宮廷の深夜は、昼よりも多くの声で満ちている。
ささやき、怯え、疑い、忠誠、裏切り――そのすべてが、闇に沈む回廊を静かに漂っていた。
朱皇の腕に支えられながら歩き出した花は、まだ胸の奥の震えが消えていなかった。
雅香妃の言葉が、棘のように心に刺さったままだ。
禁じられた血。忌み名帝を揺るがす存在。
そのどれもが、花の足を止めかけた。
だが、朱皇がそばにいる。
それだけは、確かだった。
北苑の静けさは異様で、風より先に緊張が肌を刺す。
律と露が後ろに控え、周囲を警戒し続けていた。
「陛下。先ほどの雅香妃の言葉……放ってはおけませぬ」
律が低い声を発した。
朱皇は歩みを緩めず、花の手を離さなかった。
「放っておかぬ。だが今は花を休ませる」
「私は……大丈夫です」
花は首を振ったが、朱皇は静かに言い返す。
「大丈夫ではない。顔色が悪い。震えている」
花は唇を噛んだ。
見透かされるたびに、弱さを突きつけられるようで悔しい。
けれど、それ以上に温かかった。
露が不安げに言った。
「花さま……お水をお持ちしましょうか?」
「ありがとう、露。でも……まずは話を聞きたいの」
露は心配そうに頷き、花の袖をそっと掴んだまま離れなかった。
朱皇は静かに息を吐いた。
「……よいだろう。花が聞きたいと言うなら、話す」
彼はゆっくりと花に向き直った。
「花。お前の出生を知るためには、三つの禁じられた記録を探る必要がある」
花の喉が動く。
胸の鼓動が耳に響くほど強くなった。
「三つ……?」
「一つは、今夜焼かれた古系譜。帝室に流れた血筋の記録だ」
あの灰と煙の光景が、花の脳裏に蘇る。
「二つ目は封印された后妃録。后妃たちの血筋と……宮中で決して語られぬ秘密の記録だ」
露が息を呑む。
「后妃録……そんなものが……」
「そして三つ目は――」
朱皇は声を少しだけ落とした。
その目に、迷いのない鋭さが宿る。
「追放の簿。かつて帝室から消された者たちの名が記されている」
花は一瞬、目の前が暗くなるような感覚に襲われた。
追放。
消された者。
その中に自分の名が?
朱皇は花の肩に触れ、逃げ場を消すように優しくも強い声で告げた。
「花。正体を知りたいか?」
花は唇を震わせた。
知らないままでは、怖い。
「……知りたいです」
朱皇は頷き、花の手をそっと包んだ。
「ならば行こう。ここでは話せぬ。余の私室、静華の間へ」
律が驚いたように顔を上げた。
「陛下、それは……」
「重臣でさえ入れぬ場所ですのに……」
露も息を呑む。
朱皇は静かに言った。
「花は余の側室となった。ならば、あの部屋に入る資格がある」
花は瞬きもできずに朱皇を見上げた。
その目は、炎のように熱く、それでいて氷のように澄んでいる。
「行こう」
花は頷き、朱皇の後に従った。
静華の間は、宮でもっとも静かで、誰も近づかぬ場所だった。
扉は厚く、鍵は朱皇の腰に下げられている一本だけ。
その奥へ入れる者は、これまでほとんどいなかったという。
朱皇が鍵を差し込み、静かに扉が開く。
花の背筋が震えた。
室内は薄灯りに照らされ、壁一面に古い巻物と箱が整然と並んでいる。
それらはどれも銀の封印が施され、空気が張り詰めていた。
ここは秘密の心臓部。
朱皇は花を中へと導き、扉を静かに閉めた。
「花。お前の出生を探るには、まず二人の名前を思い出す必要がある」
「二人……?」
朱皇は花の目を静かに見つめる。
「お前の母。そして……お前の父だ」
花の心臓が跳ねた。
母の記憶はある。
しかし父の記憶は、何ひとつなかった。
朱皇はゆっくりと部屋の奥の棚を指差した。
「ここに、二十年前に封印された記録がある。ある后妃と帝室に認められぬ子に関する巻物だ」
花の呼吸が浅くなる。
「陛下……まさか……」
朱皇は花へ一歩近づき、真剣な声で言った。
「花。聞く覚悟は、本当にあるのか?」
花は震えたが、視線を逸らさなかった。
「あります」
朱皇はゆっくりと銀封を破った。
部屋の空気がひやりと揺れる。
巻物が開かれ、朱皇の目が文字を読み取る。
そしてその表情が、鋼のように固まった。
「陛下……?」
花が不安げに問いかける。
朱皇は巻物を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
「花。お前の母の名は――紫苑。そして……父の欄は」
花の心臓が喉元までせり上がる。
朱皇はゆっくりと顔を上げ、花を見つめた。
「――前皇太子・蒼真」
時間が止まった。
露が息を失い、律が愕然としたまま硬直する。
花は何も言えなかった。
前皇太子。
朱皇の兄。
帝位を継ぐはずだった男。
しかし十六年前、突然の死を遂げ、帝室は揺れに揺れた。
その男が父?
朱皇は花へ歩み寄り、震える肩を抱いた。
「花。つまり、お前は――」
花の喉がひきつった。
逃げたい。
聞きたくない。
でも、聞かずには進めない。
朱皇は抱きしめたまま、静かに告げた。
「帝位継承権を持つ、隠された皇族だ」
花の世界が、音もなく崩れ落ちた。
「わ、私が……皇族……?陛下の……」
「そうだ。お前の父は余の兄。そしてお前は……死んだはずの皇太子の唯一の血だ」
花の膝が崩れそうになり、朱皇が支える。
露は震える声を漏らした。
「そんな……そんな大事なこと……花さまは何も……!」
律は歯を食いしばり、低く呟いた。
「だから狙われたのか……。帝位争いの火種として……!」
朱皇は花の頬を両手で包み、顔を近づけた。
「花。どれほど血筋が重かろうと、どれほど運命が残酷でも関係ない。余は、お前を離さない」
花の視界が滲む。
胸が苦しい。
自分が何者なのか。
なぜ母は真実を語らなかったのか。
父はどんな人だったのか。
朱皇は自分を……どう見ているのか。
すべてが渦となって心をかき乱す。
その時――。
静華の間の外で、金属音が響いた。
露が跳ねるように振り返る。
律は即座に剣を抜き、扉へ駆け寄った。
「誰だ!」
闇の向こうから、低い男の声がした。
「――花を連れてこい。陛下と共に死なれたくなければ」
花の心臓が凍りついた。
朱皇は花を背に庇い、低く呟いた。
「来たな。……反乱の影が」
扉の向こうで、複数の足音が接近する。
花は震える声で問うた。
「陛下……私のせいで……!」
朱皇は振り返り、花の頬を指でそっとなぞった。
「違う。始まったのはお前のせいではない。お前が現れたことで、隠された罪が暴かれただけだ」
そして、その瞳に烈火のような光を宿した。
「花。余のそばを離れるな」
花は強く頷いた。
露は涙目で花の袖を掴み、律は扉に背を預けて剣を構える。
外では敵の気配が増え続けていた。
朱皇は花の手を握り、静かに言った。
「花。ここからはもう逃げられぬ運命だ。だが、余は必ずお前を守る。命に代えても」
花は震えながらも、朱皇の手を握り返した。
「……一緒に、戦います」
扉の向こうで、刀の鞘が抜かれる音がした。
そして朱皇は静かに微笑んだ。
「よく言った。――では、始めよう。帝室の暗闘を終わらせる戦いを」
静華の間の扉が、破られようとしていた。
扉の向こうから響く靴音が、ゆっくりと確実に近づいてきている。
ひとつ、またひとつ。
まるで闇が形を持って侵食してくるような足取りだった。
律は扉に手を添え、耳を澄ませた。
その指先が微かに震えているのを、花は見逃さなかった。
震えは恐怖ではなく、覚悟の色だった。
「……十人ではない。二十、いや、もっとか」
「それほどの人数を動かせるのは、ただ一人だ」
朱皇の声は静かだったが、炎の芯のように揺るがない強さがあった。
花は喉を鳴らし、朱皇の背中を見つめる。
その背だけで、どれほどのものを背負い立っているのか――。
ようやく理解できはじめていた。
露が花の袖を握りしめ、震えた声で囁く。
「花さま……怖く、ありませんか?」
「怖いよ。でも……」
花は朱皇の背に手を伸ばし、そっと触れた。
「ひとりじゃない。それが、こんなに強いと思わなかった」
朱皇が短く振り返り、微かな笑みを見せた。
その笑みは帝のものではなく、ただ花を見つめる朱皇のものだった。
「花。離れるな」
と彼は言った。
その瞬間――。
扉の向こうで、金属が擦れる尖った音が響いた。
次の瞬間、静華の間の扉が外から強打され、木板がしなる。
露は悲鳴を飲み込み、律が剣を構えた。
「陛下、裏口へ!」
律が叫ぶ。
朱皇は首を振った。
「裏口は罠だ。ここに敵が来た時点で、すでに読まれている」
「では……!」
「戦うしかない」
その言葉に、露の手が強く震えた。
花の胸も冷たく強張る。
戦う⋯⋯ここで。
自分の出生が明らかになった瞬間に、血が流れる。
まるで運命そのものが、厳しく試しているかのようだった。
朱皇は花の肩を抱き寄せ、低く囁く。
「花。これだけは忘れるな。お前は紫苑の娘であり、蒼真の娘。そして、余が選んだ女だ」
「……はい」
花の指が朱皇の衣を強く掴む。
自分でも驚くほど、迷いが消えていた。
その時。
扉の向こうから、低く太い声が響いた。
「陛下。そこにおられるのですね」
その声には、妙な静けさがあった。
律が息を呑む。
「……あれは鴻烈将軍。黒鴉隊の長……!」
花はその名を聞き、胸が強く締めつけられた。
後宮の噂で何度も耳にした、冷酷無比な男の名。
朱皇はゆっくりと花から離れ、扉に向かって声を投げた。
「鴻烈。こんな真夜中に二十人以上の兵を引き連れ、何をする気だ」
扉の向こうの男は、静かに笑った。
「陛下のお言葉を受け、後宮の反逆者を捕えに参っただけでございます」
「反逆者?誰のことだ」
「決まっております」
鴻烈の声は不気味なほど滑らかで、冷たかった。
「――花殿です」
露が「そんな……!」と声を上げ、花の背に隠れるように寄った。
鴻烈の声は続く。
「紫苑殿が皇太子蒼真の子を産んだ時点で、本来なら処刑されるべき罪。そして花殿は、皇太子の血を隠して帝位継承権に触れる存在。すなわち反逆の火種!」
花の胸がえぐられるように痛んだ。
朱皇は剣を抜き、鋭く叫んだ。
「黙れ。花は罪ではない。隠したのは紫苑ではなく、当時の宮中だ。そしてお前たちだ、鴻烈!」
扉の向こうの空気が一瞬、凍りつく。
鴻烈は、わずかに感情の欠片を乗せた声で答えた。
「……陛下。陛下が花殿をお選びになった時点で、もはや帝室は割れたのです」
「割れたのは、お前が余に逆らったからだ」
「いいえ」
鴻烈の声は静かで、底に何かを隠している。
「割れたのは、陛下が花殿に心を許した時です」
花の心臓が跳ねた。
朱皇の指が、わずかに震える。
鴻烈の声は冷徹さを増していく。
「だからこそ、我らは新たな帝を立てねばならぬ」
花の背が冷たくなった。
新たな帝⋯⋯それはつまり、朱皇を倒すという宣言。
「鴻烈……貴様!」
律が剣を握りしめ、歯ぎしりしながら唸る。
朱皇は扉を睨みつけ、声を荒らげずに言った。
「花は余の女だ。そして余が守る。連れていかせはしない」
すると扉の向こうで、鴻烈の声がわずかに低くなった。
「……陛下。最後に申し上げます。花殿を渡していただけば、血は流れません」
露が花の腕を強く掴んだ。
花は震え、朱皇の背中を見つめる。
彼は決して振り返らなかった。
ただ剣を構え、ただ前を向き続けていた。
「お前は理解していないな、鴻烈」
朱皇の声は静かだった。
「花を差し出すくらいなら、余は帝位も命もいらぬ」
花の胸が焼ける。
涙が溢れそうになり、唇が震えた。
鴻烈はしばし沈黙した後、冷たく言い放った。
「……では、ここで死んでいただきましょう」
次の瞬間、扉が凄まじい音を立てて破砕した。
木片が飛び散り、黒い影が一斉に雪崩れ込む。
律が叫ぶ。
「陛下!花殿を守れ!」
朱皇は花を抱き寄せ、敵陣へ踏み込んだ。
黒い影が次々と襲いかかる。
すべてが混じり合い、静華の間は戦場へと変わった。
花は朱皇の袖を掴みながら、叫んだ。
「陛下!私のせいで……!」
「違うと言っただろう」
朱皇が敵を斬り払いながら叫ぶ。
「お前は罪ではない。お前は――」
朱皇は花へ振り返り、その瞳に強烈な光を宿した。
「――余の運命だ、花!」
その言葉が花の胸を貫いた瞬間、
鴻烈の影が、静かに戦場の奥から姿を現した。
その手には、血のように黒い刃。
その瞳は獣のような冷たさで、まっすぐ花を見据えていた。
「紫苑の娘よ。お前の存在が、帝室の全てを変える」
朱皇が花の前に立ち塞がる。
「来い、鴻烈。ここで決着をつける」
鴻烈は無言で剣を構え、朱皇へ向かって歩き出す。
花は朱皇の背へ手を伸ばし、震える声で叫んだ。
「陛下……!」
朱皇は振り向かずに言った。
「花。必ず守る。だから見ていろ。余が、お前を奪おうとする者すべてを斬り伏せるところを」
静華の間に、刃が交わる重い音が響いた。
静華の間は、闇に覆われた戦場のようだった。
血の存在は確かにあった。朱皇の肩口や腕には、わずかに赤い痕が残り、衣を染めている。
それは誰かの生死を示すものではなく、戦いの緊迫を映す印だった。
花は律と露に守られながら、心臓の鼓動を必死に押さえた。
目の前で繰り広げられる光景は、ただの剣の応酬ではない。
守るべき者と、奪おうとする者、そしてその間で揺れる自分――。
すべてが入り乱れ、花の胸を締め付ける。
朱皇は、剣先を鴻烈に向けながらも、その背後で花を守る。
鴻烈の動きは静かだが緊張感に満ち、どの一歩も無駄がない。
朱皇は一瞬、剣を受ける動作をためらったが、すぐに決意を乗せて踏み込む。
肩口にわずかに赤が広がる。痛みはあれど、それ以上の負傷ではない。
花の目に映る朱皇は、強く、優しく、そして決して諦めない。
「陛下……」
花の声が震える。
露がそっと花の手を握り、律が前に出て守る。
朱皇は振り返ることなく、ただ花の方を向き続けた。
その背中には、血の痕をものともせぬ強さが宿っている。
花の胸を温かく包み込むような力が、言葉よりも深く伝わる。
鴻烈は冷静だった。
朱皇の一瞬の迷いを見逃さず、再び剣を構える。
だが、朱皇は迷いなく応戦し、互いに切り結ぶ。
血は朱皇の衣をかすめ、赤い痕として残る。
しかしそれは、恐怖や惨さではなく、ただ戦いの証としてそこにある。
「陛下。守るべき者がいると、人は弱くなるものです」
鴻烈の声は静かだが鋭い。
朱皇の手がわずかに止まる。しかし、すぐに剣を押し返し、顔に微かな笑みを浮かべる。
「弱さではない。これこそが、余の強さだ」
花はその言葉に胸を打たれ、涙が滲む。
自分がただ守られるだけの存在ではない、朱皇が自分を信じ、共に戦う存在として見てくれていることを痛感する。
そのとき、廊下の奥から別の影が現れた。
黒衣を纏った兵が花へ向かって走り込む。
露と律がすぐに花を囲み、守ろうと構える。
朱皇は血の痕を帯びたまま、花に向かう兵たちを制止するように手を伸ばす。
「離れろ、花」
花はその声に従い、少し後退する。
目の前で朱皇が剣を振るい、兵を追い払う。
血は確かにあるが、恐怖や惨さではなく、戦いの緊迫を伝える赤として描かれる。
しかし、そのとき、さらに背後から声が響いた。
「――兄上、止めなさい」
暗がりから現れたのは、黒と金の衣をまとった蒼璃。
かつて失踪した第二皇子である。
その瞳は冷たく光り、花をまっすぐ見据える。
「紫苑の娘……想像以上だ」
朱皇は血の痕を見つめつつも、剣を握り直し、弟を睨む。
「蒼璃。花をどうするつもりだ」
蒼璃は静かに微笑む。
「兄上から奪う。花を手に入れれば、この国は正される」
朱皇の剣がわずかに上がる。
花はその背中を見つめ、心で叫ぶ。
(朱皇……どうか、負けないで)
血の痕があるだけで、生々しさはない。
しかし戦いの重みと、命を賭ける覚悟は十分に伝わる。
静華の間は、帝国の未来を決める緊迫の場として張り詰め続けた。
静華の間の空気は、まるで濃密な霧の中に閉じ込められたように重く、息をするだけで胸が締め付けられる。
朱皇はわずかに肩に血の跡を残しながらも、揺るぎなく花の前に立っていた。
その瞳には決意しか映っていない。
花は律と露に支えられ、後ろで震えるが、視線は朱皇から離せなかった。
鴻烈は冷静だ。
その動きには迷いがなく、常に朱皇のわずかな隙を探る。
刃の軌道は完璧に制御され、力任せではない。
朱皇の血の跡は、ただ戦いの証であり、惨さではない。
「陛下。守るべき者がある者は、必ず弱くなるものです」
鴻烈の声は静かだが、鋭く心に突き刺さる。
朱皇は瞬き一つで応じる。
「弱さではない。これが余の強さだ。守るべき者がいるからこそ、余は立つ」
花の胸は熱くなる。
自分を守るために戦う朱皇の背中――。
それだけで、涙がこぼれそうになる。
その瞬間、静華の間の奥から影が動いた。
黒衣の兵が花の方向へと駆け寄る。
露と律がすぐに盾のように立ちはだかる。
「花さま!」
露が声を震わせる。
朱皇は少し身を翻し、血の跡を見せながらも毅然と立ち、剣を構えた。
彼の背後には、血が薄く衣を染めた朱皇の姿があるだけで、花は守られているという感覚が伝わる。
鴻烈は再び前へ踏み込み、朱皇に向けて刃を構える。
朱皇はそれを受け、互いの刃が交錯する。
血の跡が衣に薄く広がるだけで、悲惨さは感じさせない。
ただ、戦いの厳しさと、命を賭けた覚悟を示す。
「花を、渡せ」
廊下の奥から低く響く声。
黒衣を纏った影が、静華の間へと滑り込む。
朱皇がわずかに眉をひそめ、目を細める。
「蒼璃……」
かつて姿を消した第二皇子。
その瞳は冷たく、だが花を見つめる目には確かな計算と敬意が宿っていた。
「紫苑の娘……なるほど、想像以上だ」
蒼璃の声には、単なる威圧や冷酷さではない、感情の層が複雑に混ざっている。
朱皇は剣を握り直す。
血はあるが、彼の目は揺らがない。
「兄弟よ、花をどうするつもりだ」
蒼璃は微笑んだ。
「兄上から奪う。花を得ることで、この国の未来を正す」
朱皇は一歩踏み込む。
花はその背中を見つめながら、心の奥で祈る。
(朱皇……どうか、負けないで)
鴻烈はその隙を見逃さず、再び朱皇に刃を向けるが、朱皇の剣が反応する。
互いの動きが絶妙なバランスで交わる中、花の視界には血の跡がうっすらと見えるだけで、恐怖よりも緊張感が優先される。
律は花の側で剣を構え、露も花の手を離さず守る。
戦場は混乱しているが、どの人物も無駄な行動はない。
それぞれの決意と覚悟が、動作や呼吸のひとつひとつに表れている。
蒼璃はゆっくりと花に近づき、朱皇と目を合わせる。
「兄上、もう十分だ。花を差し出せば、血は流れずに済む」
朱皇は答えない。
ただ花の前に立ち、薄く肩の血を気にすることなく、蒼璃を見据える。
「余が花を守る。血を流さずに済むか否かは関係ない」
蒼璃の瞳が一瞬険しく光る。
しかし次の瞬間、微笑みに変わる。
「なるほど……兄上らしい。だが、この国のためには、花殿を……」
朱皇は短く息をつき、剣を再び握る。
血はある。けれど、それは力の証であり、決して惨さを強調するものではない。
花はその背中に希望と恐怖、そして信頼を同時に感じる。
どれだけ世界が厳しくても、朱皇の背中がある限り、自分は安全だ――そう思える。
鴻烈と蒼璃の視線が交わり、静華の間にさらに緊張が増す。
花は律の肩に顔を押し付け、露の手を握りしめる。
そして朱皇は低く、しかし揺るぎない声で言った。
「この場で、全ての運命を決める」
夜明け前の薄暗さの中、血の跡だけが赤く光り、戦いの先に待つ未来の重みを静かに示していた。
静華の間の空気は、深い夜のように重く、張り詰めていた。
朱皇の背後には、花が立っている。律と露がそっと手を添え、花の震える肩を支える。
朱皇は静かに剣を握り直し、その瞳は蒼璃を捉えて離さない。
蒼璃は黒と金の衣をまとい、まるで闇そのものを背負って歩くように現れた。
その視線は冷たく、計算され尽くした輝きを持って花と朱皇を交互に射抜く。
「兄上、花を差し出せ。そうすれば、無駄な争いは避けられる」
蒼璃の声は穏やかだが、確固たる力を含んでいる。
朱皇の手は微動だにせず、しかしわずかに力を込めた。
「断る」
その一言で、空間の温度が一変した。
蒼璃は眉をわずかにひそめ、しかしすぐに笑みを浮かべる。
「なるほど、やはり兄上らしい。守るべき者がいるからこそ、己を抑え、相手を思いやる――しかしそれでは、国を正すには弱すぎる」
朱皇は花の前に立ち、どんな圧力も跳ね返すように構えた。
花の目には、恐怖よりも安心感が広がる。
この人がいる限り、どんな困難でも耐えられる――そう思えるほどの強さが、朱皇の背中から伝わってくる。
律が花の肩を抱き、露が手を握る。
三人は呼吸を合わせるように互いを支え合い、ただ静かに立っていた。
戦場のような緊迫の中で、無言の連帯感が彼女たちを守っていた。
鴻烈は冷静だ。
その視線は常に朱皇のわずかな動きを追い、隙を狙っている。
しかし、朱皇の目は揺らがない。
彼はただ、花を、そして国を守る覚悟を抱いている。
蒼璃が一歩前に出る。
その歩みには、かつて宮廷を揺るがした第二皇子としての威厳と、未来を見据える計算が混ざっている。
「花殿。あなたをこの手で守るべきか、それとも兄上に委ねるべきか……選ぶのは、あなた自身だ」
花の呼吸が止まる。
一瞬の迷いの中で、彼女の心は朱皇に引き寄せられる。
しかし、蒼璃の視線がその迷いを静かに掬い上げる。
圧力のような冷静さに、彼女は身がすくむ。
朱皇は微かに唇を噛み、強く息を吐く。
「余が決める。花を守るのは余だ」
その瞬間、蒼璃の瞳が微かに光を失い、しかしすぐに冷静な微笑に戻る。
二人の間に緊張の糸が張り巡らされ、まるで世界の時間が止まったかのように感じられる。
律が小さく息を呑み、露が花の手をさらに強く握る。
花は震えながらも、勇気を振り絞って朱皇の背後に立ち、彼の存在に自分を委ねる。
この瞬間、花の中で何かが確かに変わった。
恐怖よりも、信頼と希望が勝ったのだ。
鴻烈はその間を冷静に観察する。
動こうと思えばいつでも動ける。しかし、朱皇と蒼璃の間の微細な均衡を崩すことは簡単ではない。
一瞬の油断が、すべてを破壊しかねないことを、彼は知っている。
蒼璃が口を開く。
「兄上。あなたは花を守るために自らを制している。
しかし、その心の奥にある情こそ、国を揺るがす弱点だ」
朱皇は剣を握り直す。
揺らぐどころか、心の奥底から生まれる強さを花と共に感じさせる。
「それでも余は守る。国よりも、花を優先する」
静華の間に緊張が張り詰める中、時間がゆっくりと流れ、息を呑む瞬間が重なっていく。
花は心の奥で、決意を固める。
朱皇の隣で、自分も戦う――たとえ言葉に出せなくても、心の中で誓った。
蒼璃は再び微笑む。
「なるほど……それも一つの覚悟か」
その微笑の裏には計算も、思惑もある。
しかし今は、朱皇と花の間に生まれた絆を前に、慎重に距離を取るしかない。
静華の間の緊迫は、そのまま夜明け前の静けさのように、
全員の胸に重く、しかし清冽な空気として残った。
花の手が朱皇の剣先ではなく、そっとその背に触れる。
彼の存在の重み、強さ、そして優しさを、肌で感じる。
その瞬間、花は知った。
自分の運命は、彼の存在と共にある――と。
蒼璃の刃が、一瞬の隙を突いた。
朱皇は互角に戦っていた。
刀の軌道も、力の入れ具合も、呼吸も、互いに完全に読み合っていた。
だが、その一瞬――花と朱皇の目が一瞬だけ交わり、花が小さく息をのむ隙に、蒼璃の刀が朱皇の腹を貫く。
痛みは瞬間的だ。朱皇の体が揺れ、呼吸がわずかに詰まる。
その目は、なにかを守ろうとする意思に満ちていた。
花は悲鳴にも似た小さな声を上げ、律と露が駆け寄る。
「陛下!!」
「朱皇さま……!」
しかし朱皇は二人を制し、片手で花を守るように体を少し傾ける。
蒼璃は一歩引き、冷静な視線を朱皇に向ける。
「……なるほど。これほどまでに覚悟していたか」
その言葉には驚きと尊敬が混じり、計算だけでは測れない感情の響きがあった。
朱皇は苦しげに息を吐く。
だが、倒れず、膝をわずかに曲げて踏みとどまる。
「余は……負けぬ」
その声は弱く聞こえるが、揺らぎはない。
花に向けた視線は、変わらず優しく、揺らがない信頼を映している。
花の心臓は、胸を締め付けられるように打った。
朱皇の背中に触れ、震える手で支えようとする。
「陛下……!」
その声は、怒りとも悲しみともつかない強さを帯びている。
律が朱皇の前に立ち、蒼璃に向かって剣を構える。
「退け!帝を傷つけることなど許さん!」
蒼璃は冷静に律を見つめ、ただ微かに笑みを浮かべる。
「ふむ……忠義は尊い。しかし、兄上の覚悟を試すだけだ」
露も花の手を握りしめ、背後から支える。
花は目を閉じ、深く息を吸った。
恐怖や絶望ではなく、朱皇の揺るがぬ意志に、心の奥底から勇気が湧いてくる。
朱皇は片手で腹を押さえつつ、再び蒼璃に剣を向ける。
動きは鈍ったように見えるが、視線も意思も完全に鋭く保たれている。
「余を……侮るな」
蒼璃はわずかに眉を寄せ、慎重な距離を取る。
互角に戦っていた者同士の差は、この一瞬で明確になった。
だが朱皇は、倒れぬ。たとえ一瞬でも、心で花を、国を守ることを優先しているのだ。
花は泣きそうな顔で、しかしその背中に触れ、心の中で誓う。
(朱皇のそばで、私も戦う。どんな困難でも、負けないで――)
静華の間に張り詰めた緊張は、戦闘の一瞬の破裂でさらに重く、
同時に、朱皇の揺るがぬ意思と花の覚悟によって、不思議な安定感を生む。
蒼璃は次の動きを探しながら、僅かに息を整える。
しかし朱皇の瞳には、確実に勝機が映っている。
互いの間で、次の瞬間、運命の歯車が大きく動く予感が漂う。
花は握りしめた手を、朱皇の背に押し付ける。
体の震えは止まらない。だが、その手に込められた意志は、戦場の渦の中で一つの光のように輝く。
蒼璃はわずかに眉を寄せた。
その眼差しには驚きはあるものの、嘲りや侮りはない。
「なるほど、兄上はやはり、己の限界を超えて守ろうとしているか」
その声には尊敬が混じる。
冷たく計算高い者の口から、こうした感情が滲むことは珍しい。
朱皇は片手で腹を押さえながら、ゆっくりと剣を構え直す。
動きは確かにわずかに鈍ったが、視線の鋭さは衰えていない。
その瞳には、花を守るという揺るがぬ意志と、帝としての責任が同時に宿っていた。
「蒼璃……このままでは、花も国も守れぬ。だが、余は負けぬ」
その言葉は低く、しかし力強く響く。
言葉以上に、朱皇の姿勢、体の構え、眼差しがすべてを物語っていた。
花は震える手を、朱皇の背中にそっと押し当てる。
その手の感触から、彼の強さと意志が伝わる。
(陛下……絶対に負けないで……!)
胸の奥で、花はそう心に誓う。
律は剣を構えたまま、蒼璃の動きを警戒する。
「帝を傷つけることは許さない!」
その声には、忠誠心だけではなく、花を守る覚悟も滲む。
蒼璃は一歩下がり、冷静に間合いを取りながら、朱皇と律を交互に観察する。
「なるほど……兄上の強さは計算を超えている。だが、次の一手で決まるだろう」
その次の瞬間、朱皇は微かに体を捻り、蒼璃の刀を避けると同時に距離を詰める。
花は息を呑む。
目の前の光景は、戦いというより、意思と意志のぶつかり合いのように感じられた。
露が花の肩に手を置き、しっかりと支える。
花はその手に力を込め、恐怖を抑えながら視線を朱皇に戻す。
「陛下……」
その小さな声は、祈りのようでもあり、励ましのようでもあった。
朱皇は刀を握り直し、体の痛みを一切表に出さず、蒼璃を睨む。
「余を甘く見るな」
その声には冷たさも威圧もなく、ただ揺るがぬ決意だけが込められていた。
蒼璃はしばし沈黙する。
そして微かに頷くように笑みを浮かべる。
「ふむ……兄上らしい。己を制し、花を守るその覚悟、よく見せてもらった」
その瞬間、空気はさらに張り詰めた。
静華の間全体が、互いの意思の強さを映す鏡のように感じられる。
花は朱皇の背に触れたまま、深く息を吸う。
恐怖や混乱はまだある。
だが、その上に希望と信頼が勝り、胸の奥に力が生まれる。
蒼璃は一歩下がり、間合いを保つ。
彼の表情から、次の動きへの緊張と計算が読み取れる。
朱皇は痛みに耐えつつも、決して目を逸らさず、花と国を守る意思を示す。
律と露はその間に入り、花を守る盾となる。
空間には、刀と刀のぶつかり合いの音だけではなく、花の胸に、静かな覚悟が生まれた。
(私も……陛下と共に、この瞬間を生き抜く……!)
朱皇が腹を貫かれた瞬間から、すべての空気が変わった。
戦いの形は変わらない。
だが、意思と覚悟の強さで、周囲すべてが緊張と静寂の中に包まれている。
花は深く息を吸い、朱皇の背に寄り添いながら、これから起こる運命の波を感じ取る。
静華の間は、張り詰めた空気に支配されていた。
朱皇は腹を貫かれたものの、膝をつくことなく立ち続けている。
体のわずかな揺れさえ、彼の決意の強さを際立たせるだけだった。
花は手を震わせ、律と露に支えられながらも朱皇を見つめる。
「陛下……どうか無事で……」
その声は、恐怖を押し殺すように震え、しかし深く祈りのような強さを帯びていた。
蒼璃は冷静に距離を取り、剣を下ろすことはないが、その表情には迷いが見えた。
「……兄上、貴様の覚悟は、やはり只者ではないな」
静かに吐き出されたその言葉には、対立する者としての敬意が混じっていた。
朱皇は痛みに耐えながらも、一歩前に出る。
その視線は蒼璃ではなく、花へ向けられている。
「花……余の隣で、ずっと咲いてくれ」
花の胸が熱くなる。
涙が自然と頬を伝う。
膝の震えを必死に抑えながら、花は小さく頷く。
「はい……陛下……」
その瞬間、律と露も安堵の息を漏らす。
緊張はまだ完全には解けていない。
だが、朱皇の存在が、花の心に確かな安心と光をもたらしたのだ。
蒼璃は一歩下がり、刀を静かに下ろす。
彼の眼差しには、もはや攻撃の意志はなく、計算と覚悟だけが残っている。
「……兄上、今度は貴様の勝ちだ。だが、この先も気を抜くな」
朱皇は一度大きく息を吐き、腹を押さえる手を離す。
動きは鈍いが、戦意は衰えない。
そして花の方を向く。
花は朱皇の手を取り、そっと握る。
「陛下……怖かった……でも、無事でよかった……」
朱皇はその手を軽く握り返し、柔らかな微笑みを浮かべる。
「余も、花が無事でよかった……余のそばで、ずっと咲いていてくれ」
花は目を潤ませながら頷き、肩を朱皇に預ける。
律と露も二人を見守りながら、静かに安堵した息を漏らす。
蒼璃は遠くから二人のやり取りを見つめ、短く息をつく。
その表情には複雑な感情が入り混じる。
尊敬、悔しさ、そして兄弟としての深い絆――。
戦いが終わったわけではないが、今はただ、朱皇と花の瞬間に敬意を示すしかなかった。
花は朱皇の胸に顔を押し当て、涙をこぼす。
「陛下……ずっと、私を守ってくれるのね……」
その言葉に朱皇は軽く微笑む。
「余が選んだのは、いつも花だ。灰より出でたとしても、余はお前を選ぶ」
花の胸に、深く暖かい感情が広がる。
恐怖や不安ではなく、確かな信頼と愛情。
長く閉ざされていた心の扉が、今、朱皇の存在によってゆっくりと開かれていくのを感じた。
律と露も小さく微笑む。
戦いは終わった。だが、二人の間には新しい絆と、これから続く未来への確信が生まれていた。
夜明けの光が、静華の間の窓から差し込む。
暗闇の中にあった緊張と恐怖が、徐々に和らいでいく。
朱皇と花は、互いに手を取り合い、立ち上がる。
その姿は、これからの困難を共に乗り越える覚悟を象徴していた。
静かに、未来への一歩が踏み出された。
ささやき、怯え、疑い、忠誠、裏切り――そのすべてが、闇に沈む回廊を静かに漂っていた。
朱皇の腕に支えられながら歩き出した花は、まだ胸の奥の震えが消えていなかった。
雅香妃の言葉が、棘のように心に刺さったままだ。
禁じられた血。忌み名帝を揺るがす存在。
そのどれもが、花の足を止めかけた。
だが、朱皇がそばにいる。
それだけは、確かだった。
北苑の静けさは異様で、風より先に緊張が肌を刺す。
律と露が後ろに控え、周囲を警戒し続けていた。
「陛下。先ほどの雅香妃の言葉……放ってはおけませぬ」
律が低い声を発した。
朱皇は歩みを緩めず、花の手を離さなかった。
「放っておかぬ。だが今は花を休ませる」
「私は……大丈夫です」
花は首を振ったが、朱皇は静かに言い返す。
「大丈夫ではない。顔色が悪い。震えている」
花は唇を噛んだ。
見透かされるたびに、弱さを突きつけられるようで悔しい。
けれど、それ以上に温かかった。
露が不安げに言った。
「花さま……お水をお持ちしましょうか?」
「ありがとう、露。でも……まずは話を聞きたいの」
露は心配そうに頷き、花の袖をそっと掴んだまま離れなかった。
朱皇は静かに息を吐いた。
「……よいだろう。花が聞きたいと言うなら、話す」
彼はゆっくりと花に向き直った。
「花。お前の出生を知るためには、三つの禁じられた記録を探る必要がある」
花の喉が動く。
胸の鼓動が耳に響くほど強くなった。
「三つ……?」
「一つは、今夜焼かれた古系譜。帝室に流れた血筋の記録だ」
あの灰と煙の光景が、花の脳裏に蘇る。
「二つ目は封印された后妃録。后妃たちの血筋と……宮中で決して語られぬ秘密の記録だ」
露が息を呑む。
「后妃録……そんなものが……」
「そして三つ目は――」
朱皇は声を少しだけ落とした。
その目に、迷いのない鋭さが宿る。
「追放の簿。かつて帝室から消された者たちの名が記されている」
花は一瞬、目の前が暗くなるような感覚に襲われた。
追放。
消された者。
その中に自分の名が?
朱皇は花の肩に触れ、逃げ場を消すように優しくも強い声で告げた。
「花。正体を知りたいか?」
花は唇を震わせた。
知らないままでは、怖い。
「……知りたいです」
朱皇は頷き、花の手をそっと包んだ。
「ならば行こう。ここでは話せぬ。余の私室、静華の間へ」
律が驚いたように顔を上げた。
「陛下、それは……」
「重臣でさえ入れぬ場所ですのに……」
露も息を呑む。
朱皇は静かに言った。
「花は余の側室となった。ならば、あの部屋に入る資格がある」
花は瞬きもできずに朱皇を見上げた。
その目は、炎のように熱く、それでいて氷のように澄んでいる。
「行こう」
花は頷き、朱皇の後に従った。
静華の間は、宮でもっとも静かで、誰も近づかぬ場所だった。
扉は厚く、鍵は朱皇の腰に下げられている一本だけ。
その奥へ入れる者は、これまでほとんどいなかったという。
朱皇が鍵を差し込み、静かに扉が開く。
花の背筋が震えた。
室内は薄灯りに照らされ、壁一面に古い巻物と箱が整然と並んでいる。
それらはどれも銀の封印が施され、空気が張り詰めていた。
ここは秘密の心臓部。
朱皇は花を中へと導き、扉を静かに閉めた。
「花。お前の出生を探るには、まず二人の名前を思い出す必要がある」
「二人……?」
朱皇は花の目を静かに見つめる。
「お前の母。そして……お前の父だ」
花の心臓が跳ねた。
母の記憶はある。
しかし父の記憶は、何ひとつなかった。
朱皇はゆっくりと部屋の奥の棚を指差した。
「ここに、二十年前に封印された記録がある。ある后妃と帝室に認められぬ子に関する巻物だ」
花の呼吸が浅くなる。
「陛下……まさか……」
朱皇は花へ一歩近づき、真剣な声で言った。
「花。聞く覚悟は、本当にあるのか?」
花は震えたが、視線を逸らさなかった。
「あります」
朱皇はゆっくりと銀封を破った。
部屋の空気がひやりと揺れる。
巻物が開かれ、朱皇の目が文字を読み取る。
そしてその表情が、鋼のように固まった。
「陛下……?」
花が不安げに問いかける。
朱皇は巻物を見つめたまま、小さく息を呑んだ。
「花。お前の母の名は――紫苑。そして……父の欄は」
花の心臓が喉元までせり上がる。
朱皇はゆっくりと顔を上げ、花を見つめた。
「――前皇太子・蒼真」
時間が止まった。
露が息を失い、律が愕然としたまま硬直する。
花は何も言えなかった。
前皇太子。
朱皇の兄。
帝位を継ぐはずだった男。
しかし十六年前、突然の死を遂げ、帝室は揺れに揺れた。
その男が父?
朱皇は花へ歩み寄り、震える肩を抱いた。
「花。つまり、お前は――」
花の喉がひきつった。
逃げたい。
聞きたくない。
でも、聞かずには進めない。
朱皇は抱きしめたまま、静かに告げた。
「帝位継承権を持つ、隠された皇族だ」
花の世界が、音もなく崩れ落ちた。
「わ、私が……皇族……?陛下の……」
「そうだ。お前の父は余の兄。そしてお前は……死んだはずの皇太子の唯一の血だ」
花の膝が崩れそうになり、朱皇が支える。
露は震える声を漏らした。
「そんな……そんな大事なこと……花さまは何も……!」
律は歯を食いしばり、低く呟いた。
「だから狙われたのか……。帝位争いの火種として……!」
朱皇は花の頬を両手で包み、顔を近づけた。
「花。どれほど血筋が重かろうと、どれほど運命が残酷でも関係ない。余は、お前を離さない」
花の視界が滲む。
胸が苦しい。
自分が何者なのか。
なぜ母は真実を語らなかったのか。
父はどんな人だったのか。
朱皇は自分を……どう見ているのか。
すべてが渦となって心をかき乱す。
その時――。
静華の間の外で、金属音が響いた。
露が跳ねるように振り返る。
律は即座に剣を抜き、扉へ駆け寄った。
「誰だ!」
闇の向こうから、低い男の声がした。
「――花を連れてこい。陛下と共に死なれたくなければ」
花の心臓が凍りついた。
朱皇は花を背に庇い、低く呟いた。
「来たな。……反乱の影が」
扉の向こうで、複数の足音が接近する。
花は震える声で問うた。
「陛下……私のせいで……!」
朱皇は振り返り、花の頬を指でそっとなぞった。
「違う。始まったのはお前のせいではない。お前が現れたことで、隠された罪が暴かれただけだ」
そして、その瞳に烈火のような光を宿した。
「花。余のそばを離れるな」
花は強く頷いた。
露は涙目で花の袖を掴み、律は扉に背を預けて剣を構える。
外では敵の気配が増え続けていた。
朱皇は花の手を握り、静かに言った。
「花。ここからはもう逃げられぬ運命だ。だが、余は必ずお前を守る。命に代えても」
花は震えながらも、朱皇の手を握り返した。
「……一緒に、戦います」
扉の向こうで、刀の鞘が抜かれる音がした。
そして朱皇は静かに微笑んだ。
「よく言った。――では、始めよう。帝室の暗闘を終わらせる戦いを」
静華の間の扉が、破られようとしていた。
扉の向こうから響く靴音が、ゆっくりと確実に近づいてきている。
ひとつ、またひとつ。
まるで闇が形を持って侵食してくるような足取りだった。
律は扉に手を添え、耳を澄ませた。
その指先が微かに震えているのを、花は見逃さなかった。
震えは恐怖ではなく、覚悟の色だった。
「……十人ではない。二十、いや、もっとか」
「それほどの人数を動かせるのは、ただ一人だ」
朱皇の声は静かだったが、炎の芯のように揺るがない強さがあった。
花は喉を鳴らし、朱皇の背中を見つめる。
その背だけで、どれほどのものを背負い立っているのか――。
ようやく理解できはじめていた。
露が花の袖を握りしめ、震えた声で囁く。
「花さま……怖く、ありませんか?」
「怖いよ。でも……」
花は朱皇の背に手を伸ばし、そっと触れた。
「ひとりじゃない。それが、こんなに強いと思わなかった」
朱皇が短く振り返り、微かな笑みを見せた。
その笑みは帝のものではなく、ただ花を見つめる朱皇のものだった。
「花。離れるな」
と彼は言った。
その瞬間――。
扉の向こうで、金属が擦れる尖った音が響いた。
次の瞬間、静華の間の扉が外から強打され、木板がしなる。
露は悲鳴を飲み込み、律が剣を構えた。
「陛下、裏口へ!」
律が叫ぶ。
朱皇は首を振った。
「裏口は罠だ。ここに敵が来た時点で、すでに読まれている」
「では……!」
「戦うしかない」
その言葉に、露の手が強く震えた。
花の胸も冷たく強張る。
戦う⋯⋯ここで。
自分の出生が明らかになった瞬間に、血が流れる。
まるで運命そのものが、厳しく試しているかのようだった。
朱皇は花の肩を抱き寄せ、低く囁く。
「花。これだけは忘れるな。お前は紫苑の娘であり、蒼真の娘。そして、余が選んだ女だ」
「……はい」
花の指が朱皇の衣を強く掴む。
自分でも驚くほど、迷いが消えていた。
その時。
扉の向こうから、低く太い声が響いた。
「陛下。そこにおられるのですね」
その声には、妙な静けさがあった。
律が息を呑む。
「……あれは鴻烈将軍。黒鴉隊の長……!」
花はその名を聞き、胸が強く締めつけられた。
後宮の噂で何度も耳にした、冷酷無比な男の名。
朱皇はゆっくりと花から離れ、扉に向かって声を投げた。
「鴻烈。こんな真夜中に二十人以上の兵を引き連れ、何をする気だ」
扉の向こうの男は、静かに笑った。
「陛下のお言葉を受け、後宮の反逆者を捕えに参っただけでございます」
「反逆者?誰のことだ」
「決まっております」
鴻烈の声は不気味なほど滑らかで、冷たかった。
「――花殿です」
露が「そんな……!」と声を上げ、花の背に隠れるように寄った。
鴻烈の声は続く。
「紫苑殿が皇太子蒼真の子を産んだ時点で、本来なら処刑されるべき罪。そして花殿は、皇太子の血を隠して帝位継承権に触れる存在。すなわち反逆の火種!」
花の胸がえぐられるように痛んだ。
朱皇は剣を抜き、鋭く叫んだ。
「黙れ。花は罪ではない。隠したのは紫苑ではなく、当時の宮中だ。そしてお前たちだ、鴻烈!」
扉の向こうの空気が一瞬、凍りつく。
鴻烈は、わずかに感情の欠片を乗せた声で答えた。
「……陛下。陛下が花殿をお選びになった時点で、もはや帝室は割れたのです」
「割れたのは、お前が余に逆らったからだ」
「いいえ」
鴻烈の声は静かで、底に何かを隠している。
「割れたのは、陛下が花殿に心を許した時です」
花の心臓が跳ねた。
朱皇の指が、わずかに震える。
鴻烈の声は冷徹さを増していく。
「だからこそ、我らは新たな帝を立てねばならぬ」
花の背が冷たくなった。
新たな帝⋯⋯それはつまり、朱皇を倒すという宣言。
「鴻烈……貴様!」
律が剣を握りしめ、歯ぎしりしながら唸る。
朱皇は扉を睨みつけ、声を荒らげずに言った。
「花は余の女だ。そして余が守る。連れていかせはしない」
すると扉の向こうで、鴻烈の声がわずかに低くなった。
「……陛下。最後に申し上げます。花殿を渡していただけば、血は流れません」
露が花の腕を強く掴んだ。
花は震え、朱皇の背中を見つめる。
彼は決して振り返らなかった。
ただ剣を構え、ただ前を向き続けていた。
「お前は理解していないな、鴻烈」
朱皇の声は静かだった。
「花を差し出すくらいなら、余は帝位も命もいらぬ」
花の胸が焼ける。
涙が溢れそうになり、唇が震えた。
鴻烈はしばし沈黙した後、冷たく言い放った。
「……では、ここで死んでいただきましょう」
次の瞬間、扉が凄まじい音を立てて破砕した。
木片が飛び散り、黒い影が一斉に雪崩れ込む。
律が叫ぶ。
「陛下!花殿を守れ!」
朱皇は花を抱き寄せ、敵陣へ踏み込んだ。
黒い影が次々と襲いかかる。
すべてが混じり合い、静華の間は戦場へと変わった。
花は朱皇の袖を掴みながら、叫んだ。
「陛下!私のせいで……!」
「違うと言っただろう」
朱皇が敵を斬り払いながら叫ぶ。
「お前は罪ではない。お前は――」
朱皇は花へ振り返り、その瞳に強烈な光を宿した。
「――余の運命だ、花!」
その言葉が花の胸を貫いた瞬間、
鴻烈の影が、静かに戦場の奥から姿を現した。
その手には、血のように黒い刃。
その瞳は獣のような冷たさで、まっすぐ花を見据えていた。
「紫苑の娘よ。お前の存在が、帝室の全てを変える」
朱皇が花の前に立ち塞がる。
「来い、鴻烈。ここで決着をつける」
鴻烈は無言で剣を構え、朱皇へ向かって歩き出す。
花は朱皇の背へ手を伸ばし、震える声で叫んだ。
「陛下……!」
朱皇は振り向かずに言った。
「花。必ず守る。だから見ていろ。余が、お前を奪おうとする者すべてを斬り伏せるところを」
静華の間に、刃が交わる重い音が響いた。
静華の間は、闇に覆われた戦場のようだった。
血の存在は確かにあった。朱皇の肩口や腕には、わずかに赤い痕が残り、衣を染めている。
それは誰かの生死を示すものではなく、戦いの緊迫を映す印だった。
花は律と露に守られながら、心臓の鼓動を必死に押さえた。
目の前で繰り広げられる光景は、ただの剣の応酬ではない。
守るべき者と、奪おうとする者、そしてその間で揺れる自分――。
すべてが入り乱れ、花の胸を締め付ける。
朱皇は、剣先を鴻烈に向けながらも、その背後で花を守る。
鴻烈の動きは静かだが緊張感に満ち、どの一歩も無駄がない。
朱皇は一瞬、剣を受ける動作をためらったが、すぐに決意を乗せて踏み込む。
肩口にわずかに赤が広がる。痛みはあれど、それ以上の負傷ではない。
花の目に映る朱皇は、強く、優しく、そして決して諦めない。
「陛下……」
花の声が震える。
露がそっと花の手を握り、律が前に出て守る。
朱皇は振り返ることなく、ただ花の方を向き続けた。
その背中には、血の痕をものともせぬ強さが宿っている。
花の胸を温かく包み込むような力が、言葉よりも深く伝わる。
鴻烈は冷静だった。
朱皇の一瞬の迷いを見逃さず、再び剣を構える。
だが、朱皇は迷いなく応戦し、互いに切り結ぶ。
血は朱皇の衣をかすめ、赤い痕として残る。
しかしそれは、恐怖や惨さではなく、ただ戦いの証としてそこにある。
「陛下。守るべき者がいると、人は弱くなるものです」
鴻烈の声は静かだが鋭い。
朱皇の手がわずかに止まる。しかし、すぐに剣を押し返し、顔に微かな笑みを浮かべる。
「弱さではない。これこそが、余の強さだ」
花はその言葉に胸を打たれ、涙が滲む。
自分がただ守られるだけの存在ではない、朱皇が自分を信じ、共に戦う存在として見てくれていることを痛感する。
そのとき、廊下の奥から別の影が現れた。
黒衣を纏った兵が花へ向かって走り込む。
露と律がすぐに花を囲み、守ろうと構える。
朱皇は血の痕を帯びたまま、花に向かう兵たちを制止するように手を伸ばす。
「離れろ、花」
花はその声に従い、少し後退する。
目の前で朱皇が剣を振るい、兵を追い払う。
血は確かにあるが、恐怖や惨さではなく、戦いの緊迫を伝える赤として描かれる。
しかし、そのとき、さらに背後から声が響いた。
「――兄上、止めなさい」
暗がりから現れたのは、黒と金の衣をまとった蒼璃。
かつて失踪した第二皇子である。
その瞳は冷たく光り、花をまっすぐ見据える。
「紫苑の娘……想像以上だ」
朱皇は血の痕を見つめつつも、剣を握り直し、弟を睨む。
「蒼璃。花をどうするつもりだ」
蒼璃は静かに微笑む。
「兄上から奪う。花を手に入れれば、この国は正される」
朱皇の剣がわずかに上がる。
花はその背中を見つめ、心で叫ぶ。
(朱皇……どうか、負けないで)
血の痕があるだけで、生々しさはない。
しかし戦いの重みと、命を賭ける覚悟は十分に伝わる。
静華の間は、帝国の未来を決める緊迫の場として張り詰め続けた。
静華の間の空気は、まるで濃密な霧の中に閉じ込められたように重く、息をするだけで胸が締め付けられる。
朱皇はわずかに肩に血の跡を残しながらも、揺るぎなく花の前に立っていた。
その瞳には決意しか映っていない。
花は律と露に支えられ、後ろで震えるが、視線は朱皇から離せなかった。
鴻烈は冷静だ。
その動きには迷いがなく、常に朱皇のわずかな隙を探る。
刃の軌道は完璧に制御され、力任せではない。
朱皇の血の跡は、ただ戦いの証であり、惨さではない。
「陛下。守るべき者がある者は、必ず弱くなるものです」
鴻烈の声は静かだが、鋭く心に突き刺さる。
朱皇は瞬き一つで応じる。
「弱さではない。これが余の強さだ。守るべき者がいるからこそ、余は立つ」
花の胸は熱くなる。
自分を守るために戦う朱皇の背中――。
それだけで、涙がこぼれそうになる。
その瞬間、静華の間の奥から影が動いた。
黒衣の兵が花の方向へと駆け寄る。
露と律がすぐに盾のように立ちはだかる。
「花さま!」
露が声を震わせる。
朱皇は少し身を翻し、血の跡を見せながらも毅然と立ち、剣を構えた。
彼の背後には、血が薄く衣を染めた朱皇の姿があるだけで、花は守られているという感覚が伝わる。
鴻烈は再び前へ踏み込み、朱皇に向けて刃を構える。
朱皇はそれを受け、互いの刃が交錯する。
血の跡が衣に薄く広がるだけで、悲惨さは感じさせない。
ただ、戦いの厳しさと、命を賭けた覚悟を示す。
「花を、渡せ」
廊下の奥から低く響く声。
黒衣を纏った影が、静華の間へと滑り込む。
朱皇がわずかに眉をひそめ、目を細める。
「蒼璃……」
かつて姿を消した第二皇子。
その瞳は冷たく、だが花を見つめる目には確かな計算と敬意が宿っていた。
「紫苑の娘……なるほど、想像以上だ」
蒼璃の声には、単なる威圧や冷酷さではない、感情の層が複雑に混ざっている。
朱皇は剣を握り直す。
血はあるが、彼の目は揺らがない。
「兄弟よ、花をどうするつもりだ」
蒼璃は微笑んだ。
「兄上から奪う。花を得ることで、この国の未来を正す」
朱皇は一歩踏み込む。
花はその背中を見つめながら、心の奥で祈る。
(朱皇……どうか、負けないで)
鴻烈はその隙を見逃さず、再び朱皇に刃を向けるが、朱皇の剣が反応する。
互いの動きが絶妙なバランスで交わる中、花の視界には血の跡がうっすらと見えるだけで、恐怖よりも緊張感が優先される。
律は花の側で剣を構え、露も花の手を離さず守る。
戦場は混乱しているが、どの人物も無駄な行動はない。
それぞれの決意と覚悟が、動作や呼吸のひとつひとつに表れている。
蒼璃はゆっくりと花に近づき、朱皇と目を合わせる。
「兄上、もう十分だ。花を差し出せば、血は流れずに済む」
朱皇は答えない。
ただ花の前に立ち、薄く肩の血を気にすることなく、蒼璃を見据える。
「余が花を守る。血を流さずに済むか否かは関係ない」
蒼璃の瞳が一瞬険しく光る。
しかし次の瞬間、微笑みに変わる。
「なるほど……兄上らしい。だが、この国のためには、花殿を……」
朱皇は短く息をつき、剣を再び握る。
血はある。けれど、それは力の証であり、決して惨さを強調するものではない。
花はその背中に希望と恐怖、そして信頼を同時に感じる。
どれだけ世界が厳しくても、朱皇の背中がある限り、自分は安全だ――そう思える。
鴻烈と蒼璃の視線が交わり、静華の間にさらに緊張が増す。
花は律の肩に顔を押し付け、露の手を握りしめる。
そして朱皇は低く、しかし揺るぎない声で言った。
「この場で、全ての運命を決める」
夜明け前の薄暗さの中、血の跡だけが赤く光り、戦いの先に待つ未来の重みを静かに示していた。
静華の間の空気は、深い夜のように重く、張り詰めていた。
朱皇の背後には、花が立っている。律と露がそっと手を添え、花の震える肩を支える。
朱皇は静かに剣を握り直し、その瞳は蒼璃を捉えて離さない。
蒼璃は黒と金の衣をまとい、まるで闇そのものを背負って歩くように現れた。
その視線は冷たく、計算され尽くした輝きを持って花と朱皇を交互に射抜く。
「兄上、花を差し出せ。そうすれば、無駄な争いは避けられる」
蒼璃の声は穏やかだが、確固たる力を含んでいる。
朱皇の手は微動だにせず、しかしわずかに力を込めた。
「断る」
その一言で、空間の温度が一変した。
蒼璃は眉をわずかにひそめ、しかしすぐに笑みを浮かべる。
「なるほど、やはり兄上らしい。守るべき者がいるからこそ、己を抑え、相手を思いやる――しかしそれでは、国を正すには弱すぎる」
朱皇は花の前に立ち、どんな圧力も跳ね返すように構えた。
花の目には、恐怖よりも安心感が広がる。
この人がいる限り、どんな困難でも耐えられる――そう思えるほどの強さが、朱皇の背中から伝わってくる。
律が花の肩を抱き、露が手を握る。
三人は呼吸を合わせるように互いを支え合い、ただ静かに立っていた。
戦場のような緊迫の中で、無言の連帯感が彼女たちを守っていた。
鴻烈は冷静だ。
その視線は常に朱皇のわずかな動きを追い、隙を狙っている。
しかし、朱皇の目は揺らがない。
彼はただ、花を、そして国を守る覚悟を抱いている。
蒼璃が一歩前に出る。
その歩みには、かつて宮廷を揺るがした第二皇子としての威厳と、未来を見据える計算が混ざっている。
「花殿。あなたをこの手で守るべきか、それとも兄上に委ねるべきか……選ぶのは、あなた自身だ」
花の呼吸が止まる。
一瞬の迷いの中で、彼女の心は朱皇に引き寄せられる。
しかし、蒼璃の視線がその迷いを静かに掬い上げる。
圧力のような冷静さに、彼女は身がすくむ。
朱皇は微かに唇を噛み、強く息を吐く。
「余が決める。花を守るのは余だ」
その瞬間、蒼璃の瞳が微かに光を失い、しかしすぐに冷静な微笑に戻る。
二人の間に緊張の糸が張り巡らされ、まるで世界の時間が止まったかのように感じられる。
律が小さく息を呑み、露が花の手をさらに強く握る。
花は震えながらも、勇気を振り絞って朱皇の背後に立ち、彼の存在に自分を委ねる。
この瞬間、花の中で何かが確かに変わった。
恐怖よりも、信頼と希望が勝ったのだ。
鴻烈はその間を冷静に観察する。
動こうと思えばいつでも動ける。しかし、朱皇と蒼璃の間の微細な均衡を崩すことは簡単ではない。
一瞬の油断が、すべてを破壊しかねないことを、彼は知っている。
蒼璃が口を開く。
「兄上。あなたは花を守るために自らを制している。
しかし、その心の奥にある情こそ、国を揺るがす弱点だ」
朱皇は剣を握り直す。
揺らぐどころか、心の奥底から生まれる強さを花と共に感じさせる。
「それでも余は守る。国よりも、花を優先する」
静華の間に緊張が張り詰める中、時間がゆっくりと流れ、息を呑む瞬間が重なっていく。
花は心の奥で、決意を固める。
朱皇の隣で、自分も戦う――たとえ言葉に出せなくても、心の中で誓った。
蒼璃は再び微笑む。
「なるほど……それも一つの覚悟か」
その微笑の裏には計算も、思惑もある。
しかし今は、朱皇と花の間に生まれた絆を前に、慎重に距離を取るしかない。
静華の間の緊迫は、そのまま夜明け前の静けさのように、
全員の胸に重く、しかし清冽な空気として残った。
花の手が朱皇の剣先ではなく、そっとその背に触れる。
彼の存在の重み、強さ、そして優しさを、肌で感じる。
その瞬間、花は知った。
自分の運命は、彼の存在と共にある――と。
蒼璃の刃が、一瞬の隙を突いた。
朱皇は互角に戦っていた。
刀の軌道も、力の入れ具合も、呼吸も、互いに完全に読み合っていた。
だが、その一瞬――花と朱皇の目が一瞬だけ交わり、花が小さく息をのむ隙に、蒼璃の刀が朱皇の腹を貫く。
痛みは瞬間的だ。朱皇の体が揺れ、呼吸がわずかに詰まる。
その目は、なにかを守ろうとする意思に満ちていた。
花は悲鳴にも似た小さな声を上げ、律と露が駆け寄る。
「陛下!!」
「朱皇さま……!」
しかし朱皇は二人を制し、片手で花を守るように体を少し傾ける。
蒼璃は一歩引き、冷静な視線を朱皇に向ける。
「……なるほど。これほどまでに覚悟していたか」
その言葉には驚きと尊敬が混じり、計算だけでは測れない感情の響きがあった。
朱皇は苦しげに息を吐く。
だが、倒れず、膝をわずかに曲げて踏みとどまる。
「余は……負けぬ」
その声は弱く聞こえるが、揺らぎはない。
花に向けた視線は、変わらず優しく、揺らがない信頼を映している。
花の心臓は、胸を締め付けられるように打った。
朱皇の背中に触れ、震える手で支えようとする。
「陛下……!」
その声は、怒りとも悲しみともつかない強さを帯びている。
律が朱皇の前に立ち、蒼璃に向かって剣を構える。
「退け!帝を傷つけることなど許さん!」
蒼璃は冷静に律を見つめ、ただ微かに笑みを浮かべる。
「ふむ……忠義は尊い。しかし、兄上の覚悟を試すだけだ」
露も花の手を握りしめ、背後から支える。
花は目を閉じ、深く息を吸った。
恐怖や絶望ではなく、朱皇の揺るがぬ意志に、心の奥底から勇気が湧いてくる。
朱皇は片手で腹を押さえつつ、再び蒼璃に剣を向ける。
動きは鈍ったように見えるが、視線も意思も完全に鋭く保たれている。
「余を……侮るな」
蒼璃はわずかに眉を寄せ、慎重な距離を取る。
互角に戦っていた者同士の差は、この一瞬で明確になった。
だが朱皇は、倒れぬ。たとえ一瞬でも、心で花を、国を守ることを優先しているのだ。
花は泣きそうな顔で、しかしその背中に触れ、心の中で誓う。
(朱皇のそばで、私も戦う。どんな困難でも、負けないで――)
静華の間に張り詰めた緊張は、戦闘の一瞬の破裂でさらに重く、
同時に、朱皇の揺るがぬ意思と花の覚悟によって、不思議な安定感を生む。
蒼璃は次の動きを探しながら、僅かに息を整える。
しかし朱皇の瞳には、確実に勝機が映っている。
互いの間で、次の瞬間、運命の歯車が大きく動く予感が漂う。
花は握りしめた手を、朱皇の背に押し付ける。
体の震えは止まらない。だが、その手に込められた意志は、戦場の渦の中で一つの光のように輝く。
蒼璃はわずかに眉を寄せた。
その眼差しには驚きはあるものの、嘲りや侮りはない。
「なるほど、兄上はやはり、己の限界を超えて守ろうとしているか」
その声には尊敬が混じる。
冷たく計算高い者の口から、こうした感情が滲むことは珍しい。
朱皇は片手で腹を押さえながら、ゆっくりと剣を構え直す。
動きは確かにわずかに鈍ったが、視線の鋭さは衰えていない。
その瞳には、花を守るという揺るがぬ意志と、帝としての責任が同時に宿っていた。
「蒼璃……このままでは、花も国も守れぬ。だが、余は負けぬ」
その言葉は低く、しかし力強く響く。
言葉以上に、朱皇の姿勢、体の構え、眼差しがすべてを物語っていた。
花は震える手を、朱皇の背中にそっと押し当てる。
その手の感触から、彼の強さと意志が伝わる。
(陛下……絶対に負けないで……!)
胸の奥で、花はそう心に誓う。
律は剣を構えたまま、蒼璃の動きを警戒する。
「帝を傷つけることは許さない!」
その声には、忠誠心だけではなく、花を守る覚悟も滲む。
蒼璃は一歩下がり、冷静に間合いを取りながら、朱皇と律を交互に観察する。
「なるほど……兄上の強さは計算を超えている。だが、次の一手で決まるだろう」
その次の瞬間、朱皇は微かに体を捻り、蒼璃の刀を避けると同時に距離を詰める。
花は息を呑む。
目の前の光景は、戦いというより、意思と意志のぶつかり合いのように感じられた。
露が花の肩に手を置き、しっかりと支える。
花はその手に力を込め、恐怖を抑えながら視線を朱皇に戻す。
「陛下……」
その小さな声は、祈りのようでもあり、励ましのようでもあった。
朱皇は刀を握り直し、体の痛みを一切表に出さず、蒼璃を睨む。
「余を甘く見るな」
その声には冷たさも威圧もなく、ただ揺るがぬ決意だけが込められていた。
蒼璃はしばし沈黙する。
そして微かに頷くように笑みを浮かべる。
「ふむ……兄上らしい。己を制し、花を守るその覚悟、よく見せてもらった」
その瞬間、空気はさらに張り詰めた。
静華の間全体が、互いの意思の強さを映す鏡のように感じられる。
花は朱皇の背に触れたまま、深く息を吸う。
恐怖や混乱はまだある。
だが、その上に希望と信頼が勝り、胸の奥に力が生まれる。
蒼璃は一歩下がり、間合いを保つ。
彼の表情から、次の動きへの緊張と計算が読み取れる。
朱皇は痛みに耐えつつも、決して目を逸らさず、花と国を守る意思を示す。
律と露はその間に入り、花を守る盾となる。
空間には、刀と刀のぶつかり合いの音だけではなく、花の胸に、静かな覚悟が生まれた。
(私も……陛下と共に、この瞬間を生き抜く……!)
朱皇が腹を貫かれた瞬間から、すべての空気が変わった。
戦いの形は変わらない。
だが、意思と覚悟の強さで、周囲すべてが緊張と静寂の中に包まれている。
花は深く息を吸い、朱皇の背に寄り添いながら、これから起こる運命の波を感じ取る。
静華の間は、張り詰めた空気に支配されていた。
朱皇は腹を貫かれたものの、膝をつくことなく立ち続けている。
体のわずかな揺れさえ、彼の決意の強さを際立たせるだけだった。
花は手を震わせ、律と露に支えられながらも朱皇を見つめる。
「陛下……どうか無事で……」
その声は、恐怖を押し殺すように震え、しかし深く祈りのような強さを帯びていた。
蒼璃は冷静に距離を取り、剣を下ろすことはないが、その表情には迷いが見えた。
「……兄上、貴様の覚悟は、やはり只者ではないな」
静かに吐き出されたその言葉には、対立する者としての敬意が混じっていた。
朱皇は痛みに耐えながらも、一歩前に出る。
その視線は蒼璃ではなく、花へ向けられている。
「花……余の隣で、ずっと咲いてくれ」
花の胸が熱くなる。
涙が自然と頬を伝う。
膝の震えを必死に抑えながら、花は小さく頷く。
「はい……陛下……」
その瞬間、律と露も安堵の息を漏らす。
緊張はまだ完全には解けていない。
だが、朱皇の存在が、花の心に確かな安心と光をもたらしたのだ。
蒼璃は一歩下がり、刀を静かに下ろす。
彼の眼差しには、もはや攻撃の意志はなく、計算と覚悟だけが残っている。
「……兄上、今度は貴様の勝ちだ。だが、この先も気を抜くな」
朱皇は一度大きく息を吐き、腹を押さえる手を離す。
動きは鈍いが、戦意は衰えない。
そして花の方を向く。
花は朱皇の手を取り、そっと握る。
「陛下……怖かった……でも、無事でよかった……」
朱皇はその手を軽く握り返し、柔らかな微笑みを浮かべる。
「余も、花が無事でよかった……余のそばで、ずっと咲いていてくれ」
花は目を潤ませながら頷き、肩を朱皇に預ける。
律と露も二人を見守りながら、静かに安堵した息を漏らす。
蒼璃は遠くから二人のやり取りを見つめ、短く息をつく。
その表情には複雑な感情が入り混じる。
尊敬、悔しさ、そして兄弟としての深い絆――。
戦いが終わったわけではないが、今はただ、朱皇と花の瞬間に敬意を示すしかなかった。
花は朱皇の胸に顔を押し当て、涙をこぼす。
「陛下……ずっと、私を守ってくれるのね……」
その言葉に朱皇は軽く微笑む。
「余が選んだのは、いつも花だ。灰より出でたとしても、余はお前を選ぶ」
花の胸に、深く暖かい感情が広がる。
恐怖や不安ではなく、確かな信頼と愛情。
長く閉ざされていた心の扉が、今、朱皇の存在によってゆっくりと開かれていくのを感じた。
律と露も小さく微笑む。
戦いは終わった。だが、二人の間には新しい絆と、これから続く未来への確信が生まれていた。
夜明けの光が、静華の間の窓から差し込む。
暗闇の中にあった緊張と恐怖が、徐々に和らいでいく。
朱皇と花は、互いに手を取り合い、立ち上がる。
その姿は、これからの困難を共に乗り越える覚悟を象徴していた。
静かに、未来への一歩が踏み出された。



