ログインパスワード『111411』


「今日から入る、新入社員を紹介します」

 お菓子工場の作業レーンのある二階のホワイトボード前のミーティングスペースにて、働く社員の全員が平塚大誠主任の紹介する一人の男に注目した。

「初めまして。エレフ・フリックと言います」

 とても背の高い外人は丁寧にお辞儀をした。彼は二十三才、俺と同じ歳だった。
 話を聞くと、アメリカからやってきたらしい。
 いざ仕事が始まると、エレフは、仕事熱心だが……不器用なことが分かった。
 レーンから流れる大量のお菓子の欠品を取りのぞく作業は手作業で、レーンは流れる速度が早く、大量のお菓子の中から瞬時に欠品だと見分け取り除く判断が必要になり、エレフはお菓子を何度も見逃しかけてあわあわしていた。

「大丈夫、エレフ?」

 流れていく欠品のお菓子を俺が横からひょいと拾い上げ声をかけると、彼はきょとんとして俺を見た。
 名前も"さん"付けせずに思わず呼び捨てにしてしまった自分を責めつつ、そのまま許可をとることなく手伝うと、彼は

「ありがとうございます」

と片言な日本語を使い、そんなことを気にせずに、優しく笑ってくれた。

「あなたの名前を、教えてください」

 休憩時間、社員食堂での食事をもってエレフはやってきた。

「俺?」
「はい」
「俺は、竹、良介」
「たけ」

 エレフは俺の名前の発音が、林に生えてる"たけ"になっていた。
 はっきりそう言うから笑えてきて、飲んでいた水が口から出そうになった。

「ちがうよ、エレフ。竹、だよ」

 そうは言うものの、彼はその発音だけ何故か上手くできなかった。

「たけ」

 完全に林の"たけ"の発音が定着してしまった頃、彼とは友達になっていた。  
 仕事が休みの日に、ピロンと音が鳴り携帯を見るとエレフからメールがきていた。

 "たけ。伝木屋さん、息魔性"

「でんきやさん、いき、ましょう……あぁ、電気屋さんに行きたいのか!」

 漢字は苦手だというのに『たけ』以外は変に変換してくるから、自分がちょっとした探偵になっていた。

 "息魔性"

 俺は苦笑しながら思わず首を捻ってしまう。
 全体的にそうだがどうやったらこうなるんだろうと思いつつ笑える。
 エレフは自分の日本語がどれだけカタコトか、たぶん分かってない。
 堂々と、超難解な漢字でメールしてくる。

​『たけは漢字、苦手?』

​ 以前、何食わぬ顔でそう聞いてきたエレフに、

『難しいよ。エレフのメールはな』

と返したら、エレフは

『日本の漢字は深いですもんね!』

と嬉しそうに笑っていた。
 全然わかってない。でも、その見当違いな思いやりが、俺は嫌いじゃなかった。
 エレフが電気屋さんに行きたいというので、待ち合わせてついていく。
 映像機器コーナーを通りかかってちらりとテレビを見ると、今、流行しているログインパスワードの特集が流れていたので立ち止まって視線を向けた。

「ログインパスワード?」

 とても発音のいい声で、エレフはテレビを指さし、それは何かと聞いてきた。

「ログインパスワードは、会いたくても会えない人を心の中で思って、"111411"って強く唱えると、一瞬で会いに行けるゲートを開く凄い魔法だって言われてるよ」

 説明すると、エレフは俺の顔を見て、真顔のままぱちぱちと瞬きをしていた。
 まぁ戸惑うよね、そんなこと言われて……。

「あ、いや今流行ってる噂だけど……」
「たけ」

 イントネーションは、相変わらず林の"たけ"の発音だ。

「"竹"だよ。最初の「た」の音上げて」

 笑いながら少し反論すると

「日本では……魔法が使えるんですか!!」
「……え?」

 ログインパスワードの話に、エレフは目を輝かせた。
 ーーその日以来。朝、俺が出勤してきた時も

「あれから、ログインパスワード調べてみました!」

 お昼休みも

「ログインパスワードは、ルールあるんですね!」

 帰り道も

「たけー! ログインパスワードって……」

 毎回手を大きく振って俺のもとにやってくるエレフの頭の中は、ログインパスワードの噂でいっぱいになっていた。

「……ぷ、ははっ」
「たけ、どうしました?」

 口に手を当てて、俺は笑いを堪えきれずにいた。エレフは首をかしげて何で俺が笑っているか分からない感じなのに、俺を見て俺と同じように笑った。
 ログインパスワードの噂は全然信じていなかったけれど、エレフが嬉しそうに少し片言で話すログインパスワードの話は楽しくて、心の底から好きだった。
 なんなの、エレフ。俺は今までまともにアメリカ人と話したことなかったけど、

「本当、面白いやつ……」
「たけ、何か言いました?」
「ううん」

 俺は軽く首を振った後で微笑んでしまう。
 どうしよう。日本以外の国のことなんて全然分からないけど、なんだかお前のせいで、アメリカのこと大好きになっちゃうよ。

***

「竹ー」
「はい!」

 次の日。平塚主任に呼ばれ、仕事の作業を止めて主任のもとへ走った。

「これ、頼める?」

 納品するビスケットの入った段ボールがある。
 三つずつ積み上げた段ボールは全部で九つ。少しでも油断すれば崩れてしまいそうな状態でぎりぎりで台車に乗っていた。
 主任の頼みとはこの台車に乗った段ボールをエレベーターで下の倉庫に運んでほしいということのようだ。

「大丈夫です」
「ついでに段ボールの整理もしてきて。お前、力あるし、任せるわ」
「はい」

 他の仲間がせわしく作業レーンの近くでお菓子の材料を混ぜ合わせたり検品をしたり商品を箱に詰めたりして働く中で、俺は台車をひき、開放型の人荷用エレベーターの前に行く。
 慎重に台車を乗せスイッチを押すとガタンと軽い衝動と共に床が沈み始めた。
 スペースもさほど広くなく視界を遮る壁はないのでなんとなしに行き先を見つめ地下に降りた。
 地下に降りると、納品前のお菓子が入った段ボールだらけだ。
 取引先ごとにきちんと区画整理はされているものの、各場所でそれぞれお菓子の種類が分かれた段ボールが、175cmの自分の背を優に越して、大量に積み上げられている。
 ひいてきた台車に乗っているビスケットの段ボールのある区画を探す。

「これだ」

 場所を見つけると、ため息が出た。
 積み上げられた段ボールは、手前から賞味期限の近い順に並んでいる。
 スペースが開いたら置いてある段ボールを全部手前に出して、後から運んできたのはその後ろに積む。
 この段ボールの整理はかなりの労力を使う。
 段ボールは1つ十kgあるからだ。
 見ると、五十箱ぐらい先に置いてあるものがあった。
 新しい物を後ろに置くために、区画内で、これらを前に出して移動させなければならない。

「やるか」

 誰もいない広い敷地で、作業を開始する。

「これ一人でやるの辛いなぁ」

 ここは地下で、上の階の機械音も小さく、誰もいなくて少し、落ち着く。
 今まで働いていた時間が蘇る。仕事ができるようになり今はある程度の評価もある。
 傍から見たって申し分ないはずだ。
 それでもふと思うことがある。
 仕事中は何も言わないけど……。

「やりたくない、こんな仕事」

 もともとあがり症だと周りから見られないが、人間関係はいつも不安を感じていた。
 周りからは器用そうに見えるようだが、本当は器用じゃないから、いつもプレッシャーに押し潰されそうになる。

「本当は、辞めたい」

 今やる作業は段ボールを積むだけなのに、これから先のことを考えると、どうしようもなく逃げ出したくなることがある。
 ここは誰もいない。
 だから少しだけ弱音をはいて、心を落ち着かせた。
 そうしたらまた、前を向けるはずなんだ。
 そんな暗示をかけようとした時

「たけ」

 振り向くと、エレフが立っていた。

「エレフ」

 足音もエレフが台車をひいてきた音も、俺はどうやら考え事をしていて聞こえていなかったようだ。
 疲れてるのかな? 独り言も聞かれたな……そう考えていると

「たけ。これ、一人でやってるんですか?」

と言い、エレフは不思議そうに台車に積み上げられた段ボールを見ている。

「え? あ……まぁ。でもいつものことだよ」

 エレフは少し顔を歪ませた。でも、すぐに元に戻った。

「たけ、手伝います!」
「え?」
「いつも通りこの台車の段ボールを一番後ろに、今置いてある段ボールを前に出すんですよね?」

 そう言ってくれるのは嬉しいけど、エレフも上で仕事を任されてるはずで、すぐに戻らなきゃならないはずだ。

「いいよ……エレフ」
「任せてください!」
「え? おい……エレフ? えっ!?」

 任せてくださいと言うと、あの重い段ボールをエレフは4つひょいと持ち上げる。
 ……あれ全部で四十㎏あるんだぞ。

「凄ーっ」
「これはすぐ終わりますよ。たけも手伝ってくださいー」
「おぉ……」

 エレフがひょいと段ボールを順番に移動させ、あっという間に作業が終わった。

「終わりましたー。じゃあ行きます。たけ、また後で」

 エレフはあっさり段ボールを置いて帰っていく。

「……ありがとう、エレフ!」

 その背中に声をかけると

「時間少し短縮したから、ここで少し休憩して、上に来ればいいと思います!」

 遠回しにさぼっていいととんでもないことを言っている。
 けど、優しい。
 屈託のない、エレフの笑顔。
 心の中に温かい光がこぼれていく。

「あ、エレフ危なっ! あ……」

 後ろをみて歩いていたせいかエレフは台車ごと前方の柱にぶつかり、少しよろめいた。
 少し恥ずかしそうにして、人差し指を口に当ててエレフは"秘密"のポーズをした。
 何故なんだろう?
 エレフといると、いつも笑っていられる。

「たけー」
「ん?」
「たけが困ったとき、いつでも助けますよー」

 少し手を上げて、エレフは去ってく。
 ダメな気持ちを否定せず、深くも聞かず、分かってくれる。そっと、はげましてくれる。
 エレフの背中を見ていた。

「……ありがとう」

 エレフには届かない声で、俺はそっとつぶやいた。
 エレフがここにいることが、どんなに大きいことか。
 だけど今、救われれば救われるほど、どうしようもなく怖くなる。
 いつか、この光を失ってしまうんじゃないかって。

***

 仕事が終わると、いつものようにエレフとバス停まで一緒に帰った。
 帰っているときにエレフは唐突に言った。

「私の両親は、もういないんです」
「え?」
「交通事故にあいました、日本で」

 交差点は見晴らしのいい場所だったにも関わらず、エレフは両親と歩いてるときに飲酒運転の車と接触したと話した。

「私は一番道路から離れていたので、運良く擦り傷程度ですんだんですけどね」
「そっか……」

 エレフも苦労してるんだと、心が苦しくなった。

「辛いよな……」

 次の言葉がなかなか言えずにいると、エレフは首を振った。

「前の仕事の時はそう思ってました」
「前の仕事の時は……?」
​「十歳の時でした。私が、どうしても日本のアニメや文化が見たいと我慢できずに、両親にねだって旅行に連れてきてもらったんです。……その旅行中に、事故は起きました」

​ エレフの瞳が、沈む。

​「それから僕はアメリカの祖母の家で育てられました。穏やかな会話はしていた、でも『お前が旅行に行きたいなんて言わなければ、あの子たちは死ななかったのに』……祖母の目は、いつもそう僕を責めていました。僕も、自分を責めてしまって。僕は、愛する人を殺してまで生き残ってしまった、出来損ないの命だと」

 エレフは言葉を重ねた。

「だから、逃げるように日本に来ました。日本語も、ほとんど喋れないまま、ただ両親との思い出があるこの国なら何かが変わるんじゃないかって、必死に貯めたお金で飛行機に乗ったんです。言葉が分からなくて何度も心が折れそうになった」

 感情を押し殺したような、静かな告白だった。

「でも、ここにはたけがいる」
「え?」
「たけといると面白いし、辛くない」
「そう……?」

 いつも笑わしてもらってるのはこっちで、こっちはなにもしていない気がするけど

「この前の電気屋さんも、楽しかったし」
「うん」
「ログインパスワードの話も楽しい」
「ずっと言ってるよな、エレフ」
「たけといると面白い」
「エレフが面白いんだよ」

 エレフはにっこりと笑う。

「たけが今の私の家族です」
「え?」
「家族、大事です」

 はっきり言うから少し照れてしまう。
 そんな大事に思われるようなこと……していないのに。

「そんな、大袈裟な……」

 思わずそういうと

「本当にそう思ってます」

 エレフはにっこり笑うので

「ありがとう、エレフ。俺もエレフは大切な家族だ」

と返すと

「ありがとうございます! じゃあこれをたけにあげます」

 エレフは俺の手をそっと握り、俺の手のひらにそっと何かを乗せる。
 みると神社の朱色の御守だった。金色の刺繍で、四仕神社と書かれてある。

「これは?」
「日本の神社は古くからのしきたりを大事に未来に受け継いでいて、親交を深めています。きっとたけのことも守ってくれますよ」
「わざわざ買ってくれたの? 俺のために」
「……ひきましたか?」

 エレフが苦笑した。俺が静かに首を横に振ると、エレフはほっとしたようだった。

「四仕神社って……知らないな」
「バス停でバスを待っていた時に目の下にほくろのある、小学生の男の子に神社のことを教えてもらいました」
「へえ」
「漢字というのは全て線の組み合わせ。『四』という字も、『仕』という字も、バラバラにすればただの線です。 でも、合わさると意味になる。すべては人と人との縁をあらわしている……線と線が離れ離れになってもその線が消えるわけじゃないと、その子は言っていました。人と人の縁を繋ぐ。そんな言い伝えのある神社のようです」
「……素敵だな」
「はい」
「教えてくれた小学生の男の子は、なんていう子だったの?」
「バスがきて行ってしまったのでその男の子の名前は分かりませんでしたが、一緒にいた弟さんの名前は分かります」
「弟さん?」
「弟さんは『みなと』と呼ばれていました」
「みなと、くん?」
「……たけにもいい縁がありますように」

 エレフがにこりとした。俺は御守を見つめる。エレフは俺がいないところでも俺のことを考えて思いやってくれている、そのことが
ただ単に、すごく嬉しかった。

「財布に入れておこうかな」
「はい。ところでたけ、今度の休みは暇ですか? 映画行きましょう」

 エレフはぱちんと手を叩きにこりと微笑んだ。

「いいよ」

 俺に反対の理由は微量にもなかった。

***

「きた……!」

 休みの日、朝、エレフからメールが来た。

「たけ。興野襠泡瀬派銃児」
「……えぇ!?」

 エレフのいつものメールが、今日はさらに難題だった。

「レベルが高い……!」

 少し笑ってから、頭をフルに使う。

「興野=今日のまでは読めるんだけど、次見たことない漢字だな。飛ばして次の漢字読むと……あわせはじゅうじ。あわせって何だよ……?」

 そして行をあけて

「駅乃甲斐佐津愚痴!」

と送られてきている。
 思わず携帯の画面をじっとみた。
 えき、の、かい、さ、つ、ぐ、ち。駅の改札口!

「ということは……泡瀬は……待ち合わせか!」

 すぐに携帯で、読めなかった襠の漢字を検索してみた。

「これ、まちって読むんだ……! おぉ……」

 朝から少し疲れた。そして笑えた。

***

 エレフと駅で待ち合わせて、映画館へ向かう。
 街のなかは人だらけ、さすが日曜日といったところだ。

「なぁエレフ。今日は、何の映画見るの?」
「アクションがいいですね」

 映画館に到着すると、ロビーにはいくつもの鮮やかなポスターが並んでいた。
 俺たちはその前に立ち、どれが面白そうか顔を見合わせる。

​「この爆発してるやつ、強そうですね! 飛んでます!」
「あはは、確かに。この映画字幕もあるけどどうする? 英語のやつにしたい? 俺は英語分かんないけど」
「たけ、何言ってるんですか? 今は日本にいるんだから、選ぶのは日本語の字幕なしです!」
「あはは」
「英語なんか全然いりません!」

 エレフはなんか変なところでストイックなアメリカ人だった。
​ 壁に掲げられた上映スケジュール表を確認する。もちろんどれも日本語表記だが、エレフは熱心に数字を追いかけていた。

​「たけ、これ! ちょうどあと十五分で始まりますよ」
「お、本当だ。タイミングいいな。よし、これにしよう」

 ポスターの迫力とちょうどいい上映時間に背中を押され、俺たちはチケットを購入した。
 入場までの十五分、まずは売店へ向かう。

「エレフそんなに食べるの?」

 飲み物だけを頼んだ俺の隣で、エレフは迷わずこの映画館で一番大きいバケツのようなポップコーンを指差した。

「もちろんです! ポップコーンがない映画なんて、映画じゃありません!」

​ 誇らしげに巨大なポップコーンを抱えるエレフと、シアターの席に着く。
 映画が始まると、彼はスクリーンを食い入るように見つめながら、機械的な正確さで手を動かし続けた。
​ そして二時間後。
 エンドロールが流れる頃には、あんなに山盛りだったポップコーンは綺麗に空になっていた。

「すごー」
「映画見る時じゃなくても、毎日食べます」
「へぇ!」
「たけは、好きじゃないですか?」
「うーん……まぁ嫌いではないよ?」
「じゃあ今度お家にある美味しい変わったポップコーンを持っていきます」

 正直、ポップコーンはどれも一緒のような気もするが、エレフの好きな変わったポップコーンが気になった。

「今度会ったとき、持ってきて」
「はい!」

 エレフは、目をキラキラさせて頷いた。
 映画を観たあと、その近くのファミレスでごはんを食べることになった。
 あんなにポップコーン食べて、まだ入るのかと俺は心の中で密かにツッコんでいたが、エレフの食欲は止まらない。
 飲み放題のドリンクバーでエレフは、コーラとバニララテをミックスさせていた。

「美味しいの、それ?」
「知りません」
「えぇっ!」
「オススメらしいので」

 席につくと確かにメニューにオススメで書いてあった。
 エレフが一口飲んだ。

「美味しいですよ?」
「どれ?」

 エレフに少しもらい飲んでみると、少し甘くて美味しかった。ふわりと漂う優しい匂いにほっとした。
 料理がくるまで、今日の映画の話をして、最後は、やっぱりエレフの好きなログインパスワードの話になった。

「鍵って何?」
「ログインパスワードでゲートを開くとでてくるらしいんです」

 聞くとログインパスワードを唱えて、会いたい人に会いに行くときに気づくと手に小さな鍵を握っているらしい。

「鍵か……」
「言われているのは、会いに行った人が金色のハートの鍵を握っていて、でも、会いに行けたら、一瞬で消えるらしいです」
「金色のハートの鍵……」

 何故それを握りしめているのだろうか?

「鍵は一つじゃないらしいです」
「ん?」
「もう一つ、鍵があるらしいです」
「もう一つの鍵?」
「それがどんなものか、知らないです」

 エレフの話を聞きながら、ログインパスワードの噂は、結構手が込んでるんだなと思っていた。
 ご飯を食べてからその話をしばらくしていると

「あ、そろそろ終電だ」

 時間になり、駅でエレフと別れて家に帰った。

***

 家に帰ると、両親はまだ帰っていなかった。
 時刻は0時半だ。
 しんと静まり返り、洗濯物も散乱している。

「ったく」

 一枚一枚服を回収して、両親が喧嘩して散らかした部屋を片付けていく。
 ここ最近はこんな感じだ。
 小さい頃から、ちょくちょく喧嘩はしていたし、部屋が散乱したままの状態のままであることが何回もあった。
 両親の喧嘩は最近はとても酷くなっていた。
 お互いに手が出ることはない、でもそれは今の段階で、手が出るのも時間の問題。
 もうすぐ、離婚する。それは見て分かっていた。
 この間

「お前は成人してるから、一人でやっていけるな?」

と父親に言われた。

「この家は、良介が好きに使えるからね」

と母に言われて、ああ、二人ともでていくんだと思った。
 感じてはいたけど、いざとなると、信じたくなかった。
 俺は……? 置いていくのか……?
 きっといつもみたいに、ささいな喧嘩で……きっといつかは、いつかはって。
 俺はきっと、家族だと「信じていた」じゃない。「信じていたかった」だ。
 リビングの、机の上には置き手紙が一枚のみあって、もうここには戻らないと書かれてあった。
 自分でも今の自分の感情がわからない。
 頭が真っ白だった。でも、分かっていたことだ。いずれはこうなることぐらい。
 仕方ないんだと、しばらく立ち尽くしてたとき、何故か、エレフの顔がよぎった。
 さっきまで会っていたからだろうか。

「困ったときは助けます」

 頭の中で声がした。そして思い出す。

「たけは、家族みたいに大事」

 俺は、捨てられたのかな。
 これからのことを考えると今後両親が俺に会いに来るとは思えない。

「家族って、何だろうな……」

 冷静な自分がいるはずだった。

「家族って何?」

 昔から喧嘩してた、あれのことだろうか。
 涙がこぼれていることに、俺はようやく気がついた。
 人の縁はある日突然あっさりと切れる、血が繋がっていたとしても。
 近くにあったコップを床にたたきつけ、ぱりーんと甲高い音が鳴った時、どうしようもならない現実をひどく、理解した。

***

 次の日。

「竹、これ頼むわ」

 昨日と同じように、台車に荷物が置かれている。

「はい」

 二個上の先輩の指示でエレベーターで地下に行って今日も段ボールを下で整理しなくてはならない。
 気合いをいれなくては……前にエレフが手伝ってくれた分、努力しなくては。

「いつも悪いな、竹。お前がいてくれて助かるわ」
「あ、いえ。じゃあ行ってきます」
「何かあったら、いつでも戻ってきて」
「はい」

 先輩に返事をすると、台車を引いて、エレベーターに乗り、地下に降りた。
 地下につき、エレベーターから降りたところですぐ気づいた。

「あ」

 エレベーターのすぐ近くに、携帯電話が落ちているのを見つけた。
 工場内は、主任のみ携帯電話を持つことが許されているが、地下に荷物を置く時に従業員がここで、さぼっている情報もあった。
 携帯持ち込んでるやつ、本当にいるのか。しかも落としてる。

「怒られるぞ……誰のだ」

 後ろめたい気持ちはあるが、携帯をチェックする。

「え……」

 チェックすると、それは主任のだった。同じ機種だなと思ってたけど

「主任もこういうとこあるんだな」

 普段は仕事の仕方とか鞄の中身とか、几帳面でしっかりものの主任がうっかり携帯を落とすなんて……。
 持ち主も分かったし、携帯の中見るのは、もうやめよう。

「戻しにいくか」

 エレベーターのボタンを押した。
 ーーその時に何が起こったかは、瞬時に理解できなかった。
 床に体がたたきつけられた。
 段ボールが崩れてくる。起き上がれない。
 ふと頭を隠して身を守ったとき、地面が異様に揺れていることをやっと自覚した。

「地震……!」

 立っていられないほどの揺れが続く。
 しゃがみ込むのが精一杯で、何も考えられなかった。
 ようやく揺れが収まり、辺りを見回す。積み上げられていた段ボールの一部が倒れ、中のお菓子が散乱していた。幸い、自分の方に直撃することはなかった。


「とりあえず上に」

 エレベーターのボタンを押した。反応がない。

「さっきの地震で止まったのか……?」

 エレベーターの隣には扉がある

「階段……!」

 非常用階段の扉を開けようとしたが

「開かない」

 何故だろう。何度試しても開かない。向こう側で何かがつっかえているみたいだ。
 ここは地下。エレベーターと階段以外に上に戻る手段がなかった。

「閉じ込められた……!?」

 何度も何度も扉をなんとか開けようとして、開かなくて、それでも何度も試した。
 自分が冷静でないことは、心では分かっていた。
 上がどうなったのか不安だった。
 少しして腕時計に目を向ける。
 エレベーターを降りて四十分ほどたっていた。疲れて、その場にしゃがみこんだとき、何故か両親の顔が浮かんだ。
 頭が真っ白になって、泣きたい気持ちになった。
 昨日は両親が出ていって、それだけでも疲れていたのに、今日は地震で一人地下に閉じ込められた。
 座り込んだまま膝を抱える。こんな状況で過る顔は、大切な人の"笑顔"。
 最悪な状況では立ち上がれるように、自分を励ますように、自然とでてきてくれる……そうじゃないのか?
 一瞬過った顔は、確かに優しい顔はしていた。

 "お前は成人してるから……一人でやっていけるな"

 "この家は良介が一人で好きに使っていいから"

 過った顔は、いつかの光景。あの最悪な顔だ。

「あきらめろ」

 頭の中にふとそんな、自分の声が聞こえてなんだか納得してしまった。

 "偶然、そうなったんだ"

 そう思える自分が小さくなる。

 "ささいなことだ"

 何故、そう思えない?
 そのまま立ち上がる気力すら沸かず、ただ時間が流れていった。
 助けを呼ぶにも、どうしようもなかった。
 エレベーターも止まり、非常用階段の扉は開かない。窓から出ようにも、地下だからそれがあるはずない。
 閉じ込められて、三時間たった。
 上はどうなっているのだろう。みんな無事なのか……?

「……助けは来るのか?」

 いつもはここでも、聞こえる上の機械音も一切、聞こえなくなっている。
 もう人はいないかもしれない。

「あきらめろ」

 そういうことなんだ。その時、一瞬過った。
 それはさきほどの最悪な顔ではなく、自分が思い描いていた通りの暖かい"笑顔"
 もうひとつの、家族……?

「え……?」

 "たけ"

 頭の中で、声がした。

 "困ったときは助けます"

 あぁ、そうだった。俺には……。
 あいつは無事だろうか?

「エレフ……」

 確かめたい。そして気づいた。
 ここから抜け出す方法が、ある。
 地震でどこにいったのかは分からないし、壊れている可能性もあるが見つかるはずだ。
 先程手放してしまったが、主任の携帯電話がどこかにある。
 散乱したお菓子と段ボールの中から、ようやく携帯を見つけた。

「よし……まだ使えそうだ」

 電池はまだ残っている。
 着信履歴がある。
 この会社の電話番号だ。
 今日の日付のものではない。
 かけてみる。

「もしもし……平塚製菓株式会社ですが……?」

 電話口は主任の声だ。

「主任? ……竹です。」
「え……? 竹……!? お前……今、どこだ?」
「……会社の地下室です」
「地下……やっぱり!」

 主任の声色がさらに変わった。

「地震が起きて……」
「そうだ。地震が……それで、工場内で爆発が起きた」
「爆発……!?」

 主任は言った。

「従業員は避難を始めている。竹……まさか閉じ込められている、のか?」
「……はい」
「そうか……すまない。竹。お前のいるところへ今は行けそうにない……もう少し時間がかかる。社長も海外の取引で忙しくて連絡がとれず、ここでの責任者は息子の俺しか……」
「そう……ですか」
「そっちはどんな様子だ?」
「地震で段ボールが散乱して、エレベーターが止まって、非常口の扉が、開きません。火は特に……」
「そうか……こちらの爆発の炎は消火されてる。助けに向かいたいが地下の道は塞がれてるようなんだ。悪いが、待っててくれ」
「はい。みんなは……無事なんですか?」
「あぁ……怪我をしたやつはいるが大事には至らない、大丈夫。あと、エレフが」
「エレフが……どうかしたんですか?」
「エレフはちょっと外に買い出しを頼んでて。携帯に繋がらないし、あいつだけ、この事をまだ知らない」

 それを聞いて思った。
 "良かった"って。

 主任との電話を切った。

「また、連絡する」

 携帯電話の電池はまだある。けど、油断はできない。必要なときだけ使おう。
 非常階段の扉の前に座り込んで、そのまま静かに助けを待っていると……いつのまにか、眠っていた。腕時計が止まっている。けど、寝ていたのは、ほんの少しだったと、思う。
 時間を確かめるため携帯に目を向けると、ちょうどメールが来た。
 着信履歴は、三件。事務所からだ。気づかなかった。まだ救出には時間がかかるのだろうか……?
 メールを開く。

「え……?」

 "たけ。居間殻底似育"

「これ……」

 そして、少し息苦しくなった。

「けほっ……」

 煙……? 非常階段の扉の隙間からだ。

「なんで……?」

 火は消えたはずじゃなかったのか?
 扉から遠くの方だが音がする。もうすぐ、こっちにやってくる。
 思わず、扉から離れた。

「なんで……?」

 火は消えていないんだ。

「どういうこと、だ?」

 その時、分かった気がした。つまりこういうことだ。
 地震のときに起きた爆発はひどくて、最初から、助かる方法はなかった。
 だから……主任はあんな嘘を。

「……はは」

 気力のない笑いがこみあげる。

「あきらめろ」

 やっぱり、そういうことだ。
 ほら、また頭を駆け巡る……最悪な顔。
 家族にも捨てられた。主任にも。職場にも。
 生きたくても、誰かが言ってる気がする。これ以上進むなって。

「あきらめろ」

 何故か手が震えてきた。

「あきらめろ」

 思わず目を閉じたけど、感じてしまう、感覚。

 小さいけど、ひゅーっと……何かの音がする。
 その音は、だんだん強くなる。
 風?

 震えた手をなんとなく見たその時、
 手のひらに小さな鍵があった。

「え?」

 それは三つ葉の形をしている、金色の小さな鍵だった。
 手のひらにのってる感覚はない。

「あっ……」

 一瞬風が吹いて、その鍵は砂のように消えた。

「鍵……?」

「たけ!!」

 その鍵が消えて、後ろで声がして振り向く。
 そこに、すっと立っていた。

「エレフ……?」

 ふとエレフが手のひらを広げる。そこからハートの金色の鍵が、さきほどの鍵と同じように消えるのを見た。

 "鍵を握ってるらしいです"

 "もう一つ鍵があって……それは知りません"

 エレフと昨日ファミレスで話した。
 ……ログインパスワード。

「たけ……こっち!!」

 扉から遠ざけるようにエレフが腕を引っ張ったとき、やっとエレフの存在が確かなものになった。

「エレフ……どうやって?」

 少しだけまだ夢を見ているようで、そう聞いてしまっていた。

「たけ。今の鍵見ましたよね?」

 エレフは柔らかい笑みを浮かべた。やっぱりそうなのか……。

「本当に……?」
「そんなことよりもたけ! ここから逃げますよ!」 
「え?」
「ここでの爆発、思った以上に酷いんです」

 エレフは少し動揺しながら言い、自分の片方の手にヘルメットを二つと懐中電灯、もう片方の手に濡れたタオルを強く握りしめていることに気づいた。
 エレフはそれをみて

「あぁ、よかった! 持ってこれたんですね!」

​と一人で驚き、はしゃいだ。

​「火事がない工場の入り口で、これを用意してから唱えたんです。ログインパスワードって便利ですね。たけ。これをかぶれば、火も多少平気ですよ!!」

​ そう言ってヘルメットとタオルを一つずつ差し出した。

「あと、これも! 暗いと逃げられませんから」
​「エレフ……」

​ 渡された懐中電灯の光が、足元の瓦礫を照らし出した。
 無言でそれを受けとると、落ち着いた声で、エレフは言った。

「私がきたから、大丈夫ですよ」

 あぁ……なんでだろう。
 少し笑えて、さっきとは違う意味で泣きそうだ。
 エレフは扉の前に立ち、ドアを押し始めた。

「……っ!!」

 エレフは力がある。
 それは、いつかに段ボールを持ち上げたことで知っている。
 あれだけ開かなかった扉が、開いた。何かがつっかかってると思ったら違った。ドアの上の方が地震で歪んで変形して出られなくなっていたようだ。
 ……ありがとう、エレフ。そう思うのに。

「確かあそこに消火器が……」

 エレフは近くにあった消火器を手にして

「とにかく火を消して進みますよ」

と真剣な顔をした。
 見える限り、まだ階段まで到達していないようだ。でも火の音は確実に大きくなっている。

「なぁ、エレフ……」

 嬉しいはずなのに

「たけも、消火器持って……」
「……何で、助けに来たんだよ」
「え……?」

 こんな時に、俺は最低だ。
 どうしても、進めない。
 涙が溢れた。
 エレフは、言ってくれる。

「家族だからです」

 そう、言ってくれるのに。

「家族……? 俺は、昨日家族に捨てられたんだ」
「え……?」
「家族がわかんねーよ……!」
「……たけ」
「一人でやっていけるな。家は好きに使っていいからなんて…もう家に戻らないとか……メモがあって……俺がいらないって……ことだろ?」
「たけ」

 大きな手が俺の肩に触れたときだった。俺はその手を振り払うように、自嘲気味な笑いを漏らした。

​「家族……笑わせんなよ」

​ 俺はエレフを見た。

​「俺の親、小学生からの幼馴染だったんだってさ。ずっと一緒で、強い縁で結ばれてるはずだった。でも、生活に疲れて、育児に疲れて……最後は『家族なんかいらない』だ。血の繋がりも、長い年月も、あんなにあっさり切れるんだよ」

​ いつしか俺の声は震えていた。怒りよりも、もっと深い「諦め」がそこにはあった。

​「……信じてたんだ、昔は。でも、あいつらは俺を置いて消えた。形があるものは全部壊れるんだ。エレフが言ってる『縁』とか『家族』なんてのも、ただの幻想だよ」

 一度口を閉ざしてから、再度弱々しく開く。

「俺は、生まれてきた意味ないんだよ……」

 俺は、なんて最低なんだろう。
 エレフは黙って、少しうつむいてしまった。せっかく助けにきてくれたのに……でも、進めない。
 あきらめるんだ。
 "生まれてきた意味なんてない"
 もう、疲れたんだ。
 ……ログインパスワード、エレフのさっきの魔法はなかったことに、してくれないか?
 エレフは外に買い出しに出てて、俺がここにいたことは知らなかったことに、してくれないか?
 気づかないままで……エレフだけは……。
 また涙で、視界がぼやけたとき、エレフは俺の手を掴んで、強く言った。

「家族がどんなものかは、これから先、わかります」
「え……?」
「それよりも、生まれてきた意味なんて探さないでください。生まれている時点で人は何かしらの意味を持っているんです」

 涙が溢れる。また、落ち着いた声がする。

「たけ。その意味が分かった時、きっと、たけの力になります。あきらめないで、今を生きて、それを探してください」

「エレフ……」

 エレフは掴んでいた手を離して、背を向けて行こうとする。

「何でだよ……!」

 わずかな、声しか出なくて

「何で、そんなに……」

 その時、エレフは背を向けたまま、立ち止まって、言った。

「覚えていますか? あの日、たけは、私に言ってくれたんです。"大丈夫、エレフ?"って」
「え……?」
「出勤初日に、たけがそう言って伸ばしてくれた手。家族をなくして、ずっと一人だった私に差し出してきた手が、ささいなことじゃなくて、どれだけ暖かかったか……一生忘れません」
「え……?」

 エレフは少しだけ振り向いて、そっと笑った。

「……たけ、行きましょう。助からなくなってしまいます」

 そして、また鋭くなった目で扉へと歩き始めた。
 その時、思った。
 エレフといると、面白い。
 それは、楽しいだけじゃなくて……こんな苦しみでさえ、一緒なら乗り越えていけると思ったから。

***

 気づいたら、ベッドの上だった。

「たけ」

 隣で、エレフもベッドの上にいた。
 二人で顔を見合わせて、同時にため息が出た。

「危なかったよな……?」
「もう無理かと思いました」

 エレフも胸をなでおろす。
 今でも鮮明に、いや、半分くらいはパニックで思い出せる。
 それはあの火の中で、エレフは勇ましく炎に立ち向かったものの、不器用なエレフは消火器の使い方に失敗し、消火器が勝手に暴れだした。なら俺がと、やってみたら俺も失敗して、かなり慌てて、あの危機的状況で、どっちが消火器を使うか相談して、結局どっちが使ったか、何故かそこだけお互い思い出せないほど慌てて、

「どうするエレフ?」
「もう、無理かもしれません」
「えー!」
「とにかくこっちに進みましょう!」
「エレフ、その先、火の海だけど!?」
「じゃあ、こっちで!」

 爆発音とか、炎とか、とにかく怖かった。
 どう逃げたんだろう?
 他の消火器もどう探したのかも、思い出せない。けど、想像よりも消火器がたくさんあって良かった。
 逃げ出せて良かった。

「本当に、死ぬかと思った」

 エレフと同時に言葉が出て、二人で笑った。

「……何かお腹すきました」

 エレフがそう言うと、安心したのか、起きたばかりなのに、お腹がすいた。

「お腹……すいたね」
「何ですか? これ」

 ふと見ると、机の上にコンビニの袋がある。
 中には飲み物と、ゼリーが入っていて、主任からの手紙が入っていた。

 "ごめん、竹"

 手紙から目が離せずにいると

「たけは、主任を許しますか?」

とエレフが聞いてきた。
 なぜだろう。少しは黙りこんでしまったけど、「うん」って言って……簡単に許してしまうのは。
 だって今思えば、あの時電話の向こうで聞いた主任の声は震えていて、自分を完全に見捨てた人の声じゃなかったから。
 俺はふと財布を取り出す。エレフに貰った朱色の御守を手に取った。

「この御守のご利益があったのかもしれない」

 エレフは俺の隣でそっと御守を見つめ、にこりとした。
 しばらくして看護師さんが来て、傷だらけではあるものの、深い損傷はないため、二、三日で退院できるみたいだった。
 とりあえず主任の持ってきたゼリーを、二人で食べることにした。

「もっと美味しいもの、食べたいな」

 そう言うと、エレフは言った。

「退院したら、食べにいきますよ」
「……何を?」
「ポップコーン」
「……え?」

 そういえば映画館に行ったとき、エレフが変わったポップコーンがあると言ってた。

「ポップコーンって……!」

 笑えてくる。退院したらポップコーンなんて聞いたことない。でも……なんか、食べたいって思った。

「……分かった」

 そう頷くと、エレフは無邪気に笑った。
 あった出来事が嘘のように思えてくる。

「そういえば、ログインパスワード開いてハートの鍵はみたけど、もう一つの鍵の秘密分かりませんでした」

とがっかりするエレフに

「もう一つは、三つ葉の形の鍵だよ」

と教えると

「えぇ!? たけ。それ、見たんですか? いつですか?」

と言いエレフは、食べていたゼリーを、カップごと落とした。

「あぁ! 落ちたよ……!」

 大興奮のエレフは、はっとなった。そして、こぼしたゼリーを、つまみにくそうに拾いつつ笑って言った。

「……やっぱり、たけといると、面白い」

 そういうエレフをみて、思った。
 ログインパスワード。
 エレフを連れてきてくれて、ありがとう。