ペンタブに向かって、何度も線を引いては消す。
明日までの課題を仕上げなければならないのに、どうしても手が止まってしまう。
時計の針は午後十一時を指している。提出まであと十時間しかない。焦りだけが募っていく。
友人たちはみんな、自分のスタイルを持っている。
抽象画に熱中する美弥子、写実的な風景画で評価される朱音、人物の心理を表現することに長けた冴香。
彼女らの作品を見るたびに、自分の作品がいかに平凡で魅力に欠けるかを痛感させられた。
先週の合評会で、美弥子の作品には「力強い」という言葉が、朱音には「繊細」という評価が、冴香には「深い」という賛辞が与えられた。
私の作品に対しては「丁寧ですね」と「技術的には問題ありません」という、どこか空虚な言葉しかなかった。
教授は眼鏡の奥の目を細めて、私の作品を長く見つめた後、こう言った。
「君の作品からは、君自身が見えてこない。技術は確かだが、魂が感じられないんだ」
その言葉が、今も胸に刺さったままだ。
ペンを握る手に汗が滲む。何を描けばいいのかわからない。
正確には、何を描きたいのかがわからない。
技術はそれなりにある方だとは思っている。
構図の作り方も色彩理論も頭では理解している。
デッサンの基礎も、先輩たちから褒められるくらいには身につけた。
でも、心の奥底から湧き出てくるような衝動が感じられなかった。
描くことが義務になり、課題が重荷になり、創造の喜びがどこかへ消えてしまった。
いつからだろう。絵を描くことが楽しくなくなったのは。
高校生の頃は、夢中で絵を描いていた。授業中もノートの隅に落書きをし、帰宅すればすぐにスケッチブックを開いた。描きたいものが溢れていた。
それが美術大学に入学してから、徐々に変わっていった。
周囲の学生たちは皆、才能に溢れているように見えた。
独自の世界観を持ち、明確なメッセージを作品に込めている。私だけが取り残されているような気がした。
背後では、飼い猫のミルクが丸くなって眠っている。
孤独な制作における、唯一の癒やしである。
小さな寝息だけが空気を揺らしていた。
ミルクは三年前、雨の日に公園で拾った猫だった。
段ボール箱の中で震えていた小さな命。
誰も見向きもしない場所で、必死に生きようとしていた。
その姿に、なぜか自分を重ねてしまった。
今ではすっかり大きくなって、私の部屋の主のように振る舞っている。この子がいなければ、私はもっと早く挫折していたかもしれない。
「ねえ、ミルク。私の絵、やっぱりダメかな」
返事があるはずもないのに、つい話しかけてしまう。
その無防備な寝顔に心が和む。
猫には人間の複雑な悩みなど関係ないのだろう。今この瞬間を、ただありのままに生きている。
評価も比較も承認欲求も、そんなものとは無縁の存在。ただ食べて、眠って、遊んで、甘えて。それだけで満ち足りている。
液晶画面に視線を戻す。
自分の線は薄っぺらく感じられた。
まるで誰かの作品を無意識に模写しているような、どこかで見たことがあるような感じ。
美弥子の大胆な色使いを真似てみようとしても、朱音の緻密な描写を取り入れようとしても、冴香の心理描写を参考にしようとしても、すべてがちぐはぐで、私自身の作品にはならなかった。
誰かの真似ばかりで、それは本当に私が描きたいものだとは思えなかった。
一本の線を引くのにも、これでいいのかという疑問が頭をよぎる。消しては描き、描いては消し、その繰り返しで時間が過ぎていく。
画面の隅には、今まで描いては破棄したレイヤーの数が表示されている。53。今日だけで53回も描き直している。
母からのメッセージが携帯に届いた。
「課題、順調? 無理しないでね」
私立の美大は学費が高い。両親は何も言わないが、弟の進学も控えている。経済的な負担をかけていることは分かっている。
それなのに、こんな平凡な作品しか生み出せない自分が情けなかった。
返信を打つ手が震える。
「うん、大丈夫。もうすぐ終わるよ」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。
疲れた指先をペンに乗せたまま、いつの間にか眠り込んでいた。
夢の中で、私はミルクとひとつになっていた。
最初は戸惑った。自分の手足が小さく、軽やかになっていることに気づいた。
床に手をついて立ち上がろうとすると、四本の足で器用にバランスを取っている自分がいた。
鏡に映った姿は、紛れもなくミルクだった。白い毛並み、ピンク色の鼻、琥珀色の瞳。
人間としての記憶は残っているのに、身体は完全に猫になっていた。
最初の数分は混乱した。どうやって動けばいいのか、どうやってバランスを取ればいいのか。
でも、不思議なことに、身体が勝手に動いてくれた。猫の本能が、私の意識を導いてくれる。
軽やかな身体で部屋の床を駆け、壁を登り、窓の外を覗く。
猫の身体能力は人間とは比較にならない。
重力など存在しないかのように駆け上がり、棚の上を綱渡りのように歩く。
高い場所から見下ろす部屋は、いつもと違った景色に見えた。
いつも座っている机が、こんなに小さく見えるなんて……
床に散らばった画材が、巨大な障害物のように感じられる。
猫の目で見ると、光は柔らかく揺れ、影は踊るように動いていた。空気の流れまで見えるような気がした。
人間の視覚とは明らかに違う。色の見え方が変わり、動きに対する反応が鋭くなっている。
窓の外の風に揺れる木の葉一枚一枚は、まるで生き物のように息づいているように見えた。
街灯の光が葉を透過して、繊細な葉脈の模様を浮かび上がらせている。その美しさに、思わず息を呑んだ。
こんな風景が、毎日すぐそこにあったのに、私は一度も気づかなかった。
この感覚の違いに戸惑いながらも、私は猫として部屋を探索し続けた。
人間だった時には気づかなかった部屋の細部が、新しい発見となって次々と現れた。
壁の隙間に潜む小さな虫、床の奥から微かに漂うほこりのにおい、天井の木材が湿度の変化で軋む音。
嗅覚も聴覚も、人間の時とは比べ物にならないほど鋭敏だった。
隣の部屋から聞こえてくる時計の秒針の音、壁の中を流れる水道管の水の音、遠くで鳴いている別の猫の声。
すべてが明瞭に、立体的に聞こえてくる。
そして何より、世界に対する感じ方が違った。
人間の時は、常に何かを考えていた。評価、比較、不安、焦燥。頭の中はいつも言葉で埋め尽くされていた。
でも、猫として世界を感じる今、そういった思考がない。
ただ、感じる。ただ、存在する。ただ、今この瞬間を生きる。
それだけで、こんなにも世界は豊かで、美しく、刺激的だった。
猫の感覚で感じる世界は、はるかに刺激的だった。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、床に複雑な模様を描いている。その陰影の繊細さに心を奪われた。
これが、私が求めていた感覚なのかもしれない。
技術でも理論でもなく、ただ純粋に世界を感じ取る力……
気づくと私の手、いや、ミルクの前足は、ペンタブの上を滑っていた。
最初は偶然だと思った。猫特有の好奇心で、光る画面をいじっているのだろうと。
でも、ペンタブレットの表面に引かれた線は、なんと、宙に浮かび上がってきたのだ。
現実ではありえない光景だ。デジタルの線が実体を持って空中に漂うだなんて。
糸のような光はふわりと宙を舞い、ミルク(私)はそれを追いかけた。
猫としての本能が目覚める。動くものを追いかけたい、遊びたい、捕まえたい。
計算も躊躇もなく、ただ本能のままに。
跳ね、掴み、舌で舐め、そして部屋中に線を散らしていく。
光る線を叩くと線はさらに細かく分散し、星屑のように部屋全体に散らばった。
その線は現実の壁や床に模様として刻まれ、淡い花や星のかけらとなって光っていた。
壁に触れた線は、薄紫色の小さな花になった。
それは朝顔にも似ているが、もっと幻想的で、この世のものとは思えない美しさだった。花びらの一枚一枚が微かに脈動し、生命を宿しているようだった。
床に落ちた線は、金色の星座となって輝いた。
オリオン座でもカシオペアでもない、私だけの星座。ミルクの足跡が描く、新しい天空の物語。
天井に届いた線は、銀色の雲となって漂った。
その雲はゆっくりと形を変え、鳥になり、魚になり、また別の何かに変わっていく。
部屋全体が幻想的な光に包まれていく。
こんな世界を、私は求めていたのかもしれない。
誰かの評価も、技術的な正しさも、何も気にしない世界。ただ純粋に、表現する喜びだけが存在する場所。
胸の奥が震えるのを感じた。
「これを描きたかったのかも……」
技術も理論も構図もすべてを忘れ、ただ純粋に表現する喜び。猫のように自由で、束縛されない創造の歓び。
ペンタブレットから生まれた線は、どれも生命力に満ちていた。計算されていない、いや、計算などいらない自然で美しい線。
ミルクの動きそのものが、素直な表現となって現れていた。
私は夢中で線を引き続けた。
窓辺には青い蝶が舞い、本棚には緑の蔦が絡まり、机の上には虹色の泉が湧いた。
すべてが有機的に繋がり、部屋全体がひとつの作品になっていく。
これが、私が本当に描きたかったものだ。
頭で考えるのではなく、心で感じるままに。
評価を恐れるのではなく、ただ表現することを楽しむ。
猫として、私は自由だった。
でも、生まれてきた線は、必ずしも美しいものばかりではなかった。
次に引かれた線は黒。
それまでの光る線とは対照的に、黒い線は光を吸い込むように暗く、重々しかった。
最初は細く、控えめだった黒い線が、みるみるうちに太く、濃く、部屋を侵食し始めた。
鋭く、重く、部屋の隅から隅へと広がり、闇として私を覆おうとした。
美しい花々や星座を覆い隠していき、部屋全体を不安と絶望の色に染めていった。
薄紫の花は枯れ、金色の星座は消え、銀色の雲は重い嵐雲に変わっていく。
私(ミルク)は怯え、低く唸った。
猫の本能は危険を感じ取った。毛が逆立ち、背中が弓なりに反る。
目に見えない敵に対峙するような緊張感が小さな身体を支配した。
心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅く、速くなる。
逃げたい。でも、どこへ。
私は直感的に悟った。その黒い線は──私自身の恐れ。失敗への不安。
何度描いても、納得いく作品ができない焦燥感。
他の生徒の作品と比較されるたびに感じる劣等感。
笑われるかもしれないという怯え。
自分の作品を評価されることへの根深い恐怖心。
将来への恐怖、才能への疑問。
周囲からの期待と失望。
経済的な負担を家族にかけていることへの罪悪感。
それらすべてが、形を持って現れた。
黒い線の中から、声が聞こえてくる。
「お前には才能がない」
「技術だけで、心がない」
「誰も、お前の作品なんて見たくない」
「両親の金を無駄にしているだけだ」
「諦めろ。お前には無理だ」
教授の声、友人たちの声、両親の声、そして何より、私自身の声。
黒い線は生き物のように蠢き、部屋中を這い回る。
星座を消し、天井の雲を重い嵐雲に変えていく。
窓辺の蝶は黒い影に飲み込まれ、本棚の蔦は枯れ果て、机の泉は濁った沼になった。
部屋の空気が重くなり、息苦しさを感じた。
壁が迫ってくるような圧迫感。天井が落ちてくるような恐怖。
猫の小さな身体では、この巨大な闇に対抗できない。
私は隅に追い詰められ、震えながら闇を見つめていた。
このまま飲み込まれてしまうのだろうか。
光も希望も、すべて消えてしまうのだろうか。
夢の中でありながら、私は人間としての意識を取り戻していた。
でも、猫としての感覚も失われていなかった。
二つの意識が、二つの視点が、ひとつに溶け合っていく。
人間の理性と、猫の本能。
人間の複雑さと、猫の純粋さ。
人間の不安と、猫の信頼。
私はミルクと心をひとつにして、柔らかな線を引いた。
黒い塊を打ち消すためではない。
戦うためでもない。
恐れを、自分の一部として受け入れるために──
黒い線を包み込むように、私たちは優しい曲線を描いていった。
まるで傷ついた動物を慰めるように、そっと撫でるように。
恐れもまた、自分の一部なのだと受け入れるように。
最初は抵抗があった。黒い線は暴れ、拒絶し、さらに濃く、鋭くなろうとした。
でも、私たちは諦めなかった。
何度も何度も、優しい線で包み込んでいく。
失敗への不安があるからこそ、より良い作品を作りたいと思える。
評価への恐れがあるからこそ、人に伝わる表現を模索できる。
才能への疑問があるからこそ、努力を続けることができる。
罪悪感があるからこそ、感謝の気持ちを忘れない。
すべての負の感情には、それなりの意味と価値がある。
それは弱さではなく、人間らしさだ。
完璧な人間などいない。完璧な作品など存在しない。
不完全だからこそ、成長できる。
傷があるからこそ、美しい。
ペンから流れ出る線は、もはや人間だけのものでも猫だけのものでもなかった。
両方の感性が融合した、新しい表現になっていた。
すると、黒は次第に溶け、それを包み込む暖かい光によって、黒い線はむしろ他の色を引き立てるための陰影となり、作品に深みを与える要素となっていった。
花は再び咲いたが、今度は完璧な花ではなかった。いくつかの花びらは欠け、茎は少し曲がっている。でも、だからこそ、生命を感じさせた。
星座は戻ってきたが、いくつかの星は暗く、輝きを失っている。でも、明るい星との対比が、かえって美しさを際立たせた。
雲も戻ってきたが、嵐の名残が影として残っている。でも、その影があるからこそ、光の価値が分かる。
完璧ではない。でも、それでいい。
いや、完璧じゃないからこそ、いい。
部屋全体が、光と影の調和に包まれた。
美しさと醜さ、希望と絶望、喜びと悲しみ。
すべてが共存している。
それが、人生だ。
それが、芸術だ。
私は目を覚ました。
東の空は薄紫色に染まり、街並みのシルエットがぼんやりと浮かんでいた。
夜が明けようとしている。
ペンタブの画面には、夢の中で描いた優しい曲線がまだ、静かに光を湛えていた。
その線には迷いがなく、自信に満ちていた。
生きているように、自然に、そして確かに存在していた。
夢の中で描いた線が、本当に画面に残っている。
いや、正確には、夢の中の線とは違う。でも、その精神は確かに受け継がれていた。
膝の上でミルクが小さく喉を鳴らす。
体温と振動が、夢の余韻を伝えてくる。
琥珀色の瞳が、優しく私を見上げている。
「ありがとう、ミルク」
私は深呼吸をひとつして、ペンを握った。
手の震えは止まっていた。
心の奥から湧き出るものだけを、指先に託す。
線が流れ出る。
それは完璧ではない。時々よろめき、時々途切れる。
でも、それでいい。
それが、私の線だから。
絵は、他人と比べるものではない。自分の内面と向き合い、そこから生まれるものをただ受け止め、形にするもの。
美弥子には美弥子の表現がある。
朱音には朱音の世界がある。
冴香には冴香の物語がある。
そして、私には私の声がある。
それは誰とも違う、私だけの声。
完璧じゃなくても、評価されなくても、それでも表現したいと思う心。
それこそが、創造の原点なのかもしれない。
画面の中で、作品が形になっていく。
光と影が織りなす、新しい世界。
花は不完全に咲き、星は不規則に瞬き、雲は不安定に流れる。
でも、全体として見ると、確かな調和がある。
それは技術で計算されたものではなく、心が生み出した自然な美しさだった。
今日も、私はミルクと一緒に、その静かな創造の時間に身を委ねる。
光と影、恐れと歓び。すべてを抱えながら、線は未来へと続いていく。
窓の外では、街が目覚め始めていた。
新しい一日の始まり。
そして、新しい私の始まり。
時計を見ると、提出まであと五時間。
十分な時間だ。
いや、もう時間は関係ない。
完成するまで描き続ける。
それが今の私にできることだから。
ミルクが小さく鳴いて、私の手に前足を乗せてくる。
「一緒に、最後まで描こうね」
私は微笑んで、再びペンを走らせた。
線は画面の上を自由に駆け、新しい世界を紡ぎ出していく。
それは誰の真似でもない、私自身の表現。
不完全で、未熟で、でも確かに生きている線。
その線の先に、何が待っているのかはわからない。
評価されるかもしれないし、されないかもしれない。
でも、それでもいい。
大切なのは、表現する喜びを取り戻したこと。
自分の声で語る勇気を持てたこと。
恐れと共に生きる覚悟ができたこと。
朝日が部屋に差し込み、画面を照らす。
光の中で、私の作品が輝いている。
完璧ではない。
でも、私らしい。
それで、十分。
ミルクが私の膝の上で丸くなり、再び眠りについた。
その穏やかな寝息を聞きながら、私は創造の時間を楽しんだ。
もう迷わない。
もう恐れない。
ただ、自分であり続ける。
それが、私が選んだ道だから。
課題を提出したのは、締め切りの一時間前だった。
徹夜明けで目の下にはクマができていたが、不思議と疲れは感じなかった。
むしろ、清々しい気持ちだった。
「間に合った?」
美弥子が心配そうに声をかけてくれた。
「うん、なんとか」
「よかった。昨日、メッセージ送ったんだけど、返事なかったから心配してたんだ」
「ごめん、集中しすぎてて気づかなかった」
美弥子は私の顔をじっと見て、少し驚いたような表情を浮かべた。
「なんか、雰囲気変わったね」
「そう?」
「うん。なんていうか、吹っ切れたみたいな」
吹っ切れた、か。
確かに、何かが変わった気がする。
恐れが消えたわけではない。
不安もまだある。
でも、それを抱えながら前に進めるようになった。
合評会は来週だ。
教授や他の学生たちが、私の作品をどう評価するかはわからない。
でも、もう怖くない。
これが今の私にできる、最高の表現だから。
評価されてもされなくても、この作品は私の宝物だ。
帰り道、空を見上げた。
青空に白い雲が流れている。
その雲の形が、夢の中で見た銀色の雲に似ている気がした。
微笑みながら、私は家路についた。
ミルクが、きっと待っているから。
私の最高のパートナーが、いつものように出迎えてくれるから。
そして明日も、私たちは一緒に、新しい世界を描き出していく。
光と影を抱きしめながら、未来へと続く線を引いていく。
それが、私の選んだ道。
クリエーターとしての、私の人生。
了
明日までの課題を仕上げなければならないのに、どうしても手が止まってしまう。
時計の針は午後十一時を指している。提出まであと十時間しかない。焦りだけが募っていく。
友人たちはみんな、自分のスタイルを持っている。
抽象画に熱中する美弥子、写実的な風景画で評価される朱音、人物の心理を表現することに長けた冴香。
彼女らの作品を見るたびに、自分の作品がいかに平凡で魅力に欠けるかを痛感させられた。
先週の合評会で、美弥子の作品には「力強い」という言葉が、朱音には「繊細」という評価が、冴香には「深い」という賛辞が与えられた。
私の作品に対しては「丁寧ですね」と「技術的には問題ありません」という、どこか空虚な言葉しかなかった。
教授は眼鏡の奥の目を細めて、私の作品を長く見つめた後、こう言った。
「君の作品からは、君自身が見えてこない。技術は確かだが、魂が感じられないんだ」
その言葉が、今も胸に刺さったままだ。
ペンを握る手に汗が滲む。何を描けばいいのかわからない。
正確には、何を描きたいのかがわからない。
技術はそれなりにある方だとは思っている。
構図の作り方も色彩理論も頭では理解している。
デッサンの基礎も、先輩たちから褒められるくらいには身につけた。
でも、心の奥底から湧き出てくるような衝動が感じられなかった。
描くことが義務になり、課題が重荷になり、創造の喜びがどこかへ消えてしまった。
いつからだろう。絵を描くことが楽しくなくなったのは。
高校生の頃は、夢中で絵を描いていた。授業中もノートの隅に落書きをし、帰宅すればすぐにスケッチブックを開いた。描きたいものが溢れていた。
それが美術大学に入学してから、徐々に変わっていった。
周囲の学生たちは皆、才能に溢れているように見えた。
独自の世界観を持ち、明確なメッセージを作品に込めている。私だけが取り残されているような気がした。
背後では、飼い猫のミルクが丸くなって眠っている。
孤独な制作における、唯一の癒やしである。
小さな寝息だけが空気を揺らしていた。
ミルクは三年前、雨の日に公園で拾った猫だった。
段ボール箱の中で震えていた小さな命。
誰も見向きもしない場所で、必死に生きようとしていた。
その姿に、なぜか自分を重ねてしまった。
今ではすっかり大きくなって、私の部屋の主のように振る舞っている。この子がいなければ、私はもっと早く挫折していたかもしれない。
「ねえ、ミルク。私の絵、やっぱりダメかな」
返事があるはずもないのに、つい話しかけてしまう。
その無防備な寝顔に心が和む。
猫には人間の複雑な悩みなど関係ないのだろう。今この瞬間を、ただありのままに生きている。
評価も比較も承認欲求も、そんなものとは無縁の存在。ただ食べて、眠って、遊んで、甘えて。それだけで満ち足りている。
液晶画面に視線を戻す。
自分の線は薄っぺらく感じられた。
まるで誰かの作品を無意識に模写しているような、どこかで見たことがあるような感じ。
美弥子の大胆な色使いを真似てみようとしても、朱音の緻密な描写を取り入れようとしても、冴香の心理描写を参考にしようとしても、すべてがちぐはぐで、私自身の作品にはならなかった。
誰かの真似ばかりで、それは本当に私が描きたいものだとは思えなかった。
一本の線を引くのにも、これでいいのかという疑問が頭をよぎる。消しては描き、描いては消し、その繰り返しで時間が過ぎていく。
画面の隅には、今まで描いては破棄したレイヤーの数が表示されている。53。今日だけで53回も描き直している。
母からのメッセージが携帯に届いた。
「課題、順調? 無理しないでね」
私立の美大は学費が高い。両親は何も言わないが、弟の進学も控えている。経済的な負担をかけていることは分かっている。
それなのに、こんな平凡な作品しか生み出せない自分が情けなかった。
返信を打つ手が震える。
「うん、大丈夫。もうすぐ終わるよ」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。
疲れた指先をペンに乗せたまま、いつの間にか眠り込んでいた。
夢の中で、私はミルクとひとつになっていた。
最初は戸惑った。自分の手足が小さく、軽やかになっていることに気づいた。
床に手をついて立ち上がろうとすると、四本の足で器用にバランスを取っている自分がいた。
鏡に映った姿は、紛れもなくミルクだった。白い毛並み、ピンク色の鼻、琥珀色の瞳。
人間としての記憶は残っているのに、身体は完全に猫になっていた。
最初の数分は混乱した。どうやって動けばいいのか、どうやってバランスを取ればいいのか。
でも、不思議なことに、身体が勝手に動いてくれた。猫の本能が、私の意識を導いてくれる。
軽やかな身体で部屋の床を駆け、壁を登り、窓の外を覗く。
猫の身体能力は人間とは比較にならない。
重力など存在しないかのように駆け上がり、棚の上を綱渡りのように歩く。
高い場所から見下ろす部屋は、いつもと違った景色に見えた。
いつも座っている机が、こんなに小さく見えるなんて……
床に散らばった画材が、巨大な障害物のように感じられる。
猫の目で見ると、光は柔らかく揺れ、影は踊るように動いていた。空気の流れまで見えるような気がした。
人間の視覚とは明らかに違う。色の見え方が変わり、動きに対する反応が鋭くなっている。
窓の外の風に揺れる木の葉一枚一枚は、まるで生き物のように息づいているように見えた。
街灯の光が葉を透過して、繊細な葉脈の模様を浮かび上がらせている。その美しさに、思わず息を呑んだ。
こんな風景が、毎日すぐそこにあったのに、私は一度も気づかなかった。
この感覚の違いに戸惑いながらも、私は猫として部屋を探索し続けた。
人間だった時には気づかなかった部屋の細部が、新しい発見となって次々と現れた。
壁の隙間に潜む小さな虫、床の奥から微かに漂うほこりのにおい、天井の木材が湿度の変化で軋む音。
嗅覚も聴覚も、人間の時とは比べ物にならないほど鋭敏だった。
隣の部屋から聞こえてくる時計の秒針の音、壁の中を流れる水道管の水の音、遠くで鳴いている別の猫の声。
すべてが明瞭に、立体的に聞こえてくる。
そして何より、世界に対する感じ方が違った。
人間の時は、常に何かを考えていた。評価、比較、不安、焦燥。頭の中はいつも言葉で埋め尽くされていた。
でも、猫として世界を感じる今、そういった思考がない。
ただ、感じる。ただ、存在する。ただ、今この瞬間を生きる。
それだけで、こんなにも世界は豊かで、美しく、刺激的だった。
猫の感覚で感じる世界は、はるかに刺激的だった。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、床に複雑な模様を描いている。その陰影の繊細さに心を奪われた。
これが、私が求めていた感覚なのかもしれない。
技術でも理論でもなく、ただ純粋に世界を感じ取る力……
気づくと私の手、いや、ミルクの前足は、ペンタブの上を滑っていた。
最初は偶然だと思った。猫特有の好奇心で、光る画面をいじっているのだろうと。
でも、ペンタブレットの表面に引かれた線は、なんと、宙に浮かび上がってきたのだ。
現実ではありえない光景だ。デジタルの線が実体を持って空中に漂うだなんて。
糸のような光はふわりと宙を舞い、ミルク(私)はそれを追いかけた。
猫としての本能が目覚める。動くものを追いかけたい、遊びたい、捕まえたい。
計算も躊躇もなく、ただ本能のままに。
跳ね、掴み、舌で舐め、そして部屋中に線を散らしていく。
光る線を叩くと線はさらに細かく分散し、星屑のように部屋全体に散らばった。
その線は現実の壁や床に模様として刻まれ、淡い花や星のかけらとなって光っていた。
壁に触れた線は、薄紫色の小さな花になった。
それは朝顔にも似ているが、もっと幻想的で、この世のものとは思えない美しさだった。花びらの一枚一枚が微かに脈動し、生命を宿しているようだった。
床に落ちた線は、金色の星座となって輝いた。
オリオン座でもカシオペアでもない、私だけの星座。ミルクの足跡が描く、新しい天空の物語。
天井に届いた線は、銀色の雲となって漂った。
その雲はゆっくりと形を変え、鳥になり、魚になり、また別の何かに変わっていく。
部屋全体が幻想的な光に包まれていく。
こんな世界を、私は求めていたのかもしれない。
誰かの評価も、技術的な正しさも、何も気にしない世界。ただ純粋に、表現する喜びだけが存在する場所。
胸の奥が震えるのを感じた。
「これを描きたかったのかも……」
技術も理論も構図もすべてを忘れ、ただ純粋に表現する喜び。猫のように自由で、束縛されない創造の歓び。
ペンタブレットから生まれた線は、どれも生命力に満ちていた。計算されていない、いや、計算などいらない自然で美しい線。
ミルクの動きそのものが、素直な表現となって現れていた。
私は夢中で線を引き続けた。
窓辺には青い蝶が舞い、本棚には緑の蔦が絡まり、机の上には虹色の泉が湧いた。
すべてが有機的に繋がり、部屋全体がひとつの作品になっていく。
これが、私が本当に描きたかったものだ。
頭で考えるのではなく、心で感じるままに。
評価を恐れるのではなく、ただ表現することを楽しむ。
猫として、私は自由だった。
でも、生まれてきた線は、必ずしも美しいものばかりではなかった。
次に引かれた線は黒。
それまでの光る線とは対照的に、黒い線は光を吸い込むように暗く、重々しかった。
最初は細く、控えめだった黒い線が、みるみるうちに太く、濃く、部屋を侵食し始めた。
鋭く、重く、部屋の隅から隅へと広がり、闇として私を覆おうとした。
美しい花々や星座を覆い隠していき、部屋全体を不安と絶望の色に染めていった。
薄紫の花は枯れ、金色の星座は消え、銀色の雲は重い嵐雲に変わっていく。
私(ミルク)は怯え、低く唸った。
猫の本能は危険を感じ取った。毛が逆立ち、背中が弓なりに反る。
目に見えない敵に対峙するような緊張感が小さな身体を支配した。
心臓が早鐘を打つ。呼吸が浅く、速くなる。
逃げたい。でも、どこへ。
私は直感的に悟った。その黒い線は──私自身の恐れ。失敗への不安。
何度描いても、納得いく作品ができない焦燥感。
他の生徒の作品と比較されるたびに感じる劣等感。
笑われるかもしれないという怯え。
自分の作品を評価されることへの根深い恐怖心。
将来への恐怖、才能への疑問。
周囲からの期待と失望。
経済的な負担を家族にかけていることへの罪悪感。
それらすべてが、形を持って現れた。
黒い線の中から、声が聞こえてくる。
「お前には才能がない」
「技術だけで、心がない」
「誰も、お前の作品なんて見たくない」
「両親の金を無駄にしているだけだ」
「諦めろ。お前には無理だ」
教授の声、友人たちの声、両親の声、そして何より、私自身の声。
黒い線は生き物のように蠢き、部屋中を這い回る。
星座を消し、天井の雲を重い嵐雲に変えていく。
窓辺の蝶は黒い影に飲み込まれ、本棚の蔦は枯れ果て、机の泉は濁った沼になった。
部屋の空気が重くなり、息苦しさを感じた。
壁が迫ってくるような圧迫感。天井が落ちてくるような恐怖。
猫の小さな身体では、この巨大な闇に対抗できない。
私は隅に追い詰められ、震えながら闇を見つめていた。
このまま飲み込まれてしまうのだろうか。
光も希望も、すべて消えてしまうのだろうか。
夢の中でありながら、私は人間としての意識を取り戻していた。
でも、猫としての感覚も失われていなかった。
二つの意識が、二つの視点が、ひとつに溶け合っていく。
人間の理性と、猫の本能。
人間の複雑さと、猫の純粋さ。
人間の不安と、猫の信頼。
私はミルクと心をひとつにして、柔らかな線を引いた。
黒い塊を打ち消すためではない。
戦うためでもない。
恐れを、自分の一部として受け入れるために──
黒い線を包み込むように、私たちは優しい曲線を描いていった。
まるで傷ついた動物を慰めるように、そっと撫でるように。
恐れもまた、自分の一部なのだと受け入れるように。
最初は抵抗があった。黒い線は暴れ、拒絶し、さらに濃く、鋭くなろうとした。
でも、私たちは諦めなかった。
何度も何度も、優しい線で包み込んでいく。
失敗への不安があるからこそ、より良い作品を作りたいと思える。
評価への恐れがあるからこそ、人に伝わる表現を模索できる。
才能への疑問があるからこそ、努力を続けることができる。
罪悪感があるからこそ、感謝の気持ちを忘れない。
すべての負の感情には、それなりの意味と価値がある。
それは弱さではなく、人間らしさだ。
完璧な人間などいない。完璧な作品など存在しない。
不完全だからこそ、成長できる。
傷があるからこそ、美しい。
ペンから流れ出る線は、もはや人間だけのものでも猫だけのものでもなかった。
両方の感性が融合した、新しい表現になっていた。
すると、黒は次第に溶け、それを包み込む暖かい光によって、黒い線はむしろ他の色を引き立てるための陰影となり、作品に深みを与える要素となっていった。
花は再び咲いたが、今度は完璧な花ではなかった。いくつかの花びらは欠け、茎は少し曲がっている。でも、だからこそ、生命を感じさせた。
星座は戻ってきたが、いくつかの星は暗く、輝きを失っている。でも、明るい星との対比が、かえって美しさを際立たせた。
雲も戻ってきたが、嵐の名残が影として残っている。でも、その影があるからこそ、光の価値が分かる。
完璧ではない。でも、それでいい。
いや、完璧じゃないからこそ、いい。
部屋全体が、光と影の調和に包まれた。
美しさと醜さ、希望と絶望、喜びと悲しみ。
すべてが共存している。
それが、人生だ。
それが、芸術だ。
私は目を覚ました。
東の空は薄紫色に染まり、街並みのシルエットがぼんやりと浮かんでいた。
夜が明けようとしている。
ペンタブの画面には、夢の中で描いた優しい曲線がまだ、静かに光を湛えていた。
その線には迷いがなく、自信に満ちていた。
生きているように、自然に、そして確かに存在していた。
夢の中で描いた線が、本当に画面に残っている。
いや、正確には、夢の中の線とは違う。でも、その精神は確かに受け継がれていた。
膝の上でミルクが小さく喉を鳴らす。
体温と振動が、夢の余韻を伝えてくる。
琥珀色の瞳が、優しく私を見上げている。
「ありがとう、ミルク」
私は深呼吸をひとつして、ペンを握った。
手の震えは止まっていた。
心の奥から湧き出るものだけを、指先に託す。
線が流れ出る。
それは完璧ではない。時々よろめき、時々途切れる。
でも、それでいい。
それが、私の線だから。
絵は、他人と比べるものではない。自分の内面と向き合い、そこから生まれるものをただ受け止め、形にするもの。
美弥子には美弥子の表現がある。
朱音には朱音の世界がある。
冴香には冴香の物語がある。
そして、私には私の声がある。
それは誰とも違う、私だけの声。
完璧じゃなくても、評価されなくても、それでも表現したいと思う心。
それこそが、創造の原点なのかもしれない。
画面の中で、作品が形になっていく。
光と影が織りなす、新しい世界。
花は不完全に咲き、星は不規則に瞬き、雲は不安定に流れる。
でも、全体として見ると、確かな調和がある。
それは技術で計算されたものではなく、心が生み出した自然な美しさだった。
今日も、私はミルクと一緒に、その静かな創造の時間に身を委ねる。
光と影、恐れと歓び。すべてを抱えながら、線は未来へと続いていく。
窓の外では、街が目覚め始めていた。
新しい一日の始まり。
そして、新しい私の始まり。
時計を見ると、提出まであと五時間。
十分な時間だ。
いや、もう時間は関係ない。
完成するまで描き続ける。
それが今の私にできることだから。
ミルクが小さく鳴いて、私の手に前足を乗せてくる。
「一緒に、最後まで描こうね」
私は微笑んで、再びペンを走らせた。
線は画面の上を自由に駆け、新しい世界を紡ぎ出していく。
それは誰の真似でもない、私自身の表現。
不完全で、未熟で、でも確かに生きている線。
その線の先に、何が待っているのかはわからない。
評価されるかもしれないし、されないかもしれない。
でも、それでもいい。
大切なのは、表現する喜びを取り戻したこと。
自分の声で語る勇気を持てたこと。
恐れと共に生きる覚悟ができたこと。
朝日が部屋に差し込み、画面を照らす。
光の中で、私の作品が輝いている。
完璧ではない。
でも、私らしい。
それで、十分。
ミルクが私の膝の上で丸くなり、再び眠りについた。
その穏やかな寝息を聞きながら、私は創造の時間を楽しんだ。
もう迷わない。
もう恐れない。
ただ、自分であり続ける。
それが、私が選んだ道だから。
課題を提出したのは、締め切りの一時間前だった。
徹夜明けで目の下にはクマができていたが、不思議と疲れは感じなかった。
むしろ、清々しい気持ちだった。
「間に合った?」
美弥子が心配そうに声をかけてくれた。
「うん、なんとか」
「よかった。昨日、メッセージ送ったんだけど、返事なかったから心配してたんだ」
「ごめん、集中しすぎてて気づかなかった」
美弥子は私の顔をじっと見て、少し驚いたような表情を浮かべた。
「なんか、雰囲気変わったね」
「そう?」
「うん。なんていうか、吹っ切れたみたいな」
吹っ切れた、か。
確かに、何かが変わった気がする。
恐れが消えたわけではない。
不安もまだある。
でも、それを抱えながら前に進めるようになった。
合評会は来週だ。
教授や他の学生たちが、私の作品をどう評価するかはわからない。
でも、もう怖くない。
これが今の私にできる、最高の表現だから。
評価されてもされなくても、この作品は私の宝物だ。
帰り道、空を見上げた。
青空に白い雲が流れている。
その雲の形が、夢の中で見た銀色の雲に似ている気がした。
微笑みながら、私は家路についた。
ミルクが、きっと待っているから。
私の最高のパートナーが、いつものように出迎えてくれるから。
そして明日も、私たちは一緒に、新しい世界を描き出していく。
光と影を抱きしめながら、未来へと続く線を引いていく。
それが、私の選んだ道。
クリエーターとしての、私の人生。
了



