「今日、晴人んとこ行ってもいいか?」
 ぶっきらぼうな声が受話器越しに聞こえてくる。
「えっと、夜の七時以降なら大丈夫だよ」
「わかった」


 たったそれだけの短い会話。晴人は目が見えないからメールが苦手だ。自動音声に頼ればいいのだけれど、とても面倒くさく感じてしまう。そんなことをポロッと零したのを、どうやら覚えてくれていたらしい。


「わざわざ店の電話番号を調べてくれたんだ」
 素っ気ないくせに優しい。桔平という人物は本当に不思議な男だ。
 壁時計が午後の一時を知らせるべく、美しい音楽を奏でている。もうすぐ次の客がやって来る時間だ。


「よし、頑張ろう」
 そう呟きながら、晴人は新しいタオルをベッドに広げたのだった。


 桔平が店にやってきた頃には辺りはすっかり暗くなっていた。可愛らしい鈴虫の鳴き声が聞こえてくる、そんな静かな夜だった。


「いらっしゃい、桔平」
「あー、疲れたぁ」
 そう言うと無遠慮に店に上がり込んでくる。晴人の脇を桔平が通り過ぎていった瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。


「あ、この香りもしかして……」
「ん?」
「もしかして桔平、今日は香水をつけてるの?」
「あぁ、これ?」
「うん。サンダルウッドの香りがしたから」
 桔平が鼻を鳴らしながら自分の洋服の香りを嗅いでいるようだ。


「晴人に教えてもらったサンダルウッドの香りがいい匂いだったから、あの後買いに行ったんだ。そのとき店員に、精油をハンカチに何滴か垂らして持ち歩くといいって教えてもらったから、そうしてるだけ。俺、あんまり香水とかは好きじゃない。でもアロマの香りは好きだ」
「そうなんだ。すごくいい香り」
「だろ? 他にもお勧めの精油があったら教えてよ」
「うん、いいよ」
「それに肩がバキバキに凝ってるから揉んでほしい」
「はいはい。じゃあ着替えようか」


 子供のように甘えた声を出す桔平。こんな風に甘えられたり、頼られたりすることがあまりない晴人は心が擽ったくなる。
 これが友達というものなのだろうか? 嬉しくて胸が温かくなった。


 施術するときに着替えてもらう洋服を持ち、サロンに入るとフワッとサンダルウッドの香りが鼻腔を擽る。


 精油の香りなんて嗅ぎ慣れているはずなのに、普段感じるサンダルウッドの香りとは少しだけ違う気がした。桔平の匂いが混ざり合うとこんな匂いになるんだな……そう晴人は感じた。


「は? 俺は今、何を考えてたんだ」
 一瞬で顔から火が出そうになったから、慌てて顔を振る。


「どうしたんだ? 顔が真っ赤だぞ? 熱でもあるのか?」
「な、なんでもない。大丈夫だからこれに着替えて」
「本当に大丈夫か?」
「本当に大丈夫!」


 心配した桔平が額を触ろうとしたのだろう。晴人に向かって手を伸ばしてきたのをさりげなく避けた。


 客以外の知人が少ない晴人は、人との距離感がいまいちわからない。近すぎると「何か危害を加えられるのではないか?」と恐怖心を感じるし、逆に遠すぎると「自分のことが嫌いなのだろうか?」と不安になる。


 目が見えない晴人は、聴覚と嗅覚を普段から研ぎ澄ませて生きている。時々それに疲れてしまうことがあるけど、受け入れて生きていくしかない。もう何度も自分にそう言い聞かせて生きてきたのだ。


「あのさ、今日は何の香りにする?」
「うーん……お任せでいいかな」
「そうだなぁ。今日の桔平はすごく疲れてるみたいだから、定番のラベンダーとかどうかな? それにレモンを混ぜてみるね」
「へぇ。精油って混ぜてもいいんだな?」
「うん。俺はこの組み合わせが好きなんだ」


 着替えが終わったのか、桔平が晴人の手元を覗き込んできた。桔平は口調や態度がいやに大人っぽく感じるときもあるのに、こうやって子供みたいに晴人の傍に寄ってくることもある。


 布越しに感じる桔平の体温が心地よく感じるのだから、きっと晴人は少しずつ桔平に心を開いているのだろう。知り合ったばかりで怖いけれど、もっとこの人のことを知りたい……桔平はそう思える存在だった。


 そんなことを考えているうちに、室内にアロマの香りが広がっていく。


「あぁこの香り落ち着く」
「でしょ? じゃあベッドにうつ伏せに寝てもらえる?」
「俺、擽ったいのが苦手だけど大丈夫かな?」
「ふふっ。子供みたいだね。大丈夫だよ。じゃあ体に触るからね」
「うん」


 そう返事をする桔平は既に眠そうな声をしている。
 サロンの照明は薄暗いし、小さな音量で音楽も流している。それにアロマの香りが加われば、眠くなるのも仕方がない。


「うわぁ、桔平ガチガチに凝ってるじゃん」
「だろう? こんなんでも、俺学生だからさ」
「大学生?」
「うーん、医大生……」
「凄いね。将来お医者さんになるんだ」
「……別に、凄くねぇし」
「凄いよね?」
「凄くねぇって」


 晴人が褒めているのに、面白くないといった声を出す桔平。これ以上その話題に触れないことが得策だと判断して、違う話題を振ってみる。


「やっぱり女の人の体と違って、男の人の体ってガッチリしてるね。特に桔平は筋肉質なのかもしれない。何かスポーツしてたの?」
「…………」
「桔平?」


 今度は突然黙ってしまった桔平に、晴人は色めき立つ。また自分は余計なことを言ってしまったのだろうか……。桔平の体に触れながらあれこれ考えを巡らせた。


「桔平、俺なんか怒らせるようなこと言った?」
「……言った」
「え? ご、ごめん。あのさ……桔平はなんで怒ってるの? 俺そういうの鈍感だからよくわからないんだ。だから教えてよ?」
「面白くなかった」
「え? なに?」


 桔平が小声で話すものだから、つい施術している手が止まってしまう。


「晴人が俺以外の体にも触ってるのかと思ったら、なんか面白くなかった」
「なにそれ……」
「いいから、もっと力を入れて揉めよ。そんなんじゃ全然効かねぇ」
「え? こ、このくらい?」
「そう、そんな感じ。あぁ、めちゃくちゃ気持ちいい……」


 ようやく機嫌が直ったのか、桔平が大きく息を吐く。それと同時に全身が脱力していった。


「医大生って大変なんだね」
「まぁな」
「俺も散々お医者さんにはお世話になったから、桔平にも立派なお医者さんになってほしいな」
「俺が医者になったら、晴人の主治医になってやるよ」
「本当に? 嬉しいなぁ」
「俺が医者になって、その目を治してやるからな……」


 少しずつ小さな声になっていく桔平。大分疲れがたまっているのかもしれない。


「桔平、寝ちゃってもいいよ」
「うーん……」


 安心しきったように甘えた声を出す桔平の頭を、晴人は無意識に撫でてしまい……慌ててその手を引っ込めたのだった。


「あー、気持ちよかった。体が軽い」
「それはよかった」
「マッサージとアロマのタッグは最強だな」
「ふふっ。ありがとう」


 大きな欠伸をしながら伸びをしている桔平に、晴人は笑いかけた。お客さんに「気持ちよかった」と言ってもらえることが、晴人は何よりも嬉しいのだ。


 そのとき、部屋の扉をカリカリと何かが引っ掻く音がする。それに気付いた晴人は扉に近付いた。


「桔平、犬は大丈夫?」
「犬?」
「うん。ゴールデンレトリバーっていう大型犬なんだけど」
「え? 犬飼ってんの? 全然大丈夫だよ」
「飼ってるっていうかね……」


 晴人が静かに扉を開けると、右足に包帯を巻いた犬が部屋に入ってくる。前足を庇う姿は相変わらず痛々しい。


「彼は俺の盲導犬なんだ」
「盲導犬?」
「そう。盲導犬のライだよ」
「こいつがライか……」


 桔平が「おいで」と声をかけるとライは桔平の元へと歩み寄る。そっとその足元に座り込んだ。


「へぇ、賢いもんだな。あれ? でも右足、怪我してんじゃん?」
「そうなんだ。先日ライと地下鉄に乗ったときに、俺が足を滑らせて階段から落ちちゃって……。そんな俺を庇おうとしたライが右足を骨折しちゃったんだ。俺はほとんど無傷だったのに、ライはちゃんと歩くこともできない。本当に可哀そうなことをしちゃった」
「あぁ、だから晴人はこの前ひとりでスーパーにいたのか……」
「うん。昔からずっとライに頼りっぱなしだったから、ライがいなくてもひとりで頑張らなくちゃって思ったんだけど……。結局はひとりじゃ何もできなくて、桔平に助けてもらっちゃった」
「そっか。お前ご主人を守ろうとしたのか? 偉いなぁ」


 桔平がライの頭を撫でてやっているのがわかる。まるで大型犬が二匹いるように感じられて、晴人は可笑しくなってしまった。


「ライってもしかして、(かみなり)っていう意味か?」
「そうだよ。よくわかったね」
「お前、雷が苦手なくせに相棒にライなんてつけんだな?」
「相棒にライってつければ、雷を克服できるかもしれないって思ったんだよ。全然駄目だったけど」
「あはは! 晴人って面白い奴なんだな」


 肩を竦めてみせれば、桔平が声を出して笑う。晴人が他人とこんな穏やかな時間を過ごしたのは、本当に久しぶりに感じられた。


「じゃあさ、ライの足が治るまでの間、俺がお前の盲導犬になってやるよ?」
「桔平が俺の盲導犬に?」
「そう。出掛けるときにはついてってやるし、雷が鳴ってるときには駆けつける。俺がライになってやる!」
「プッ。なんだよ、それ」
「笑うなよ。俺は真剣なんだぞ」
「ごめん、ごめんね」


 あまりにも突拍子もない提案に思わず晴人が吹き出すと、桔平がムキになって怒り出す。
 桔平は怒っているのかもしれないけど、可笑しくて仕方がない。それに、すごく嬉しい。


「ありがとう、桔平」
「おう、いつでも呼べよな」
「……うん」


 そんな二人のやり取りを、ライが嬉しそうに見つめていた。


◇◆◇◆


「はい、お疲れ様でした」
「ありがとうございます、晴人さん。今日も気持ちよかったです」
「それはよかった」
「それに、オレンジの精油の香り……すごく元気になります」
「柑橘系の香りは心がリフレッシュできますよね? 俺も大好きなんです」
「はい、とっても!」


 今日は近所に住む若い女性が来店してくれている。彼女はもう何年も晴人のサロンに通う、常連さんだ。


 勿論顔は見たことがないけれど、いつも元気な彼女の声を聞くだけで、晴人まで元気になってきてしまう。もうすぐ結婚の予定があるらしく、遠くへ引っ越してしまうことが晴人は少しだけ寂しかった。


「じゃあ、着替えが終わったら呼んでくださいね。登紀さんにハーブティーを淹れてもらってきますから」
「あの、晴人さん」
「はい、なんでしょう?」
 突然呼び止められた晴人は慌てて振り返る。


「最近何かいいことがありましたか?」
「え? なんでですか?」
「すごく幸せそうな顔をしてらっしゃるから。もしかして、恋人ができた……とか?」
「恋人……?」
「えぇ。だって、晴人さんまるで恋をしているときのような顔をしてるから」


 想像もしていなかった問い掛けに、思わず言葉を失ってしまう。晴人は自分がそんな顔をしていることを、全く自覚していなかったのだから。恥ずかしくなって無意識に両手で顔を覆った。


「恋人なんて……こんな目の見えない男に、恋人なんかできるはずなんてないです。俺が恋なんて、あり得ないですよ」
「そんなぁ。晴人さんとても可愛らしい顔をしてるのに?」
「あはは。俺に恋なんて、無縁の話ですよ。じゃあ、ハーブティーを持ってきますね」
「ありがとうございます」
 タオルを静かに畳んでから、部屋を後にした。


「恋か……」


 サロンを出た晴人はそっと呟く。自分は一生恋なんてせず生きていくものだと思っていたし、その考えは今も変わっていない。


 目の見えない自分を心の底から想ってくれる人などいるはずがないし、目の見えない自分が他人を心の底から好きになるイメージが湧かないのだ。


「恋か……ん?」


 ふとサンダルウッドの香りがしたような気がする。そんなはずはない。先程までサロンで焚いていたのはオレンジの精油だったのだから。


 今日の一番最後の客は桔平だ。彼がサロンに来るまでにはまだ時間がある。
 晴人は、夜になるのが待ち遠しかった。


 あの夕立の日以来、桔平は時々晴人のサロンへ足を運ぶようになった。「疲れたぁ」と甘えた声を出しながら押しかけてきては、マッサージ中に子供のように眠ってしまう。


 桔平がやって来るのは決まって、晴人がそろそろ店を閉めようと準備を始める時間帯。普通なら断ってしまうような、夜遅くになってからだった。


「晴君、今日もお疲れ様」
「婆ちゃん、いつも片付け手伝ってもらって悪いね」
「いいのよ。お婆ちゃんは晴君の頑張ってる姿を見るのが嬉しいんだから」


 登紀はそう言いながら手際よくタオルを洗濯籠へ入れ、サロンの奥へと消えていった。余程嬉しいのか、声が明るい。
 少しすると洗濯機が回る音が聞こえてくる。晴人はこうやってサロンを一人で切り盛りをしているけれど、洗濯や掃除といった日常生活の一部は、誰かのサポートがどうしても必要なのだ。


 登紀はそんな晴人の身の回りの世話をもう何年もしてくれている。晴人は登紀がいないと生きていけなかった。
 サロンの戸締りを始めていると、サロンに置いてある電話のベルが鳴る。もしかして……と、晴人の胸が高鳴った。


「もしもし、晴人? 今から店に行ってもいいか?」
「あ、うん、いいよ。待ってるから」
「ありがと」


 お世辞にも礼儀正しい対応ではないけれど、いつの日からか桔平がサロンに来ることを待ち侘びている晴人がいる。夜遅くに電話のベルが鳴ると、否応なしに期待してしまうのだ。


「ふふっ。晴君、最近お友達ができたのね?」
「え? 別に友達なんかじゃ……」
「嘘おっしゃい。いつも夜遅くに電話が来ると、とっても嬉しそうな顔をしているもの」
「そ、そんなんじゃ……」


 顔が火照ってくるのを感じた晴人は、両手で頬を押さえながらクスクスと笑う登紀に背を向けた。


「疲れた……」
「桔平、お疲れ様」
「うーん」


 サロンを訪れた桔平はひどく疲れた声をしている。足取りがいつもより重たそうだ。医大生というのは、きっと大変なのだろう……と晴人はいつも感じる。


 それでもそんなときに、自分の元へと桔平が訪ねてきてくれることが嬉しくて仕方がない。つい甘やかしてやりたくなるのだ。


「横になりたい……」
 そう言いながら施術用のベッドに横になる桔平。彼が晴人の横を通り抜けた瞬間、フワッとサンダルウッドの香りがした。


 あれ以来余程気に入ったのか、桔平はサンダルウッドの香りを身に纏っている。いつしかサンダルウッドの香りを嗅ぐたびに、桔平のことを思い出すようになってしまった。


 夜遅くに電話のベルが鳴らない日は、サンダルウッドの香りが恋しくなる。サンダルウッドの精油をアロマポットの皿に垂らして、淡い光を放ちながら浮かび上がるライトを見つめていると、たまらなく寂しくなった。 
 だから、こうして桔平がサロンに来てくれる日は嬉しくなってしまう。


「ありがとう、桔平。こんな俺の所に来てくれて」
「はぁ? 別に晴人に会いに来てるわけじゃねぇし」
「そっか……そうだよね。こんな俺の所にわざわざ会いに来てくれる人なんていないよね」
「なんだよ、それ」


 桔平に向かって笑って見せるけど、その顔が引き攣っているのが自分でもわかる。こんなことを言えば、桔平を困らせるだけだとわかっているのに……。ハンディキャップがある分、どうしても卑屈になってしまう。
 それでも気持ちを吐露せずにはいられなかった。


「あの夕立の日に、桔平が助けてくれたことがすごくうれしかったんだ。それに、こうやってサロンに時々来てくれることも……。俺、今まで友達なんて数人しかいなかったから。だから、桔平には本当に感謝してるんだよ」
「ふーん……」


 不貞腐れたような声が聞こえてきた。もしかしたら桔平は照れているのかもしれない。そんな天邪鬼のところだって、彼の魅力に思えてしまう。


「じゃあ、今日は十分延長してマッサージよろしく」
「えぇ? 仕方ないなぁ」
「それに、いつもより強めに押して」
「了解。アロマは何にする?」
「晴人のおすすめで……」
「はいはい、ちょっと待っててね」


 今にも眠ってしまいそうな桔平。早くマッサージをして楽にしてやりたかった。
 そんな桔平に、何のアロマを焚いてあげようか?


「今日は棚の二段目。右から五番目にある……ローズマリーにしようかな」


 晴人は鼻歌を口ずさみながら、精油が並べられている棚へと向かった。