オレは、たぶんポンコツだ。
 でも、そこそこイケメンで、勉強も運動もそこそこ得意で、いつの間にか周りに助けられて、毎日ふわっと楽しく生きている。
 だけど、ふと考える。
 これっていつまで続くんだろう。
 ある日突然、この日常が終わりそうで——なんか怖い。

真中(まなか)! あと一分で来ないと遅刻だぞー!」

 頭上から降ってきた声に、オレはのろのろと視線を上げた。
 寝坊して、コンタクト忘れて、世界がぼやけてる。
 中身ポンコツのまま、高校三年生になってしまった。
 でも、たぶん誰も気づいてない。オレは、無駄に小器用なのだ。

 三階のベランダから身を乗り出してる茶色い髪は、たぶん園田(そのだ)

「マジ? 一分で行けるかな」

「今日ミニテストだぞ!」

「うわ。なにもやってねー」

「おま、絶対やってるだろ」

 園田が、笑い混じりにツッコんでくる。

「真中くん、まだ間に合うよ」

 高い声が混じる。あの髪の長さは、たぶん斎藤(さいとう)さんだ。
 オレは大きく手を振った。

「ダッシュで行く!」

――と言いつつ、のろのろと上履きを出して、のろのろ履き替える。

 頭の中がまだ寝てる。

「ほんと、誰でもいいから朝起こしてくれないかな」

 小さくつぶやいた、そのとき。

「誰でもいいなら、俺が起こしますよ」

 耳のすぐ近くで、低い声が響いた。
 落ち着いた、でもちょっと不機嫌そうな男子の声。

「え?」

 思わず振り返る。
 昇降口には、遅刻寸前でバタバタしている生徒が何人かいるだけだ。みんな教室へ急いでいる。
 誰も自分を見ていないし、さっきの声の主らしき人物もいない。
 でもたしかに、はっきりと聞こえた。

(なに、今の?)

 心霊現象?
 透明人間?

 声が、まだ耳の奥に残っている。
 怖。

 一気に目が覚めて、階段を駆け上がった。
 チャイムと同時に教室に滑り込む。

「……っ、セーフ」

「真中、日直。テスト配れってさ」

 園田がテストの束を手渡してくる。

「オレ、日直なの? コンタクト忘れて見えない」

 三階まで一気に駆け上がったせいで、息が切れる。まず水飲みたい。

「ま、がんばれ」

 そう言って園田は自分の席に戻ろうとする。

「ちょっと待って。だ、誰でもいいから手伝ってよ」

「真中……」

 園田はチラッとオレの顔を見て言った。

「その『誰でもいいから』って、口癖? フツーに俺に言えばいいじゃん。目の前にいるんだから」

「口癖かも……やばい?」

「や、うん。ちょっとな」

 いつもはそんなこと言わない園田の微妙な表情を見て、オレはハッとした。
 これは、雰囲気だけで綱渡りしてきたオレへの警告?
 ふわっと回っていた日常が、崩れ始める合図なのかもしれない――



 四時間目が終わると同時に、教室がざわつき始めた。
 先生が出ていくなり、誰かが叫ぶ。

「購買行くぞ!」

 その声を聞いた瞬間、急に空腹を感じる。
 そういえば、朝からなにも食べてない。
 焼きそばパンとクリームパン。
 いつも買う黄金セットが、頭の中に浮かぶ。

「やば。早く行かないと」

 オレは急いでリュックから財布を出して、階段を駆け下りた。
 購買前には、すでに分厚い人の壁ができていた。

「押さないでくださーい」

 購買のおばちゃんの声が、余計に焦りを煽る。
 一歩踏み出そうとして、オレは足を止めた。
 目の前には一年生っぽい小柄な男子と、さらにその前に女子二人。

(うわ……これは、押せない)

 それでも、とりあえず右手だけ精一杯伸ばしてみる。

「誰か……」

 口から勝手に声が出かけて、慌てて飲み込んだ。

(やべ。『誰か』って誰だよ。でも……)

「……誰でもいいから、オレの分残しておいてくれ」

 さすがに、昼飯ジュースだけとか泣く。
 その瞬間だった。

――ストン。

 伸ばした手のひらに、何かの重みが乗った。

「え?」

 見ると、そこには焼きそばパンとクリームパン。
 頭の中で思い浮かべてた、そのまんまの二つ。

「え、え?」

 思わず周りを見渡す。
 でも、前にも横にも、知ってる顔はいない。オレを見てるやつもいない。

「380円ねー」

 売り場のおばちゃんの声に、我に返る。

「え、あ、はい!」

 反射的にお金を払って、そそくさと列を抜ける。

「ラ……ラッキー?」

 これ、ラッキーでいいんだよな?
 なんか、ちょっとだけ怖いんだけど。

 教室に戻って、クリームパンを食べながら、ぼんやり窓の外を眺めた。
 校庭でボールを蹴って遊んでるやつらがいる。一年生かな? 元気だな。
 その中に、やけに落ち着いた雰囲気の男子がいた。
 黒髪で、静かなのに、なぜか目立つ。

(あいつ……どこかで見たような……)

 リフティング、上手いな。
 ズボンのすそが汚れたのか、はたいてる。その仕草がなんだか可愛い。
 ニコニコ見ていたら、その男子がふっと顔を上げた。
 ドキッとして、慌てて視線をそらす。

(やっば。知らん一年でドキドキしてるオレ何なの)

 謎のざわめきをごまかすように、甘いクリームパンを齧る。

――このときはまだ、オレの口癖が本当に『誰か』を呼び寄せてるなんて、思いもしなかった。