褒め上手の後輩にメロついてます

 ファミリーマンションの五階にある一室の、南側にある俺の部屋。
 カーテンを閉め切って、天井のライトが照らすのは、なんの個性もない量産型の部屋だ。

 机で勉強してた俺は手を止める。
 それから手元を……いや、シャーペンを見てニマニマしていた。
 俺が持ってるのはもちろん、椿にもらったシャーペンだ。
 勉強の手を何回止めれば気が済むんだ、このシャーペン。

「こんなのでテストなんか受けたら……0点になっちゃうだろ椿のバカ」

 一人で悪態をついてみても、俺の顔はどうしても笑ってしまう。
 嬉しくて、青いシャーペンを何度も指先で擦ってしまう。
 ツルリと冷たいただの無機物でも、椿が使ってたってだけで愛おしい。

(椿、俺のシャーペンにキスしてたっけ……)

 図書室でのことを思い出して、また胸が跳びはねる。
 ちょっとだけ、と思って俺も持っているシャーペンにキスをした。

「……バカは俺だ」

 やってから正気に戻って、慌ててシャーペンを筆箱に戻す。
 これは危険物だ。
 別のシャーペンをカチカチしながら、俺は深呼吸した。なんとか大騒ぎしている心を落ち着けなければ。

 それにしても、今日は椿のトキメキ攻撃が止まらなくて大変な一日だった。
 シャーペンのこともそうだけど、

『俺の幸哉先輩ですもん!』

 とか、

『俺がいつでも一番、先輩のことすごいと思ってるしいっぱい褒めますから』

 とか。
 なんなんだ。お前は俺の恋人か!

 極め付けは下校中のことだ。

『幸哉先輩、ライソのアカウント教えて』

 そう言って、スマホを差し出してきたのだ。
 あの時のちょっと照れてるキラキラ笑顔がかっこよくて可愛くて。
 俺はどうにかなってしまいそうだった。

(キスして、手を繋いで帰って、連絡先交換までしたらこれはもう恋人なのでは?)

 よく考えたら順序が逆すぎるけど、そんなことどうだっていい。
 女子たちが言ってる「メロついてる」って意味がわかった。
 今、俺は確実に椿にメロついてる。

 そんなことをグルグル考えていると。

 ピコン!
 机に置いていたスマホが珍しく鳴った。
 俺はそれだけで期待して、すぐにスマホを覗き込む。

 《明後日の日曜日、バイト終わったら遊びましょう!》

 期待通りの相手から、期待以上のメッセージがやってきた。
 トーク画面が輝いて見える。

 緊張で震える指を動かして、俺はすぐに返事をした。
 恋は駆け引きだから、少しくらい相手を待たせた方がいいとか聞いたことがある気がするけど。
 そんなん知るか!

 《誘ってくれてありがとう。行きたい》
 《やったー! じゃあ、十四時に待ち合わせましょう! どこ行きたいですか?》
 《どこでもいいって言ったら困るよな。カラオケかゲーセン。俺、あんまり行ったことないから》
 《カラオケいいですね! 二人っきりになれる! カラオケにしましょう!》

 ここまでメッセージで会話して、俺の返信の手は止まった。

「ふ、二人っきりになれるって……椿、俺と二人っきりになりたいのか?」

 とても入力できないひとり言が、俺の口からこぼれ落ちる。

「やっぱり俺と椿って……こ、恋人になってたのか? 遊びに行くっていうか……これは……これはデート……?」

 いや待て。
 好きとも付き合おうとも言われてないし、言ってない。
 それなのに恋人? デート?
 そんなことが果たしてあるのだろうか。
 勘違いだったら、恥ずかしすぎる。

 悩みすぎて返事をしないでいると、椿の方から連続でメッセージが来た。
 なにやらURLが貼り付けてある。

 《ここで待ち合わせしましょう! 俺のバイト先です。早めに着いたら入って待っててください~》

 確かに、カフェのSNSアカウントだ。
 おいしそうなランチプレートやデザートの写真がずらりと並んでいる。

「おしゃれだ……写真だけでおしゃれな場所なのが伝わってくる……ん?」

 木の温もりを感じるカフェの写真を見ながら、ふと教室での会話を思い出した。
 スミレさんたちにバイト先を聞かれて、椿はサラッと逃げていたはずだ。

 《おしゃれなとこだな。でも、バイト先は内緒じゃなかったのか?》
 《先輩は特別! いつでも遊びにきてください! おすすめは店長の気まぐれホットケーキ!》

 すぐに返ってきたこの答えを見て、喜ばないやつがいるか?
 好きな人が、俺にだけ秘密の話をしてくれたんだ。

「俺は……特別……」

 俺はスマホをギュッと握りしめて、筆箱からのぞいている青いシャーペンを見つめる。
 やっぱり、これは恋人なのでは?
 
 ――なんて、浮かれていた一昨日の俺を殴りたい。

 待ちに待った日曜日、俺は椿のバイト先の前にいた。
 いや。バイト先の「前」じゃない。
 カフェの壁に背中を貼り付けて、窓から中をのぞき込んでいる。完全に不審者の姿だ。

 言い訳させてほしい。別に、初めから不審者ごっこをしていたわけじゃない。
 普通に店に入ろうとして、足が止まってしまっただけだ。
 理由は簡単。

(……おしゃれすぎて入りにくい……)

 という、とてつもなく間抜けな理由だ。

 大通りに面している大きなガラス窓からは、中の様子がよく見えた。
 椿が教えてくれたSNSどおりのおしゃれなお店だ。
 木目調の壁にテーブルに椅子、観葉植物、そして清潔感あふれる店員さん。
 談笑しているお客さんまで、全てが写真映えする空間を作り出している気がする。

「あ……椿……」

 グラスを運んでいる椿を、店内で発見した。
 カフェの店の制服なんだろう。白いワイシャツと焦茶のエプロンは、垢抜けている椿によく似合う。

「かっこいい……」

 思わず声が出てしまうくらいかっこいい椿は、カフェの雰囲気に完全に溶け込んでいた。

(それに比べて……)

 俺は自分の姿を見下ろした。

「……はー……」

 ため息しか出ない。
 誰だよ。好きな人と出かけるのに、中学の頃から着てるパーカーとジーンズで来たやつ。

(俺だよー! バカバカバカ! ファミレス行くんじゃねぇんだから! 昨日、マシな服を買いに行けば良かった! 一日中家にいたのに!)

 後悔先に立たず。
 俺は肩掛けカバンの紐をギュッと握りしめた。

「よし、ここで待とう」

 スマホをポケットから取り出した俺は、椿とのトーク画面を開く。
 何も店の中に入らないといけないわけじゃない。
 椿に、店の外で待ってるって連絡入れればいいだけだ。

 そう心に決めた時、カランカランとベルの音がして、女の人が二人出てきた。
 隠れる場所もないけど、俺はなんとなくそのお姉さんたちに背を向けて壁と仲良くする。

「店長さん、相変わらず素敵ね!」
「ほんとほんと! このまま店に通ってたら、お近づきになれないかな?」
「ダメよー。店長さん、あの店員さんと付き合ってるって」
「そうなの? 随分、年が離れてるわね? まぁ店長さん、歳の割に若く見えるからちょうどいいのかしら」

 聞くつもりはなかったけれど、バッチリ聞こえてしまった。

(年の離れた……恋人……?)

 俺は改めてカフェの中を見る。
 店内にはテーブル席の他にカウンター席もあった。
 そのカウンターの内側で、椿は同じ服装をした大人の男の人と談笑している。

 彼の頭の位置は椿と同じか、少し高いくらいに見える。ということは、なかなかの長身だ。
 遠目だから年齢はわからないけど、大人っぽくて優しそうなイケメン……きっとあの人が、さっきのお姉さんたちが言ってた店長なんだろう。

 観察するように店内にいる椿と男の人を見つめていた俺は、パチンッと口を手で押さえた。

「……っ!」

 そうしないと、大声を出しそうだったからだ。

 俺の目には顔を真っ赤にして怒っている椿が映っていた。
 何を話しているかはさっぱりだけど、眉を釣り上げている椿の頭に大きな手が乗る。

 店長らしき彼が、椿の頭を撫でていた。
 宥めるように、優しく。柔らかく。
 頭を撫でられている椿は唇を尖らせていたけど、なんだかとても楽しそうに見えた。
 急に、俺の胸がチクチクと痛み始める。

(店長さんと付き合ってる店員さんって、椿だ)

 椿はコロコロ表情が変わるヤツだけど、怒った顔は見たことがない。
 なんだか子供っぽく不貞腐れてる椿の顔が、

『この人には心を許している』

 って言ってる気がしてしまったんだ。

 でも、それじゃあ俺にしてくれたことはなんだった?
 いっぱい褒めてくれて、抱きしめてくれて、手を繋いで、キスまでしたのに。
 嬉しそうに笑ったり、照れた顔を隠したり。
 それは……俺のことが好きとか、そういうんじゃないってことか。

 色々考えているうちに、頭が熱くなる。胸だけじゃなくて、腹までズンッと重く痛くなってきた。

「……何が恋人同士のデートだよ。浮かれて恥ず……」

 椿の明るさも優しさも本物だと思う。
 すみっこぼっちの俺に気づいて、慰めずにはいられなかったのかもしれない。
 目の前がぼやけてきて、唇が震えた。

「俺なんか……褒めてもらうどころか、名前を呼んでくれる友達もいなかったもんな。そりゃ、同情もするか」

 同情でキスまでするなんて、イケメンの考えることはわかんないな。なんだか笑えてきたよ。

 俺は雫の落ちたスマホ画面に指を滑らせる。
 濡れてるとなかなか反応しなくて時間がかかったけど、なんとか送信した。

 《ごめん、今日行けなくなった》

 それともう一つ、伝えないと。
 なんて言ったらいいだろう。

 《もう話しかけないでくれ》

 もう少し、柔らかい言葉はないかなって思ったけど……もう頭が働かない。

 鼻をすすりながら、俺は親指で画面をタップした。
 送ってしまったそのメッセージは、ナイフみたいに俺と椿の関係を断ち切るだろう。