ログインパスワード『111411』


『鍵は大切な誰かと誰かの思いを繋ぐために、生まれたんだってさ』

 頭の中で、お兄ちゃんの声がした。
 お父さんが家族みんなを連れてってくれた車を降りたあの日。
 小学1年の手が、4才の僕のまた小さな手を握り導いて、あれは、一年前に近くの海に行ったときの話だ。
 ログインパスワード。
 海に落ちたとき、確かに声がした。
 111411。
 111411。
 111411。
 抱き締められた暖かな腕の中で、その声が誰かなのかは、知ってる。
 一緒に海に沈んでいったはずなのに、気づくと海に落ちる前の場所にいた。
 僕を助けてくれたアキお姉ちゃんは一緒にいたのに、海に一緒に落ちたはずのお兄ちゃんはどこにもいなくて、あれから、一度も会えていない。

「お兄ちゃんはね、お星さまに会いに行ったの」

 病院のベッドに横になっていた僕に、ママはそう言った。

「何で突然会いに行ったの?」

 僕が聞くと、ママは困った顔をしてパパを見た。
 するとパパが  

「星のね、お勉強に行ったんだ。お兄ちゃん、星好きだっただろ? それで、しばらくは……そっちに住むんだって」

 優しく微笑んで僕にそう言ったけど、僕は全然納得いかなかった。お兄ちゃんは確かに星が好きだった、だけど、僕やパパやママを置いてどこかへ行くほどに好きだっただろうか?

「ねぇ、お兄ちゃんは……本当にお星さまの所に行ったの?」
「……そうだよ、湊」
「いつ、帰ってくるの……?」
「それは……」

 あの日のパパとママの顔……覚えてる。

「……と」

 え……?

「湊!」

 はっとした。
 目を開けると、さっきの景色がすっと消えた。
 あれは一年前の出来事。

「ママ……」
「おはよう、湊」
「……おはよう」

 久々に見た、夢。

「保育園、遅れるよ? あ、今日の朝ね、湊の好きなポテトサラダだから」
「……うん」

 ママはとても悲しげに僕を見た。
 景色がぼやけてきたから、手で拭う。

「湊……どうしたの?」
「……なんでも、ないよ」
「怖い夢見たの……?」

 ママが不安そうに顔を覗くので、首を振った。

「違うよ。あ、今日ポテトサラダなの? 僕食べたいな」

 話をすり替えて少し笑って見せると、ママはほっと息をはいた。

「それなら良かった。……泣いてるからびっくりした」
「ごめんね」
「ううん……じゃあごはん食べよっか」
「うん!」

 ベッドから起き上がる。
 目が覚めたのに、夢のせいだろうか。
 星の勉強は、一体いつ終わるんだろうと、今までは待ってたけど、急に……お兄ちゃんに会いたくなってきた。

「ママ」
「ん?」
「ログインパスワードって知ってる?」
「湊は好きだね。ログインパスワード」
「うん」

 あの日のこと思い出す。
 お兄ちゃんと僕は二人で海を眺めながらはしゃいでいた。
 ママは飲み物を買いに、パパは車の中でその日持ってきた荷物を整理していた時だった。
 一瞬のことだった。
 堤防を歩いていた時、お兄ちゃんは足を滑らせて海に落ちた。

「お兄ちゃん?」

 音は聞こえたものの、始めは落ちたなんて思えず、僕は辺りを見回した。海にお兄ちゃんの帽子が浮かんできたとき、僕は頭が真っ白になっていた。
 僕は泳げなかった。そんなことはよく分かっていたのに、海に飛び込んで意識を失いそうなとき、ふと包まれたわずかなぬくもり。僕は目を開けることができなかった。
 アキお姉ちゃんの声は、頭の中で、した。
 111411。
 111411。
 111411。
 気づくと僕は海に落ちる前の場所にいた。
 ログインパスワードを開いたのは、アキお姉ちゃんだ。
 お兄ちゃんは、それからどうなったのだろう。そしてそこから何故、星の勉強なんかに行くのか……。

「ママ」
「ん?」
「僕、会いに行く。ログインパスワードを開いて、お兄ちゃんに」
「……え」

 ママは驚き、何故か少し黙って

「……そう、ね。会えるといいね」

と少しだけ、笑った。

「うん」

 僕は頷いた。
 ログインパスワードを開いてみたい。
 お兄ちゃんに、会いたい。
 ログインパスワードのゲートを開くには、三つの約束があるのは知っている。
 ①心の中で111411と何度も唱えること。
 ②会いに行く人が故人ではないこと。
 ③強く願うこと。
 故人は、最初意味がわからなかったけど、今ならわかる。
 僕のお爺ちゃんに聞いた。
 それが死んだ人って意味だということを。
 条件はそろってる。
 ログインパスワードはきっと開ける。
 会いに行こう。
 お兄ちゃんに会って、どうして急に星の勉強に行ったのか、いつ帰ってくるのか聞きたい。
 今日、保育園が終わったらやってみよう。
 そう思うと少しドキドキしてきた。
 朝御飯を食べて、保育園のバスに乗る。
 僕のバスに乗る順番はいつも1番。そして次に乗るのは、同じクラス明慶《あきよし》くんだ。

 先生に挨拶を交わした明慶くんに

「おはよう」

 声をかけると

「おはよう」

と返して僕のとなりに座った。

 バスが出発する。
 顔をみると明慶くんの瞼がだんだん閉じてきた。

「眠いの?」
「眠くないよ」

 そういいながら明慶くんは一瞬こくんとなって、はっとしていた。

「明慶くん」
「……ねむ……い……かも」
「僕今日、ログインパスワードするんだ」
「……えっ!」

 唐突にそう話すと、明慶くんの目が一気に覚めた。

「ログインパスワードなんて、できるわけないじゃん」

 明慶くんは、はっきりそう言った。

「できるよ! 僕一回できたもん!!」
「嘘だぁ」
「本当だよ! ログインパスワードは開くと手のひらに鍵を握ってるんだよ!」
「鍵?」

 明慶くんは首をかしげた。

「金色のハートの鍵なんだ」
「……へえ」
「……鍵は一瞬で消えたんだ」

 それを聞いて明慶くんの顔はさらに曇った。

「やっぱり信じてくれないよね……」

 落ち込む僕に少し黙ってから、明慶くんは小さく口を開く。

「そんなログインパスワードなんて頼らずに、普通に会いに行けばいいじゃん」
「そっ……か」

 確かにそういう方法もある。でもログインパスワードを開いたほうが、早く会える気もする。
 選択肢が増えて、頭のなかでいろいろ考える。

「なぁ……湊?」
「ん?」
「お前は、誰に会いたいの?」
「……お兄ちゃん」
「え!? 湊ってお兄ちゃんいるの?」
「うん」
「お前の家で見たことないけど……どこにいるの?」
「分からない」
「え?」
「けど……お兄ちゃんは、お星さまに会いに行ってるんだ」
「え……」
「星の勉強に行ってるって」

 明慶くんは黙ってしまった。

「明慶くん? ……どうしたの?」
「湊」
「ん?」

 明慶くんは僕から目を少しだけそらしてから、また僕を見て言った。

「星に会いに行ったって、死んだって意味だぞ」
「え……?」

 はっきりそう言った明慶くんの言葉に、頭が混乱する。

「お兄ちゃんは死んじゃったの?」

 さらに明慶くんはそう聞くから、頭が真っ白になった。

「ごめん」

 明慶くんは謝ったので、さらに混乱する。

「何で、そんなこと言うの?」

 率直な気持ちだった。

「明慶くんなんて、嫌いだ」
「だって、湊。……騙されてるって」

 喉の奥が熱くなって、僕は震えた声を張り上げる。

「嫌いだ!」
「はぁ……?」
「明慶くんなんて、だいっきらい!」
「なんだよ……! 俺だって……!!」
「嫌いだ!!」
 
 いきおいよく立ち上がった明慶くんを、見上げた。バスに乗っていた先生が止めに入った。明慶くんはさっきまで大声で叫んでいたけど、次のバスに乗る子の家につき、バスが止まると、急にしゅんとなって、泣きそうな顔で

「ちがう。俺は……お前が嫌いじゃない」

と小さな声で言った。
 明慶くんがそう言ったとき、自分のなかで、あんなにも怒ってた嫌な気持ちが一瞬にして消えて、何故かさっきの話がデタラメじゃないような気がして

 "星に会いに行ったって、死んだって意味だぞ"

 "お兄ちゃんは死んじゃったの?"

 涙が溢れた。

***

 保育園に着いてバスを降りた。バスに乗っている間に明慶くんと僕は、一言もしゃべらなかった。

「大丈夫? 湊くん……」

 先生に声をかけられたときも、頷くことしかしなかった。

 "お兄ちゃん、死んじゃったの?"

 そうだ。海に落ちていきなり星の勉強にいくはずがない。
 一年間、ずっと帰ってこないはずがない。それは、心のどこかで分かっている。
 けれど、ママは、パパは……。
 違う。お兄ちゃんは、星の勉強をしているんだ。

「ごめんな、湊」

 明慶くんが顔をのぞきこむ。

「僕も、ごめん」

 明慶くんのさっきの言葉はひどかったけど、僕のことを考えてくれていたような、なんだか、そんな気がした。

「お兄ちゃん、早く会えるといいな」
「うん」

 そんな優しさに、反抗したくない。
 だから、教えてログインパスワード。
 お兄ちゃんは……生きてるって。

「ログインパスワードって本当にあるのかな?」

 明慶くんが不安そうに呟く。

「……ある」

 アキお姉ちゃんは、ゲートを開いたんだ。僕も開いて、確かめてみたい。
 ログインパスワードは、死んだ人には会いに行けない。
 家に帰ったら試してみよう。ログインパスワードを。
 ……お兄ちゃんを見つけにいこう。

***

 保育園が終わって家に帰ると、自分の部屋に鞄を置いた。

「鞄置いたら下に来てー」

 ママの声が一階から聞こえる。
 二階には僕とママとパパの三つの部屋があるけど、今はパパは仕事でいない。
 ママは下で晩御飯の支度をするみたいだ。
 静かな僕の部屋。
 僕の部屋は前に、お兄ちゃんと一緒に使っていた部屋だ。お兄ちゃんの写真は、アルバムにしまってある。
 二つ離れた僕のお兄ちゃんは、いつも優しかった。
 お兄ちゃんは僕とよく似ているけれど、右目のすぐ下に、小さなほくろがひとつだけあった。笑うとそのほくろが少しだけ上に動き、えくぼができて、僕はその笑顔が大好きだった。
 お兄ちゃんはよく、僕を連れて近所の『四仕神社』へ遊びに行っていた。そこは四つの古い井戸がある、静かな神社だ。
 お兄ちゃんは

『ここには人と人の縁を繋ぐ通り道があるんだよ』

と、神主さんに教えてもらった言葉を話してくれた。

『漢字というのは全て線の組み合わせ。『四』という字も、『仕』という字も、バラバラにすればただの線です。 でも、合わさると意味になる。すべては人と人との縁をあらわしている……線と線が離れ離れになってもその線が消えるわけじゃありません、だって』

 そう話してくれたことがあった。
 
 お兄ちゃんがまだ僕の隣にいた頃、おじいちゃんの家で古い携帯電話を見つけたことがあった。
 おじいちゃんが「使いにくい」と言って放り出していた、初期の分厚い黒色のスマートフォン。
 そのスマートフォンはもう回線は繋がっていないけど、充電器を挿すと、今でも静かに画面が浮かび上がる。
 そのストラップには、おじいちゃんがずっと大切にしている、少し色あせた四仕神社の朱色の御守がついたままになっていた。
​ お兄ちゃんはその携帯を見つけた瞬間に目を輝かせて、僕にボタンの押し方を教えてくれた。

『湊、見てて。このボタンを順番に叩くとね、魔法の言葉ができるんだよ』
『魔法?』
『ガラケーの携帯のトグル入力、思い浮かべてみて』

 僕はお兄ちゃんに習い携帯を動かす。

『例えば、『あいうえお』と打ちたいとき、1を1回押すと『あ』、1を2回押すと『い』、1を三回押すと『う』みたいに文字が順番に入れ替わる。1は『あ行』2は『か行』3は『さ行』4は『た行』というようにボタンで分かれていて、この方式で『あ』がある『1』のボタンを一回、『あ』がある『1』のボタンを二回。『た』がある『4』のボタンを一回。そしてまた『あ』がある『1』のボタンを2回、111411って打ってそれでひらがなに変換するの』
『111411、会いたい、か。すごいね』
『……あ、湊、これにはもう1つ、秘密を見つけた』
​ お兄ちゃんはそう言って、僕のノートの端っこに「111411」という数字を不思議な形で書き込んだ。
 何をしているのかその時はよく分からなくて、でもお兄ちゃんはノートを書き終えると悪戯っぽく笑って僕の頭を撫でた。

​『いつか湊がもっと大きくなったら、この秘密を解いてみて。そうすれば、どこにいても、俺はすぐに湊を見つけられるから』
『今教えてよ』
『やだ。でも、ログインパスワードの三つのルールのことを教えてあげる。ログインパスワードを開いたときに、開いた自分と相手の持っている鍵を持ってるんだ。金色のハートの鍵。金色の三つ葉の鍵だよ』

 そして、お兄ちゃんはこう言った。

『鍵は大切な誰かと誰かの思いを繋ぐために、生まれたんだってさ』

 写真をみていると思い出す。
 じっと見つめた。それから、目を閉じてみた。
 お兄ちゃんに会いたい。
 111411。
 111411。
 111411。
 そう唱えること。強く願うこと。会いに行く人が故人じゃないこと。
 ログインパスワード、どうか開いて。
 111411。
 111411。
 111411。
 どのくらいやっただろう? ……何も起こらない。

「……もっと思いを込めなきゃいけないのかな」

 開いてくれない。やってみると、難しいんだな……。そして、過る。
 ログインパスワードの二番目のルール。

 "故人で、ないこと"

 ……違うはずだ。
 パパとママの言葉を信じよう。
 星の勉強を、しているんだ。
 信じる力が弱いから開かないのかな……。
 一階から、階段を上がってくる音がして、顔をあげた。

「湊」

 ママが入ってきた。

「ママ」
「何してるの?」
「えっと……」
「アルバム見てたの?」
「うん」
「おやつ用意したよ。下においで」

 そう言って笑うママを見ていた。パパとママ。この二人はきっと、お兄ちゃんの居場所を知ってる。星の勉強ってどこまで行ったの?

「あのね……ママ」
「うん? 何?」
「お兄ちゃんって……」

 言おうとしたとき、あの日の病院のベッドの上で

 "いつ帰ってくるの?"

と聞いたときのパパとママの顔が過る。
 お兄ちゃんは自分の好きな星の勉強にいっただけなのに、パパとママはあの時、一瞬だけ……泣きそうな顔をした。

「お兄ちゃんがどうしたの?」

 明るくそう聞いてくれるママは、いつものママだ。

「何でもない。おやつ食べ……ようかな」

 笑顔を作る。

「今日はドーナツだよ。一階にいこ!」
「うん……」

 聞けばいいのに、聞けなかった。

 ーードーナツを食べ終わると、自分の部屋に戻ってきた。
 勉強机に座ると、本を開く。
 本は私立の小学校の受験を受けるための問題が書かれている。
 漢字。
 図形。
 英語。
 色々ある。
 最初は、何もわからなかった。けど、今はある程度、解けるようになった。 
 いつも保育園が終わっておやつを食べると、一時間は勉強をする。それから習い事もある。
 すぐに遊びに行けないのを、何で? とクラスの子によく言われていた。
 みんなは勉強しないんだ。
 分かってくれるのは、同じく私立の受験をする明慶くんだけだった。

***

 次の日。いつものようにバスに乗り、いつものように明慶くんが2番目に乗ってきた。

「おはよう」
「おはよう」

 今日の明慶くんは、目が覚めていた。
 いつものように明慶くんは、僕の隣に座る。
 少しの、沈黙。
 明慶くんは僕の顔をちらっと見たので、僕も明慶くんを見ると、明慶くんは目線を合わせず

「なんだよ。できなかったのかよ。ログインパスワード」

と言ったので、僕は驚いた。

「どうして分かったの?」
「見れば、わかるだろ」
「……凄い」

 そう言うと、明慶くんはこっちを見た。

「感心してる場合かよ。どうするんだ?」
「また、やってみようと思うよ」
「……う、そうなんだ。」

 明慶くんは、そう聞いて少し黙った。そして

「なぁ……やっぱお兄ちゃんの居場所、お父さんとお母さんに聞いたら?」
「パパとママは……」

 聞きたいけど……。

「うーん。じゃあ湊。他に知ってそうな人いないのか?」
「他に?」
「そう、他に」

 考えて見るけど、何も出てこない。
 パパとママは知ってるけど、それ以外なんて……。誰がいるのかな。
 その時、頭を掠める声がした。
 ……111411。

「え?」

 111411。
 111411。
 あの日の声が甦る。
 海の中、お兄ちゃんと離れたあの日の事。
 そうだ、いる。
 お兄ちゃんのこと知ってそうな人。

「アキお姉ちゃん……」
「え、アキお姉ちゃん?」

 明慶くんは首をかしげた。
 明慶くんとは、今年はじめて同じクラスになった。
 去年のこのことはもちろん、知らない。
 明慶くんにあの日の事を話した。
 家族で海に行ったこと。
 海で溺れて、アキお姉ちゃんが助けに来たこと。
 お兄ちゃんは、あの日以来、いなくなったこと。
 そしてあの日の病院のベッドでみた。パパとママの顔のこと。
 話すと

「アキお姉ちゃんの場所は分かるの?」

と聞いてきたので

「一回だけ、お手紙を送ったら、返事が来てその封筒を見れば住所があるけど」

と言うと

「じゃあ決定な!」

と言って、明慶くんは少し笑った。

「決定?」
「今日保育園終わったら、会いに行くぞ」
「えっ!?」
「で、どこそれ?」

 驚いている僕には目もくれず、明慶くんは聞いてきた。

***

 保育園が終わって、バスに乗って、家に帰ってきた。帰りに明慶くんは

「湊の家に行くわ」

と言ってバスを降りた。
 家についてからも僕はまだ、頭のなかが整理できてなかったし、気持ちもついていけてないけど

「ママ、帰ってきてから勉強する」

と言うと

「え? どこかいくの?」

と聞かれたので

「明慶くんに、会いに行くよ」

と、会いに行くのは嘘じゃないけど、アキお姉ちゃんに会いに行くなんて言えず、嘘をついたようで、心がずきっとした。
 それでも笑って見せるとママはほっとしたようだった。
 今日は習い事もない。
 二階に上がり、自分の部屋からアキお姉ちゃんの手紙と、貯金箱のお金を小さな財布に入れて、リュックサックを背負って、下に降りて出掛けようとすると

「リュックでいくの?」

とママが聞いたので

「うん、明慶くんに見せたいものがあるの」

と笑顔で頷く。
 ママは笑って

「いってらっしゃい」

と玄関まで見送ってくれた。

「いってきます」

 僕は家を出て、明慶くんの家のほうへ歩き出した。

 歩いていると、明慶くんが前からやってきた。

「湊、リュックできたの?」

 近づいてくるなり、明慶くんは驚いていた。

「うん」
「鞄がでかくね?」
「これしかないから」

 中身が手のひらサイズの財布と手紙しか入っていないわりには確かに、大きい。
 明慶くんは

「それで、手紙あった?」

と聞いたので頷いて、リュックサックの中から、手紙の入った封筒を見せると、明慶くんは固まって首をかしげた。

「漢字が、読めないなぁ」
「大丈夫。僕、読めるよ」
「湊、漢字読めるの?」
「少しだけどね」
「凄いな」
「この住所だと、電車に乗って、三十分くらいかな」
「え? 住所分かるの……? 凄い! よし、行ってみようぜ!」

 電車に乗るために駅に向かって歩いた。

 赤跡駅について、人ごみの中で切符を買った。

「切符を買うのって大変なんだな」

 漢字も読めず、路線も分からず、明慶くんはぐったりしていた。
 僕は赤跡駅の看板を眺めていた。

「湊、どうしたの?」
「あ、赤跡駅の下に書いてあるこれ見てて」
「AKASEKIってところ?」
「うん」
「何で?」

 首を傾げる明慶くんに向かって少し笑みをこぼす。

「僕のお兄ちゃんってね「A」書くの下手だったんだ」
「下手?」
「Aの中に横の一の棒があるでしょ? そこがどうしても少しはみ出すの。なんだかそれを今思い出して」
「ん? はみだす?」
「ちょこっとだけだけど」

 明慶くんは何度か頷く。

「特徴あったんだな」
「うん。あ、ごめん変な話をして。いこ」
「うん」

 駅のホームに向かうときに、何段かある大きな階段を下りる。
 電車を待っていると、ふと目の前におばあさんがいて、声をかけた。

「え、湊? そっちだっけ?」

 人混みで、明慶くんの声は聞こえず

「おばあさん、どこまでいくの?」

と近くに行く。
 おばあさんは驚いて、少し辺りを見て、小さな僕を見つけた。

「あ、羽柴まで行きたいんだけど、分からなくて」
「僕、知ってるよ。坂山で乗り換えるの。この駅のホームで合ってるよ」
「おや、詳しいんだね」
「うん。あ、電車来たよ。僕たちあっちの電車に乗るから」
「ありがとう」

 おばあさんはお辞儀して、電車に乗っていった。

「凄いな、湊」

 明慶くんが言う。

「え? 何が?」
「電車詳しいのも凄いけど、俺、あのおばあさん見てたのに、困ってるように見えなかったから、よく気づいたなと思って」

と言った。

「たまたまだよ」

と僕は言った。

***

 電車を降りて、アキお姉ちゃんの家は、意外にもすぐわかった。
 駅の改札口をでて、さっき一緒に電車を降りたのだろうか、道を確認しようとふと振り向いた時、その男の人と目があった。
 僕は、覚えていた。

「あ!」

 思わず声をあげると

「え?」

とその人は目を丸くした。
 相手は、覚えてなさそうだ。

「湊、誰?」

 明慶くんが聞く。僕は、なんと説明しようか迷った。

「湊……って」

 明慶くんの声に、その人は少し固まった。

「湊、知り合い? アキお姉ちゃんと関係あるの?」

 明慶くんはその人と、僕を見合わせて言った。

「アキを知ってるのか……?」

 その人は

「あ、湊くん……思い出した! あの海の……時の」

 この人はアキお姉ちゃんの旦那さん。悠真お兄ちゃんである。

「湊くん! あれ以来、会ってないから……少し、大きくなったよね。アキに会いに来たの?」

 アキお姉ちゃんに会いに来たことを言うと、悠真お兄ちゃんは喜んでお家に案内してくれた。

***

「アキー」

 アキお姉ちゃんと悠真お兄ちゃんの家につく。
 玄関から、悠真お兄ちゃんはアキお姉ちゃんを呼んだ。
 返事はない。

「アキー」
「……はーい」

 急ぎ足で、アキお姉ちゃんは来た。

「ごめんね、洗濯物取り込んでてね。お帰り……って……」

 アキお姉ちゃんは、きょとんとして明慶くんと僕を見た。

「えと、可愛いお客さんね。こんにちは」

 アキお姉ちゃんは笑ってくれた。

「こんにちはー」

 明慶くんは返事をする。僕は、恥ずかしくなった。

「おい、挨拶ぐらいしろよ」

 明慶くんはこそっと僕に言う。

「……こんにちは」
「こんにちは!」

 アキお姉ちゃんは、にっこり笑って

「……湊くんだ!」

と言ったので、僕は、はっとして顔をあげた。

「瞬時には思い出せなかったけど、私記憶力いいんだー。会いに来てくれたの?」

 アキお姉ちゃんは、僕と目線を会わせてくれた。

「うん……」

 嬉しかった。

「こっちは、お友だち?」
「明慶くん、です」
「こんにちは。山下明慶です」

 明慶くんはお辞儀をした。

「明慶くんね。とにかく上がって! ケーキあるよー」

 アキお姉ちゃんは明慶くんと僕の背中をぽんと押して部屋に入れてくれた。
 アキお姉ちゃんの出してくれたケーキを食べる。

「元気だった?」
「はい」

 僕は頷く。

「そっか……良かった」

 アキお姉ちゃんは、またにこっと笑ってくれた。
 アキお姉ちゃんと悠真お兄ちゃんと何でもない話をした。
 保育園のこととか、普段何をしてるかとか。
 楽しかった。そして、アキお姉ちゃんが、ふと言った。

「1年ぶりだよね。今日はどうして会いに来てくれたの?」

 そう聞かれて、ちょっと固まった。

「湊、聞かないと」

 明慶くんがそう言う。そうだ、忘れてた訳じゃないけど、僕は世間話に来たんじゃない。

「そうなんだ。私に聞きたいことがあるの?」

 そう言われ、僕は自信がなくなってきた。
 お兄ちゃんのことを聞きたいけど……聞きたくないような……でも隣で、明慶くんはじっと見つめる。背中を押してくれた。

「あの、アキお姉ちゃん。急にお邪魔してごめんなさい。あのときは、海で助けに来てくれてありがとうございました」
「いえいえ。どういたしまして」
「あの日のことで、聞きたいことがあるんです」
「聞きたいこと……?」
「あの海で僕を助けに来たとき、もう一人、子供がいませんでしたか?」

 そう聞くとアキお姉ちゃんは、顔つきが少しかわって、悠真お兄ちゃんをみた。

「湊くん。子供って……誰のこと?」

 視線を戻して、アキお姉ちゃんは、僕に聞いた。

「……名前は市原海(いちはらかい)って言って、僕のお兄ちゃんなんだ」

 アキお姉ちゃんは頷き、少し俯いた。
 僕は、その顔を見たとき、過った。

 "いつ帰ってくるの?"

 そう聞いたときの、あの日のパパとママの顔だ。
 少し沈黙してアキお姉ちゃんは、もう一度悠真お兄ちゃんをみた。
 悠真お兄ちゃんは、僕に分からないくらいに小さく首をふったように見えた。それを見てアキお姉ちゃんは

「ううん。わからないな」

と俯いた。

「そう……ですか」
「湊くんには、お兄ちゃんがいるんだ。お兄ちゃんは……行方不明なの?」
「はい。星の勉強をしているとしか」
「星の勉強……」
「……はい。でも、場所がわからなくて、ログインパスワードも試してみたけれど」
「……ログインパスワードを?」
「はい」
「ログインパスワードは奇跡に近いものだからね。あの時は、本当偶然に……。でも、湊くんのお兄ちゃんは、星の勉強に行ってるんでしょ? そんなことしなくても、いつかは、戻ってくるよ」

 そう言われたとき、僕は、何かを感じていた。
 暖かさの後の冷たいぬくもりを、心で。
 あれ……? 僕は……今何を思った? そして、思えば、この気持ちはずっと知ってる。
 そう。あの一年前から、ずっと。
 でも、分からない。
 なんだろう……。
 知りたいような、知りたくないような。

「湊くん……」

 けど、その感情があっても、僕の答えは、一つ。

「……お兄ちゃんを見つけたい」
「え?」
「見つけたい」

 アキお姉ちゃんは少し俯いていた顔を、まっすぐ上げた。何故かじっと真剣に見つめられた。

「……湊くん」
「……見つけたい」

 アキお姉ちゃんは、悲しい顔をした後に、鋭い顔をした。

「……悠真」
「え?」

 悠真お兄ちゃんの方を向かずに、僕を見てアキお姉ちゃんは言った。

「……私たちのしてきたことは、間違ってる」

 そう、言った。

「アキ」

 悠真お兄ちゃんは、悲しそうな顔をした。
 ふたりの話のその意味は、僕には理解できない。

「顔を見て、湊くんの」

 アキお姉ちゃんは、悠真お兄ちゃんに言った。

「ねえ、明慶くん」
「え?」
「明慶くんはさ、湊くんのことどんな子だと思う?」

 アキお姉ちゃんは、そう問いかけた。

「湊……は、すごい、いいやつで、賢いやつだと思うよ」
「そう……実はね話していて私もそう思ったの」

 アキお姉ちゃんは、少し笑顔を浮かべてたのに真剣な表情になって、僕を見た。

「湊くん」
「はい」
「みなとくんは賢い子だよね」
「え……?」
「ねえ、湊くん。お兄ちゃんのこと、本当は分かってるでしょ、全部」

 僕は、目を見開いた。

「分かってる……?」
「話していて、湊くんの顔を見て、分かるよ。星の勉強なんて、納得できないよね。それは、無理がある」
「……え?」
「けど、湊くんは、いい子だから、大人の言うことを信じている」
「……どういうこと?」
「君は、気づいてる」
「え……?」
「お兄ちゃんはあの日、海で溺れて亡くなったこと」

 僕は頭が一瞬真っ白になった。

 "お兄ちゃんは、亡くなったこと"

 嘘だ……。そしてドキッとした、アキお姉ちゃんの言葉。
 "君は、気づいている"その言葉に
 こんなにも驚くなんて。でも、お兄ちゃんは、一年前から会えていない。

「お兄ちゃんは……」

 一年前、パパとママのあの顔が、浮かんだ。
 そうだ。さっき感じた。暖かいけど冷たいぬくもり。
 ……これは、一年前から知っている。この時から、僕は、知っている。
 この気持ちがなにかを悟って、自分をも騙してきている。
 片隅ではそう、理解できて、いる。
 何かって言うのは……僕は知っていたんだ。気づいていたんだ。このぬくもりを、見ないふりしていた。だから、分からないふりをし続けて見失った。
 パパとママの言葉を信じるのは、絶対だった。はっとした。でも、そのぬくもりの意味を知った今も……それは、受け入れられない。
 お兄ちゃんは、死んでなんかいない。
 死を理解したら……本当の"さよなら"をしなくては、ならない。
 嫌だよ。
 誰かお兄ちゃんを見つけて。
 星の勉強……それが正しいと言って。

「……お兄ちゃんは、生きてるよ」
「……湊くん。あの日、私は湊くんしか見えていなかったの。お兄ちゃんが、海に落ちたこと知らなかった。湊くんを助けたとき、それを知って、湊くんが悲しむと思ってパパとママが君のために嘘をついて、生きてることにして。落ち着いたら話そうって」
「……アキお姉ちゃん」
「ログインパスワードを開いた日、気づくと私は海岸にいて湊くんは私の隣にいた。私はログインパスワードを使って悠真に会いに行った。ログインパスワードは手に持ったものは持ったままゲートを開ける。だけどあの日、湊くんを抱きしめていたのは、君のお兄ちゃんだった、つまり、ログインパスワードを開いて君を助けたのは、海くんなの」
「え、でも僕が意識を取り戻した時は……」
「お兄ちゃんは先に救急車に乗ったから」
「先に?」
「私、海の中から助かって意識が朦朧としてたから、後で知ったんだけどね、海くんがログインパスワードを開き、湊くんが海岸に引き上げられたときに、海くんはまだ少しだけ息があったみたい。だからこそゲートは開いた。故人ではないから」
「……息が、あった?」
「そう。ログインパスワードのゲートが開いたということは、お兄ちゃんはね、最後まであなたを離さなかったんだと思う。湊くんが海岸に引き上げられたとき、海くんの体はもう、海の冷たさに飲み込まれそうになっていたけれど……。それでも、あなたのことを、離れ離れにならないように抱きしめていたんだと思う」
「お兄ちゃん、が……」
「時間が解決してくれるって思ってた。湊くん。あの日、ベッドの上で目を覚ましてパパとママに言ったんだってね。本当にお兄ちゃんは、帰ってくるのか。その時、みんな勘違いした。時間は、答えを出さないから、たまっていく一方だった。湊くんはあの日幼いなりに海くんの死を受け入れる覚悟があった。賢い君には、そこで時計を止める必要は、なかった。みんなが、止めるからそれを受け入れられない。君の時計を動かす必要が、あると思うの」

 僕は……全部知ってる。
 けどもう時がたってしまったんだ。
 だから、お兄ちゃんは生きてるって希望はなくしたくない。
 ……だから聞きたくなかったんだ。
 ……だから、もう、なにも

「聞きたくない」
「湊くん……」
「聞きたくない!!」

 僕はアキお姉ちゃんの家を、飛び出してしまった。がむしゃらに走った。
 嫌だ。違う……。僕は、やっぱり知らなくていい。

「湊!」

 明慶くんが後から走ってきて、僕の腕を掴んだ。
 見上げても明慶くんの顔が、ぼやけて見えなかった。

「泣くなよ」

 そう言われて涙を拭う。

「……だって」
「だって?」

 言葉が出てこなかった。

「あのさ、俺さっきの話聞いてさ、分かんないんだよ。なんだよ、お前お兄ちゃんが死んだの知ってたのかよ」
「……知らない」
「どういうことなんだよ」
「僕は何も知らない! 知らないからここに来たのに……知らないから……」

 そう言われて、また胸が痛くなる。

「……お兄ちゃんは、生きてる」

 そう言うと、明慶くんは少し考えて

「湊、アキお姉ちゃんの気持ち考えろよ。お前のこと、心配してた」
「……分かってるよ」
「アキお姉ちゃん、お前の為に話してくれたんだろ?」
「分かってるよ!!」

 本当を知っていた。けど、本当を確信はしたくない。もう、知りたくない。

「湊、アキお姉ちゃんの言う通り、ずっと知ってて受け入れられないのか? ……お兄ちゃんのこと」

 涙をふいて、明慶くんの顔を見た。僕は、何をしているんだろう。

「……明慶くん」
「……え?」

 みんなに、迷惑をかけている。

「ごめんね。せっかくついてきてもらったのに」
「別に……いいよ、そんな」

 みんなに、迷惑を。

「……アキお姉ちゃん怒ったかな? 急に飛び出してきちゃったし」

 落ち込んでいる僕の肩を、明慶くんはぽんと叩いた。

「……心配してたけど、怒ってねーよ。お前に会えたの嬉しかったって。また、何かあったらまた来てって言ってたし」
「……明慶くん」
「大丈夫だ。俺もアキお姉ちゃんも悠真お兄ちゃんもお前の味方。もちろん、湊のパパとママもな」

 明慶くんは……優しい。つい、本音が出る。

「明慶くん。僕、やっぱり受け入れられないんだ」
「湊……」
「お兄ちゃんと、さよならしたくない」

 明慶くんは一回だけ、頷いてくれた。

「分かった。湊……今日は何か疲れてきただろ、短い時間だったかもしれないけど、帰ろ?」
「……うん」

***

 家についた頃には、夕暮れの空だった。
 明慶くんは、僕の家までついてきてくれた。
 家の扉を開けるとパパとママがきた。

「湊、お帰り」
「……ただいま」
「明慶くん。こんにちは」
「あ、こんにちは……」
「どうしたの、湊」

 表情が暗かったのか、ママが心配している。

「え……? なんでもないよ」

 にこっと笑うと、ママはほっとしていた。

「部屋に行こうかな……? あ、明慶くん。送ってくれてありがとう」
「え、明慶くん帰るの?」
「え……っと、はい」

 僕は部屋にむかうため、階段を上がった。

「パパご飯にしようか」
「そうだね、明慶くんも今度食べに来てね」

 そんな、パパとママの声が聞こえた。

「じゃあ、失礼します」
「明慶くん、気を付けてね」

 階段を上がる途中で、僕はドキッとして立ち止まった。
 玄関の扉が開く音がして、閉まる音がしたのに、玄関から明慶くんの、声がしたから。

「なぁ……」
「え?」

 パパとママの不思議そうな声もした。

「何で気づかないんだよ」

 明慶くんは、声を押し込めるように言った。

「……え?」
「明らかになんでもなくないだろ。湊、泣いてるぞ」

 表情は分からなかったはずなのに、明慶くんは、そう言い当てた。

「え……?」

 パパとママは、きっとこっちを見ているだろう。
 僕は階段の途中で立ち止まったままそっちを向けずにいた。
 明慶くんが、言う。

「今日、アキお姉ちゃんの家に行ってきたんだ」
「え……?」
「アキお姉ちゃんに、聞いたんだ」
「何を……?」
「海さんのことだよ」

 一瞬、沈黙になった。

「アキさんは、何て?」
「お兄ちゃんは、亡くなってるって」

 パパとママはまた、黙った。けど、ママがすぐに

「湊! 嘘だよ。アキさんの言ってることは……嘘だよ」

と言った。

「お兄ちゃんは、星の勉強に……行ってるんだよ」

 そう付け足した。
 ……何て言おう?
 どうやったら、ママが悲しまないのかな。
 そうだよねって言おうかな。違うよね、やっぱりアキお姉ちゃんの話は嘘なんだよねって……。
 色々考えていると、明慶くんがそっと言った。

「ねぇ、湊のお母さん。湊はね、よく気づくやつなんだ」
「え?」
「今日も電車に乗った時、ホームで目の前にたってたお婆さんが道に迷ってること、何も言われてないし、表情も普通だったのに気づいたんだ。それだけじゃなくて、湊は、みんなの気持ちをいつも考えてるんだ。今日もアキお姉ちゃんに、お兄さんのこと聞いて家飛び出しちゃったけど、その後も俺とかアキお姉ちゃんのこと、考えたりして……気がつくやつなんだ。賢くて優しいやつなんだ。なんかさ、もう湊はあのときの事気づいてるんだってさ。これ以上、あいつに作り笑いさせないで。本当の事伏せてることで、湊が、救われる訳じゃないんだ」

 僕は胸が苦しくなって、なにも言わずに自分の部屋に向かった。

「湊!」

 部屋に入って、扉を閉めて、鍵をかけて、動けなくなって、座り込んだ。
 部屋には、気を使ってくれたのか、その日は誰も来なかった。
 それが逆に、安心して泣けた。

***

「湊」

 お兄ちゃんの声がした。ここは、自分の部屋だ。

「お兄ちゃん」
「今日も父さんも母さんも仕事だからって出かけるならと鍵持たされたな」
「うん、お兄ちゃんと僕の二つの鍵」
「湊、ログインパスワードって知ってる?」
「ログインパスワード……?」
「ログインパスワードはさ、会いたくても会えない人を思って111411って唱えると、会いたい人に会いに行けるゲートを開く魔法のことなんだよ」

 ログインパスワードの話を、初めて聞いたのは、お兄ちゃんからだった。

「凄い! それって、本当にできるの?」
「ルールがあるんだ。①心の中で"111411"と何度も唱えること。②故人じゃないこと。③強く願うこと。が、当てはまってないとダメみたい」
「そうなんだ……ねぇ故人ってどういう意味……?」
「さぁ?」
「111411ってなに?」
「昔の携帯の打ち方で携帯に打つと、あいたいって文字になるんだよ」
「あいたい……すごい」
「……湊、ログインパスワードはさ。夢があるんだ」
「夢……?」
「そう、夢。俺が作った、夢だ」

 また、そこで場面が変わる。お兄ちゃんがいなくなったあの日だ。堤防を歩いた時のこと

「なぁ、湊。ログインパスワードってさ、三つのルール以外にも色々な秘密があるんだ」
「秘密……?」
「例えば、ログインパスワードを開くと、開いた人と会いに行った人は、お互い鍵を持っているんだ」
「鍵?」
「会いに行った人は金色の三つ葉の鍵。持っている感覚はないらしい。開いた人は、ログインパスワードを開いた後、金色のハートの鍵を持っているんだよ」
「不思議だね……何で鍵を握りしめてるんだろう?」
「さぁ……? でもね……その鍵は、大切な誰かと誰かを繋ぐために生まれたんだってさ」
「繋ぐ……?」
「それに、どんな意味があるかは分からないけど、他にもね、ログインパスワードは秘密があるんだ」

 目が覚めて、自分の部屋の扉の前で、いつのまにか、床に倒れて寝ていたことに気づいた。
 朝になっていた。
 また、あの夢だ。お兄ちゃんの声がした。そして、残る。
 ログインパスワードは、ルールがある。
 ログインパスワードは、夢がある。そして、ログインパスワードに現れる鍵は、大切な誰かと誰かを繋ぐために生まれた。
 お兄ちゃんとログインパスワードを繋ぐには、ログインパスワードの二番目がひっかかってゲートを開くことはできない。
 けど、ログインパスワードには、秘密が隠されている。
 お兄ちゃんだけが知っている秘密が。

「何故……こんな夢を見たんだろう?」

 でも、考えれば考えるほど、お兄ちゃんが言ってる気がした。
 ログインパスワードを開けと。でも唱えたところでなにも変わらないし。
 いや無理だよ……。無理だ。もう僕は、なにも知らなくていい。
 けど、考えてみる。もしこのままログインパスワードを唱えてログインパスワードが叶わないことで、僕がお兄ちゃんのこと受け入れることができるのなら……。
 111411。
 111411。
 111411。
 僕は目を閉じて、ログインパスワードを唱えた。
 叶うはずのないログインパスワードを。
 何度も、何度も唱えた。
 唱えていくうちに、お兄ちゃんの顔が浮かんできた。
 何度も何度も唱えた。
 途中でドアをノックする音が聞こえた。けど、聞こえないふりして、ずっとログインパスワードを唱えていた。
 たまに、涙がでた。楽しい思い出と悲しい思い出が頭を駆け巡った。けれどずっとずっとログインパスワードを唱え続けた。

***

 ログインパスワードを唱えてどのぐらいたっただろう。
 さすがに、ちょっと疲れてきた。
 目を開けるとお昼になっていた。
 目を開けると、さっきまで、頭を駆け巡ったお兄ちゃんは一瞬で消えた。
 慌てて目を閉じたけど、浮かんできてくれなかった。
 ログインパスワードは、結局叶わなかった。
 お兄ちゃんと、さよなら……したくないよ。もう、涙が出てこなかった。
 本当に悲しいとき涙はでなくなるってきいたけど、それなのかな。
 ずっと悲しかったけど今が一番かな。
 複雑な気持ちだった。
 お兄ちゃんのこと、受け入れられるなんて、やっぱり無理だ。

「……え?」

 死を受け入れるなんて無理だ。
 そう思った。
 ……手のひらのその、鍵を見るまでは。

「鍵……」

 小さいけど、ひゅーっと……何かの音がする。
 その音は、だんだん強くなる。
 風?
 風がやんで、手のひらには金色の三つ葉の鍵。

「……何で?」

 そして金色のハートの鍵、も、ある。

「……二つ?」

 そんな話聞いたことない。
 金色のハートの鍵には感覚があるのに対して、金色の三つ葉は感覚がない。 
 それよりも、何故。
 ハートの鍵は開いた人が、三つ葉の鍵は会いに行った人が持っているはずなのに……何故、僕が今、二つ持っているんだ……?
 鍵をじっと見つめていると気づいた。僕の手に重なるようにもう一つの手のひらが透けて見えた。

「あ……」

 一瞬流れた風で鍵は消えた。その時にその手のひらも見えなくなった。

 "鍵は、大切な誰かと誰かを繋ぐために生まれたんだってさ"

 お兄ちゃんのあの日の声が、頭の中で、した。

「そっか……」

 あの手のひらはきっと……さよならじゃなかったんだね。
 側にいるって言ってるの……?
 なにもなくなった自分の手のひらを握りしめる。
 悲しかった感情が少し、癒された気がした。
 ずっと側にいてくれるの……?
 姿もわからなくて、声がした訳じゃない。
 あの日の光景だけよぎって、あの日の言葉だけよぎって、直接顔を見た訳じゃないけど、教えてくれた。
 鍵がその人の存在を教えてくれる。

 "ちゃんと、ここにいて見守っているよ"って

 そう言ったの? お兄ちゃん……。
 涙が溢れてきて、暖かくなって、何故か笑えてきた。
 111411。
 携帯の昔の打ち方で、あいたい。
 僕は机の上の鉛筆を手に取る。
​ お兄ちゃんが教えてくれた、数字に隠されたさらなる秘密。
 僕はノートの余白に、大きく「111411」と書いた。そして、お兄ちゃんのあの言葉を思い出しながら、その数字を「線」として分解していく。

​『湊、漢字はね、線の組み合わせなんだよ。バラバラになればただの線だけど、合わせれば意味になる。……たとえ離れ離れになっても、その線が消えるわけじゃないんだ』

 まず、最初に「一」を、ななめに書く。そして1つの「一」をさっき書いた「一」の下に立てて付け足す。そして「一」を横に書き、縦に「一」を足して「十」を作り、その組み合わせたものの下に「一」を書き足す。
 ――あ。
 
 バラバラだった五本の線が、吸い寄せられるように一つの形になった。
 それは、お兄ちゃんと何度も歩いた、あの場所の名前。
 111411
 『四仕』
 四仕神社。


「……それで」

 もう一つ。
 111411。
 まず、最初に「1」を、縦に並べてみる。そして1つの「1」を上ななめに、もう一つの「1」を下ななめに付け足すと「K」に。4はななめに書き、左のはしに「1」を加えると、はみだした「A」に。単独で「1」を書くと「I」。
 KAI
 KAI ICHIHARA
 市原海。
​ 111411は、「あいたい」という願いであり、僕たちが愛した「四仕神社」という場所であり、そして、何より僕が世界で一番大好きな「お兄ちゃんの名前」だった。

「やっぱり、そうだったね」

 はみだしたAはそういうことだったんだね。
 僕の部屋の扉をノックする音がまた、聞こえた。
 今度は、そっと扉を開けた。そこにはママとパパが立っていた。
 僕の顔を見た瞬間に、ママは言葉にならない声を漏らして、崩れ落ちるように僕を抱きしめた。

「ごめんね……湊、ごめんね……」

 震えるママの肩越しに、パパが僕の頭に大きな手を置いた。その手も、見たことがないくらい小刻みに震えていた。
 二人の涙が僕の肩を濡らす。
 それは一年前から真実と向き合えず冷たい海をさまようようなぬくもりとは違う、とてもあたたかく、痛いくらいに生きた温度だった。
 僕の時計は、たしかに動き出したと思う。

 ねぇ、パパとママ、僕ね……少し前に進めそうな気がする。

「ねぇパパ、ママ。……ログインパスワードって知ってる?」
「え?」
「僕ね、使えたよ」
「……え?」

 僕の時計は、動き出したと思う。
 ログインパスワード。
 お兄ちゃんをみつけてくれて、ありがとう。