「もう、誰でもいいから手伝っ……あ」

 放課後。
 三階のベランダで、オレは予想外のピンチに陥っていた。
 帰ろうとした瞬間、担任に呼び止められた。
 どうやらバドミントン部が大会で優勝したとかで『懸垂幕(けんすいまく)』という長い布をベランダから垂らすらしい。
 その手伝いをしろと言われて、言われるがまま幕を垂らした、その瞬間――担任が言った。

「あ! 紐忘れた」

 オレは、三階のベランダで幕をつかんだまま、放置された。

(うぅ、風強っ)

 懸垂幕、まあまあ重いし。
 地味に高所恐怖症もある。
 下に人もいて、危ない。

(これ、絶対手を離したらだめなやつ)
 
 手のひらに汗が滲む。
 戻ろうにも、どうしていいかわからない。

「誰でもいいから、手伝って……っ、あー今の無し!」

(でも、ほんと誰か!!)

 心の中で叫んだその時。
 背後に人の気配がして、落ち着いた声が耳元で響いた。

「先輩。手、離していいですよ」

 風にあおられていた幕の重さがふっと軽くなった。

「俺、持ちます」

 そう言って、片手でひょいっと押さえる。

「……強っ」

 赤い線の入った上履きが目に入る。
 一年だ。
 黒い髪に涼しげな目元。
 あの、サッカーしてたやつに、雰囲気が似ててドキッとする。
 そして、別の意味で心臓が跳ねる。

 この耳に残る低い声、もしかして……

 昇降口で聞こえた声。
 そして、今朝の電話。

(こいつ、透明人間くんだ)

 気づいた瞬間、涙目になった。
 今度こそ本当に呼び寄せてしまった。
 呪いの言葉で。

「……ぅう」

「何で泣いてるんですか?」

 声が、少しだけ優しくなる。

「おまえ、霧島透也?」

「はい」

「なんでもするから、呪わないで」

「呪われるようなことしたんですか?」

 涼しげな目が、そっと覗き込んでくる。
 オレより背が高い。
 生意気だ。透明人間のくせに。

「……したんだよ、多分」

 一年はくすっと笑って「何したんですか?」と首をかしげた。
 あ。その笑い方、見覚えがある。

「なんかさ、フワッと適当に生きてたら、知らない間に誰か傷つけてた……みたいな?」

 自分で言ってて恥ずかしい。
 意味わからないし。
 霧島も、なんて答えていいかわからないみたいで困ってる。
 一瞬の沈黙の後、ぽつりと言った。

「……音楽祭の日、覚えてます?」

「先月の?」

「はい。その時、俺かなり緊張してて」

 その言葉を聞いた瞬間、舞台袖の薄暗さがよみがえった。
 あの日、芸術館のステージ裏で、オレは実行委員の雑用をしていた。
 ステージだけやたらと眩しくて、そこで歌う生徒たちは全員主役って感じだった。
 そのすぐ横の舞台袖で、一年の男子が、指揮棒を握ったまま固まっていた。

 たぶん、次のクラスの指揮者だ。
 顔は真っ白で、今にも倒れそうで、見てるこっちが怖くなる。
 思わず隣に立って、肩をポンポンたたいた。

「水いる?」

「……え?」

 ビクッとこっちを見る。

「大丈夫。練習通りやればいいから」

 持ってた未開封のペットボトルを押しつける。
 勝手に肩をもみながら、適当なことを喋る。

「ここから全力で応援しとく」

「や、やめてください……」

 少し笑った顔が可愛く見えた。
 曲が終わったあと、客席に一礼したそいつは、その流れでこっちにもぺこっと頭を下げた。
 それ見てたら、わけわからない感情が押し寄せてきて、舞台袖に戻って来たそいつに思わず駆け寄ってた。

「なんかあったら、いつでも電話して」

 プログラムの端っこに、自分の番号を雑な字で書いて押しつける。

「ありがとうございます……先輩」

 そのときの「先輩」の響きが、妙にこそばゆかった。

――あれ?

「あれ、俺です」

 そう言って、オレの顔をじっと見つめる。

「番号教えてくれましたよね」

「教えた」

 そっか、あの時の。

「いつか恩返ししたいって思ってて……」

(恩返しって……あれもこれも、恩返しだったの!?)

 朝の電話も、購買のパンも、紙切れも。
 フツーにホラーかと思った。

 でも――あのときのオレ、ちゃんと役に立ってたんだな。

「そっか」

 ツケでも呪いでもなかった。
 胸の奥が、少しあったかくなった。

……のも束の間。

 霧島は、怖いくらいまっすぐにオレを見て言った。

「でも俺、恩返しだけじゃ足りなくなりました」

(えっ……なに? 解決じゃないの?)

「先輩。俺と、付き合ってくれませんか?」

 世界が止まった。

「えっ……えーー?」

 ベランダの柵、風の音、遠くの部活の掛け声。
 全部が、遠くなっていく。

「ずっと見てました。先輩が『誰でもいい』って言うたびに、俺が呼ばれてる気がして」

「いやいやいやいや。それはただの口癖で──」

 思わず声が裏返る。

「知ってます」

 霧島は、少しだけ目を細めた。

「いつの間にか『俺じゃなきゃ嫌だ』って思うようになって……」

 霧島は一瞬だけ視線を落とし、それからまたまっすぐこっちを見た。

「俺……先輩に『おまえがいい』って言ってほしいんです」

 胸の真ん中を、撃ち抜かれた。
 そんなの、ある?
 かっこよすぎるじゃん。
 霧島は、ほんの少しだけ表情をやわらげて言った。

「いつかでいいんで、言ってもらいたいです」

 いつか。
 いつかは、きっと今だ。

 オレは誰でもいいなんて言って、傷つかないように逃げて、甘えてたんだ。

 もう、言えない。
 だって、目の前の後輩が、オレしか見てない。

「透明人間くん」

 思わず、いつもの呼び方で呼んでしまう。

「透也です。先輩」

「透也」

 名前を呼ぶと、ほんの少しだけ、彼の表情が揺れた。
 可愛くて、触れたくなる。

「一緒に帰ろ。透也と一緒に帰りたい」

「はい」

 三階のベランダで、強風と、痛いくらいまっすぐな後輩の視線に晒されながら、オレはオレのゆるふわな日常が変わりはじめているのを感じた。