一緒に勉強した日から、椿は毎日図書室にやってくる。
 いや、図書室にやってくるんじゃない。

「幸哉先輩! 弁当は終わりました? 図書室行きましょう!」

 こうして、わざわざ迎えにくるのだ。
 ぼっちで飯を食ってる俺のところに、陽キャどころか太陽そのものみたいなイケメンがやってくる。

 初めはなんだなんだとざわついていたクラスメイトたちも、最近では気にしなくなっていた。
 そのくらい、当然のように椿はやってくる。
 俺だけはこの状況に全然慣れない。

 窓際すみっこ席に近づいてくる椿と目を合わせないまま、ガサガサと机の中を漁る。
 何を勉強しようかなって考えてると、肩が温かいものに包まれた。

「わ……!」
「今日は何の小テストですか?」

 椿はパーソナルスペースってのものがないのかもしれない。
 俺の肩に腕をかけて、教科書を探る手元を覗き込んできたんだ。

 この距離感にも、俺はまだ慣れない。
 慣れないどころか。日増しにドキドキが増して緊張するようになってる気がする。
 早く離れようと、俺は一番上にあった数学の問題集を引っ張りだした。

「いや、小テストはない……けど」
「ないのに数学の勉強すんの?」
「べ、勉強はやって損はないだろ」

 そう答えながら、俺の心の中はざわっとした。
 ゆっくりと立ち上がり、大きな目をまん丸にして驚いている椿を見上げる。
 もしかして、

『小テストがないなら図書室に行く必要はないから、いかない』

 なんて、言われるんじゃないだろうか。
 何か、勉強する明確な理由を探さないと……と、頭の中がぐるぐるし始めたとき。
 椿が白い歯を見せてキラキラと笑った。

「幸哉先輩、本当にえらいですね! 努力家! 努力の天才!」

 バクンッ。俺の胸から、人体からはしちゃいけないような音がした。
 顔が熱くなってきて、勢いよく顔を俯けてしまう。
 どうしよう、口元が緩む。

 きっと俺は今、誰にも見せられないニヤけ顔になってしまってる。
 誤魔化すために筆箱とノートを抱きしめて、教室の外へと向かった。
 俺が無言になったものだから、椿が慌てて追いかけてくる。

「待ってくださいー!」
「い、急がないと、昼休み、終わるから」

 心臓の音に合わせて早足になる。
 今は顔を見られちゃいけない。

 頑張れ俺の表情筋!
 頑張れ俺の体温調節機能!
 いつも通りの顔に戻してくれ!

 階段の踊り場に差し掛かった時だった。
 必死な願いを俺の体が叶えてくれる前に、ガッシリと手首を掴まれる。
 強く腕を引かれて、力及ばず椿の方を向かされた。

「捕まえた……! もー、足早いですって! 俺なんか悪いこと……言っ……」

 喜びを隠しきれない俺の顔を見て、椿は口を開けたまま固まる。
 俺は居たたまれなくて、慌てて腕を振った。

「は、離せって!」

 全力を出しているはずなのに、椿の手は全然離れない。
 それどころか、手首を掴んでくる力が強くなってきた。
 締め付けられて、痛い。

「つ、椿……っ痛いって」
「ごめん! 幸哉先輩こっちきて!」
「え!? なんだよ!」

 椿は俺の返事なんて待たずに階段を駆け上がった。他の生徒が驚いて振り返るくらいの勢いで、俺たちは足を動かしている。

 カンカンカンカンカンカンッ!

 いつもなら行かない四階まで、一度も止まることなく。二人分の足音を響かせた。
 
 連れてこられたのは、音楽室……の隣にある音楽準備室だ。

 カーテンが締め切られた薄暗く狭い部屋。
 大太鼓、小太鼓、木琴鉄琴などの大きい物から、トライアングル、タンバリン、マラカスなどの小さい物まで、様々な楽器がひしめき合っている。

 俺たち二人が入ったらもう誰も入れない。定員オーバーです、って感じの場所。
 そんな音楽準備室に入った途端、俺は椿に抱きしめられた。
 走ったせいで荒れた呼吸を整える暇なんてありゃしない。

「……っ、つ、椿……?」
「ん、ごめん……なんか、なんか……つい」

 肩に椿の額が乗り、乱れた息遣いが耳元で聞こえた。

 俺は緊張して、全く動けない。
 混乱もしてて、何も考えられなかった。

 椿も何も言わずに、ただ大きな体で俺を包んでいる。

 そんな、よくわからない時間を変化させたのは、椿だった。

「幸哉、先輩……なんか、誰にも見せちゃダメな顔してた」
「ど、どういうことだ?」
「わかんないです。わかんないけど……みんなから隠したくなったんです」
「俺を?」
「はい。変ですよね」

 片腕は腰に回ったまま、椿の顔が俺から離れていく。代わりに、温かい手が頬に触れてきた。
 薄暗くて、椿がどんな表情をしているのかはわからない。
 けれど、すぐ近くで俺のことをまっすぐ見つめてきていることだけはわかった。

「変、なのは……椿じゃなくて、俺だよ」
「どうしてですか?」
「だって、お前に褒められたら嬉しくて……嬉しすぎて、顔上げらんなくなった」

 椿が息を飲む気配がした。
 俺は、何を口走ってるんだろう。
 でも本当のことだから仕方がない。

 今、俺からは椿の表情が見えていない。
 ということは、きっと椿からも俺の顔が見えないはずだ。
 そう高を括って、俺はしっかりと椿を見た。

「ありがとう、椿。俺……俺、頑張ってるから、お前が褒めてくれて嬉しい」
「幸哉先輩……」
「ありがとな。自分が頑張ってるなんて、初めて言った。確かにちょっとこう……よしってなるな」

 自然と笑顔になる。
 俺の表情筋、思ってたより素直だなぁ。
 そんなことを考えていると、頬に触れている手がピクッと動いた。

「かわいい……」
「ん?」

 ついついこぼれ落ちたって感じの椿の声。
 なんて言ったこいつ。

 俺は「かわいい」なんて簡単な単語の意味も全然飲み込めない。信じられないことを言われたことだけはわかる。

「俺、いっぱい幸哉先輩のこと褒めます」
「あ、ありがとう……っ?」

 椿の顔が、吐息が、一気に近くになったと思う間もなく。
 唇に柔らかいものが、一瞬だけ触れた。

(今……え? なに、今のって……!)

 心の底から驚いているのに、全然逃げられない。
 強い力で抱きしめられてるからってだけじゃない。
 何故か、体が磁石みたいに椿にくっついたまま離れようとしないんだ。

「つ、椿……今……」
「嫌でした?」
「い、嫌……? 嫌じゃ、ない」

 そうだ。俺は嫌じゃないから動けないんだ。
 急に後輩からキスされて、全然嫌じゃない。
 ドキドキして、心臓が壊れそうだけど。
 これは嫌なんじゃなくて。

「幸哉先輩、もう一回してもいいですか?」

 鼻先が触れ合い、椿の甘い声が誘ってくる。
 俺は抗えないまま、広い背中に腕を回した。
 二回目のキスは、一瞬じゃなくて、一秒くらいだったと思う。