十分くらい格闘した後、メガネを返してくれない月島を置いて、俺は美術室を出た。
「外から鍵、閉めるぞ」
「先輩、メガネはいらないんですか?」
「家に予備があるから良い」
まさか後輩に嫌がらせにあうとは思ってもみなかったけれど、根っからの悪でない限り、命の次に大事なメガネもいつかは返してくれるだろう。俺は、一旦諦めることにした。
鍵穴に鍵をさすため、眉間に皺を寄せながら目を凝らして扉をまじまじと見つめる。
扉相手だから良いものの、これが人だったならガンを飛ばしている人相の悪い男にしか見えないことだろう。
「先輩、何してるんですか」
「鍵穴が見えねぇ」
「俺と十秒見つめ合ってくれたらすぐに返すのに。先輩も強情ですね」
月島は、俺の持っていた鍵をヒョイッと奪い取り、すんなりと扉の鍵を閉めた。
「さ、さんきゅ」
「どういたしまして」
思わず礼を言ってしまったが、これはメガネを返してくれていたら解決した問題では? 俺が礼を言うのは筋違いでは?
そう思いながら、壁に付いている手すりを持ってゆっくり歩く。
「先輩、反対。目が悪いと方向音痴にもなるんですか?」
「うるさいなぁ。なんも見えねーんだからしょうが……あれ?」
突然視界が良くなった。
ボヤけていた廊下がクリアになって、端にある非常口のマークもハッキリと見える。月島がメガネを返してくれたようだ。
その時、背後から話し声が聞こえてきた。
「でさ、昨日なんて……」
「ハハハ、マジ? ウケるんだけど」
月島は、男子生徒二人が通り過ぎるのを目で追っていた。
「月島の知り合い?」
「全然」
「なんだ。てか、なんでメガネ返してくれたんだ?」
「いらないなら貰いますけど」
再びメガネを奪われそうになったので、すかさず避けた。
「いるに決まってんだろ。このいじめっ子が」
「酷いなぁ。可愛い後輩に向かって」
「どこが可愛いんだよ」
「あ、間違えました。可愛い先輩でしたね」
「は? 馬鹿にしてんのか?」
「全然」
そう言って、月島は何事もなかったかのように美術室の鍵を指でクルクル回しながら歩き出した。
このまま別行動したいところだが、新入部員に鍵を一人で返しに行かせるなんてしたら顧問の先生に怒られそうだ。嫌々ながら月島の横を付いて歩く。
暫しの沈黙が流れ、廊下の窓から野球部が声を揃えて挨拶をしているのが聞こえてくる。
「美術部、どうだった?」
「え、俺のこと心配してくれてるんですか?」
「まぁ、一応。先輩だし」
「先輩……」
月島は、そのまま黙ってしまった。
まさか感動して……なわけないか。
メガネを奪われ、揶揄われるといった嫌がらせにはあったが、風紀委員の資料作りも結局一人でさせてしまった。少なからず俺だって負い目は感じている。
「月島、委員会の資料作りのお礼。コンビニスイーツ一つ奢る」
「いらないです」
即座に断られ若干イラッとしたが、先輩たるものいつも怒るのもよくない。冷静に……冷静に……。
「甘いの嫌いだった?」
「好きです」
「だったらなんで」
「貸しを返してもらうのは、いざという時って決めてるんで」
「うわ、一番タチが悪いやつ。めっちゃ、めんどいこと押し付ける時に使う気だろ」
月島にニヤリと横目で見られながら、俺は職員室の扉をノックして開ける。
「美術室の鍵返しに来ました」
いつものように入り口から入ってすぐ横にある鍵ケースを開ける。
「ほら、月島。ここに入れて」
「はぁい」
間延びした返事をする月島は、鍵を所定の位置に返す。ケースの蓋をしっかりと閉め、扉の前で先生らに向かって丁寧に二人でお辞儀をする。
「「失礼しました」」
扉をピシャリと閉めれば、今日一日やるべきことを終えた気分になり、気が緩む。
「さて、帰るか」
歩き出せば、同様に月島も横を歩く。
「先輩って、チャリ通じゃないんですよね」
「うん。歩き」
「良いなぁ、近くって」
「月島は?」
「俺んちは、水無瀬の方です」
「うわ、遠いじゃん。電車?」
月島は両手を前で自転車のハンドルを持つポーズを取る。
「チャリです。乗せてってあげましょっか?」
「何言ってんだよ。二人乗り禁止だろ」
「俺のチャイルドシート付いてるんで、大丈夫です」
「何が大丈夫だよ。てか、やっぱ俺のこと馬鹿にしてんだろ」
下駄箱に着いた俺たちは、それぞれ靴を履き替えに向かう。
暫しの別れ、そのままタイミングが合わなければ一人で帰れる絶好の場所。
けれど、タイミングはバッチリで、靴に履き替えた月島と自然と隣り合わせで校舎を出た。
「俺、チャリ取って来るんで、先に歩いててください」
「気にせず、俺を追い越して帰って良いからなー」
これは一緒に帰りたくないというのも勿論あるが、月島の住んでいる水無瀬とは、うちの学校から随分と距離がある。
確か最寄りの駅から二駅目で下車し、そこからバスで十分。一時間に一本のバスを逃せば、帰るのは相当遅くなる……そう、誰かが嘆いていたのを聞いたことがある。自転車なら待ち時間が無い分早いのかもしれないが、そこまで自転車で帰るのだ。いくら体力が有り余っている男子高校生でも、それはそれで大変だと思う。
だから、徒歩二十分のところに住んでいる俺のことなどお構いなしに帰ってもらいたい。切実に。
それでも何故か、月島は俺と帰りたいようだ。
「せーんぱーい」
チャリを漕ぎながら月島が後ろからやってきた。そして、歩く俺の横をゆっくりと並走する。
「それ、本当についてるんだ」
月島の自転車の後ろには、立派なチャイルドシートがついている。
「月島んち、小さい子いんの?」
「五歳の女の子です」
「月島が十五だとして……十歳差かぁ。中々凄いな」
「先輩は兄弟いないんですか?」
「俺は一人っ子」
「へぇ」
興味の無さそうな返事をする月島は、自転車からトンッとおりて歩き出す。
「月島、マジで先に帰って良いかんな」
「先輩は、そんなに俺と一緒に帰りたくないんですか?」
「そうじゃなくって、普通に心配してるだけ。遅くなるとみんな心配するだろ?」
「心配……」
どこか物憂げな表情をする月島。その頭を無性にヨシヨシしたくなるのは何故だろう。
手を伸ばしかけたところで、月島は閃いたと言わんばかりにニヤリと笑う。
「な、何だよ」
「先輩、明日の朝一緒に行きません?」
「は?」
「目的地同じだし、到着時間も同じ、先輩だって文句ないでしょ?」
「いや、元々文句なんて」
月島は、押していた自転車に跨った。
「じゃ、そういうことで、そこの橋に明日。うーん……七時半で!」
「は? 早すぎんだろ」
「じゃ、遅れないで下さいよ」
「ちょ、待てって……たく」
月島は、颯爽とその場を去った——。
「七時半……俺が起きる時間だし。間に合うかな……」
「外から鍵、閉めるぞ」
「先輩、メガネはいらないんですか?」
「家に予備があるから良い」
まさか後輩に嫌がらせにあうとは思ってもみなかったけれど、根っからの悪でない限り、命の次に大事なメガネもいつかは返してくれるだろう。俺は、一旦諦めることにした。
鍵穴に鍵をさすため、眉間に皺を寄せながら目を凝らして扉をまじまじと見つめる。
扉相手だから良いものの、これが人だったならガンを飛ばしている人相の悪い男にしか見えないことだろう。
「先輩、何してるんですか」
「鍵穴が見えねぇ」
「俺と十秒見つめ合ってくれたらすぐに返すのに。先輩も強情ですね」
月島は、俺の持っていた鍵をヒョイッと奪い取り、すんなりと扉の鍵を閉めた。
「さ、さんきゅ」
「どういたしまして」
思わず礼を言ってしまったが、これはメガネを返してくれていたら解決した問題では? 俺が礼を言うのは筋違いでは?
そう思いながら、壁に付いている手すりを持ってゆっくり歩く。
「先輩、反対。目が悪いと方向音痴にもなるんですか?」
「うるさいなぁ。なんも見えねーんだからしょうが……あれ?」
突然視界が良くなった。
ボヤけていた廊下がクリアになって、端にある非常口のマークもハッキリと見える。月島がメガネを返してくれたようだ。
その時、背後から話し声が聞こえてきた。
「でさ、昨日なんて……」
「ハハハ、マジ? ウケるんだけど」
月島は、男子生徒二人が通り過ぎるのを目で追っていた。
「月島の知り合い?」
「全然」
「なんだ。てか、なんでメガネ返してくれたんだ?」
「いらないなら貰いますけど」
再びメガネを奪われそうになったので、すかさず避けた。
「いるに決まってんだろ。このいじめっ子が」
「酷いなぁ。可愛い後輩に向かって」
「どこが可愛いんだよ」
「あ、間違えました。可愛い先輩でしたね」
「は? 馬鹿にしてんのか?」
「全然」
そう言って、月島は何事もなかったかのように美術室の鍵を指でクルクル回しながら歩き出した。
このまま別行動したいところだが、新入部員に鍵を一人で返しに行かせるなんてしたら顧問の先生に怒られそうだ。嫌々ながら月島の横を付いて歩く。
暫しの沈黙が流れ、廊下の窓から野球部が声を揃えて挨拶をしているのが聞こえてくる。
「美術部、どうだった?」
「え、俺のこと心配してくれてるんですか?」
「まぁ、一応。先輩だし」
「先輩……」
月島は、そのまま黙ってしまった。
まさか感動して……なわけないか。
メガネを奪われ、揶揄われるといった嫌がらせにはあったが、風紀委員の資料作りも結局一人でさせてしまった。少なからず俺だって負い目は感じている。
「月島、委員会の資料作りのお礼。コンビニスイーツ一つ奢る」
「いらないです」
即座に断られ若干イラッとしたが、先輩たるものいつも怒るのもよくない。冷静に……冷静に……。
「甘いの嫌いだった?」
「好きです」
「だったらなんで」
「貸しを返してもらうのは、いざという時って決めてるんで」
「うわ、一番タチが悪いやつ。めっちゃ、めんどいこと押し付ける時に使う気だろ」
月島にニヤリと横目で見られながら、俺は職員室の扉をノックして開ける。
「美術室の鍵返しに来ました」
いつものように入り口から入ってすぐ横にある鍵ケースを開ける。
「ほら、月島。ここに入れて」
「はぁい」
間延びした返事をする月島は、鍵を所定の位置に返す。ケースの蓋をしっかりと閉め、扉の前で先生らに向かって丁寧に二人でお辞儀をする。
「「失礼しました」」
扉をピシャリと閉めれば、今日一日やるべきことを終えた気分になり、気が緩む。
「さて、帰るか」
歩き出せば、同様に月島も横を歩く。
「先輩って、チャリ通じゃないんですよね」
「うん。歩き」
「良いなぁ、近くって」
「月島は?」
「俺んちは、水無瀬の方です」
「うわ、遠いじゃん。電車?」
月島は両手を前で自転車のハンドルを持つポーズを取る。
「チャリです。乗せてってあげましょっか?」
「何言ってんだよ。二人乗り禁止だろ」
「俺のチャイルドシート付いてるんで、大丈夫です」
「何が大丈夫だよ。てか、やっぱ俺のこと馬鹿にしてんだろ」
下駄箱に着いた俺たちは、それぞれ靴を履き替えに向かう。
暫しの別れ、そのままタイミングが合わなければ一人で帰れる絶好の場所。
けれど、タイミングはバッチリで、靴に履き替えた月島と自然と隣り合わせで校舎を出た。
「俺、チャリ取って来るんで、先に歩いててください」
「気にせず、俺を追い越して帰って良いからなー」
これは一緒に帰りたくないというのも勿論あるが、月島の住んでいる水無瀬とは、うちの学校から随分と距離がある。
確か最寄りの駅から二駅目で下車し、そこからバスで十分。一時間に一本のバスを逃せば、帰るのは相当遅くなる……そう、誰かが嘆いていたのを聞いたことがある。自転車なら待ち時間が無い分早いのかもしれないが、そこまで自転車で帰るのだ。いくら体力が有り余っている男子高校生でも、それはそれで大変だと思う。
だから、徒歩二十分のところに住んでいる俺のことなどお構いなしに帰ってもらいたい。切実に。
それでも何故か、月島は俺と帰りたいようだ。
「せーんぱーい」
チャリを漕ぎながら月島が後ろからやってきた。そして、歩く俺の横をゆっくりと並走する。
「それ、本当についてるんだ」
月島の自転車の後ろには、立派なチャイルドシートがついている。
「月島んち、小さい子いんの?」
「五歳の女の子です」
「月島が十五だとして……十歳差かぁ。中々凄いな」
「先輩は兄弟いないんですか?」
「俺は一人っ子」
「へぇ」
興味の無さそうな返事をする月島は、自転車からトンッとおりて歩き出す。
「月島、マジで先に帰って良いかんな」
「先輩は、そんなに俺と一緒に帰りたくないんですか?」
「そうじゃなくって、普通に心配してるだけ。遅くなるとみんな心配するだろ?」
「心配……」
どこか物憂げな表情をする月島。その頭を無性にヨシヨシしたくなるのは何故だろう。
手を伸ばしかけたところで、月島は閃いたと言わんばかりにニヤリと笑う。
「な、何だよ」
「先輩、明日の朝一緒に行きません?」
「は?」
「目的地同じだし、到着時間も同じ、先輩だって文句ないでしょ?」
「いや、元々文句なんて」
月島は、押していた自転車に跨った。
「じゃ、そういうことで、そこの橋に明日。うーん……七時半で!」
「は? 早すぎんだろ」
「じゃ、遅れないで下さいよ」
「ちょ、待てって……たく」
月島は、颯爽とその場を去った——。
「七時半……俺が起きる時間だし。間に合うかな……」



