その日、晴人(はると)は父親の運転する車に乗って、久しぶりの外出をした。


 行先を告げられてはいたけど晴人には想像もできないような場所で、胸の高鳴りが止まらない。
 助手席では、自分と同じく子供のようにはしゃぐ母親の姿。朝早くからお弁当を作って、張り切っていた。「早く唐揚げが食べたい」と思いながら外を眺めれば、気持ちいいほど空が綺麗に晴れ渡っている。
 暑かった夏が終わり、秋が訪れて、急に空を高く感じるようになった。


 後部座席に乗った晴人は、嬉しくて足をバタバタと動かす。久しぶりの外出に、楽しそうな両親の姿。晴人の心はまるで陽だまりで昼寝をしている時のように温かかった。
 しかし、その幸せは長くは続かなかった。


 突然大きな衝撃と共に、けたたましいブレーキ音が響き渡る。両親の、耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
 冷静に状況を判断する間もなく、晴人の周りが炎で包まれる。それはあまりにも一瞬の出来事だった。


「晴人、晴人!」


 両親の叫び声が少しずつ遠くなっていき……目の前が真っ暗になる。


 次に晴人が目を覚ましたときには、病院のベッドの上だった。薄く瞼を開いた晴人は一瞬言葉を失う。
 晴人は目を開いているはずなのに、僅かに光を感じることができるだけで……その瞳には、もう何も映ることはなかったのだ。


◇◆◇◆


「あ、ヤバイ、雨が降ってくるのかな? 遠くのほうから雷の音がする」


 西澤晴人(にしざわはると)はスーパーのレジ袋を抱き締めたまま足がすくむのを感じた。もしかしたら、夕立が来るのかもしれない。家を出るときは午後の四時で、天気予報でも雨とは言っていなかったから、油断していた。


「雷が近付いてきたらどうしよう。早く帰らなくちゃ」


 そう思い、スーパーの出口へと足早に向かったが、焦ったせいでバランスを崩し、出入口付近にあった特売の棚にぶつかってしまった。ガタガタという音と共に、たくさんの小箱が晴人の頭の上に降ってくる。「大丈夫ですか?」と女性の店員が駆け寄ってくる足音が近付いてきた。


「お客様、大丈夫ですか?」
「あ、はい。すみません。よろけちゃって」
「あの、お客様、もしかして……」
「すみません。商品を棚に戻しておいてもらってもいいですか?」
「でも……」
「俺は大丈夫です。すみませんでした」


 晴人は慌てて立ち上がると、出口に向かっていつもより速めに歩いた。「お客様、自動ドアにご注意ください」という店員の声に一瞬だけ冷静さを取り戻し、立ち止まる。
 自動ドアが開き、湿気を含む生ぬるい風を感じた晴人は大きく息を吸い込んだ。


 つい先程まであんなに明るかったのに、今は真っ暗な世界が広がっている。時々遠くから聞こえる雷鳴と共に、まるで電気をつけたときのように目の前が一瞬パッと明るくなった。


「絶対夕立がくる。こんなときにライがいないなんて……」


 晴人は無意識に体が小さく震え出すのを感じる。まだ雷は遠くで鳴っているはずなのに、自分のすぐ真上で鳴っているような恐怖を感じた。
 夕立が通り過ぎるまでこのスーパーにいるべきか、それとも急いで帰るべきか……。今の晴人には判断することができない。


「どうしたらいいんだろう……」


 一分一秒でも早く家に帰りたいと思うのに、足がすくんで動いてくれない。その一歩を踏み出すことができなかった。
 次の瞬間、眩い光と同時に、耳をつんざくような爆発音が鳴り響く。


「わぁぁぁ‼」


 晴人の体がビクンと飛び跳ねる。すると間もなく、大きな音をたてながら雨が降り始めた。それはどんどん強くなっていく。雨が地面に叩きつける音が異常に大きく聞こえて、昼間の熱で焼けたアスファルトが雨によって冷やされていく独特の匂いが鼻をつく。


「あ、雨だ……」


 晴人が持っていた白杖を握り締めて立ちすくんでいると、ドンッと何かが勢いよく地面に落ちたような音と同時に、地面が揺れたのを感じる。まるでカメラのフラッシュのように光り続ける雷の光に、晴人はその場に崩れるように座り込んだ。


 ――嫌だ、怖い、怖い……ライ、助けて……。


 スーパーの軒先にいるはずなのに、横殴りの雨はそんなことはお構いなしに晴人の洋服を濡らしていく。店内に引き返そうと思うのに、体が震えて思うように動いてくれなかった。


「早く帰らないと……」
 そんな晴人のすぐ脇を、買い物を終えた客たちが走っていく足音が聞こえる。その焦った声に、晴人も強い焦燥感に駆られた。
 

 自分だって帰りたい……。
 先程、声をかけてくれた店員に助けを求めようとしたけれど、開きかけた口を晴人は閉ざした。


 ――こんな無様な姿を、他人に見せられるはずなんてない。


 そう思った瞬間、全身から体温が消えていくのを感じる。晴人は膝を抱えてその場に蹲った。


 きっと夕立だから、すぐにこの雨は上がって雷雲も去っていくことだろう。「それまでの我慢だ」と、晴人はギュッと唇を噛み、拳を握り締めた。
 雨に濡れた体が小さく震えている。まるで、天を引き裂くかのような雷鳴が怖くて、思わず耳を塞いだ。


「俺は一人じゃ何もできない。君がいなければ、外出もできないなんて……」


 情けなくて目頭が熱くなり、慌てて手の甲で涙を拭う。少しでも気を抜けば恐怖心に呑み込まれてしまいそうになる。なんとか奮い立たせようとしているのに……。情けないことに涙が頬を伝った。


「おい、あんた大丈夫か?」
「わぁ⁉」
「こんな所に蹲って、どっか具合が悪いのか?」
 突然肩を掴まれた晴人は悲鳴を上げる。


「大丈夫かよ?」
 雨が滝のように降り注ぐ中、大声で自分に話しかけてくるその人物に晴人は心当たりなどない。恐る恐る声がする方を見上げた。
「あんたびしょ濡れじゃん? とにかく店の中に入ろう」
「あ、でもちょっと……」
 恐怖心を感じた晴人は体を硬くしたが、引き摺られるように腕を引かれ、どこかに連れて行かれそうになる。


「ちょっと……一体、あなたは誰、ですか?」
「そんなの今はどうでもいいだろうが⁉ いいからこっちに来い!」
「いや待って……!」
「あぁ、もうごちゃごちゃうるせぇなぁ。黙ってついて来い! ほら、その杖も寄越せ」


 嫌だ、行きたくない……。


 そう叫ぼうとしたとき、暗闇が裂けて光が走る。どんどん近付く雷鳴。雹まで降ってきたのだろうか。硬い物がアスファルトに叩きつけられる音もした。
 明らかに先程より大きな雷が鳴り、雨も強くなってきている。


「あんた、もしかして雷が怖いんだろう? それにその白杖……」
 声のする方を恐る恐る見上げて、晴人は小さく頷く。もう強がってなどいられない。自分に救いの手を差し伸べてくれる人に甘える以外、今の状況を脱出する方法が晴人にはないのだ。


「……うん。雷が怖い……」
「ならこっちに来い」
 少しだけ優しい話し方になった人物に抱えられるように、晴人は明るい店内へと引き返した。


「ここに座ってて」
「でも……」
「いいから。ここに座って待ってろ」
「……わかった」


 晴人が連れて来られた場所は、たこ焼きの香りが漂うフードコートだった。
 ぶっきらぼうにそう言い残すと、声の主はどこかにいなくなってしまう。晴人は突然体を触られることがとても苦手だ。それと同じくらい、近くにいた人物が急に離れていくことも苦手である。置いていかれたのかもしれない、と急に不安に襲われてしまうから。


 ――あの人、もう帰って来ないかもしれない。


 ふとそんな考えが頭を過る。もし自分の元に帰ってこなかったら、店員さんに事情を話して家の人に迎えに来てもらわなくちゃ……。そんなことになったら、また自分のせいで迷惑をかけてしまうことになる。
「本当に情けない」
 晴人は小さく溜息を吐く。幼い頃からよく来ていたスーパーが、とても広く感じられた。


「ほら、頭拭くぞ」
「え?」
「タオルと温かい飲み物買ってきたから」
 先程まで傍にいてくれた人物の声が、頭の上から聞こえてくる。温かな飲み物が入ったペットボトルを手渡してから、濡れた髪を柔らかいタオルで拭いてくれた。お世辞にも丁寧とは言えない拭き方ではあったが、晴人の肩から少しずつ力が抜けていった。


 ――俺を見捨てずに戻ってきてくれたんだ。


 晴人はそれが嬉しかった。手渡された温かなペットボトルを、思わず頬に押し当てる。


「あの、こんなに親切にしてもらってすみません。あなたはどちら様でしょうか?」
「あぁ?」
「あ、えっと……名前が知りたいなと思って」


 あまりにもつっけんどんな態度に晴人はつい逃げ腰になってしまう。親切な人だっていうのはわかるのだけど、言葉遣いは悪いし、対応も乱暴だ。恐怖心を感じずにはいられない。


「……それより、もしかしてあんた目が……」
「あ、はい。僕は目が見えません」


 目の前にいる人物が言葉を失ったことが、空気を通して伝わってくる。別に罪の意識を感じることなどない。晴人はこんなことは慣れっこなのだから。


「……そっか、なんかごめん」
「気にしないでください。慣れてますから」


 申し訳ない、という思いが声のトーンから伝わってくる。晴人は目が見えない分、声や音や匂いでいろんなことを判断する能力に長けているのかもしれない。


「もしよかったら名前を教えてください。僕は目が見えないから、誰だかわからない人と一緒にいることが怖いんです」
「あ、そうだな。俺は姫野桔平(ひめのきっぺい)、今年で二十一歳になる。自己紹介が遅れてすまなかったな」
「いいえ。僕は西澤晴人です。こんなに親切にしてくれてありがとうございます。あなたがいなかったら、あの場から動けなかったかもしれません」
「そっか、ならよかった」


 晴人が仰々しく頭を下げれば照れくさいのか、頭を掻く音がする。話し声のする角度的に、桔平と名乗った青年は身長がかなり高いのかもしれない。


「雨がやんだら、家まで送ってくよ」
「本当ですか?」
「あぁ。だからもう少しここで雨宿りしていこう」
「はい」


 ようやく生きた心地がした晴人がにっこりと微笑む。そんな晴人を見た桔平が、安心したように大きく息を吐いた。
 雷鳴はまだ鳴りやまず、当分雨もやみそうにない。
 そんな夕立の日に、晴人と桔平は出会ったのだった。


◇◆◇◆


「まだ当分雨がやみそうもないから、傘買ってくる。そしたらお前ん家(ち)に送ってくわ」
「え? いいんですか? 何から何までありがとうございます。お金は後できちんとお返ししますから」
「いやいいって、そんなの。大体、今お前を置いて帰ったら、夢に出てきそうだからな」
「そんな、酷い。まるで俺のことをお化けみたいに……」
「ふふっ。じゃあ、少しだけ待っててくれ。あ、それと、本当に金のことは別にいいから」
「で、でも……」
「いいから。そんなことより、もう少し待っとけよ?」
「は、はい」
 そう言ってその場を離れた桔平は、傘を買ってすぐに戻ってきてくれた。


「傘、一本しか買ってこなかったから、俺の傍に来てくんない?」
「え?」
「お前ん()ここから近いんだろう? 傘二本も買ったらもったいないじゃん。ほら、はぐれないように抱えてくから、俺にくっつけって言ってんの」
「で、でも……」
「いいから、こっちに来いって」
「わ!」


 突然体を抱き寄せられた晴人は思わず体に力を込めた。やはり桔平は想像していた通りに逞しい体つきをしている。華奢な晴人は桔平の腕の中にすっぽりと納まってしまった。


「ほら、店を出るぞ。まだ時々雷が鳴ってるから、怖かったら耳塞いでろ」
「は、はい」
「敬語じゃなくていいし、桔平って呼び捨てにしてもらって構わないから。なんかそういうよそよそしい態度、めちゃくちゃ気を遣う。俺も晴人って呼ぶし」
「……あ、うん。わかった」
「あんたのがきっと年上だろう? 年いくつ?」
「俺? 今年で二十六歳だよ」
「は⁉ マジで? 五歳も年上なの? 子供みたいな顔してるから、そんなに年が変わらないかと思った」
「ごめんね、こんな歳で雷が怖くて。本当に子供みたいだ……」
「いいんじゃん? そういうとこ可愛いよ。あ、さっきより雨がマシになってきた。行くぞ」
「うん」


 晴人は桔平に抱えられて店を出る。


 傘に当たる雨音が大きいから、まだ雨はかなり降っているはずだ。それなのに晴人には全く雨がかからない。きっと桔平が庇ってくれているのだろう。


 時々目が見えない自分を気遣い、親切にしてくれる人がいる。それはとてもありがたかったけど、同時に申し訳なく思えてくる。
 こんな自分の為に貴重な時間を割いてくれるなんて……という罪悪感のほうが強くなってしまうのだ。
 しかし、桔平のようにここまで強引だと罪の意識を感じる暇さえない。強引なのに、とても優しい。それがとても不思議だった。


「桔平はライみたいだ」
「ライ?」
「そう、ライ。いつか桔平に紹介するからね」


 少しずつ雨粒が小さくなり、視界に日差しが差し込んでくるのを感じた。雷鳴も遠くのほうから聞こえてくるから、夕立もそろそろ通り過ぎるのかもしれない。


「もうそろそろ夕立が終わりそう?」
「あぁ。虹がかかったら教えてやるよ」
「ありがとう」


 ぶっきらぼうなのに、こんなにも優しい桔平の心遣いが、晴人は嬉しかった。


◇◆◇◆


「ここ、俺のお店なんだ。遠慮なく入って」
「へぇ。アロママッサージか……洒落てんじゃん」
「そう。マッサージ師は目が見えなくても取れる国家資格なんだよ。アロマはずっと前から好きだったから」
「ふーん。アロマっていい香りがすんのな?」
「うん。ちょっとここで待ってて。着替えとタオル持ってくるから」
「あー、ありがと」


 桔平が店内の散策をしている音が聞こえる。男性は滅多にこういったサロンには来ないだろうから、物珍しいのだろうと微笑ましくなる。


 晴人は専門学校を卒業して、マッサージ師の資格を取得した。それは晴人の将来を心配した祖母からのアドバイスだったのだけれど、古民家をサロンに改修したことが人気を呼び、今では時々雑誌で取り扱われるほどの店となった。
 晴人の店は元々祖父母が住んでいたのだが、祖父が亡くなってからは祖母の登紀(とき)が一人で住んでいる。そこにサロンを開かせてもらったのだ。


 今、店内の様子がどうなっているかは晴人にはわからない。けれど、幼い頃の記憶に残る祖母の家は、日の当たる縁側がある落ち着いた佇まいの建物だった。障子に日が差し込み、風鈴が心地よい音色を奏でる。落ち着いた木目調の床が気持ちよくて、いつも大の字で昼寝をしていたものだ。


 今は晴人がいつも昼寝をしていた場所に、施術用のベッドを置いてもらっている。ベッドの傍には、精油が入っている小瓶が並べられた棚があって、たくさんの観葉植物も飾られている。それに時々、庭に咲いている花を登紀が飾ってくれているようだ。
 それらを晴人は見ることはできないけれど、手を伸ばして探ってみると、いつも同じ物が同じ場所に置いてある。登紀は晴人が困らないようにと、身の回りを常に整理整頓してくれているのだ。


 サロンの奥にある箪笥から、施術中に客に着てもらう洋服を取り出す。それから、お日様の匂いがするタオルを何枚か持った。


「この洋服に着替えてもらえるかな? 施術のときに着てもらう洋服なんだけど。それからタオルも使って」
「あ、サンキュ……って、晴人は着替えないのか? よかったら手伝うけど」
「え、は? 俺は大丈夫。そんなに濡れてないし、着替えは自分でできるから」
「へぇ、凄いんだな」
「別に、凄くないよ。自分のことを自分でするのなんて当たり前でしょう?」
「そりゃあそうだけどさ」
 改めて褒められると恥ずかしくなってしまう。頬が熱くなるのを感じて、晴人は思わず俯いた。


「棚に並んでる小瓶ってアロマ?」
「うん、アロマの精油だよ」
「精油? アロマの精油って、いろんな種類があるんだな」
 布が擦れる音がするから、きっと桔平が着替えているのだろう。席を外した方がいいかと悩んだが、同性だし、どうやっても晴人には桔平の裸を見ることはできないのだ。しかし何となく気まずさを感じた晴人は、精油が並べられている棚の前に移動した。


「好きな香りがあるなら焚いてあげるよ?」
「好きなって言われても、アロマなんてわかんねぇもん」
「そうだなぁ。桔平は元気が出る香りと、ホッとする香り……どっちが好き?」
「うーん、マジでわかんねぇ」
 唸り声をあげながら真剣に悩み始める桔平。そんな姿がとても微笑ましく感じられた。


「でも、晴人に初めて会ったときからいい香りがするなって思ってたんだ。それ何の香り?」
「あぁ、これ? これはサンダルウッドだよ。白檀っていうとわかりやすいかな? 最近サンダルウッドが好きで時々焚いてるんだ。だから、きっと洋服からその香りがしたんだね」
「へぇ。サンダルウッドっていうのか……」
「そう。古くからインドでは儀式に使っていたり、寺院で炊かれたりしていたんだ。……って、ちょっと、なに?」


 突然桔平の気配を近くに感じたと思ったら、首筋をまるで犬のように鼻を鳴らして嗅ぎ始める。あまりの突然の出来事に、体が飛び跳ねるほどびっくりしてしまった。


「甘くて上品でいい匂いだなぁ。このアロマ焚いてよ」
「う、うん。わかったから離れて、桔平」
「あ、悪い」


 晴人の心臓は口から飛び出そうなほど高鳴っているのに、桔平は全く気にする素振りもなく静かに離れていった。


 出会ったときから感じていたのだが、桔平はいとも簡単に晴人のパーソナルスペースに入ってくる。元々目が見えない分、他人と触れ合う機会がほとんどなかった晴人。友達と呼べる存在だってごく僅かだし、恋人なんていたこともない。そんな晴人にとって、桔平との距離感は戸惑いの原因でしかなかった。
 緊張しているのを気取られたくなくて、慌てて桔平に背を向ける。こういうときに、他人の顔色を窺えないことは不便で仕方がない。


 アロマランプの皿にサンダルウッドの精油を垂らし、電源を入れる。しばらくすると、電球の熱で精油が徐々に揮発し、ほんのりとサンダルウッドの甘い香りが部屋を満たしていった。


「へぇ。目が見えないなんて嘘みたい。なんでもできるじゃん」
「なんでもじゃないよ。こうやって祖母がちゃんと整理整頓しておいてくれるから、どこに物が置いてあるのかがわかるんだ。でも少しでも位置が変わってしまうと、物を落としたり、つまずいて転んだり……だから怪我が絶えないんだ。ほら、見てよ」
笑いながら右腕を桔平のほうへ向けると、驚いたような声が返ってくる。


「あ、本当だ。痣や擦り傷だらけじゃん」
「うん。俺、元々とろいから」 
 つい自嘲気味に笑うと、桔平の口から思いもよらない言葉が紡ぎだされた。


「お前、色々大変なのに頑張ってるんだな」
「え?」
「いや、凄いなと思ってさ。俺なんて五体満足のくせに、いつも不満ばかりで……一生懸命生きてる晴人を見てると、自分が情けなくなってきた」
「桔平……」
「またここに来ていい? ここにいるとすごく落ち着く」
 桔平が深く息を吸ってから「くぁ……」と大きな欠伸をする。
「マジで落ち着く……」
 少しずつ声が小さくなっていき、ベッドが軋む音がした。


「桔平? 大丈夫?」
 心配になってそっと声をかけると、穏やかな寝息が聞こえてきた。どうやら施術台であるベッドに横になり眠ってしまったようだ。
 

 何か掛けるものを持ってこようとサロンの奥へと続く扉を少しだけ開けると、「くぅんくぅん」と甘えた声を出しながら、一匹のゴールデンレトリバーが鼻でドアを押して入ってくる。


「あ、ライ。静かにしてね。今お客さんが眠っているんだ」


 ライと呼ばれたゴールデンレトリバーは、白く美しい毛並みをしていた。大きな体をしているのに、動きがゆったりとしている。晴人の言ったことを理解したかのように黙ってその場に座った。


 右前足には包帯が巻かれており、ライはその足を庇うかのように歩いている。バランスを崩しているかのような、不規則な足音がとても痛々しい。そんなライの傍に晴人は静かに歩み寄った。


「ライ、今日君の餌を買いにスーパーに行ったときに、とってもいい人に会えたんだよ。話し方はぶっきらぼうだし、ちょっと強引なんだけど、すごく優しいんだ。それにまたお店に来てくれるって。嬉しいなぁ」


 そう話しかけながら頭を撫でてやれば、そんな思いがライに伝わったのだろうか。晴人の顔を舐めてくれたのだった。