その夜、梓はほとんど眠れなかった。
天井を見つめても、瞼を閉じても、胸の奥で揺れている波が静まってくれない。
枕元では、ミラが丸くなり、子どものように小さな呼吸を繰り返している。
ふわり、ふわりと上下する白い体の鼓動が、逆に梓の心を落ち着かせてしまい、涙腺を刺激する。
「……ミラ、あったかいね……」
囁けば、ミラは返事の代わりに尻尾をゆっくり揺らした。
その穏やかさに身を預けかけたとき──。
スマホが震えた。
静まり返った真夜中に、突然の振動音がひどく大きく響き、心臓が跳ね上がる。
「……こんな時間に?」
恐る恐る画面を覗き込んだ梓は、息を飲んだ。
遼。
その名前が、そこにある。
まるで時間が巻き戻ったように、風景が滲む。
だが、届いたのはメッセージではなく音声ファイルだった。
ファイル名は無機質な英数字の羅列。
胸の奥がざわつく。
「再生……してもいいの……?」
誰に許しを求めるでもなく、ただ呟く。
ミラがその声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。
瞳が闇の中で静かに光り、梓の迷いを溶かすように小さく鳴く。
──聞いて。
確かに、そう言われたと思った。
震える指で、再生ボタンを押した。
途端に、ざらついた雑音がゆっくりとスピーカーを満たす。
夜の静寂が破られ、別の世界が部屋の中へ侵入してきたようだった。
ビニール袋が擦れる音。
靴底がアスファルトを踏む控えめな足音。
小さなメモを確認するような、独り言の息遣い。
それは遼が事故に遭う前、ほんの数分か、もしくは数十秒前に残していた日常のメモ録音だった。
「牛乳……買った。……洗剤……あとでいいか……」
当たり前で、平凡で、どこにでもある生活の端切れ。
しかし梓には、その何気ない声が胸の奥の傷を静かに撫で、痛むほどに優しかった。
「……遼……」
嗚咽になりかけた呼び声を、ミラがそっと梓の手に頭を寄せて受け止める。
そのとき──録音の空気が変わった。
風の音が止まり、雑音がわずかに澄む。
そして、遼の声が低く、しかし確かな温度を帯びて囁いた。
「白猫を見つけた。首輪に名前がある……ミラって言うのか……」
世界が止まった。
梓は息を吸うことすら忘れ、ただ録音の向こうの時間に引きずり込まれていく。
名を呼ぶように、震える声が漏れた。
「……ミラ……?」
ミラはスピーカーをじっと見つめ、まるで遼の声を聴いて理解しているかのように、静かに尾を揺らした。
遼が最後に守ろうとした小さな命。
その命が、今、こうして自分の隣で眠り、息をしている。
偶然じゃない。
偶然で終わらせたくない。
遼が繋いだ糸の先に、自分がいたのだと胸が震えた。
音声はふいに途切れた。
スマホの光が闇に溶け、部屋には再び静寂が戻る。
ただひとつ違うのは──
梓の胸の底に、確かに灯った温かな明かりだった。
「遼……ありがとう……」
言葉がこぼれた瞬間、視界が滲む。
涙が、音もなく頬を伝い落ちていく。
その涙は、悲しみではない。
痛みでもない。
ようやく呼吸を許された心から流れる、優しい涙だった。
ミラは梓の指先にそっと頬を寄せ、喉を震わせる。
夜の闇に、微かなゴロゴロという音が温もりのように広がった。
現実と奇跡の境界は、もはや曖昧だ。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
──この命を、守らなければ。
梓は静かに目を閉じ、ミラの温もりを胸に引き寄せた。
その小さな灯火が、彼女を明日へ導いてくれると信じながら。
天井を見つめても、瞼を閉じても、胸の奥で揺れている波が静まってくれない。
枕元では、ミラが丸くなり、子どものように小さな呼吸を繰り返している。
ふわり、ふわりと上下する白い体の鼓動が、逆に梓の心を落ち着かせてしまい、涙腺を刺激する。
「……ミラ、あったかいね……」
囁けば、ミラは返事の代わりに尻尾をゆっくり揺らした。
その穏やかさに身を預けかけたとき──。
スマホが震えた。
静まり返った真夜中に、突然の振動音がひどく大きく響き、心臓が跳ね上がる。
「……こんな時間に?」
恐る恐る画面を覗き込んだ梓は、息を飲んだ。
遼。
その名前が、そこにある。
まるで時間が巻き戻ったように、風景が滲む。
だが、届いたのはメッセージではなく音声ファイルだった。
ファイル名は無機質な英数字の羅列。
胸の奥がざわつく。
「再生……してもいいの……?」
誰に許しを求めるでもなく、ただ呟く。
ミラがその声に反応し、ゆっくりと顔を上げた。
瞳が闇の中で静かに光り、梓の迷いを溶かすように小さく鳴く。
──聞いて。
確かに、そう言われたと思った。
震える指で、再生ボタンを押した。
途端に、ざらついた雑音がゆっくりとスピーカーを満たす。
夜の静寂が破られ、別の世界が部屋の中へ侵入してきたようだった。
ビニール袋が擦れる音。
靴底がアスファルトを踏む控えめな足音。
小さなメモを確認するような、独り言の息遣い。
それは遼が事故に遭う前、ほんの数分か、もしくは数十秒前に残していた日常のメモ録音だった。
「牛乳……買った。……洗剤……あとでいいか……」
当たり前で、平凡で、どこにでもある生活の端切れ。
しかし梓には、その何気ない声が胸の奥の傷を静かに撫で、痛むほどに優しかった。
「……遼……」
嗚咽になりかけた呼び声を、ミラがそっと梓の手に頭を寄せて受け止める。
そのとき──録音の空気が変わった。
風の音が止まり、雑音がわずかに澄む。
そして、遼の声が低く、しかし確かな温度を帯びて囁いた。
「白猫を見つけた。首輪に名前がある……ミラって言うのか……」
世界が止まった。
梓は息を吸うことすら忘れ、ただ録音の向こうの時間に引きずり込まれていく。
名を呼ぶように、震える声が漏れた。
「……ミラ……?」
ミラはスピーカーをじっと見つめ、まるで遼の声を聴いて理解しているかのように、静かに尾を揺らした。
遼が最後に守ろうとした小さな命。
その命が、今、こうして自分の隣で眠り、息をしている。
偶然じゃない。
偶然で終わらせたくない。
遼が繋いだ糸の先に、自分がいたのだと胸が震えた。
音声はふいに途切れた。
スマホの光が闇に溶け、部屋には再び静寂が戻る。
ただひとつ違うのは──
梓の胸の底に、確かに灯った温かな明かりだった。
「遼……ありがとう……」
言葉がこぼれた瞬間、視界が滲む。
涙が、音もなく頬を伝い落ちていく。
その涙は、悲しみではない。
痛みでもない。
ようやく呼吸を許された心から流れる、優しい涙だった。
ミラは梓の指先にそっと頬を寄せ、喉を震わせる。
夜の闇に、微かなゴロゴロという音が温もりのように広がった。
現実と奇跡の境界は、もはや曖昧だ。
それでも、ひとつだけ確かなことがある。
──この命を、守らなければ。
梓は静かに目を閉じ、ミラの温もりを胸に引き寄せた。
その小さな灯火が、彼女を明日へ導いてくれると信じながら。



