秋も深まってきたある日の夜。庭では鈴虫が可愛らしい音を奏でて鳴いている。虫の鳴き声以外聞こえてこない、そんな静かな夜だった。
いつものように突然サロンにやってきた桔平。その声には普段の活気がなかったから、疲れているのだろうか、と心配になってしまった。
「桔平。婆ちゃんがおにぎり作ってくれたから食べて」
「マジで? 超美味そう。登紀さんに感謝」
嬉しそうな声にホッと胸を撫でおろす。何か元気の出るアロマを焚いてやろうと、精油の並べられている棚に向かった。
「なぁ、晴人。店の定休日って水曜日だろう? 俺、今度の水曜日は学校が休みなんだ。車出すからどこかに遊びに行かないか? 晴人が行ってみたいとこに連れてってやるよ」
「え、そうなの? どうしよう? どこに連れていってもらおうかなぁ」
つい嬉しくなってしまい、深夜にはあまり相応しくないレモンの精油を手に取る。柑橘系の香りは元気が出るとされているが、晴人の心はレモンの精油を嗅いだときのようにウキウキしてきてしまった。
「なぁ晴人。これがデートの誘いだってわかってる?」
「え? デート……?」
「そう。デート」
桔平の予想もしていなかった言葉に、思わず精油の入った瓶を落としそうになってしまった。まさかデートだとは思っていなかった晴人の心臓は、否応なしに高鳴り出す。
「じゃあ、どこに行きたいか考えておけよ」
「うん。わかった」
「あ、今回ライはお留守番だからな」
そう言いながら、店の隅で寝ているライの傍に桔平が歩み寄る。そんな桔平を見たライが「ハッハッ」と嬉しそうに舌を出しているのが伝わってきた。
「でも、ライは元々連れて行けないんだ」
「なんで? 元気そうじゃん?」
「それが、獣医さんにはもう足は治ってるって言われているんだけど、なぜかまだ歩けないんだよ。なんでだろう? 桔平、動物のことも診察できる?」
「ふーん。なんでだ?」
その言葉を聞いた桔平は小さく唸り声をあげながら何か考え事をしているようだ。それから突然「あははは! そいうことか!」と声を出して笑いはじめた。
「へぇ。お前やるじゃん? 察しがいいな! サンキュ!」
桔平がライの傍にしゃがみ込んで頭を撫でてやっているようで、ライが尻尾を振る音が聞こえてくる。
「ねぇ、桔平。どういうこと? ライはまだ怪我が治ってないの?」
「あははは! 秘密だよ、秘密。俺とライだけの秘密」
「ワン!」
「ん? どういうこと?」
「いいから、いいから。なぁ、ライ」
「ワンワン!」
いつの間にこんなに仲良くなったんだ……桔平とライとのやり取りに疑問を抱きながらも、その微笑ましいやり取りに晴人の口元は自然と緩んでいったのだった。
◇◆◇◆
水曜日の朝、晴人は落ち着かず店の中を行ったり来たりしていた。
「ライ、本当にこの洋服で大丈夫? 髪型は? もう時間になっちゃうかな……」
この日のために登紀と買いに行った真新しい洋服が何だか馴染まず、それが落ち着かない原因の一つでもある。
「絶対に晴君に似合うから!」
店ではしゃぐ登紀が選んだ洋服は、青いタートルネックに茶色のジャケット。それに白いパンツだった。
普段は無頓着でお洒落をしようなんて考えたこともなかった晴人は、生まれて初めてこんな高価な洋服に身を包んだ。スエード生地のジャケットは肌触りがよく、思わず頬ずりをしたくなる。
そんな様子を遠くから盗み見ていた登紀が「晴君、とっても素敵よ」と嬉しそうに声をかけてくる。ずっと見られていたのかと思うと、顔が上げられなくなってしまった。
そんなことをしているうちに、店の前に車が停車する音が聞こえてくる。
「ヤバイ、もう桔平が来ちゃった! わッ!」
慌てて走り出した晴人は、足元にあった段ボールに気付く余裕もなく大きな音をたてて転んでしまう。先程届いたばかりの荷物を床に置いたままにしたことを、すっかり忘れていたのだ。
「あいたたた……」
蹲っていると、物すごい勢いで店の扉が開いた。
「本当に晴人はおっちょこちょいなんだから」
「ごめん」
「あれで怪我でもしてたらどうするんだよ」
「だから、ごめんって」
店に飛び込んできた桔平に助けられた晴人。車に乗った途端、桔平のお説教タイムが始まってしまう。桔平は晴人が転んだことに相当腹をたてているようで、お小言がなかなか止まらない。
晴人はそっと溜息をついて運転席のほうに顔を向ける。でも、本当はわかっているのだ。桔平は自分の身を案じて怒ってくれているのだと。本当に馬鹿がつくくらい過保護に接してくれるのだから。
あの後、横抱きにされた晴人は施術台に乗せられて、桔平に怪我がないかを丁寧に確認してもらった。擦りむいて血が滲んだ場所は、消毒してから絆創膏を貼ってくれたし、床に放置されていた段ボールもきちんと片付けてくれた。
ぶっきらぼうな桔平なりに、晴人を心配してくれているのが伝わってくる。晴人はそれが何より嬉しく感じられた。
「だからごめんね。次から気を付けるから」
運転席のほうに手を伸ばし、手探りで探し当てた桔平の手をギュッと握る。その瞬間、桔平の体に力が入ったのを感じた。
――今、桔平はどんな顔をしてるんだろう。
晴人は時々そう思う。突然手を握られた桔平は、怒っているのだろうか? それとも、照れているのだろうか? それが晴人にはわからない。ただ何となく感じる呼吸の変化や、体温の上昇で桔平の心情を探るほかない。
今乗せてもらっている桔平の車だって、見ることはできないけど、かなり大きく、高級な車に違いない。それにどんな服装をしているのだろうか。きっとすごくかっこいいんだろうな……と色々想像を巡らせてみるが、答えなど見つかるはずもなかった。
「ごめんね、突然手なんか握って。気持ち悪いよね」
拒絶するでもなく、無言のまま晴人に手を握られている桔平。どうしたらいいかわからず、そっと離そうとした手を、逆に強く握り締められてしまった。
「……え? 桔平……」
「別に嫌じゃないから、このまま手、繋いでいてよ」
今にも消えてしまいそうな声で桔平が呟く。
「嫌だったんじゃない。恥ずかしかっただけ」
「え?」
繋いだお互いの手がどんどん熱を持ち、しっとり汗をかいている。
「もう少しだけ、このままでいて。信号が青に変わったら離すから」
「うん」
うるさいほど高鳴る心音を感じながら、晴人は唇を噛み締めて俯いた。
車内の気まずい雰囲気とは関係なく、桔平の運転する車はどんどん目的地へと向かって進んでいく。開けられた窓からは気持ちのいい風が吹き込んで、晴人の火照った頬を冷やしてくれた。
大きく息を吸い込むと桔平が身に纏っているサンダルウッドの香りがする。
目的地に到着するまで、きっとこの胸の高鳴りが止まることはないだろう。
◇◆◇◆
目的地は晴人の家から二時間もかかる場所だった。いつか行きたいと思っていたけど、なかなか決心がつかずに来ることができなかった場所……。
「案外時間がかかったな」
「そうだね。遠くまで運転させちゃってごめんね」
「全然大丈夫。それより晴人は疲れてないか?」
「うん。大丈夫だよ」
桔平は過保護だけれど、とても優しい。
いつからか抱いていた、今まで感じたことのない特別な感情。それは、真っ暗な世界に生きる自分とは無縁のものだと思っていた感情だった。
「ここ、公園か?」
「うん。秋桜がたくさん咲いてることで有名なんだ。ねぇ桔平。秋桜畑まで連れて行ってもらえないかな?」
「うん、わかった。じゃあ、ほら」
「ん?」
「ほら、手」
何が起きたかわからず戸惑う晴人の手を、桔平が無遠慮に掴む。びっくりして口から心臓が出そうになってしまった。
「お前また転ぶかもしんねぇから、俺と手を繋いどけ」
「で、でも……ここ外だよ? 誰かに見られたら……」
「大丈夫。今日は平日だから人はほとんどいねぇし、別に俺は見られたって構わない」
「桔平……」
「じゃあ行くぞ。少しだけ歩くみたいだからな。疲れたら言えよ」
「うん」
桔平がまるで怒っているような話し方をするのは、照れているからだ。段々桔平の気持ちがわかるようになってきた。そう思うと心が温かくなるのを感じる。うっかり涙が出そうになってしまった。
自分を気遣ってかゆっくり歩いてくれる桔平の後ろで、気付かれないように手の甲で涙を拭った。
「晴人、もうすぐ着くぞ」
「本当?」
「うん、この丘の向こう側だ」
駐車場から秋桜畑までは大分距離があった。途中、桔平が気を遣って飲み物を買ってくれたり、休憩しながら歩いたから疲れは全く感じていない。
きっと秋桜以外にもたくさんの花が咲いているのだろう。色々な香りが晴人の鼻腔を擽っていく。その香りの正体を桔平が嬉しそうに教えてくれたことが、晴人は嬉しかった。
まるで自分の目の前に、広大な花畑が広がっているように感じられたから。
「桔平は本当にライみたいだね」
そう言ったら、「犬と一緒にすんじゃねぇよ。あいつは言葉を話せないだろうが?」と本気で怒りだしたから、思わず声を出して笑ってしまった。
こんな桔平と一緒なら、きっと過去を乗り越えることができる――晴人はずっとそう感じていた。
だから桔平がデートに誘ってくれたときに、晴人はここを選んだのだ。
「晴人、着いたぞ。わぁ、すげぇ……」
少し先を歩いていた桔平が立ち止まり、思わず言葉を詰まらせる。
山道を数分歩いた、小高い丘の上に秋桜畑はあった。
秋桜畑を吹き抜ける秋風が、汗ばんだ肌を冷やしてくれてとても気持ちがいい。薄暗い森を抜けて一気に景色が開けたのを感じる。晴人は燦燦と差し込む日差しを、うっすらと感じることができた。
「日差しが眩しいね」
「え? わかるのか?」
「うん。うっすらとだけど……目の前がキラキラと輝いて見える」
「そっか……」
晴人の生きている世界はいつも真っ暗だったけれど、ここの日差しはとても輝いているように感じる。それに触れてみたくて思わず手を伸ばしてしまった。掴めるはずなんてないのに……今更恥ずかしくなってしまう。
「眩し過ぎないか?」
「うん、大丈夫だよ」
ここでも過保護な桔平が、自分の手で日よけを作ってくれているのがわかる。目の前が少しだけ暗くなった。
まさかここに、こんな風に自分を大切にしてくれる人と来ることができるなんて、夢にも思わなかった晴人は胸がいっぱいになってしまう。
桔平には感謝してもしきれない。あんなにも小さかった自分の世界が、こんなにも広がったのだから。
「ねぇ桔平。秋桜畑ってどんな感じ? 綺麗?」
「うん、すごく綺麗だよ。目の前が全部秋桜で……その向こうには青空が広がってる。まるで、秋桜畑が天空に浮かんでいるみたいだ」
「天空に浮かぶ秋桜畑か……。ふふっ、案外桔平はロマンチックなことを言うんだね」
「いちいちうるせぇよ。ほら、近くまで行ってみるぞ」
照れ隠しか、桔平は晴人の手を掴むと再び歩き出してしまった。
秋桜畑の間を通る小道を歩けば、辺りは秋桜の香りで充満していてむせ返りそうになる。晴人は控えめにその香りを吸い込んだ。
「アロマには秋桜の精油がないから、ずっと秋桜ってどんな香りなんだろうって気になってたんだ」
「甘くて可愛らしい香りだな」
「うん、そうだね。とてもいい香りだ」
晴人はその場にしゃがみこんで鼻を鳴らす。桔平も近くに座り込んだようだ。その距離がとても近くて、心拍が上がっていくのを感じる。
桔平の傍にいるとすごく幸せなのに、こんなにも苦しい……。苦しいけど、ずっと傍にいたいと思った。
「ねぇ、何色の秋桜があるの?」
「そうだなぁ、今目の前にあるだけでもピンクに白、オレンジに赤紫……チョコレートみたいな変わった色のやつもあるよ」
「へぇ、そんなにたくさんの色があるんだね」
「本当だな。晴人が行きたいって言わなければ、俺はこんなにも綺麗な風景を見ることもなかった。それって、本当に勿体ないなぁ……」
「そんなことないよ。俺だって、ここにずっと来たいと思ってだけど、なかなか来れなかった。でも桔平が一緒だったから来ることができたんだよ」
膝を抱えて蹲りながら、桔平に向かって笑いかける。秋桜の香りを含んだ風が、晴人の髪を優しく撫でていった。
「ねぇ、桔平。俺の話を聞いてくれるかな?」
「ん? どうした?」
急に俯いた晴人を心配してか、桔平が顔を覗き込んでくるのがわかった。桔平は晴人の目が見えなくても、いつもちゃんと視線を合わせようとしてくれる。
桔平は無意識にしている行動なのかもしれないけど、晴人はそんな心遣いが嬉しいのだ。
「この秋桜畑は、死んじゃった父さんと母さんが初めてデートした場所だったんだ」
「そうなんだ」
「それからね、あの事故の遭った日……」
途中で言葉に詰まって、話すことができなくなってしまう。桔平にこうやって真実を打ち明けるということは、ずっと見て見ぬふりをしてきた過去と対峙するということでもある。
それが、本当は怖かった。
「無理しなくていいから」
優しく頭を撫でてくれる桔平の優しさが愛おしい。ずっと後ろ向きに生きてきた晴人の背中を押してくれたのが、桔平だった。
「あの事故が起きた日、俺たち家族が向かっていたのは、ここだったんだ」
「……え?」
「父さんはこの秋桜畑を俺に見せたくて、ここに向かっている途中に事故に遭った。出発するときにはいい天気だったのに、突然季節外れの夕立が来て……滝みたいな大雨に、一瞬で視界は遮られてしまったんだ。雷も鳴っていて、俺は後部座席で震えていることしかできなくて……」
「…………」
「事故が起きた瞬間、一体自分の身に何が起きたかなんてわからなかった。次に目を覚ましたときには、俺は真っ暗な世界にいたんだ」
当時のことをずっと思い出すことなんてなかった。でも、なぜだろうか。桔平には自分の全てを知っていてほしいと思う。隠しごとなんて、したくはなかったから。
「だから、今日ここに来ることができて、俺は本当に嬉しい。秋桜を見ることはできないけど、秋桜の甘い香りや、空から降り注ぐ温かい日差し……あの日知ることができなかったことを、今日知ることができたんだ。本当にありがとう、桔平」
「晴人……」
「ありがとう」
胸がいっぱいになって涙で目元が熱くなる。目が見えないのに涙が出ることが、晴人はずっと不思議に感じていた。でも、今は頬を伝う温かな涙が心地いい。幸せで胸が震えた。
「桔平、秋桜綺麗?」
「あぁ、すげぇ綺麗だ」
「俺の分まで桔平が見て。俺はそれで十分だから」
「晴人と、晴人の両親の分まで見ておく。この景色を一生忘れないように、胸に刻みこむから……」
桔平の声が涙で震えて、段々小さくなっていく。そのどこまでも優しい桔平に、晴人の胸が痛いくらいに締め付けられた。
「もう胸がいっぱいだ。俺は桔平が好き」
「え?」
「ごめんね、目も見えないような俺に好かれるなんて、迷惑だよね」
「そんなことない! もう自分を傷つける言葉を使うなって、約束しただろう!」
突然桔平が飛びついてきたから尻もちをつきそうになってしまうのを、なんとか堪える。声を押し殺し、肩を震わせながら涙を流す桔平の体を抱き締めた。
「俺も晴人が好き」
「え? 今なんて言ったの?」
「俺も、晴人が大好き」
想像もしていなかった桔平の言葉に、体が凍り付いたかのように動かなくなってしまう。サーッと秋桜畑を吹き抜けていく風が優しく頬を撫でていった。
「俺さ、将来眼科医になる。そしたらお前の目を絶対に治してみせるよ。晴人の為だったら、外科医にでも精神科医にでも何にでもなるから……。だから、だから、ずっと俺の傍にいてほしい」
「桔平……」
「目が見えないのに、こんなにも一生懸命生きてる晴人に惚れるなってほうが無理だろう? 俺は一生、お前の目になる。どこにだって連れてってやるし、なんだってしてやる。俺は、晴人が大好きだ」
晴人の腕を掴む桔平の手にどんどん力が籠められて、思わず眉を顰めた。その手は汗ばんでおり、桔平の必死さが伝わってくる。
こんなにも自分のことを思ってくれていたことが、嬉しくて……そっと桔平の顔に触れる。指先で顔のパーツを確認してから、桔平の唇にそっと自分の唇を押し当てた。
少しだけ唇がずれてしまったけど、桔平が優しく抱き締めてくれたから、ちゃんと唇同士が重なるキスをすることができた。
「来年も、再来年も、ずっとずっと、ここに来よう?」
「うん。ありがとう、桔平」
「今度は、登紀さんとライも連れてきてやろうぜ?」
「本当に? 楽しみだなぁ」
「晴人、大好きだ」
「俺も……桔平が好き」
秋桜の甘い香りが漂う秋桜畑の真ん中で、二人は誰にも見つからないよう、飽きるまで口づけを交わした。



