屋上なんて、初めて来た。
 そもそも、ここに入れたことも初めて知った。

 風が強くて、制服の裾がバタバタとひるがえる。
 これからフラれる俺には似合わない、真っ青な空。椿の存在そのものみたいな、輝く太陽。
 落下防止のフェンスの向こうに見える街並みは、教室の窓から見るより近く感じた。

 確かに屋上なら、お互いの顔がしっかりと見える。
 そして、俺は椿の顔を見て絶句してるところだった。

「……幸哉先輩」

 高いフェンスを背に呼びかけてくる椿の顔は、聞いていた通りいつもと違う。
 寝坊して髪をセットできなかったんだっけ?
 ところどころ寝癖で跳ねている。

 長めの前髪が、目元を隠してしまって表情が読み取りにくい。
 それでも隠せないくらい、目の周りは赤く腫れていた。目の下のクマまでくっきりで、痛々しい。
 頬も、たくさん擦ったのか荒れている。

 とにかく謝らないとって思って、俺は勢いよく頭を下げた。

「ごめん! 俺がお前にフラれたからって急に酷いこと言った!」
「……え?」
「返事を見るのが怖くて、ずっとスマホの電源切ってた! 本当にごめん!」

 腹の底から出した俺の声が、屋上で響く。
 椿が息を飲む音が聞こえたかと思うと、両肩を掴まれた。

「待って。待って幸哉先輩。いつ? いつ俺にフラれたの? フラれたの俺だよね?」

 慌てた声と共に、俺はガクガクと揺さぶられる。
 待て。待てはこっちの台詞だと、俺は首を傾げた。

「は、ぅえ? お、お前、いつ俺にフラれたんだ?」
「話しかけるなってメッセージきたらフラれたと思うよ!!」

 今度は椿が声を張り上げた。

「……」
「……」

 俺たちは、お互いに口を閉ざす。
 気まずい沈黙の中、俺は懸命に情報を整理しようとした。
 風がビュウっと吹いて、見つめ合う俺たちの頭を冷やす。

「椿……俺たち、ちょっと、落ち着くか」

 椿は短く息を吐き、深呼吸した。

「はい。そうですね」
「俺から、話してもいいか?」
「お願いします」

 俺は緊張で唾を飲み込む。
 でも、こんな時くらい年上らしくしたい。
 先に落ち着いて、椿に話さないと。
 腹に力を込めて、覚悟を決める。

「椿、バイト先の店長さんと付き合ってるんだろ? だから、お前に片想い中の俺は告白もせずフラれたと思った……んだけど」

 俺はそこで眉を寄せて固まった。
 椿が突然、ブハッと吹き出したからだ。

「店長と!? 俺が!? 付き合ってる!?」
「ちょ、お前! こっちが真面目に話してるのに!!」

 抗議したけど、椿はそのままゲラゲラと笑い始めた。肩を震わせ、涙まで浮かべている。

「そんなわけ……! そんなわけないじゃないですかなんでそんな勘違い……!」
「だ、だって」

 俺はカフェの壁に張り付いて、見聞きしたことを全部ぶちまけた。
 常連のお姉さんたちの会話、頭を撫でられて子供っぽく怒ってた椿、それを見て絶望してしまった俺の気持ちまで、全部だ。

 だが、椿の笑いは止まらない。
 終いには、腹を抱えて地面にしゃがみ込んでしまった。

「ないないない! 高校生バイトと付き合うわけない! 店長が付き合ってるのは正社員さん!」

 パタパタと手を振る椿に、俺は目を瞬かせる。
 え? じゃあ、全部勘違いだったってことか?
 急激に恥ずかしくなって、俺は顔が熱くなる。
 冷静に考えれば、椿の言う通りだ。

「あ、そ……そっか。そりゃそうか」

 モゴモゴと声が小さくなってしまった。
 大きく息を吐いて立ち上がった椿は、笑いすぎて滲んだ涙を拭ってる。

「仲がいいのは認めます。店長はすごく優しくて、頼りになってすごくいい人です。いろんな相談にものってくれて……それで……昨日俺が怒ってたのは……」

 説明するうちに笑いを引っ込めた椿は、だんだんと歯切れが悪くなっていく。
 俺に言うべきか迷っているんだろう。
 目線を泳がせた後、長い前髪をぐしゃりと握った。

「店長が『こいつ、今から恋人と初デートなんだ』なんて、常連さんにバラして揶揄ってきたから……」

 少し照れくさそうに告げられた椿の言葉は、俺にはうまく呑み込めなかった。少し落ち着いていた胸に、穴が空いたみたいで悲しくなる。

「昨日、約束してたのは俺なのに……恋人と初デートの予定だったのか?」

 しょげていることを隠しもしない俺に対し、椿は天を仰いだ。

「ねぇ、なんでその解釈になるの? びっくりなんですけど……」
「だって、恋人と初デートって」
「幸哉先輩のことに決まってるじゃないですか」

 椿はまっすぐに俺を見つめた。
 たまに感じていた、俺のことしか見えてないって顔に胸が高鳴る。

「お前の恋人が……俺ってこと?」
「そこからかぁ……あの、俺、幸哉先輩と付き合ってるつもりだったんです」

 俺の頭はフリーズした。
 付き合ってるつもりだった?
 椿が俺と?

 ああでも、俺もそうだ。店長さんと付き合ってるって勘違いするあの瞬間まで、初デートだって浮かれてた。

 脳みそだけじゃなくて表情も体も働かなくなった俺の頬に、椿はそっと触れてきた。その温もりのおかげで、俺の意識は椿に戻っていく。

「キスしてさ、もう一回していいって言われたら……恋人になったって思うじゃないですか」
「……うん。俺も……実は恋人なのかなって……そうだったらいいなって思ってた」

 でも、口約束がなかったから、俺はわからなかった。
 きっと椿には告白なんてなくても、キスしたら付き合うとか、暗黙の了解みたいなのがあったんだ。

「すみません。俺、言葉が足りませんでしたね。グイグイ迫ってたから、気持ちが伝わってると思い込んでたんです」
「俺も……恋人とか付き合うとかそういうの、よくわかんなくて。混乱してた。ごめん」

 なんだか両方が謝り合う変な状況になった。
 それでも椿はへらりと笑って、空気を晴れやかにしてくれる。
 小さく息を吸って、触れている頬を撫でてきた。

「幸哉先輩、俺ね。前からずっと幸哉先輩のこと見てたんです」
「ず、ずっと?」

 衝撃の新事実だ。
 うろたえすぎて後ずさりしそうになったけど、椿は空いてる手で俺の腰を抱き寄せてきた。
 ぽすんっと胸におさまった俺は、身じろぎしかできなくなる。

「スミレ先輩の教室にいくと、いつもずーっと勉強してる幸哉先輩がいた。一人で黙々と、ひたすら勉強に向き合ってる頑張り屋さん」
「ほ、他にやることなくて」
「俺、グシャって机に入ってる満点テストを発見するくらい、幸哉先輩のこと見てたんですよ」
「気づかなかった……」
「集中して勉強してましたもんね」

 椿の言うことには心当たりしかない。
 本当に、ずっと見てくれてたんだ。
 だから俺の名前も知ってたし、いつも満点なことも知っていた。

 じんわりと嬉しさが胸に広がっていく。
 だらしなく頬を緩めてしまう俺に、椿は優しく目を細めた。

「俺なんか見た目にだけ気を遣って、みんなに褒めて褒めてーって言ってんのにさ。満点とっても涼しい顔してる先輩が羨ましかった」
「う、羨ましい?」
「褒められるとか認められるとか、そんなこと関係ないって姿がかっこよくて」

 椿の目には、俺がかっこいい一匹狼風に見えてたのか。びっくりだ。
 そのままのイメージにしときたかったけど、嘘をついてるみたいでムズムズする。
 俺は正直に、心の中ではドス黒い感情が渦巻いていることを話した。

「当たり前に褒められたかったし、認められたかったよ。俺は全然かっこよくない。友達いないから、褒めてもらえなかっただけで」

 自嘲する俺に、椿はパッと明るい笑顔になる。くっきりと大きな目がキラキラと光った。

「褒めてほしかったなら、もっとすごいですよ! だって、褒められてないのに続けられてるんですもん!」
「あ、ありがとう……?」
「なんだー。褒めていいならもっと早く声かければよかったー」

 椿は残念そうに頬を膨らませた。
 それが可愛く見えて、俺は椿の頭を撫でる。
 何もつけていない髪は、サラサラとして触り心地がいい。

「俺は『頑張ったから褒めて』って、嫌味なく明るく言える椿が羨ましかったよ。みんなに好かれてるお前に褒めてもらって、本当に嬉しかった」

 初めて褒めてもらってから、急激に距離が近くなる椿に戸惑っていた。
 でも、たくさん褒めてくれて、近くで笑ってくれる椿の存在に救われていた。

 どんどんどんどん、俺の頭も胸も、椿で埋まっていった。
 頑張ったら、椿が褒めてくれる。
 それは自分で思ってるより大きなことだったみたいで。

「お前がいないと、勉強も頑張れないくらい力をもらってた」

 昨日から、ずっと何もする気にならなかった。
 そりゃそうだよな。俺はすっかり椿に甘やかされて、もう一人じゃ頑張れなくなってたんだから。

「俺も、先輩にフラれたと思ったら……鏡見てもなんもできなかったです。先輩以外に褒めてもらっても、意味ないって」

 椿は頬に触ってくれていた手を、俺の頭に移動させた。
 体を密着させて撫で合うっていう、なんとも不思議な格好になる。
 俺たちは、目線を合わせて同時に笑った。

「頑張れない時もあるよなぁ。ま、椿は元がいいから、頑張らなくてもかっこいいけど」
「頑張れない先輩も、かわいいですよ。たまには0点とって、俺に『悔しい慰めて』って泣きついてください」
「0点なんて、回答する場所間違えたとしか思えないな」
「自信満々ですね」

 ニヤッと楽しげに笑った椿が、顔を近づけてくる。
 俺は自然と目を閉じた。

「椿、お前のおかげだよ」 

 ふわりと花びらが乗るみたいに軽く、唇同士が触れる。
 すぐに顔は離れて、俺は椿に抱きついた。

「俺、椿にちゃんと伝えたいことがあるんだけど」

 肩に顎を乗せると、椿はギュッと抱きしめ直してくれる。
 体温がとても心地いい。

「俺もです」
「先言っていいか?」
「俺も先言いたいです」
「「…………」」

 両方ともの譲れない気持ちが、視線になってぶつかり合う。
 真剣な顔で見つめ合ってるのは、傍から見たら滑稽だろうな。
 そんな風に思っていると、椿がコツンと額を軽くぶつけてくる。

「せーの! でいうのはどうでしょう?」
「小学生みたいだな。……でも、わかった」

 俺がうなずくと、椿が微笑む。
 ああやっぱり、太陽みたいだな。

「「せーの」」

 深呼吸の音が重なる。
 そして。

「「好きです!」」

 青い空に、二つ分の声が吸い込まれた。