その日は部活もなく委員会も無かったので、あれから月島が俺の元に訪れることは無かった。
だから、今日は一人で帰っている。
靴に履き替え校舎から出て天を仰げば、清々しいほどの青が視界いっぱいに広がった。
日が落ちるまで時間がある。こんな日は、いつもなら家に帰って早々に課題を済ませ、マンガを読むのだが、何となく物足りない気がした。
ポケットからスマホを取り出した俺は、一年生からの友人に連絡を取ってみることにした。
「あ、もしもし。古谷? 今日って……あー、そっか。そうだよな。じゃ、また」
通話が終了した後の『ツー、ツー』という音が、やけに耳に響く。
古谷も新たなクラスで友人が出来たようで、俺に構っている暇はなくなったようだ。友人がぼっちで寂しい思いをするより良いのだが、見知らぬ誰かに友人を取られたような気分になるのは何故だろう。
画面を上にスクロールしていくと、佐竹を見つけた。
今のクラスで唯一友人と呼べる相手である佐竹と北条。この二人は部活をしていないので、誘ったら遊べる可能性は高い。
けれど、今じゃない気がした。今俺が一緒にいたい相手――――。
「先輩。何してんですか?」
「月島!?」
後ろから声をかけられ、思わず表情がパァっと明るくなる。
俺の横に自転車をつけた月島は、不機嫌そうに顔を覗きこんでくる。
「なんか嬉しいことでもあったんですか? 俺にそんな笑顔見せてくれたことないですよね?」
「え、いや、別に」
(俺、何でこんな緩みまくってんだろ)
緩んだ口元をキュッと引き締める。
「怪しい。先輩、何隠してるんですか?」
「隠してなんてないって。それより、帰るんだろ? さっさと帰れよ」
そう言いながらも、きっと月島は俺にちょっかいをかけて遊ぶのだろう。なんなら、このまま帰りにどこか寄っても良いかもしれない。そんな風に考えていたら――――。
「言われなくても帰りますよ」
月島は、あっさり自転車をこいで帰ろうとした。そして、何故かその顔は苛立ちを孕んでいるように見える。
「月島、何かあったのか? 話、聞くぞ」
「俺に惚れてない先輩に話すことなんてないですよ」
「なッ!? せっかく心配して聞いてやってんだろ!?」
「ご心配、ありがとうございます」
全く有難そうではない感謝をする月島は、そのまま自転車をこいで行ってしまった――。
いつも以上にツンツンしたやりとりだったが、それでも何故だろう。さっきまでの物足りなさが無くなった。満たされた気分になった。
「帰ろ」
ぽつりと呟き、俺はグラウンドの横を通ってから、校門を出た。
校門を出るなり、見覚えのある顔がそこに立っていた。
「あれ、星名じゃん。誰か待ってんの?」
星名は、ガタイの良い体をもじもじさせながら小さな声で言った。
「えっと……先輩を」
「ん? 誰先輩? 俺の知ってる人?」
「あ、いや……小日向先輩と一緒に帰りたいなぁって」
「え、俺?」
もしかして部活を辞めたいとか、そういう相談だろうか。
入部して一週間ちょっと。星名は、実質まだ四回しか活動をしていない訳だが、元々柔道部の星名は苦手を伸ばそうとして美術部に入部した。しかし、苦手なものは、やっていて楽しいものではないはずだ。それに、それにだ、俺は言ってしまった。
『だからそんなに下手なのか』
そう言って星名の絵を批判してしまったのだ。あれがとどめを刺したのかもしれない。だから、部活が嫌になってしまったに違いない。どうにかしなければ、せっかく入部してくれた貴重な新一年生に、俺は絵を嫌いになって欲しくない!
もじもじしている星名の腕を俺は掴んだ。
「せ、先輩!?」
「ここじゃ話しにくいだろうから、行くぞ」
「え、行くって?」
「俺ん家、歩いてもそんな遠くないから。ゆっくり話そう」
「い、良いんですか!?」
「もちろん」
俺のせいで美術部をやめようとしているのに、話を聞かない訳にはいかない。なんなら、絵が上手くなるコツや色々アドバイスできることがあるかもしれない。それに、まだ星名はデッサンしかしていないのだ。彫刻だったり、油絵だったり、他のことに楽しさを見出してくれるかもしれない。俺は、星名を思いとどまらせる責任がある!
◇◇◇◇
家の鍵を開けて中に入れば、星名はおどおどしながら靴を脱いだ。
「あ、あの、親御さんは……」
「母さんは遅出って言ってたから、二十時くらいまで帰ってこないかな。父さんはいっつも遅いから、気にすんな」
「じゃあ、ご兄弟は……」
「俺一人っ子だから」
「つまり、今ここには僕と小日向先輩の二人ということでしょうか」
「まぁ、そうなるな」
星名は暑いのか、やや顔が赤いような気がする。
今は五月なので、そろそろ暖かくなる季節であるのは確かだ。
「暑かったら遠慮なく言えよ。窓開けるし」
「あ、はい。大丈夫です」
「俺の部屋、こっち」
階段を上って突き当りの部屋の扉を開ける。
「ここで待ってて。飲み物持ってくる」
「はい、ありがとうございます」
——そして、ペットボトルのお茶を二本持って上がれば、星名がベッドの横で腕立て伏せをしていた。
それを呆気に取られながら見ていると、星名が俺のことに気が付いた。
「あ、す、すみません」
星名は腕立て伏せを止めて、大きな体を縮こまらせて座った。
そんな星名にペットボトルのお茶を渡し、俺もその隣に座る。
「いや、別に良いけど。本当は運動したくてたまらない感じ?」
「そういう訳じゃないんですけど、小日向先輩の部屋だと思ったら緊張しちゃって」
確かに、さして仲も良くない先輩の部屋に連れ込まれたら緊張するか。しかも、星名は、今から部活を辞めたいと意を決して言うのだから。
俺は姿勢を正し、星名に膝を向けた。
「星名」
「は、はい!」
星名も背筋を伸ばして、体ごと俺の方へ向いた。向かい合った形になり、俺も緊張してしまう。
「あ、あのさ」
「はい」
「俺は辞めて欲しくない」
「えっと……」
「本当に、絵に上手い下手はなくて、その人の感性だから。俺が軽はずみなことを言ったのが原因で辞めるなら、部長に言って指導者変えてもらうから」
「え!? それは困ります!」
前のめり気味に言う星名の声は、思った以上に大きかった。
困った……指導者を変えるだけでは、星名の決意は揺らがないようだ。
「本当は俺が辞めたら良いのかもだけど、俺は辞めたくなくって……あ、そうだ!」
「……?」
俺は膝立ちしてテレビの下の方へと手を伸ばす。
テレビ台に収納していたスケッチブックを取り出し、星名の前にそれを広げた。
「これは?」
「俺が昔描いた絵。下手だろ」
そこには、小学校低学年の時に描いたゾウやキリン、サルなど、家族で動物園に行った時の思い出が描かれている。
それはお世辞にも上手いとは言えないが、この絵を褒められたことがきっかけで、俺は絵が好きになった。
「最初はさ、みんなこんなもんなんだって。だから……」
星名は俺の下手な絵をじっと見つめ、言いにくそうに言った。
「先輩、勘違いしてますよね? 僕、部活辞めませんよ」
「そうそう。だから辞めなくて良い……え?」
「部活を辞める気は元々ないです」
「え、でも、辞める相談……だよな?」
「いえ、ただ小日向先輩と帰りたかっただけです」
「そ、そっかぁ。良かった」
安心したら喉が渇いてきた。
ペットボトルのフタを開けて、お茶をひと口飲んだ。
「はぁ〜、悪かったな。家まで連れてきちゃって」
「い、いえ……」
星名もお茶を一気飲みする。
「せっかく来たし、何かしてく? って、うちゲームとかないんだよなぁ」
「だ、大丈夫です。このままここにいたら、僕……押し倒しちゃいそうなんで」
「押し倒す? 確かに、星名の筋肉すごいもんな。何でも押し倒せそう」
星名の二の腕をペタペタと触ってみる。
「や、やめ……」
「ん?」
「やめて下さい!」
パシッと腕を強く掴まれた。
ビクッとしながら、手を引っ込める。
「あ、わ、悪い」
「す、すみません。僕、帰ります」
星名は立ち上がり、逃げるように帰って行った——。
「また俺は星名に失礼なことを……てか、星名。生徒手帳忘れてる」
床に落ちた生徒手帳を拾い、俺はスクールバックの中に入れた。
「家分かんないし、明日返そう」
だから、今日は一人で帰っている。
靴に履き替え校舎から出て天を仰げば、清々しいほどの青が視界いっぱいに広がった。
日が落ちるまで時間がある。こんな日は、いつもなら家に帰って早々に課題を済ませ、マンガを読むのだが、何となく物足りない気がした。
ポケットからスマホを取り出した俺は、一年生からの友人に連絡を取ってみることにした。
「あ、もしもし。古谷? 今日って……あー、そっか。そうだよな。じゃ、また」
通話が終了した後の『ツー、ツー』という音が、やけに耳に響く。
古谷も新たなクラスで友人が出来たようで、俺に構っている暇はなくなったようだ。友人がぼっちで寂しい思いをするより良いのだが、見知らぬ誰かに友人を取られたような気分になるのは何故だろう。
画面を上にスクロールしていくと、佐竹を見つけた。
今のクラスで唯一友人と呼べる相手である佐竹と北条。この二人は部活をしていないので、誘ったら遊べる可能性は高い。
けれど、今じゃない気がした。今俺が一緒にいたい相手――――。
「先輩。何してんですか?」
「月島!?」
後ろから声をかけられ、思わず表情がパァっと明るくなる。
俺の横に自転車をつけた月島は、不機嫌そうに顔を覗きこんでくる。
「なんか嬉しいことでもあったんですか? 俺にそんな笑顔見せてくれたことないですよね?」
「え、いや、別に」
(俺、何でこんな緩みまくってんだろ)
緩んだ口元をキュッと引き締める。
「怪しい。先輩、何隠してるんですか?」
「隠してなんてないって。それより、帰るんだろ? さっさと帰れよ」
そう言いながらも、きっと月島は俺にちょっかいをかけて遊ぶのだろう。なんなら、このまま帰りにどこか寄っても良いかもしれない。そんな風に考えていたら――――。
「言われなくても帰りますよ」
月島は、あっさり自転車をこいで帰ろうとした。そして、何故かその顔は苛立ちを孕んでいるように見える。
「月島、何かあったのか? 話、聞くぞ」
「俺に惚れてない先輩に話すことなんてないですよ」
「なッ!? せっかく心配して聞いてやってんだろ!?」
「ご心配、ありがとうございます」
全く有難そうではない感謝をする月島は、そのまま自転車をこいで行ってしまった――。
いつも以上にツンツンしたやりとりだったが、それでも何故だろう。さっきまでの物足りなさが無くなった。満たされた気分になった。
「帰ろ」
ぽつりと呟き、俺はグラウンドの横を通ってから、校門を出た。
校門を出るなり、見覚えのある顔がそこに立っていた。
「あれ、星名じゃん。誰か待ってんの?」
星名は、ガタイの良い体をもじもじさせながら小さな声で言った。
「えっと……先輩を」
「ん? 誰先輩? 俺の知ってる人?」
「あ、いや……小日向先輩と一緒に帰りたいなぁって」
「え、俺?」
もしかして部活を辞めたいとか、そういう相談だろうか。
入部して一週間ちょっと。星名は、実質まだ四回しか活動をしていない訳だが、元々柔道部の星名は苦手を伸ばそうとして美術部に入部した。しかし、苦手なものは、やっていて楽しいものではないはずだ。それに、それにだ、俺は言ってしまった。
『だからそんなに下手なのか』
そう言って星名の絵を批判してしまったのだ。あれがとどめを刺したのかもしれない。だから、部活が嫌になってしまったに違いない。どうにかしなければ、せっかく入部してくれた貴重な新一年生に、俺は絵を嫌いになって欲しくない!
もじもじしている星名の腕を俺は掴んだ。
「せ、先輩!?」
「ここじゃ話しにくいだろうから、行くぞ」
「え、行くって?」
「俺ん家、歩いてもそんな遠くないから。ゆっくり話そう」
「い、良いんですか!?」
「もちろん」
俺のせいで美術部をやめようとしているのに、話を聞かない訳にはいかない。なんなら、絵が上手くなるコツや色々アドバイスできることがあるかもしれない。それに、まだ星名はデッサンしかしていないのだ。彫刻だったり、油絵だったり、他のことに楽しさを見出してくれるかもしれない。俺は、星名を思いとどまらせる責任がある!
◇◇◇◇
家の鍵を開けて中に入れば、星名はおどおどしながら靴を脱いだ。
「あ、あの、親御さんは……」
「母さんは遅出って言ってたから、二十時くらいまで帰ってこないかな。父さんはいっつも遅いから、気にすんな」
「じゃあ、ご兄弟は……」
「俺一人っ子だから」
「つまり、今ここには僕と小日向先輩の二人ということでしょうか」
「まぁ、そうなるな」
星名は暑いのか、やや顔が赤いような気がする。
今は五月なので、そろそろ暖かくなる季節であるのは確かだ。
「暑かったら遠慮なく言えよ。窓開けるし」
「あ、はい。大丈夫です」
「俺の部屋、こっち」
階段を上って突き当りの部屋の扉を開ける。
「ここで待ってて。飲み物持ってくる」
「はい、ありがとうございます」
——そして、ペットボトルのお茶を二本持って上がれば、星名がベッドの横で腕立て伏せをしていた。
それを呆気に取られながら見ていると、星名が俺のことに気が付いた。
「あ、す、すみません」
星名は腕立て伏せを止めて、大きな体を縮こまらせて座った。
そんな星名にペットボトルのお茶を渡し、俺もその隣に座る。
「いや、別に良いけど。本当は運動したくてたまらない感じ?」
「そういう訳じゃないんですけど、小日向先輩の部屋だと思ったら緊張しちゃって」
確かに、さして仲も良くない先輩の部屋に連れ込まれたら緊張するか。しかも、星名は、今から部活を辞めたいと意を決して言うのだから。
俺は姿勢を正し、星名に膝を向けた。
「星名」
「は、はい!」
星名も背筋を伸ばして、体ごと俺の方へ向いた。向かい合った形になり、俺も緊張してしまう。
「あ、あのさ」
「はい」
「俺は辞めて欲しくない」
「えっと……」
「本当に、絵に上手い下手はなくて、その人の感性だから。俺が軽はずみなことを言ったのが原因で辞めるなら、部長に言って指導者変えてもらうから」
「え!? それは困ります!」
前のめり気味に言う星名の声は、思った以上に大きかった。
困った……指導者を変えるだけでは、星名の決意は揺らがないようだ。
「本当は俺が辞めたら良いのかもだけど、俺は辞めたくなくって……あ、そうだ!」
「……?」
俺は膝立ちしてテレビの下の方へと手を伸ばす。
テレビ台に収納していたスケッチブックを取り出し、星名の前にそれを広げた。
「これは?」
「俺が昔描いた絵。下手だろ」
そこには、小学校低学年の時に描いたゾウやキリン、サルなど、家族で動物園に行った時の思い出が描かれている。
それはお世辞にも上手いとは言えないが、この絵を褒められたことがきっかけで、俺は絵が好きになった。
「最初はさ、みんなこんなもんなんだって。だから……」
星名は俺の下手な絵をじっと見つめ、言いにくそうに言った。
「先輩、勘違いしてますよね? 僕、部活辞めませんよ」
「そうそう。だから辞めなくて良い……え?」
「部活を辞める気は元々ないです」
「え、でも、辞める相談……だよな?」
「いえ、ただ小日向先輩と帰りたかっただけです」
「そ、そっかぁ。良かった」
安心したら喉が渇いてきた。
ペットボトルのフタを開けて、お茶をひと口飲んだ。
「はぁ〜、悪かったな。家まで連れてきちゃって」
「い、いえ……」
星名もお茶を一気飲みする。
「せっかく来たし、何かしてく? って、うちゲームとかないんだよなぁ」
「だ、大丈夫です。このままここにいたら、僕……押し倒しちゃいそうなんで」
「押し倒す? 確かに、星名の筋肉すごいもんな。何でも押し倒せそう」
星名の二の腕をペタペタと触ってみる。
「や、やめ……」
「ん?」
「やめて下さい!」
パシッと腕を強く掴まれた。
ビクッとしながら、手を引っ込める。
「あ、わ、悪い」
「す、すみません。僕、帰ります」
星名は立ち上がり、逃げるように帰って行った——。
「また俺は星名に失礼なことを……てか、星名。生徒手帳忘れてる」
床に落ちた生徒手帳を拾い、俺はスクールバックの中に入れた。
「家分かんないし、明日返そう」



