帰りの飛行機。
搭乗が始まり、行きと同じように出席番号順で座らされる――はず、だった。
……はずだったのに。
なぜか、俺と久保以外の面々が、機内に入った瞬間からやたらと大声で騒ぎ始めた。
「先生! 田中、ちょっと気分悪いみたいで! 席替わってもいいですか!」
「え、俺もっ。なんか急にトイレ近くなってきて!」
「俺は昨日、海野に腕枕されて寝落ちして、起きたら肩脱臼してて!
窓側じゃないと無理っす!」
口々に、どう考えても後付けくさい理由を並べ立てる。
しかも、誰かが言い出すたびに、別の誰かが間髪入れずに乗っかるという、
なぜか妙に息の合った謎の連携プレー。
加藤先生は、通路の真ん中で一瞬きょとんとしてから、全員の顔をぐるっと見回した。
「……なんやお前ら。面倒くさいなぁ。
もう席は何処でもえぇから、さっさと乗れや」
半ば呆れたようにそう言って、あっさり許可する。
結果として。
気づけば、久保は俺の隣の席に、当然の顔をして座っていた。
……みんなが気を利かせてくれたのは、分かる。
分かるけど、これは、さすがに露骨すぎる。
何人かのクラスメイトが、
「やれやれ」という顔をしながらも、口元を押さえて笑っているのが見えて、俺は余計に居心地が悪くなった。
「……あ、ありがと……」
一応、小さくお礼を言うと――
すぐさま、座席の前後から、ひそひそ声が飛んでくる。
「久保はもう一生分のお願い使い切ったからな。
これは俺らからの“お祝い”ってことで」
「伊織ぃ~、もし墜落しそうになっても、
久保が命がけで守るから安心せぇや」
「死ぬ前にキスしとけよw」
「っ……!」
言葉を失って固まっていると、
久保がわざとらしく咳払いをして、視線を前に戻した。
そのタイミングで、
「シートベルトをお締めください」という機内アナウンスが流れ、
キャビンアテンダントたちが、ラゲッジドアのロック確認を始める。
ああ、いよいよ離陸するんだ。
そう思った瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。
やっぱり、少しだけ……
「……怖い?」
久保は、そんな俺の気持ちを見透かしたみたいに、
声を落として、そっと顔を覗き込んできた。
「前よりは……少し、平気になったかも」
俺が久保の方を見て、そう答えた、その瞬間。
「だって隣には、久保がいるもん……♡」
前の席から、にやにやした田中の顔が、ぬっと現れた。
「……」
次の瞬間、
久保は修学旅行のしおりをくるっと丸め、田中の頭をハリセン代わりに叩いた。
「いってぇぇ!?!?
なんだよ、さっきあっちぃ会話してたの、久保だろ!」
「田中、ええ加減にしぃや!
このまま先生の隣の特等席に座らせたろか!?」
田中が大声を上げるより早く、
先生が振り返る前に、久保はさっと席に深く座り直して、
何事もなかったかのようにシートベルトを締め直す。
その様子に、後ろの席から、くすくすと笑い声が広がって、
俺もつられて、吹き出してしまった。
やがて、機内に、離陸を告げるアナウンスが流れ始める。
《当機はまもなく――》
「うぇーい!!」
「さらば沖縄ー!」
あちこちから拍手と歓声が上がる。
なぜか両手を高く掲げている海野と川内の姿が見えて、思わず小さく笑ってしまった。
今年三回目の飛行機。
もう慣れてもいい頃だと思うのに、やっぱり胸の奥は落ち着かない。
機体が轟音とともに滑走路を駆け出し、ぐっと身体がシートに押しつけられる。
少し強めの揺れのあと、ふわり、と重力がほどけて――窓の外で、車輪が完全に地面から離れたのが見えた。
沖縄の街並み。
赤い屋根が並ぶ景色と、サンゴ礁の淡い水色と深い青が混ざり合った海。
それらが、少しずつ、少しずつ遠ざかっていく。
胸の鼓動はまだ速いけれど、さっきまでの張りつめた感覚とは、もう違っていた。
機内が落ち着いた雰囲気に包まれた、その時。
久保は何も言わず、そっと俺の手を上から包んだ。
その温もりに視線を落としてから、もう一度、久保の顔を見る。
そこには、いつもより柔らかくて、安心したみたいな笑顔があった。
……守ってくれてる、守られてる、と思った。
でも。
俺は、そっと自分の手首を返して、
久保の掌と、真正面から向き合うように重ねた。
「……繫がなくていいの?」
久保の声には、驚きと、ほんの少しの寂しさ。
その混ざった響きが、なんだか可愛くて、俺は小さく笑いながら首を振った。
「ううん……久保の手は、」
そのまま、ゆっくりと指を折って、
指先に、きゅっと力を込める。
「俺が、握ってあげたいから」
一瞬、久保は目を見開いて、
それから、嬉しさを堪えきれないみたいに笑った。
答えるみたいに、久保の指先が、俺の指に絡んでくる。
しっかりと、でも優しく。
“もう、離さない”と言うみたいに。
窓の外には、果てしない雲海が広がっていた。
太陽の光を反射して、白く、眩しく輝く空。
この世界で一番大事なものは、
遠くへ行ってしまった景色でも、
これから向かう場所でもなくて。
――今、ここにある。
そう思った瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。
二人の距離も、交わしてきた言葉も、迷った時間も、すれ違った想いも。
全部を抱えたまま、少しずつ、空へと舞い上がっていく気がした。
これから先、何があっても。怖い時も、不安な時も。
――俺は、この手を離さない。
恋人として並んで、同じ未来を見上げながら、
飛行機は、まっすぐに空を進んでいった。
fin.



