりもやさしく、心の痛みを静かに癒していった。