訳あり後輩君と10秒見つめ合った結果、恋に落ちました。

 ——翌朝。
「わッ、ヤベ。寝坊した」
 制服を中途半端に着て、階段をバタバタ駆けおりた。
 そんな俺を見た母が、不思議そうに聞いてくる。
「寝坊したって、まだ七時二十分よ。いつもより早いわよ」
「今日、後輩と待ち合わせしてんだよ」
「後輩? お友達じゃなくって?」
「うーん、美術部の後輩。懐かれたみたい」
 急いで歯磨きをして、うがいと同時に顔も洗ってしまう。
 手探りでタオルを取って顔を拭き、ぼやけた視界で鏡を見る。ほとんど何も見えないので、目を細めて鏡に近付く。
 やっと鏡の中の自分と目が合ったのは、鏡から五センチほど離れた場所。
「俺の顔、別に普通だよな?」
 そこに映っているのは、眉間に皺を寄せたしかめっ面の俺だ。
 星名に俺の素顔がどうのこうの言われたが、見せられる代物ではないのは確かだ。むしろ、昨日こんな顔を星名と月島に見せてしまい、顔面の暴力を振るってしまった。
「悠ちゃん、どうしたの? 急いでるんじゃないの?」
「あ、そうだった」
 いつもの分厚い眼鏡をかけて、髪の毛にクシを通す。
 寝ぐせはあるが、許容範囲内だろう。
「悠ちゃん朝ご飯は?」
 母がお弁当を渡してくれたので、受け取って鞄に雑に入れる。
「いらな……やっぱ、トーストかじりながら行くわ」
「ふふ。昔の少女漫画みたいに、曲がり角で運命の相手とドンッてなったりして」
「なるわけないじゃん」

◇◇◇◇

 ――――と、言った矢先のことだった。
「痛ッてぇ」
 待ち合わせの橋に向かう途中の曲がり角で、誰かにぶつかって盛大に尻もちをついた。
 その拍子にメガネもズレて、かじっていたパンなんて、半分食べたくらいで地面に落ちてしまった。
「俺の朝飯が……」
 三秒ルールでいけるだろうか。既に十秒くらい経った気がするが、気持ちは三秒だ。
 パンを拾いながら、先程母に言われたことを思い出す。
『曲がり角で運命の相手とドン』
 もしも、今俺がぶつかった相手が、可愛い女子高生なら……あるかもしれない。
 メガネを掛けなおし、俺はぶつかってしまった相手に謝罪する。
「すみません。大丈夫です……か? げ、月島」
「『げ』ってなんですか。遅いから迎えに行こうとしてたんですよ」
 運命の相手は、顔は超絶良い男子高校生だった。性別が違う!
 しかも、月島は昨日と同様にチャイルドシート付の自転車を押しており、全くと言っていいほどにダメージはなかった。
「これは、自転車と歩行者だから、自転車のお前が悪いな」
 相手が月島だと分かったので、冗談混じりにそう言うと、反撃を喰らってしまった。
「俺は、チャリを押して歩いてたんで、歩行者と歩行者。非はお互い様ですね。むしろ、先輩はそこの一時停止で止まらずに飛び出したんで、先輩の方が圧倒的に悪いです」
「うッ」
「しかも、待ち合わせに遅刻したんで、重罪です」
 重罪は言い過ぎだが、返す言葉はない。
 委員会の資料といい、今回といい、月島への貸しがどんどん増えていく。
「コンビニスイーツで手を」
「打ちませんよ」
「警察へ通報だけは勘弁してくれ!」
「そんなこともしませんけど」
「けど……?」
 月島が自転車のスタンドを立てて、俺の元へと近づいてきた。
「な、なんだよ」
 悪戯な笑みを浮かべる月島は、俺の寝ぐせを撫でるようにしながら言った。
「十秒見つめ合って下さい」
「またそれかよ」
「じゃあ、警察を」
「やめてくれ! それだけは!」
 歩行者同士、しかも高校生同士がぶつかった場合、警察に通報したところで注意程度で終わるだろう。それは分かっているのだが、警察という単語が恐い。警察官の制服を見るだけで萎縮してしまう。
 幼かったときは憧れていた警察官も、歳を重ねる度に何故か『警察官=恐いもの』みたいになってしまった。
 それもこれも、今俺の方が分が悪いから。だから、そう思ってしまうのだろう。
「ほら、俺のパンやるから」
「落ちたやつじゃないですか。いりませんよ」
「チッ、バレたか」
「とりあえず、行きますよ。こんなところにずっといたら邪魔ですから」
 車の通りはあまりないものの、見通しの悪い路地で高校生が二人。確かに邪魔だ。
 月島に諭されながら、俺はその後をついて歩く。
「はぁ……俺の方が先輩なのにな」
「なんか言いました?」
「いや、何も。ところで、何でこんな早く学校行くんだよ。今からだと八時前には着くぞ」
 始業は八時半から。五分前には教室にいるとしても、三十分は暇を持て余す。
 月島は、自転車のスタンドをタンと慣れたように外して、曲がり角の手前でしっかりと一時停止した。
「小テストの勉強しようかと思って」
「真面目か」
 周囲を確認した月島は、俺をチラリと見てから歩き出す。
「先輩はしないんですか?」
「家では、するかも。今日は小テストないけど」
 暫しの沈黙が流れ、持っているパンをどうにか出来ないかとポケットやら鞄に手を入れてみる。しかし、これといって袋のようなものはない。
 ただ、半分になったパンは思った以上に綺麗なのだ。バターなどの類も塗って来なかったことや、アスファルトの上に落ちたことが幸いしたようで、砂まみれというわけではない。落ちたと言われなければ、その事実は誰にも分からない。
 パンを色々な角度から眺めていると、月島が自転車の前かごに入ったカバンのジッパーを開けた。
「先輩。これ、使います?」
「え、エスパー?」
 欲していたビニール袋を月島が出してきた。
 小さく三角折にされたそれは、常時鞄の中に入っているのだろう。月島の育ちが垣間見えた瞬間だった。
「良いのか? 使っても。後で袋ごと捨てるぞ?」
「良いですよ。そのままにしてたら、先輩そのままパンをお腹に入れちゃいそうですもん」
「やっぱお前、エスパーなのか」
「バカなんですか」
 呆れ顔の月島は、もう少しで学校の校門というところで進路を変えた。
「お、おい。どこ行くんだよ」
 落ちたパンをビニール袋に入れて、急いで月島についていく。
「月島、お前小テストの勉強するんだろ?」
「今日はないんで、大丈夫です」
「ないのかよ!」
 何もないなら、遅くとも八時二十分までに校門に入れば良いから問題ないか。
 そう思って、月島について歩けば、ブランコと滑り台と砂場だけの小ぢんまりとした公園に辿り着いた。朝早いのもあって、誰もいない。
「公園なんていつぶりかな。月島は妹と行ったりすんの?」
「週末は行きますね」
「良いお兄ちゃんだな」
 自転車を公園の入り口付近に置く月島を横目に、俺は荷物をベンチに置いてから、ブランコに乗ってみる。
 思った以上に錆びているのか、揺れる度にキーキー音が鳴る。それもまた心地よかったりする。
「これから学校かぁ」
「サボっちゃいます?」
 悪戯な笑みを浮かべる月島は、俺の乗っているブランコの持ち手部分を上の方で持って、揺れを止めた。
「風紀委員が何言ってんだよ」
「風紀委員が通学途中に寄り道しても良いんですか?」
「なッ、それはお前が……てか、俺を見下ろすな」
 そう言って、ブランコの上に立ちあがった。
 しかし、これでもまだ月島の方が俺より少し高いようだ。
「先輩。約束、守って下さいよ」
「約束はしてねぇ」
「じゃあ、警察を」
「分かった。十秒だろ。十秒見つめりゃ良いんだろ。たく、こんなの他の人で試せよ」
「ちゃんとメガネ外して下さいね」
「言われなくても。途中で取られたら、たまったもんじゃない」
 ぶつぶつ文句を言いながらメガネを外す。案の定、ボヤけて何も見えない。
「先輩、動いたら危ないんで、そのままで」
「おう」
 言われるがまま、じっと前だけを見据えていたら、月島の顔が近付いてきた。
「あ、そうだ。これで俺が恋に落ちなかったら、あんま俺に構うなよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって、これ試したくて俺の周りチョロチョロしてんだろ? 済んだら、用がなくなるだろ」
「まぁ、そうかもですね」
 その気の抜けた返事に、ホッとするような……寂しいような。複雑な気分になった。
 そして、月島と目が合ったのは、ほんの十センチの距離。
「いーち、にー、さーん……」
 数字が大きくなる度に、昨日と同じで鼓動が速くなる。
 後ろに逃げたくなる。
 けれども、ブランコに乗っている俺に逃げ道はない。
 多分これは、ただ単純に距離が近いから。だからドキドキしているだけだ。恋がどうとかでは、決してない。だって、相手はあの月島だ。意地悪で、でもたまに優しくて、頼りになって、格好良くて……実は、良いところの方が多かったり?
「はーち、きゅー、じゅう」
 やっと終わった。
 たったの十秒なのに、一分にも十分にも感じた。
「どうです? 恋に落ちました?」
「お、落ちるわけねーだろ。てか、お前はどうなんだよ。こういうのって、お互い様だろ」
「俺は……」
 伏目がちに、月島は目を逸らした。
「先輩が恋に落ちるか試したかっただけなんで」
「なんだよ、それ」
「じゃ、学校行きましょう」
 メガネを掛け直した俺は、胸のざわつきに気付かないフリをしながら、月島の後ろ姿をただただ眺めた————。