「ログインパスワード特集だって」
中学校の授業を終えて学校指定の鞄を持ったまま、私は坂口七菜の家に遊びに来ていた。
ふかふかのソファーに隣同士で座って、目の前の机にオレンジジュースの入ったコップを並べて、一緒にファッション雑誌を見ていた時のことだった。
「ログインパスワード特集?」
私は首をかしげる。
直訳すると暗証番号の特集ってことだろうか?
何、それ……?
まったく意味がわからず、私は困惑した。
「歩美先輩はさ、こんな誰もが知ってる噂に鈍感なんだね!」
七菜にくすくすと笑われて、私は心に針を刺された気分になった。
「え、そんな有名なの……?」
「平井歩美先輩?」
何故フルネームで呼ばれたのか疑問に思いながらも
「何?」
と静かに聞いてみると
「ログインパスワードは、会いたくても会えない人を心の中で思って"111411"って強く唱えると、一瞬でその人に会いに行けるゲートを開く、凄い魔法のことなんだよ」
と七菜はキラキラした目で、言った。
「へぇー……」
ますます意味がわからず、適当な相づちをする。
「もっと興味持ってください!」
七菜にゆさゆさと肩を揺らされ、私は無抵抗のままでいた。
そう言われても…… 訳の分からないことを聞かされて、興味を持てなんて無茶を言わないでほしいと思う。
「ログインパスワードのゲートを開くには、三つのルールがあるんだよ」
「ルール?」
「そう、三つ。これ」
そう言って七菜はにこやかな笑顔を浮かべたまま雑誌を指差した。
そこに三つのルールが書いてあった。
ログインパスワードのゲートを開くには
①心の中で111411と何度も唱えること。
②会いに行く人が故人ではないこと。
③強く願うこと。
雑誌には実際にゲートを開いた人のコメントが載っていた。どれも幸せな声ばかりで、不思議とからかうような言葉はどこにもない。
「七菜はこれ、信じてるの?」
何度か瞬きをしてしまってから、そう聞いてみる。
「まさか。噂はみんな知ってても信じてる人なんていないよ。でもこれ、よく特集やるの。見てると夢があって、なんか楽しいんだよね」
七菜は目を細めて微笑んでいた。
ログインパスワードの説明を聞いてもやはりよく分からない。でも七菜の楽しそうな顔が見られて、私はほっとした。
七菜は生まれつき体が弱く、中学校にも、あまり通えていなかった。
家の中で過ごすには大きな問題はないけれど、七菜は外のリズムについていくのは体力的に難しいようだった。
私と七菜は家が近く小さいときから交流が深くある。七菜は学校では二つ下の後輩になるが、私には大切な親友だった。
最初に出会ったのは確か小学生の頃で、学校帰りに工事のため、たまたまルートを変えて七菜の家の前を通りかかった時だった。
『よかったら、話し相手になってくれない?』
七菜はベランダへ続く掃き出し窓を開け、縁側に座りながら明るく初対面の私に話しかけた。
若干人見知りの私は、学校の帰り道に七菜に話しかけられてランドセルの持ち手をぎゅっと握り、どきどきしながら七菜の側に歩み寄る。促されるまま縁側にそろりと座った時
『中身元気なんだけどさ、ちょっと体が弱くて、あんまり外に行けずになかなか人と話す機会なくてさ』
普通は隠したがりそうな内容をあっけらかんと話す彼女に、最初は驚いた。けど
『オレンジジュースでも飲む?』
と七菜に手招きされ部屋の中に入った時、ふと机の上を見てしまった。
『な、なにこれー!』
七菜の机に置いてあった服のデザイン画はワンピースからシャツ、刺繍にこだわったデザイン画がたくさんあった。
『あー、それは私が描いたんだ』
『あ、あなたが?』
こくりと勢いよく頷き笑った彼女。
七菜はデザイン画のことをさほど気に留めていない様子だったが、デザイン画はどう見ても天才的にしか思えなくて、おしゃれな人に憧れを持っていた私は一気に彼女に興味を持った。
『私、知識はないけど、デザインに興味あるなら描いてみる?』
なんて色鉛筆を貸してくれて、
『最初は好きなようにたくさん描いてみて、その後で迷ったら消すの』
『消す?』
『初心者のうちは色をたくさん使ったり余白を埋めたいとか足し算してしまいがちだけどね、実は引き算をするほど、本当に伝えたいことが相手に届くんだってさ』
彼女の優しい横顔を見て、率直に尊敬した。
『引き算……』
話していると、あっという間に時間が経っていた。
『またおいでよ』
明るくてかわいくて、優しい、そんな彼女は今一人ぼっちなのかもしれない。だから私は、学校に行けない七菜に寂しい思いをさせないようにと思って、あれからちょくちょくとここに来ていた。でも……七菜の笑顔を見て元気をもらっているのは、私かもしれないと思う。
「そういえば、七菜のクラスの林先生からプリント預かってきたよ」
過去の思い出からそっと抜け出し、自分の鞄の中を覗いて、学校の名前が入った茶色の封筒を七菜にすっと渡した。
「ああ、ありがとう、歩美先輩」
七菜は目を細めるように顔をくしゃりとさせて、プリントの入った封筒を、私からそっと受け取った。
「体は大変だろうけど、少しでも外に出られそうなら、みんなで待ってるって言ってたよ」
「そっか……嬉しいな」
この笑顔を見てると、七菜は休みがちだけど学校が好きなんだなと思った。
七菜は私と、約束をしてくれている。
『いつか私の描いたデザインで、お揃いのワンピースを着ようね』と。
***
次の日。お昼になり、学校の教室で友達三人と机をくっつけてカレーパンを食べていた時
「歩美せんぱーい」
と呼ばれたので声のする方を向くと、教室の扉のところで私に向かって軽く手を振る女の子がいた。
水崎舞ちゃんは、七菜のクラスメートで、学級委員長を務めている子だった。
「どうしたのー?」
カレーパンを机の上に置き、舞ちゃんの所まで行く。
「ごめんなさい、先輩。また、七菜ちゃんにプリント届けるの、お願いしていいですか?」
舞ちゃんは片方の手を顔の前で立てた。いつも七菜のプリントの入った茶色の封筒は林先生から直接預かるか、林先生が忙しいときは舞ちゃんが代わりに私のところに持ってくる。中には学習プリントや学校行事のプリントが入っているらしい。
「いいよー。いつもありがとう」
舞ちゃんから、封筒を受け取った。友達とはいえ人のものは覗かないようにしている。
「いえ、こちらこそ……いつもごめんなさい。私が本当は届けるべきだけど、塾があって……」
眉を下げて舞ちゃんは俯いた。
「大丈夫ー、届けとくね!」
いつもありがとう、そんな気持ちも込めてそう言う。
「あと、歩美先輩ごめんなさい。これもお願いできませんか?」
舞ちゃんはラッピングされたピンク色の袋をすっと私に差しだした。
「これは?」
と聞くと
「あの、今日七菜ちゃん誕生日なので、クラスみんなで少しずつ出して買いました」
と舞ちゃんはそう言い、少し照れながら笑った。
「わぁ、プレゼントだね! 七菜喜ぶよ! 渡しとく!」
私はプレゼントを受け取る。
心臓がどくりと鳴った。
最低なことに私はすっかり七菜の誕生日を忘れていたから。
「じゃあ、お願いしますね!」
舞ちゃんは丁寧に私にお辞儀して、自分のクラスに戻っていった。
***
学校が終わると、私は学校から近い人気の服屋さんに行った。
そこには服もそうだが可愛い帽子もたくさんある。
七菜は帽子が好きだった。だから真っ先にこの店を選んだ。
『帽子ってその小さな形の中にデザインがぎゅっと詰まってて好きなんだ』
以前に七菜がそう話してくれたのを覚えている。
「……どれにしようかな」
七菜の顔を頭に浮かべながら、あれこれと店内を見て回る。失敗しないように普段なら避けてしまう店員さんの話も自分から聞きに行ってみたりしながら、最終的に柄のあるものよりもシンプルで形が可愛いものを選んで、誕生日プレゼントにすることにした。
予算の都合で小さくはなってしまったけどホールのケーキも買った。
七菜は喜んでくれるだろうか?
自分の買ったプレゼント。
舞ちゃんのプレゼント。
学校のプリントの入った封筒。
鞄を揺らして、七菜の家に向かった。
玄関のチャイムを鳴らすと七菜が笑顔で出迎えてくれる。
私が学校終わりに七菜の家に行くと、七菜の両親はいつものように仕事でいなかった。
「入って、歩美先輩!」
七菜が玄関で招き入れてくれて、そしていつものソファに隣同士で座る。
「今日はね、七菜に渡したいものがあるの。お誕生日おめでとうー!」
私はそう言って七菜にプレゼントを二つとケーキを渡した。
「え、ほんとにいいの!?」
「もちろん!」
「ありがとー! 開けていい?」
七菜は目を細めるきらきらした目で聞いたので、私はにこりとして頷く。
「緑のラッピング袋は私で、ピンクは舞ちゃんがね、クラスみんなからってくれたものだよ」
と言うと
「じゃあ……歩美先輩のから見ようかな?」
そう言って、七菜は緑のラッピング袋を開けた。
帽子を見て、子供みたいな満面の笑顔を浮かべていた。
「かわいい、淡いピンク色ちょうど持ってなかったんだ。センスがあるね、歩美先輩」
「よかった」
「こういうシンプルでデザイン性のある帽子が欲しかったの、ありがとう!」
私はこくりと頷く。その弾むような声を聞き、喜んでもらえてなによりだと思った。
次に七菜はピンクのラッピング袋を丁寧にそっと開けた。
「くまのぬいぐるみだ」
少し大きめのくまのぬいぐるみだった。柔らかな茶色の毛並みのくまは目がくりっとなって可愛らしい。
「良かったね。七菜、ぬいぐるみ好きだもんね」
と言うと、少し間が空いたけど、七菜は嬉しそうに頷いた。
「よし! じゃあみんなには外に出て会いに行けないから、ログインパスワードでゲートを開いてお礼を言おうかな?」
「でたよ、ログインパスワード」
「111411、111411……」
「出来ないって」
「ふふっ。まー冗談はさておき、その箱はケーキじゃない?」
「うん、そう。七菜に」
「ケーキ食べたい!」
「食べよう!」
「うん!」
ローソクをたてて、その日は二人でお祝いをした。
七菜がふーとろうそくを消して、私がパチパチと拍手する。
「お誕生日おめでとう、七菜」
私はあなたのことが親友として本当に好きよ。
すると、七菜がふふっと照れたように笑って、手元のジュースのコップを見つめながら言った。
「ねえ、歩美先輩」
「ん?」
「小学生に戻りたいって思ったことある?」
唐突な質問に、私は少し考えてから答えた。
「そうだなあ、過去に戻りたいとかあんまりないけど……戻ったら勉強は楽になりそうだよね」
「あはは、確かに。小学校低学年の算数とか、今思えば簡単だもんね」
七菜は少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「七菜は、過去に戻りたい?」
「うーん、そうだね。あの頃はもっと、歩美先輩とただ楽しくお喋りしてた気がして」
「もしかしてあの頃より……体調悪くなっちゃった、とか?」
「ああ、ううん。昔のことを思い出しただけ」
七菜はふふっと笑った。
「歩美先輩、お礼をあげます」
「お礼?」
「はい。誕生日プレゼントのお礼」
差し出されたのは手のひらより小さな白色の封筒。
受け取り中身を確認すると、金色の刺繍で『四仕神社』と書かれた、朱色の御守だった。
「鞄にでもつけてください。歩美先輩に幸福が訪れますように」
ニコリとした七菜を見て、私は心の底から思ったの。
あなたは私の、光だって。
***
次の日。いつものように学校が終わって、七菜に貰った御守のついた学校指定の鞄を持ったまま、七菜の家のチャイムを鳴らす。
「歩美先輩!」
七菜が嬉しそうに玄関の扉をあけて、一緒に七菜の部屋に行く。
いつものように隣同士でふかふかのソファーに座ったとき、机の上を見た。
昨日舞ちゃんが送った誕生日プレゼントのくまが、私の送った帽子を被っているのを見つけた。
「あれ、可愛いね」
そう言うと
「何かふとやったら可愛いかったから飾った」
と七菜は笑った。
「あ、私、トイレ行ってくるね」
そう言って七菜は、部屋を出ていった。
帽子を被ったくまが可愛かったので、しばらく見たあと立ち上がって近づき間近で見つめてしまった。
「おしゃれになったね、くまさん。もう少し帽子の位置ずらしたらもっと可愛いんじゃないかな」
そんな思いでふとその帽子を取ったその時、
そこで小さな異変に気づいた。
くまの頭の後ろがどういうわけかかなり毛羽立っている。
「……何、これ?」
新品なのに一日でこんなふうになるのかと思うほど、くまの頭の後ろはばさばさだった。
じっと見つめながら固まってしまう。
「わわっ、歩美先輩!」
部屋に戻ってきた七菜が、私からくまをさっと取り上げた。
「ねぇ、そのくま後ろ毛羽立ちすぎじゃない?」
と聞くと
「少し汚れてたから、こすって洗ったの」
と七菜は言った。
私は思わず首を捻る。
「でも、昨日もらったばかりでしょ? 何で汚れたの?」
くまを差し出してそう聞くと
「えーと、飲み物……そう、コーラをこぼして……!」
目を泳がせて、不自然にぱちんと手を叩いて、何故か七菜はその場しのぎの言葉を繋いだように口を開いた。
「コーラなんて七菜飲まないじゃん」
「ま、まぁいいじゃん! そうだ、歩美先輩。私……明日学校行こうかな?」
七菜はわざとらしく顎に手を置いて考えるそぶりをしながらいきなり話題を変えた。
私はそれに、目を泳がせてしまいながらも
「体調大丈夫なの?」
と聞くと七菜は笑って
「最近、調子がいいから」
と言うので、それなら明日は一緒に登校しようと約束をした。
***
朝、早く家を出て七菜の家に行き、インターホンを押そうとすると
「あ、歩美先輩!」
丁度扉が開き、七菜が出てきた。
登校が待ち遠しくて仕方ないといった様子で、その顔は明るい輝きに満ちている。
「おはよう! 体調大丈夫?」
「うん! 早く行こー!」
家にいるときと違う七菜の制服姿は私の制服と同じはずなのに、私の目にキラキラ光って見えた。
二人で何気ない会話をして、学校に着いて、帰りも一緒に帰ろうと約束をして、私はほっとしながら自分の教室にきた。
あーあ、なんだろう。
なんであの子はあんなにも人生楽しそうなんだろう?
いいなと思う。
「おはよう! あっ! ちょっと来て歩美!」
友達が席に座り、私を手招きする。
「おはよう! 何?」
「歩美、この雑誌見てよー! ログインパスワード特集だよ!」
あんたもか。
少しうんざりした。でもその時、七菜がキラキラした目で、ログインパスワードの話をしてくれた時の顔が過る。
何故、笑顔がこぼれてしまうんだろう。
明るい七菜のことだ。
きっと舞ちゃんや、みんなと楽しくやっていると思うと、帰る時の彼女の話が今から楽しみでどうしても顔がにやけてしまうんだ。
***
授業が終わり、七菜と待ち合わせする。帰り道の七菜は、予想通りの明るい笑顔だった。
「楽しかったー! あー楽しかった!」
「何が楽しかったの?」
「とにかく楽しかったよ!」
おおざっぱな回答に疑問を抱きつつ、その姿を見ていると心の底からほっとする。
「それしまったら?」
七菜はプリントの入ったいつもの封筒を手にしていた。
「あー、そうだね」
「何で封筒持ってるの? 学校来たのに」
「先生がいつものノリで入れちゃったって」
「ノリって!」
七菜の肩を軽く押すと七菜がわざとらしくよろけて、きゃははと笑った。
「明日も学校行くの?」
と聞くと
「実は、明日は家族みんなでおばあちゃん家に行かなきゃいけなくて」
と言った。
平日におばあちゃん家に行くなんて
「なにかあったの?」
と聞くと
「みんなで集まるだけ。学校さぼって悪いけど」
と七菜は私にちょっとだけぺろりと舌を出して言った。
「ふーん」
学校を休むことはあっても、学校を休んで外に出ていくなんて珍しいなと思った。
その日も、私は七菜の家まで行く。
七菜の部屋で何気ない話をしてたらすぐ夕方になる。
楽しかった、だけどどこか胸騒ぎがして、いつもより時間が経つのが少し遅かった気がした。
「じゃあ私帰るね」
「うん、気を付けてね」
玄関で七菜と、七菜が動かして振っているくまのぬいぐるみに手を振り返して、私は歩き出した。
後ろでぱたりとドアが閉まった時に私はそっと一度だけ振り返った。
また明日ねと心の中で唱えて。
***
次の日。
自分の不格好な走り方なんて気にせずに息を切らして全力で走り、門が閉まる僅かな隙間を潜り抜けて、ギリギリでなんとか学校に間に合った。
いつもは余裕で間に合っているので、こんな日が珍しかった。
「久々に、焦ったなぁ……」
どうして寝坊なんかしてしまったんだろう?
教室に入って、私はほっとして席につく。
一瞬だけ椅子にだらりと体を預けて気持ちを切り替えると、担任の先生が入ってきた。
「起立ー」
学級委員のその声と共に立ち上がると、制服のポケットに入れていた携帯が震えた。
先生に見つからないようにこそっとポケットから携帯を取り出すと、七菜からメールがきていた。
"おはよう。歩美先輩! 今日学校終わったら昨日置いていった先輩の忘れ物を机の上に置いたので取りに来てください。家族みんなでおばあちゃん家いくから、私の家は誰もいないけど、郵便ポストの白い封筒に鍵入れとくから。勝手に家に入っていいからね!"
思わずぽかんと口をあけてしまってから口を噤み、考える。
忘れ物なんて、した……?
私は首をひねり、自分に問いかける。
一時間目の授業が始まっているが考えていた。
昨日七菜の家に行って、階段上がって部屋に行って、そこからソファーに座って、話をして、七菜と話して普通に鞄持って帰ったよね……?
鞄の中身を触ってないから忘れ物なんてしていないと私は頭の中で答えを出す。
私は先生に見つからないように机の下に携帯を隠して七菜にメールを打った。
"おはよう。私昨日忘れ物してないよ。忘れ物って何?"
いつもなら七菜は家にいるので、メールの返信が早いはずだが、何故か今日はすぐに返ってこない。
ゆっくりと指先で軽く机を叩きながらおばあちゃんに行くって言っていたからなぁと考えごとをしていたら一時間目があっという間に終わった。
忘れ物なんだろうと、凄く気になった。
天を仰いでしまってからふと鞄をみた時、はっとした。
いつも鞄についていた、Aのイニシャルのキーホルダーがなくなっていたから。
なるほど、キーホルダーか……!
七菜もキーホルダーだよって教えてくれたらいいのに。
忘れ物が分かりほっとすると、すぐにまたはっとする。
あのイニシャルのキーホルダーは、私の三つ上の姉にもらったものである。
よく物をなくす私は、しっかり者の姉からいつもこっぴどく叱られていた。
『なんでいつもなくすの!? 物は無限に湧いてくるわけじゃないんだよ? 自分の管理くらいいい加減しっかりして!』
キーホルダーがないと分かると不安になる。だって申し訳ないけど姉は鬼なんだもん。……姉にバレるとまずいと思った。
一刻も早くキーホルダーを取り戻さないといけない。
姉の怒鳴る姿を想像して震え上がった私は決断する。
「よし、二時間目は捨てよう」
「へ??」
近くにいる友達が反応する。
「私忘れ物を取りに行くから、二時間目抜けるね!」
友達の性格的に、学校抜け出すとか怒られるなーと思ったけれど
「帰ってくるんだよー」
と軽やな口調で言われたので笑って頷き、鞄は置いて教室を出た。
大丈夫と言い聞かせる。私はそんなに足が遅くない。
私はそんなに、やわじゃない。
***
学校を抜け出すと七菜の家まで走る。
学校から歩いても十五分の道のりだ。走るなら尚更三時間目には間に合うはず。できるだけ早く取りに行って学校に戻って、落ち着きたかった。
風をきって、もうすぐ七菜の家だと思った、その時だった。
「あら、歩美ちゃん?」
前からやって来る人物に声をかけられて、静かに驚いた。
「……七菜の、お母さん」
思わず立ち止まる。
七菜のお母さんは、私に近寄って早口に話し始めた。
「ごめんなさいね。ちょっとパートに遅れそうで急いでて……歩美ちゃん、学校は?」
「ちょっと七菜の部屋にその……忘れ物を」
「そうなの? お父さんも仕事で行っちゃったから。七菜まだ寝てると思うの。チャイムいっぱい鳴らして起こしていいから」
七菜のお母さんはそう言って足早に行ってしまった。
さああと風が流れた時に、どこかにいっていた自分の感情を取り戻した。
一体……どういうことだ?
七菜のお母さんもお父さんも仕事みたいだ。
七菜はおばあちゃん家に行くんじゃなかったのか?
急に怖くなった。でも予定が変わることだってある。でも私は気になって七菜の家まで走ってインターホンを鳴らした。
「何で……?」
さらに怖くなって、二、三回インターホンを鳴らした。
七菜は、出てこない。
「寝てるの……?」
私は七菜のメールを思い出す。
『郵便ポストの白い封筒に鍵入れとく』
七菜の家のポストを覗くと、白い長方形の封筒を見つけた。
白い封筒には、鍵と、小さなメモがあった。
メモにはこう書かれていた。
"今まで、ありがとう"
「……何なの、これ」
メモと封筒を握りしめ意を決して、七菜の家の鍵を開けた。
「七菜ー!?」
扉を開けて叫んだが、返事がしない。
静まりきった家に恐る恐る入り、二階へと行く。
七菜の部屋の扉をばんっと開けると七菜のベットの布団が膨らんでいた。
何だ、いるんじゃないか……!
胸の奥にある怒りが一気に溢れ出す。
「七菜? どういうこと!?」
話しかけるけど、返事がしない。
「びっくりさせないで!」
布団をばっとめくると、布団は膨らんでいただけで七菜の姿はなかった。
「え?」
……やっぱりおばあちゃん家に行ったんだろうか。
「なんだ……」
七菜に何かあったのかと思ったので、少しほっとする。
時計の音だけが聞こえて、七菜の机の上に置いてある帽子を被ったくまを見つめる。
一瞬パニックになった頭の中を自分なりに整理して、そういえば忘れ物を取りに来たんだと机の上を見る。
けれど、そこには私が探していたキーホルダーなんてなかった。
あったものは、一瞬、何かわからなかった。
そこには、先程の鍵が入っていた封筒と同じ白い長方形の封筒が置いてあった。
その封筒には"遺書"と書いてあった。
「い……!?」
声がでなかった。
思わず手に取る。
頭の中がぐるぐるして感情が追いつかない。
封筒はのり付けされていなかったので、すぐに中身を見る……つもりだった。
「え……」
封筒の入れ口から、取り出せない。
急に手が震えて、何度も試すけど出来ない。
怖くて、怖くて。
心では分かりたくなくても、頭は"遺書"という言葉を理解しているようだった。
一度手紙が手から机に落ちてしまった。
「待って……落ち着くの」
自分に言い聞かせて、震える手を重ねて握りしめて、深呼吸をする。
「……っ!」
手が震えるので、覚悟を決めて一気に封筒から中身を取りだし、手紙を開いた。
"平井歩美先輩へ"
これを歩美先輩が見ているときには、
私はこの世界にはいないと思います。
私は、弱い自分に耐えられなくなりました。
中学が嫌で仕方なかった。
もともと、あまり行けてなかったけど、
毎日手紙が届いた。
学校にいけばいじめられる。
担任も含めて。
どうしようもなかった。
昨日勇気を出して学校に行ったけど、何も変わらなかった。
私は今日で人生を終わりにしたい。
私の最後のわがままを聞いてください。
体が動けるうちに、
元気なうちに死なせてください。
いままでありがとう。さようなら。
坂口 七菜
「……七菜!?」
何故、七菜が……。
"元気なうちに死なせてください"
「馬鹿じゃないの!?」
元気だったら生きるでしょ、普通。
第一、元気じゃない人だって、生きようと必死に頑張ってる。
「何してんの……!?」
涙が溢れて止まらなくなった。
いじめって、それに毎日届く手紙って一体……何なの?
――そこで、ある考えが頭をよぎる。
その手紙は……どこにある?
私はなりふり構わず、七菜の机の引き出しを上から順にすべて引き抜いた。
ぱっと見た限り、手紙らしきものは見当たらない。
それは、私の予想通りでもあった。
「やっぱり……」
じわりじわりと分かってきたことがある。
私は手に取る。
引き出しの中にある、学校の名前の入ったプリントが入った……茶色の封筒に。
その茶色の封筒は、今までもらった分の封筒が重なって一つの引き出しに入っていた。
捨てようにも、両親に見つかるのを恐れていたかもしれない。
一つずつ封筒を手にとってそれを逆さまにして揺らす。
七菜に対するひどい暴言がB5のプリントにびっしり書かれていた。
それが、一つの封筒に、二、三枚。
七菜の日常の隠し撮り写真が入ったものも数枚あった。
「何これ……」
この茶色の封筒は、いつも舞ちゃんが「先生から」と私に渡していたものだ。
舞ちゃんが、こんな悪質なものを運んでいた?
そうか。
きっと、舞ちゃんも何とも思っていない。
むしろ楽しんでいるんだ、この状況を。
そして封筒を彼女に託している、先生も。
やっと分かった。
七菜は学校に行くとき笑っていなかった。
……笑ってなかったんだ。
直接的な悪意がクラス全体で七菜に向かってしていたとしたら。
「嘘……」
私の心に、雨の雫が落ちていく。
怒りと、悲しみと、得体の知れない……なにか。
学校のお知らせのプリントは恐らく今まで一枚も……入っていなかっただろう。
「私、これ運んでたよ……」
体の力が一気に抜けていきそうになるけど、気を確かに持たなければならない。
理解したい、何も知らずに過ごしてきたこの現状を今すぐに。
その時見えた、机の上のくまを手に取る。
『コーラをこぼして……』
七菜の声が頭の中でして、くまのぬいぐるみの頭の後ろを見てみる。
不自然に思ったくまの毛羽だったところをよく見ると、黒ペンの跡がある。
何が書かれていたかは分からないけど
……待って、行かないでよ。
「七菜!!」
私は、七菜の家を飛び出した。
外に飛び出した。
走って走って辺りを見回しながらまた走って。
でも、でも一体どこへ行けばいいのだろう?
七菜が行きそうな場所も分からない。
小学校の時の七菜の友達は、引っ越してしまったし、今の七菜のクラスには頼れない。
七菜のお母さんとお父さんの働き場所も知らない。
七菜の携帯も何度かけても繋がらない。
「私は、七菜の何を知っていたんだろう?」
今までずっと一緒にいた、なのに。
「もう、もう……」
胸をさすり高ぶる感情を抑える。だけど、胸の前で拳を握りしめて自分に言い聞かせる。
……まだ、あきらめるな。間に合うかもしれない。いいや、間に合わせるんだ……絶対に。
七菜からメールが来たのは一時間半前……最悪な場面もよぎるが、私はひたすらに走った。
激しく息を切らし、辺りに七菜の姿がないか何度も見回して、がむしゃらに走り続けた。
公園を探して、近くの神社に来たけど、やっぱりいない。
手紙には、場所の記載なんてもちろんない。
場所が分からないと、本当にどうしたらいいのか、分からない。
「七菜……」
息が切れてしまって立ち止まってしまい、心が弱くなってくる。
『歩美先輩!』
『誕生日プレゼント、ありがとうございます』
『私、おばあちゃん家に行かなきゃいけなくて』
七菜の声が、甦る。
おばあちゃん家なんて分からないよ……。
でも分かっていたとしても、七菜はそこには行っていない気がする。
どうしたら、一体どうすればいい?
『歩美先輩』
七菜の声が優しく響く。
私は、どうしたらいいの……?
『歩美先輩』
七菜の笑顔が過る。
『歩美先輩、ログインパスワードって、知っていますか?』
頭の中のその声に、はっとする。
『ログインパスワードは会いたくても会いに行けない人を心の中で思って、111411って強く唱えると、一瞬でその人に会いに行くゲートを開く、凄い魔法のことなんだよ!』
七菜が前に私に言っていたことだ。
こんな噂にも頼りたくなるのは、心が追い込まれてる証拠だ。
私は首を横に振る。
そんなこと、考えてる場合じゃない。
そんな噂……。
「ママー」
突然、子供の声がした。
声のしたほうを見ると五才くらいの男の子がいた。
「待ってよ、みなと」
「神社でお参りしたい!」
「えー!」
「いいよね? ね?」
「……しょうがないなぁ」
母親が買い物袋を持ち、みなとと呼ばれる男の子に追いついた。
神社の賽銭箱にお金を入れて、優しい笑みを浮かべて手を合わせてお参りをしている。
神社の名前は『四仕神社』と書かれていて、偶然にも七菜がくれた御守の場所だった。
「さぁ、帰るわよ。みなと」
二人は来た道をゆっくり手を繋いで歩く。
「うん。あ、ねぇママ、ログインパスワードって知ってる?」
その言葉にはっとする。
「知ってるよー。会いたい人に会いに行けるゲートを開けるっていう噂でしょ。それがどうしたの?」
「僕ね、使えたよ。この前」
その二人から目が離せなくなった。
「もう、使えるわけないでしょ?」
「本当だよ! ゲートを開いたあと、手のひらに小さい鍵があってね、でも、すぐ消えちゃうの」
「何それー?」
「本当だよー!」
二人は笑い合いながら去っていく。
子供のいうことは、当てにはならない。けれど、子供は、大人のような嘘はつかない。
あの話に、鍵の話なんてなかった。
あの男の子の姿は……嘘を言ってた?
信じる? 信じない? でも今の時点で七菜のいる場所は分からないんだ。
こうなったら噂にだってしがみつく。
強く願ってみたい。
これが、最後のチャンスなら。
私は目を閉じ唱えた。
111411。
111411。
111411。
『会いたい。今、私の大切な後輩に』
***
小さいけど、ひゅーっと……何かの音がする。
真っ暗闇になった。
ここは、どこ……?
ひゅーっと、音がする。
その音は、だんだん強くなる。
風?
いつの間にか閉じていた目を開ける。
少し距離が離れているが、背を向けているあの姿は、七菜だ。
「な……!」
七菜を呼ぼうとしたとき、ふと気づくと手のひらに感触がある。
そっと開けると小さな鍵があり、一瞬流れた風で消えていった。
「これって……」
辺りを見回す。
来たことのない場所だ。でも知っている。
観光地として賑わう一方で、自殺の名所としても知られる断崖、岩崎岬。
下は広大な海。現状がついていけてないが、今は七菜のもとへ走る。
「七菜!」
七菜はその瞬間、崖から海に向かって何の抵抗もなく身を預けようとする。
無我夢中で走り出し、手を伸ばした。
「七菜! 行かないで!!」
間に合って!
伸ばした手が運良く腕をつかんだとき、七菜は私を見た。
普段、私は力がないほうなのに、七菜を思いっきりひっぱることができると、七菜と私は地面に倒れた。
私はなりふり構わずに横たわっていた彼女の体を抱き起こして、力いっぱい抱きしめた。
「歩美先輩……? 何で……?」
七菜の目から涙のしずくがこぼれた。私は胸の底から溢れる言葉をぶつける。
「あんた、ばかじゃないの!?」
「……え?」
「言ってよ! 全然、知らなかったよ……」
「歩美先輩…」
私は腕の中の細い体を折れんばかりに強く抱き締めた。
「見たよ手紙、言ってよ! 私は七菜の味方なのに、頼ってよ……!」
七菜は声を振り絞るように、小さな声で
「私、歩美先輩には最後にせめて、手紙でお別れを言おうと思って」
ぽつりとそう言った。
「迷惑だよ、かなり」
「迷惑……?」
「七菜は私の親友なんだから、クラスのやつも担任も私が必ず変えてみせる」
「歩美先輩……」
「七菜、私と一緒に……生きよう?」
泣き崩れる七菜は、何度もごめんなさいと叫んでいた。
私はただただ、心の底からほっとしていた。
ーーしばらくして落ち着いた頃、ゆっくり歩く帰り道。
「でも、歩美先輩。どうしてここが分かったんですか……?」
隣を歩く七菜が、不思議そうに私を見上げる。
「ねぇ……七菜。ログインパスワードって知ってる?」
「……え?」
「ガラケーの携帯のトグル入力、思い浮かべてみて」
「トグル入力って……?」
私は携帯を見せながら説明する。
「例えば、『あいうえお』と打ちたいとき、1を一回押すと『あ』、1を2回押すと『い』、1を三回押すと『う』みたいに文字が順番に入れ替わるの。1は『あ行』2は『か行』3は『さ行』4は『た行』というようにボタンで分かれているの」
「なるほど」
「この方式で『1』のボタンを一回、『1』のボタンを二回。『4』のボタンを一回。『1』のボタンを二回、111411って打ってみて? それでひらがなに変換するの」
七菜はまだ不思議そうな顔をしている。
私は空を見上げて、ゆっくりと数字を口にした。
「いち、いち、いち、よん、いち、いち」
七菜が戸惑いながらも、その数字を、携帯のテンキーに見立てて追っていく。
七菜の声が、はっと止まった。
「えっと……」
七菜は混乱しつつも、並びを見つめ直す。
「あ、い、た、い」
その言葉の意味に気づいた瞬間、七菜の瞳が揺れた。
「ねえ、七菜は私とお揃いのワンピースのデザイン、描いてくれるんだよね?」
「え……?」
私は七菜の手をぎゅっと握りしめた。
「私は、あなたに会いに来たの」
七菜は目を見開き、そしてまた、ぼろぼろと涙をこぼした。
私は心の中で思う。
ログインパスワード。
彼女のもとに連れてってくれて、ありがとう。



