今日最後の予約客を店先まで見送る。
「晴人さん、またよろしくお願いします」
「はい。お気をつけて」
 笑いながら手を振った。


 今日は桔平の予約は入っていないから、これで閉店しよう――。先程から遠くで聞こえる雷鳴が晴人の不安を掻き立てる。天気予報では、今日夕立が来ると言っていた。そんなときに限って、登紀は同窓会で遠出している。


「夕立が来たらどうしよう」


 恐らく真っ黒な雲に覆われているだろう空を見上げる。どんどん不安は強くなって、晴人の心までもが真っ黒い雲に覆われてしまったのかのように感じられた。
 天気予報と嫌な予感は的中し、先程より近くで雷鳴が聞こえはじめる。きっとあっという間にこちらに向かってくるだろう。


「急がなくちゃ。痛ッ!」


 慌てて店の扉を閉めようとした晴人は、誤って扉に指を挟んでしまったのだ。鈍い痛みを感じたあと、温かな血液が流れ出るのを感じる。腫れてきたのかジンジンと熱を持ちはじめた。


 落ち着け、落ち着け。そう自分に言い聞かせる。焦ったり、パニックになったりすると普段できることができなくなってしまう。冷静になって考えれば、建物の構造や家具の配置だって、目が見えなくても把握しているのだから。


「大丈夫、大丈夫だから」


 先程まで遠くから聞こえていた雷鳴が、すぐ近くで聞こえる。目の前がフラッシュをたかれたときのように眩しく光るのと同時に、ドンッというけたたましい音が響き渡った。
 突然強い風と共に、バケツをひっくり返したように雨が降り出す。強い恐怖を感じた晴人は、閉めた扉の鍵をかけることさえ忘れて、店の奥へと向かった。


「ライ、ライ……どこにいるの?」
 震える声でライを呼ぶと、痛めた足を引き摺るようにしながら晴人のほうへと近付いてくる気配を感じる。


「ライ。夕立が終わるまで傍にいて」
 晴人の足元に大人しく座ったライに縋りつく。ライはとても大きくて温かい。晴人はライを見たことはないけれど、きっと美しい姿をしていることだろう。


 ライが自分を見捨てるはずなどない。彼が傍にいれば大丈夫……。もう長いこと晴人を支え続けてくれたライのことを、晴人は心の底から信頼している。信頼していなければ、ライに身を委ね、外出することなどできないだろう。「クーン」と不安そうな声を出しながら、ライは晴人の顔を一生懸命舐めてくれた。


 次の瞬間、バリバリッと二つに天を引き裂くような音と共に、目の前で火花が散るような錯覚に襲われる。
「わッ、ライ、ライ……‼」
 きっとどこかに雷が落ちたのかもしれない。雷鳴がまるで地震のように部屋を揺らした。


「怖い、怖い……ライ……」
 部屋の照明がチカチカと点滅してから、音もなく消える。晴人の視界が一瞬で真っ暗になってしまった。


「嘘だろう……停電?」
 かろうじて感じることができる明かりを失った晴人は、恐怖の底に叩き落とされたような気分だった。夢中でライにしがみつく。
 今も激しく雨は降り続け、一向に収まる気配のない雷鳴に体の震えが止まらない。心臓がうるさいくらいに鳴り響き、呼吸がどんどん浅くなっていった。


「怖い、苦しい……助けて……」


 自分の「はぁはぁ」という荒い呼吸の音だけが、嫌に大きな音で聞こえてくる。起きていることも辛くなった晴人は、崩れるかのように床に倒れ込んだ。


 暗闇の中、幼かった頃の記憶が呼び起こされる。忘れたいのに忘れることなんてできない、そんな記憶。晴人が視力を失った日の出来事は今も尚、彼の心を苦しめ続けていた。


「桔平、助けて」
 来てくれるはずもない人物の名前を呟く。心配そうに晴人に身を寄せるライの体に顔を埋めたまま、意識が少しずつ遠ざかるのを感じた。


「もしも目が見えたらな……」
 目が見えない分、聴覚が異常に敏感になってしまう。それに、何かに備えて心の準備をするということが苦手だ。今自分の身にどんな危険が迫ってきているのかを察知することが、晴人にとっては難しい。
 だから、怖くて不安で、押し潰されそうになってしまう。


「怖い……」
 晴人の目から、涙が溢れ出した。


「晴人、晴人! 大丈夫か⁉」
「……ん、ん……」
「おい、晴人!」
 自分の名前を呼ぶ声と、頬に垂れてきた冷たい雫に晴人はうっすらと目を開ける。姿は見えないけど、この声は――。


「きっ……ぺい……?」
 桔平の声を聞いた瞬間、緊張の糸が切れた晴人は夢中で桔平にしがみつく。まさか本当に来てくれたなんて、予想もしていなかった出来事に胸が熱くなった。


「大丈夫か? 突然停電になったから、お前のことが心配になって駆けつけたんだけど、まさか倒れてるなんて……どっか調子が悪いのか?」
「……ううん、大丈夫。ただ雷が怖いだけ」
「大丈夫なわけあるか! 震えてんじゃん」
「ごめん。大人のくせに雷が怖いなんて……でも、怖くて仕方がないんだ」


 普段飄々としている桔平の鬼気迫った声に、晴人は現実に引き戻される。急いで駆けつけてくれたのだろう。桔平は肩で呼吸をしていた。


「ごめんな、遅くなって。電車もバスも止まっちゃってて、大学からチャリですっ飛んできたんだ」
「え? この夕立の中を自転車で?」
「そうだよ。だって他にここにくる手段がなかったから」


 あぁ、だからこんなにもびしょ濡れなんだ……雨に濡れたせいで桔平の体は驚くほど冷え切っている。髪からは雫が落ちてくるし、洋服は雨を吸って重たくなっていた。


「馬鹿だな、こんなびしょ濡れになって。風邪ひいちゃうじゃないか」
「だって、晴人は雷が苦手だから。一人で怯えてたら……って考えたら居ても立っても居られなくて。体が勝手に動いてたんだから仕方ないだろ?」
「そっか。ごめんね、桔平」
「謝んなよ。俺が好きでやったことだし」
「ううん。すごく嬉しい。ありがとう。ありがとう桔平」


 氷のように冷たくなった桔平の頬にそっと触れる。こんな思いをしてまで自分の元へ駆けつけてくれたということが嬉しくて、目頭が熱くなった。
 大丈夫。桔平がいてくれるから、もう怖くなんてない。


「ありがとう。ありがとう」
「だから、もういいって」
「ありがとう……」
「大丈夫だから」
「でも、ありがとう」


 ありがとう、と繰り返し呟く晴人の声は、涙で震えてかすれてしまう。びしょ濡れの洋服越しに伝わってくる桔平の体温が、とても愛おしく感じられた。


◇◆◇◆


 大丈夫だからと嫌がる桔平を浴室に押し込んでから、濡れた洋服を洗濯機に入れた。すぐに洗濯してやりたいけど、電気はまだ復旧していない。先程の夕立で、晴人の住んでいる地域のほとんどで停電したままの状況が続いていると、桔平が教えてくれた。
 幸い古民家を改築した晴人の家は灯油でお湯を沸かしているから、桔平をお風呂に入れてあげることができたのが不幸中の幸いだ。


 洋服も貸してやりたいところだけれど、自分よりも体格のいい桔平が果たして自分の洋服を着ることができるだろうか。
 浴室の扉が開いた音と共に、ふわりと甘いシャンプーの香りが辺りに漂う。その瞬間、晴人の心臓がトクンと高鳴った。


「風呂サンキュ。温まったよ。晴人は風呂に入らなくても大丈夫なのか?」
「だ、大丈夫だよ、俺は着替えたから。それより箪笥から着られそうな洋服見つけてくれないかな? 俺、洋服のサイズとか柄がわからないから」
「あー、じゃあ適当に借りるわ」
 そう言いながら、恐らく裸のまま箪笥の中を物色し始める桔平。近くをすれ違ったときに、桔平の体が温かくなっていたことを感じて、ホッと胸を撫で下ろした。


「晴人を守っててくれて、ありがとな。助かった」
 そう言いながらライの頭を撫でてやっている桔平。ライも嬉しそうに尻尾を大きく振っているようだ。そんなやり取りが微笑ましい。


「え? 晴人、指怪我してんじゃん?」
「怪我? あぁ、これね。夕立が来そうだったから慌てて扉を閉めたときに挟んじゃって。本当におっちょこちょいなんだよ」
「すげぇ腫れてる。ちょっと見せてよ」
「いいよ、大丈夫だから」
「よくない。俺、これでも医大生だぜ? いいから見せてみろよ?」
 そう言われてしまうと言い返す言葉もなく、晴人はそっと桔平の前に右手を差し出した。


「わぁ、超痛そう。出血は止まってるし、骨折はしてないと思うけど。救急箱と湿布ある?」
「あ、その引き出しの中に」
「ちょっと探させてもらうな? 今日婆ちゃんはいねぇの?」
「うん。同窓会で朝から出掛けてるんだ」
「そっか。それは運が悪かったな。じゃあ、もう一回手を見せて」


 突然、桔平に手を掴まれた晴人の体が飛び跳ねる。晴人は人に触れられることに慣れていない分、誰かに体を触れられることが苦手だ。
 でも、特に桔平に触れられるだけで、心臓がうるさいくらいに鼓動を打って呼吸が上手くできなくなる。それと同時に頬が熱くなってくるのだ。


「大丈夫だよ。別に痛いことなんてしないから」
「こ、怖かったわけじゃ……」
 つい全身に力を籠めれば桔平が笑っている。


 桔平は晴人が治療に対して恐怖心を感じていると勘違いしているようだ。でも本当はそうではなくて、「桔平に触れられることに緊張している」などと口が裂けても言えるはずがない。晴人は唇を噛み締めて俯いた。


「はい、終わり。傷口を消毒して、腫れてるとこに湿布貼っといたから」
「ありがとう」
「本当に、これぐらいの怪我で済んでよかったよ」
 そう言いながら、桔平は包帯が巻かれた晴人の手に自分の額を押し当てる。


「本当によかった」


 噛み締めるように繰り返される言葉に、晴人の胸が再び熱くなった。心臓の音がやけに鼓膜に響いて、体が少しずつ熱を帯びていく。桔平の傍にいるととても幸せなのに、こんなにも苦しい。晴人の心は簡単に掻き乱されてしまう。


 ――桔平は、なんでこんなに優しくしてくれるの?


 問いかけてみたかったけれど、できなくて……。開きかけた口を何度も固く結び直した。桔平の本心を知りたいのに、怖くて仕方がない。
 これがただの気まぐれや一時的な同情で、いつか桔平が自分の元から離れていってしまうことが怖いのだ。 


「暗くなってきたから、このランタン、つけていい?」
「あ、うん。お願い」
「雷は止んだけど、まだ雨が強いな? 大丈夫? 怖くないか?」


 桔平がいるから怖くない……そう言おうと口を開いたけれどやっぱり言葉にできなくて。「大丈夫」と小さな声で呟いた。
 桔平が点けてくれたランタンのおかげで、真っ暗だった視界に淡い光が灯る。晴人の全身から力が抜けていった。


「あのさ、別に話したくなければ話さなくていいんだけど……晴人はなんでそんなに雷が怖いの?」
「え?」
「初めて会ったときは、目が見えないからあの大きな音が怖いのかなって思ったけど。今日の晴人を見ていたら、それだけじゃない気がしたんだ」


 晴人のすぐ隣にいる桔平が顔を覗き込んでいるのがわかる。きっと心配してくれているのだろう。
 桔平に全てを打ち明けようとしたけれど、少しだけ決心が鈍ってしまう。過去の記憶を呼び覚ますことが怖かったから。


 ――でも桔平になら、打ち明けられる気がする。


 今まで誰にも話したことがなかったあの日の出来事。それは楽しい思い出として心に刻まれるはずだったのに、晴人の心に深い傷跡を残し、更に視力までを奪っていった。
 心の奥底にある思い出の箱に閉じ込めて、鍵をかけて今日まで生きてきたけれど……桔平に隠しごとなんてしたくなかった。


「あの日も、今日みたいに雨が強く降って、雷が鳴ってた」
「あの日?」
「うん。俺と両親が交通事故に遭った日」
「交通事故?」


 晴人の言葉に、桔平が息を呑む。離れていってほしくなくて、無意識に桔平の大きな手を握り締めた。


「暑い夏がようやく終わって、秋の訪れを感じたあの日……父さんが突然出掛けようって言い出した。俺にどうしても見せたい景色があるからって。久しぶりの外出が俺はすごく嬉しくて、母さんも張り切ってお弁当を作ってた。父さんが運転する車に乗って、俺はワクワクしながら外の景色を眺めていたんだ」


 晴人は久しぶりにあの日の光景を鮮明に思い起こす。今まで恐怖心から、あの日の記憶は心の奥底に押し込めてきた。
 口を開く度に記憶はどんどん蘇ってきて、晴人の心がズキズキと痛んだ。


「遠くまで来た頃、突然大雨が降り出して、雷が鳴りはじめた。家を出るときは、あんなにいい天気だったのに……」


 話し出したものの、過去の記憶が蘇ると同時に強い恐怖に襲われる。まるであの日に戻ってしまったような……そんな錯覚さえして、思わず唇を噛み締めた。どんなに体に力を籠めても、震えを止めることなんてできない。
 そんな晴人の背中を、優しく桔平が擦ってくれた。


「辛かったら無理に話さなくてもいい」
「ううん、聞いて? 桔平には知っていてほしいんだ」
「……そっか。わかった」


 桔平の優しい声が耳元で聞こえると同時に、そっと肩を抱かれる。遠慮しながらも桔平の体に寄りかかると、髪をそっと梳いてくれた。そんな桔平の優しさに、晴人はゆっくりと呼吸を整える。


「雨が強くて、前なんて見えなかった。突然反対車線から車のランプが近付いてきたと思ったら、物凄いブレーキ音が聞こえて……両親が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。気付いたときには一気に車が炎に包まれて、それから先の記憶がないんだ」
「…………」
「俺が目を覚ましたときには病院のベッドに寝かされてた。婆ちゃんの声が聞こえてきたから目を開けたんだけど、俺の目の前は真っ暗で。おかしいだろ? 目を開けているはずなのに真っ暗なんだよ。俺は自分の身に何が起きたのかなんて全くわからなかった」


 あの絶望的な世界を思い出すだけで体が震えてしまう。どこまでも果てしなく続く暗黒の世界――。怪我の痛みから身動きすらとれない晴人が周囲の状況を知るすべは、音と匂いしかなかった。
 消毒薬の香りが立ち込める病院独特の匂い。自分の身に起こった出来事を誰かに聞く勇気なんてあるはずもない。
 両親が亡くなったことを登紀に聞かされたのは、事故が起きた数日後のことだった。


「父さん、母さん」
 その瞳には何も映さないのに、涙が溢れ出すことが不思議だった。もうこの目は、涙を流す以外の役目を果たしてくれないのだろうか。そんな恐怖が津波のように襲ってくる。
 それに、両親を失った晴人には生きている意味なんてないかもしれない。晴人は暗闇の中で、生きる希望さえ失ってしまっていた。


 退院後は、遠方で一人暮らしをしていた登紀に引き取られ、母親が生まれ育った土地へと移り住んだ。両親だけでなく、視力まで失った晴人を、登紀は大切に育ててくれたけど……その寂しさが癒えることなんてない。
 日が差し込むことのない暗闇の世界は、晴人に生きる希望を与えてはくれなかった。


「時々、ふと怖くなるんだ」
 晴人は洋服の胸のあたりを鷲掴みにして、言葉を振り絞る。


「例えば薔薇の花の香りに気付くとするだろう? でも今の俺は、薔薇の花の姿が少しずつ思い出せなくなってきたんだ。だから、いろんな物の姿を忘れないようにって、何度も何度も繰り返して思い出すんだけれど……。段々と、思い出せないものが増えてきて。俺はそれがすごく悲しかった」
「晴人……」


 ギュッと力を籠めてシャツを握っていた晴人の手を、桔平が優しく両手で包み込んでくれる。その大きな手の温もりに、晴人はそっと肩の力を抜いた。


「あの頃の俺は希望なんてなくて、ただ生きているだけだった。学校にも行けなかったし、そもそも外出することが怖かった。そんなある日、ライが家にやってきたんだ」
「ライが?」
「うん。あのときの感動は今も忘れない。俺には心の底から信頼できる相棒ができたんだ。そう思えば、真っ暗な世界に一筋の光が差し込んだ気がした」


 ライと初めて会った日のことを思い出すだけで、胸が熱くなって涙が出そうになる。ライのことを知りたくて、夢中でその大きな体に触れたのに、怒ることなんてなく黙って尻尾を振っていた。


 ライに会った日から、晴人の暮らしが少しずつ変わっていく。外出もできるようになったし、将来に向けて資格を取得しようとも思えるようになった。そして、嗅覚には自信があったからアロマの勉強にも熱心に取り組んだ。
 晴人の真っ暗な世界は、少しずつ光を取り戻し始めていった。


 次の瞬間、ピカッと稲妻が光り、窓ガラスを揺らすようなほど大きな音で雷鳴が鳴り響く。どこか近くに雷が落ちたのかもしれない。そう思えるほど大きな音だった。


「わッ!」
 もう雷は去ったと思い油断していた晴人が、無意識に桔平に体を寄せると、その大きな体で抱き締めてくれる。桔平の腕の中はとても居心地がいい。何が起きても怖くなんてない……。そう思えるからこそ、晴人は安心して桔平に身を委ねることができるのだ。


「桔平はライみたいだ」
「はぁ? 犬と同レベルかよ?」
「ふふっ。でもライは本当に凄いんだ。俺の人生を変えてくれたんだから」


 晴人は顔を上げて桔平に笑いかける。でも恐らく晴人は、桔平と視線を合わせることができない。
 自分はきちんと桔平を見つめることができているだろうか……? それがとても不安だった。


「ライと桔平は俺の恩人なんだ」
「そっか……」
「俺は見てみたい、桔平とライの姿を」


 そっと桔平の顔に指を這わせる。
 鼻筋が通っていて、薄い唇。肌は滑らかだし、長めの髪はサラサラしている。きっと所謂イケメンなんだろうな、とは想像がつく。


「どんな顔をしてるんだろう」
「晴人はさ、子供みたいな顔をしてて可愛いぜ?」
「そうなの? 俺、自分がどんな顔をしているのかも覚えてないんだ」
「晴人は可愛い。本当に可愛い」


 まるで呪文のように繰り返される桔平の声が心地よくて、晴人はそっと瞳を閉じる。
 瞳を開いていても閉じていても、変わることのない真っ暗な世界のはずなのに……、今はそんな真っ暗な世界が温かいような気がした。


 ――温かい。


 なんでこんなにも心が震えるのだろうか。その原因が晴人にはわからなかった。


◇◆◇◆


「晴君、遅くなってごめんなさいね。大丈夫だった? あら、あなたは? お客さんかしら?」
「あ、突然お邪魔しちゃってすみません。俺、晴人の友達で姫野っていいます」
 慌てたように店に入ってきた登紀は、桔平の姿を見て目を丸くしている。それから、嬉しそうににっこりと微笑んだ。


「まぁ……。あなたが晴君のお友達なのね? 私の想像以上にかっこよかったから、びっくりしちゃった。ごめんなさいね。いつも晴君がお世話になっております」
「い、いえ、こちらこそお世話になってます!」
 自分に向かって深々と頭を下げる登紀を目の前に、桔平が慌てふためいている。そんな桔平の様子に、登紀が目を細めた。


「あらあら、晴君ったら寝ちゃったのね」
「はい。よっぽど雷が怖かったみたいで」
「もしかして、夕立がきたからわざわざ晴君んところに来てくれたの?」
「あ、はい。晴人は雷が超苦手みたいだから、心配になっちゃって」
「……そう。ありがとう。貴方が来てくれたおかげで、晴君も安心したでしょうね」


 登紀は桔平に向かって微笑む。しかし桔平の顔は強張ったままだ。一点を見つめたまま呆然としていた。


「あの、登紀さん。晴人がご両親と交通事故に遭った日の話を聞きました。俺、晴人が雷を怖がる理由って、もっと単純なものだと思ってた……。でも俺の想像以上に晴人の心の傷は深かったんです。俺、今心が張り裂けそうなくらい痛くて」
「……そう。晴君があのときの話をしたなんて、よっぽど姫野君は晴君に信頼されているのね」
「すみません、軽々しく聞いてしまって。本当に俺は馬鹿だ」
 両手で顔を覆い、小さく肩を震わす桔平の顔を、登紀がそっと覗き込む。


「姫野君、そんなことを言わないでちょうだい? 晴君は貴方と知り合ってからは笑顔が増えて、とても楽しそうよ。ありがとう」
「そんなことない……。俺は、晴人に何もしてやれてない」
「あらあら、そんな泣かないで?」
 クスクスと登紀が笑う。それから静かに言葉を紡いだ。それは、まるで桔平を宥めるかのように優しい声だった。


「晴君の視力は、交通事故の怪我で失われたわけじゃないのよ」
「……え? じゃあなんで?」
「晴君はあの事故によって、心に深い深い傷を負った。心因性視覚障害って知ってるかしら? 人間は強いストレスによって視力を失ってしまうことがあるらしいの。晴君についた診断名はそれだった」
「ストレスで?」
「そう。だからこの子の心の傷が癒えれば、きっとまた目が見えるようになる。私はそう信じているの。いつかきっと、真っ暗闇の世界から明るい世界へと戻ってくることができる、ってね」


 登紀はようやく泣き止んだ桔平に笑顔を向ける。でもそれは、登紀自身に言い聞かせているようにも見えた。


「貴方と知り合って晴君は変わったわ。そんな晴君だから、また視力が戻るはず。貴方もそう思わない?」
「……はい」
「これからも、晴君をお願いしますね」
「わかりました」


 登紀が桔平に向かい、もう一度深々と頭を下げる。
 自分が寝ているうちに、二人がそんなやり取りをしていたなんて――晴人は全く知らなかった。