「研修で忙しくなるから当分、(ここ)に来られないかも」
 不貞腐れたようにそう呟いた桔平。「医大生は学生時代に色々な病棟を回って勉強をしなきゃなんだよ」と大きく息を吐いた。


「そっか、体に気を付けて頑張ってね」
「ん……」


 拗ねた子供のように晴人の背中に抱きついてくる桔平の頭を、手を伸ばして撫でてやる。
 最近の桔平は本当に甘えん坊だ。第一印象がしっかり者だったから、最初は驚きを隠せなかった。でも年下なんだな……と思うと可愛らしい。


「俺に会えなくても浮気なんかすんなよ」
「う、浮気⁉」
「そうだよ。晴人は隙だらけだから心配だ」
 スンと鼻を鳴らし、更に強く抱き締められる。付き合ってもいないのに浮気の心配なんて……晴人は心臓が高鳴っていくのを感じた。


「俺はいつでもここで待ってるから、時間ができたらおいで」
「うん」
 桔平からはサンダルウッドの甘やかな香りがした。


 月日が流れ、暑かった夏が終わりを迎えようとしている。日中のうだるような暑さは変わらないけど、朝晩に吹く風は冷たさを感じる。夜になると、鈴虫の鳴き声が、心地よく静かな空間に響き渡った。


 店じまいをしながら晴人は耳をそばだてる。時々、店を閉める時間に桔平が電話をかけてきてくれるのだ。スマホを扱うのが苦手な晴人からしてみたら、桔平からかかってくる電話だけが彼の様子を知ることができる手段だった。
 電話越しの桔平は疲れたような声をしていて、不安になる。


 朝晩は冷え込むから風邪をひいていないだろうか? ご飯をきちんと食べて、ちゃんと眠っているだろうか? そんな心配は尽きない。
 それと同時に、どうしようもない寂しさに襲われた。


 あれ以来、余程サンダルウッドの香りが気に入ったのか、桔平はサンダルウッドの香りを身に纏っている。いつからか、サンダルウッドの香り、イコール桔平の香り……と晴人の中に刷り込まれていってしまったようだ。 


 サンダルウッドの精油をアロマランプの皿に数滴垂らし、ライトをつける。数分もするとサンダルウッドの上品で甘い香りが室内に充満した。
 余計なことをした……と晴人は後悔してしまう。サンダルウッドの香りを嗅げば余計に桔平が恋しくなってしまうではないか。頭ではわかりきっていたことなのに、鼻の奥がツンとなった。


「あーあ……寂しいな……忙しくしてるのかなぁ、桔平……」


 どんなに待ち侘びても、その日店の電話が鳴ることはなかった。


◇◆◇◆


「ちょっと、桔平酔っぱらってるの?」
「うーん、少しだけな。晴人、水ちょうだい?」
「ちょっと待ってて。今持ってくる」
 晴人は店の奥の冷蔵庫からペットボトルをひとつ取り出すと、桔平に手渡す。


「これ水かな?」
「うん、水で合ってる。ありがとう」
 そう言いながら喉を鳴らして水を飲んでいる。酔っている桔平に遭遇したことがない晴人は、どうしたらいいか戸惑ってしまった。晴人は下戸だから、酔った人間の介抱の仕方などわからないのだ。


 つい数分前、「今から店に行くから」と桔平から突然電話がきた。ようやく桔平に会える……、晴人の表情が一瞬で明るくなる。ずっと待ち侘びていた桔平にようやく会えるのだ。


「ライ、髪型大丈夫かな? 洋服も変じゃない?」
「ワンワン!」
 どうしようと右往左往している間に、サロンのチャイムが静かな店内に鳴り響いたのだった。

 
「あぁ、ようやく晴人に会えた。研修が忙しくてなかなか時間がとれなくてさ。ずっと店に来れなかったんだよ。でも、ずっとずっと晴人の顔が見たかった……」
「え? と、突然何を言い出すんだよ? 桔平飲み過ぎだよ」
「うるせぇ。そんなに酔ってねぇし」


 拗ねたように唇を尖らせながら、桔平が目の前にいる晴人の両手を握り締める。「なんだよ、突然」と文句を言ってやろうと口を開こうとしたが、まるで甘えるように晴人の胸に頬を寄せる桔平に何も言えなくなってしまった。
 最近の桔平は、晴人が恥ずかしくなるくらい、本当に甘えん坊だ。


 何より、桔平も自分と同じように「会いたい」と思っていてくれたことが、嬉しかったし擽ったくもある。つい口角が上がってしまった。


「あー、久しぶりに晴人を充電しよう」
「ふふっ。今日はやけに甘えん坊じゃん?」
「当たり前だろう? 研修の打ち上げなんて怠い飲み会を、晴人に早く会いたくて抜け出してきたんだぜ? 甘えたいに決まってんじゃん。それに晴人のほうが年上なんだから、たまには甘やかしてよ」
「あ、甘やかすって、どうしたらいいんだよ?」


 今まで誰かを甘やかしたことなどない晴人は困惑してしまう。
 大体、友達というものはこんなにも距離が近いものなのだろうか? 桔平と知り合ってから初めて体験することばかりで、戸惑いを隠しきれない。桔平に会うたびに、心臓の高鳴りを抑えることができなかった。
 とりあえず、自分の腰に纏わりついている桔平の頭を撫でてみる。柔らかくて長い桔平の髪は触り心地がよかった。


「頭撫でられるの気持ちいい」
「本当? ライもこうやって頭を撫でてやると喜ぶんだよ」
「はぁ? 犬と一緒の扱いかよ」
 文句を言いながらもケラケラと声を上げて笑う桔平。かなり上機嫌なようだ。


「晴人はさ、俺とライ、どっちが好き?」
「え? 桔平とライを比べることなんてできないよ」
「駄目だよ、どっちが好きか選んで」
「そんな……」
 子供のように拗ねた声を出す桔平に心底困ってしまう。桔平とライ、どちらのほうが好きかなんて今まで考えたことがなかった。そもそも、普通なら比較対象にならない存在だろう。


「どっちが好き?」
「えっと……困ったな」


 何と答えたらいいのか考えを巡らせていると、桔平が晴人の体をくるりと反転させて、今度は正面から抱き締められてしまう。久しぶりに感じる桔平の体温とサンダルウッドの香り。
 なぜだろう……。サンダルウッドの精油の香りより、桔平が纏うサンダルウッドの香りのほうが甘ったるい香りに感じられる。きっとこのアロマの精油と、桔平自身の匂いの相性がいいのかもしれない。


「俺のほうが好きだろう?」
「……え、えっと……」
「俺のほうが好きって言えよ?」
 背骨が折れてしまうのではないか、というくらい力強く抱き締めてくるものだから全身が悲鳴をあげる。これはもう、降参するしかないだろう。


「うん。桔平のほうが好きだよ」
「マジで? やったぁ」


 そんな桔平が、晴人の胸に頬ずりしながら嬉しそうに囁いた。これでは、まるで大きな子供ではないか――そう思えば可笑しくなってきてしまう。
 そんな桔平がゆっくりと言葉を紡ぐ。それは、普段垣間見えることのない、晴人の知らない桔平だった。


「俺さ、嬉しかったんだよ」
「何が嬉しかったの?」
「晴人はわかんねぇかもしれないけど、俺めちゃくちゃ顔がいいんだ」
「は?」
「クォーターってやつで、婆ちゃんがイギリス人なの。だから、女には不自由したことねぇし、しょっちゅう芸能事務所からスカウトだってされる。背も高いしスタイルもいいから、モデルと間違えられるし」
「へぇ、そうなんだ……」


 それを自分で言うか? と言いたくなるのをグッと堪える。きっと桔平の言うことは事実なのだろう。目が見えなくてもわかる。彼はとても魅力的な容姿をしているということが。


「だから周りの奴らは、まず俺の外見を好きになるんだ。かっこいいとか、イケメンとか……そんなことでしか、俺は評価されなかった。だからいざ付き合うとなると、みんなが俺にガッカリする。見た目はいいのにって、結局は離れていっちまうんだ」
「え、外見で判断されるなんて……酷い奴もいたもんだね」
「本当に勝手だよな? 勝手に俺のイメージを作り上げて、イメージ通りじゃないと失望するなんてさ」


 桔平の声のトーンが少しだけ低くなる。泣いているのだろうか? と、晴人は不安になってしまった。


「そんなことが続くもんだからさぁ……俺、本気で恋愛することを諦めちまったんだ。だって、誰も本当の俺をわかってなんかくれないから。俺を見た目だけで判断する奴なんて、はじめから御免だ……」


 晴人の胸に額を押し付けながら、言葉を振り絞る桔平に胸が締め付けられる。こんなにも自由奔放に生きているように感じられた桔平の、想像もしなかった告白になんて言葉をかけたらいいのかも思いつかない。


「でも晴人は違う。俺を見た目で判断なんかしない。それが、本当に嬉しかった」
「桔平……」


 桔平の真っ直ぐな言葉が痛いくらい晴人の胸に突き刺さる。嬉しいけれど、自分はそんなに凄い人間ではない。どうしても自分を卑下してしまうのは、晴人の悪い癖なのかもしれない。


「俺はそんなに凄い人間じゃないよ。桔平の顔がわからないのは、ただ単に目が見えないだけだし……。俺のこと、買いかぶりすぎだって」
「は? なんだよそれ?」


 桔平の声が急にトーンダウンしたものだから、晴人は思わず顔を上げる。今まで穏やかだった部屋の空気が一瞬でピンと張り詰めたような気がした。


「目が見えないからなんだって言うの? 晴人は、自分が大したことない人間だって言いたいわけ?」
「べ、別にそんなわけじゃ……」
「そんなに自分のことを責める晴人とは、もう口をききたくない」
「で、でも、桔平……」
「でもじゃない!」


 静かな室内に桔平の怒声が響き渡る。それは晴人が初めて聞いた、桔平の険しい声だった。そんな桔平の剣幕に、室内の空気が震えているように感じられる。その声を聞いた瞬間、晴人の体に緊張が走った。


 視覚からの情報がない晴人にとって、大きな音や声を聞くと強い恐怖心に襲われてしまう。何が起きているのかが理解できず、どうしたらいいのかがわからないのだ。
 晴人の耳には荒い桔平の呼吸が聞こえてくる。少し体温が上がった感じもするから、桔平は相当怒っているのかもしれない。


 でも、突然怒鳴ることはないではないか。なぜなら、目が見えないことの不安や苦しみは同じ境遇の者同士でしか理解し合えないのだから。そう思うと、沸々と怒りが湧いてきた。


「でも、目の見える桔平には俺の気持ちなんてわからないだろう? どんなに苦しいかなんて、絶対にわかるもんか!」
「あぁ、わかんねぇよ! 俺には晴人の辛さや苦しさなんてわからねぇ! でもこんなに一生懸命生きてる晴人を否定する晴人が、俺は許せねぇだけだ!」
「桔平……」
「俺は目が見えない晴人しか知らない。だから、俺にとって晴人は晴人なんだよ。目が見えるようになったらそれはそれで嬉しいけれど、でも、俺は今のお前で十分なんだ」
「…………」
「俺は晴人が大切だ。だから、晴人を傷つける奴は、例えそれが晴人自身でも許せない」


 桔平の荒い呼吸が嫌に鼓膜に響く。高鳴る心音さえ聞こえてきそうだ。桔平は今凄く怒っているのだろう。そう、晴人のために……。


 今まで晴人は目が見えないせいで、周囲からはまるで腫れ物に触るかのように扱われてきた。それは言い換えると同情にも感じられて、晴人は更に卑屈になってしまうのだ。


 でも桔平は違う。こんなにも晴人に真正面からぶつかってきた人なんて、今までいなかった。そんな桔平の真っ直ぐさが、痛いくらい嬉しい。嬉しくて、心が痛い。


 ――今すぐに謝らないと、桔平に嫌われちゃう。それだけは、絶対に嫌だ……!


 晴人の目頭が熱くなる。桔平に嫌われたくない……そんな思いで、すぐ隣にいる桔平の洋服を強く掴んだ。


「ごめん、桔平」


 自然と晴人の口から零れ落ちた言葉。友達同士の仲直りの方法なんて、今まで友達がいなかった晴人にはわからなかった。それでも、桔平が自分から離れていってしまうことが晴人には耐えることなんてできない。晴人は桔平の逞しい腕に夢中で縋りついた。


「俺は桔平に嫌われたくない。ずっと、傍にいてほしい。だから、もう怒らないで……」


 最後のほうは涙で言葉にならなかった。恥ずかしくなった晴人は、慌てて桔平の胸に顔を埋める。「馬鹿だな」そう呟きながら、桔平は晴人を抱き締めてくれた。


「俺は晴人のことが大切だから、怒ってんだよ。わかる?」
「……うん」
「目が見えないからってなんだよ? そんなこと知り合った瞬間からわかっていたことだし。だから、目が見えないなんて俺には関係ない。なのにさ……」


 桔平が晴人の耳元で大きく溜息をついた。少しだけ震える桔平の声に、晴人の胸が締め付けられる。
 それと同時に、晴人を抱き締める腕に更に力が籠められた。それが少しだけ苦しくて、晴人は眉を寄せる。


「ごめんね、桔平」


 晴人は、桔平がこんなにも自分のことを大切に思っていてくれたなんて、想像もしていなかった。それなのに、晴人は桔平を心無い言葉で傷つけてしまったのだ。晴人の心が引き裂かれんばかりに痛む。


「これからは絶対に、自分を傷つけるようなことは言うなよ?」
「うん。わかった」
「約束だからな」
「うん」
「よし、いい子だ」
 桔平は晴人の頭を優しく撫でてくれる。そんな逞しい桔平の胸に、もう一度顔を埋めてサンダルウッドの香りを吸い込んだ。


「俺、今の言葉で桔平に嫌われちゃったかと思った。よかった、嫌われてなくて……よかった……」
 晴人の言葉を聞いた瞬間、少しだけ桔平の体温が高くなったのを感じた。
「俺のほうこそ、大きな声を出してごめんな。怖かっただろう?」
「ううん。大丈夫」
「俺、晴人が晴人自信を傷つけているのを見て、自然と大きな声が出ちまった。本当にごめん」
「ううん、大丈夫だから」


 堪えきれず涙が溢れ、頬を伝った。桔平は晴人を抱き締めたまま、あやすように背中を擦ってくれている。温かな涙が、桔平のシャツにスッと沁み込んで消えていった。


「じゃあ、晴人。これで仲直りだな」
「うん。俺、桔平と仲直りできてよかった」
「お前、そういうとこ、本当に可愛いよなぁ……」
「え? 何か言った?」
「ううん。なんでもない」


 きっと今、桔平は笑っているはずだ。その笑顔を見ることができないことが、歯痒くて仕方がない。
 そっと桔平の髪を撫でてから、指を滑らせて頬に触れる。桔平の顔が見てみたい……心の底からそう思った。


 きっと桔平は、色素の薄い綺麗な髪で、切れ長の目をしているはずだ。鼻筋が通っていて、薄い唇。それに透き通るように白い肌。これが、晴人が思い描く桔平だ。
 それを確かめる手段が、今はないのだけれど……。
 普段はすました顔をしている癖に、時々悪戯っ子のように笑う。そんな笑顔が見てみたかった。


 ――桔平の顔が見たい。


 その思いは、日に日に強くなる一方だった。


「なぁ、晴人がされて嫌なこと、他にもある? さっき俺が大声を出した時、晴人凄く怯えてた。俺、お前が嫌がることはもうしたくない。だから教えて?」
 思いもしなかった桔平の言葉に、晴人は思わず見えない目を見開いた。


 こんなにも自分のことを気遣ってくれることが嬉しいのに、どうしても申し訳ない思いになってしまう。つい黙ったまま俯けば、桔平が自分の顔を覗き込んでくるのがわかった。


「遠慮せずに言えって。俺、お前が嫌がることしたくねぇもん」
「あの……」
「言えって」
「あ、あのさ……俺、突然体に触れられることが苦手だし、急に傍からいなくなられるのも不安になる。あと、沈黙もすごく苦手だ」
「ふーん……」


 頭の上から桔平の意地の悪い声が聞こえてくる。言わなければよかったかと、早くも後悔してしまう。桔平は優しいけど意地も悪いのだ。この甘やかな雰囲気に絆されてしまったことを後悔する。


「わかった。じゃあ、今から晴人に触るからね」
「え?」
「触るよ?」
「う、うん」
 こんな風に宣言されると、それはそれで緊張してしまう。何をされるのかという恐怖心に、桔平に触れられてみたいという好奇心。自然と体は火照り、心臓が高鳴り出した。


「……やっぱり怖い……」
「大丈夫。触れるだけだから」
「うん」


 込み上げてくる感情を押さえて固く目を瞑る。あまりにも瞼に力を入れ過ぎて痛いくらいだ。期待に睫毛を震わせて今か今かと待っていると、ふわりと唇に温かなものが触れて、静かに離れていった。


「……え? ちょっと、桔平……」


 そう言う間もなく、その温かなものはもう一度唇に触れて優しく啄む。無意識に手で桔平の体を押し返そうとしたが、強く手を握られてしまいそれは叶わなかった。


 ――これって……。


 目が見えない晴人には、その行為を想像することしかできない。きっとこれは、多分……。


「はい終わり」
「桔平、これって……」
「ん? なんだよ?」


 まるで悪戯っ子のような桔平の声に、頬が熱くなるのを感じる。でもまだ、唇に触れた感触がリアルに残されていて。思わず自分の唇を人差し指でそっとなぞった。


「キ、キスするなんて言ってないだろう?」
「ふふっ。ごめん。間違えた。もしかして初めてだった?」
「間違えたって……。は、初めてだったのに……」
「ごめんって。あまりにも晴人が可愛かったから」
「可愛い?」
「うん。晴人は可愛いよ。目は真ん丸だし、すごく優しい顔立ちをしてる。晴人は大人になった自分を見たことがないんだろ?」
「な、ないけど……男が可愛いって言われて嬉しいわけないだろう?」
「でも可愛いんだもん」
「桔平、離れろって。……ちょっ、んッ、ふぁ……」


 甘ったるい吐息を我慢しようとしても、晴人の口からはあられもない声が次から次へと溢れ出す。驚くほど柔らかな桔平の唇の感触に、晴人の体から自然と力が抜けていった。


「なぁ、晴人。もっとキスしたい?」
「…………」
「なぁ、晴人?」
「……うん。したい」
「ふふっ。可愛い。ライの足が治るまで、俺が晴人の目になる。俺が、晴人を守るから」
「うん、ありがとう」
「だからもっとキスさせて? 晴人、お願い……」
「きっぺぃ……ふッ、ん……ッ」


 本当はもっとキスをしてみたくて、恐る恐る桔平の首に腕を回した。その体を遠慮がちに抱き寄せる。
 与えられる口づけを、晴人は夢中で頬張った。  


◇◆◇◆


「おかしいわねぇ。今日獣医さんの所に行ったら、ライちゃんの足はもう治ってるって言ってたのよ? いつまで足を引き摺っているのかしら?」
「ライの足、治ってるの?」
「ええ。もう普通に歩けるはずだって言われたのよ」
「へぇ。それなのに、なんでまだ足を引き摺っているんだろうね? この前、外を一人で散歩してたみたいだから、その時また痛めちゃったのかも……」
「あら、そんなことがあったのね? ライちゃん、まだ痛いの?」
「きっとそうだ。まだ一緒に外出しないほうがいいかもね」


 動物病院から帰ってきたライを、晴人と登紀で心配そうに覗き込む。


 晴人はライの姿を見ることはできないが、鳴き声には活気があるし、ご飯だってよく食べる。なぜこんなにも怪我が治らないのか不思議で仕方がない。


「ライ、大丈夫か?」
「心配だわ、ライちゃん」


 盲導犬はとても賢く主人思いの犬である。
 まさかライが、晴人と桔平のことを思い怪我が治っていない風を装っているなんて――きっと二人は気付かないだろう。