夜明け前の後宮は、まだ深い青に沈み、どこか静かで、どこか息を潜めるようにざわついていた。
殿の崩落を知らせる鐘が鳴り響いたのはほんの数刻前のこと。
だというのに、すでに后妃たちの間では噂が飛び交い、御渡りで向かう道すがら、花はその視線のすべてを浴びていた。
「……わたしのせいで、また……」
花の胸が締め付けられる。
蒼蓮を救えたわけでも、傷つけずに止められたわけでもない。
殿は焼け、巫女候補たちは怯え、後宮全体が動揺している。
朱皇はそんな不安を察したように、花の肩へ静かに手を添えた。
「花。お前を責める者などいない」
「……でも」
「いいから前を見ろ。今日のお前は、逃げることも隠れることも許さない」
花は顔を上げる。
視界の先。
御前の間へと続く長い回廊の向こうには、薄明りに照らされた朱の扉があった。
その扉の奥では、今回の事件を審議する御前会議が開かれようとしている。
帝自らが裁くのではなく、后妃・公家・軍の長・巫司、四方の代表が揃う重会議。
この国の中枢を動かす者たちが、一堂に会する。
普通の娘なら震え上がる場所だ。
まして、花は後宮に紛れ込んだ身分偽装の少女。
それは、まだ表に出していない事実。
だが、一度でも言葉を誤れば、全てが露見する。
「わたし、朱皇様の隣にいて……いいのでしょうか……?」
「当たり前だ」
朱皇は迷いなく言う。
「お前がいなければ、あの炎を収められなかった。今日、お前がここへ来る理由は十分すぎるほどある」
花は小さく息を吐く。
朱皇の言葉はいつも、恐れを吹き飛ばしてしまう。
だが、それと同時に胸を刺す不安もあった。
蒼蓮は生きている。
黒炎は消えたものの、彼女が何を知り、何をしようとしていたのかはまだ分からない。
そして紫苑。
花の母が残した封印の真実。
巫としての血。
浄炎の力の意味。
すべてが霧の奥で蠢いている。
そんな中、花と朱皇は御前の間へと足を踏み入れた。
そこには、冷たい視線と張り詰めた空気が待っていた。
宰相が扇を閉じ、朱皇に深く頭を下げる。
「陛下。夜明け前にも関わらず、御出座の儀、恐れ入ります。今回の事件の核心⋯⋯ご説明を願います」
朱皇は花を傍らに立たせた。
その瞬間、会議の場に小さなざわめきが走る。
ある公家がひそひそと囁く。
「……またあの娘か……」
「蒼蓮殿以外の者と共に……?」
「いや、陛下があれほどの庇護を見せるなど……」
視線の鋭さに、花は思わず息を呑んだ。
朱皇は一歩前に出る。
「まず、蒼蓮の暴走について説明する。あの黒炎は禁術・喰火の式によるものだ。蒼蓮は後宮の呪庫に残されていた禁書に独断で触れ、そこに記された術を己の命と引き換えにして発動させた」
御前の間がざわつく。
朱皇は続けた。
「理由は……帝位を守るためだと本人の口から聞いた」
巫司が眉をひそめる。
「守る……?あの暴走が、結果的に後宮を焼きかけたというのに……」
朱皇の声は静かだった。
「蒼蓮は、帝位が巫の血に蝕まれることを恐れていた」
その瞬間、ざわめきが一層強くなる。
花の指先が震える。
朱皇はすぐに花の手を取った。
「蒼蓮はこの娘の炎が帝を滅ぼすと信じていたらしい。だが、俺はその炎に触れ⋯⋯
何も起きなかった」
場が揺れた。
多くの視線が花へ向けられる。
好奇、恐れ、警戒、疑念。
全てが混じった目だった。
巫司の長が口を開く。
「では、その娘の力は……巫の力そのもの、という認識でよろしいか?」
朱皇は頷く。
「そうだ」
その瞬間、何人かの公家が顔を強張らせた。
「巫の血……この后宮に……?」
「では、この娘は本来……」
「いや、しかしその存在は……」
花の胸がドクンと跳ねる。
紫苑の声が聞こえた気がした。
花。
いつか必ず、この炎に怯える者が現れる。
けれど、決して自分を疑ってはだめよ。
お前の炎は、人を照らすための炎だから。
花は小さく息を整え、顔を上げる。
「わたしの炎は……誰も滅ぼしません。朱皇様を、傷つけることもありません。この炎は……わたしが守りたい人を守るためにあると……信じています」
御前の間が静まり返った。
その中で、ただ一人、巫司長だけが目を細めた。
まるで何か知っているかのように。
やがて朱皇が振り返り、会議の者たちへ告げる。
「今日ここに集まったのは、蒼蓮の処遇を決めるためだけではない。後宮を覆う闇の根がどこにあるのか。それを暴くためだ」
ある老臣が息を呑む。
「陛下……まさか、黒炎の背後に何者かいると?」
朱皇の目が鋭く光った。
「蒼蓮が禁書に辿り着いたのは偶然ではない。彼女を利用した者がいる。この国の巫の血を巡る罪を、長年隠してきた者が」
花の背筋が凍った。
朱皇は、あの夜、蒼蓮の黒炎の奥で見た影を忘れていないのだ。
あれは、蒼蓮の意思ではない。
呪いを撫で、炎を煽り、彼女を狂わせる何かが確かにいた。
その影を、朱皇ははっきりと認識していた。
「そしてその闇は後宮のどこかに潜んでいる」
花の心臓が、まるで殴られたように跳ねる。
誰かが、後宮でずっと見ている。
花を。
朱皇を。
巫の血を。
蒼蓮はただ、操られたにすぎない。
本当の敵は、まだ姿を現していない。
朱皇が言う。
「本日より、後宮全殿の封鎖と、全員の再調査を命じる。花は俺の保護下に置く。異論がある者は前へ出ろ」
空気が凍りついた。
誰も動かない。
誰も逆らえない。
花は自分の胸に手を当てる。
その鼓動は、恐怖だけでなく、決意の音にもなっていた。
そして、会議が解散されようとしたその時。
巫司長が花を呼び止めた。
「……花殿。一つ、よろしいか」
朱皇がわずかに警戒を強める。
巫司長は深く、重く、花を見つめた。
「その炎。紫苑⋯⋯お前の母が持っていた炎と同じか?」
花の呼吸が止まった。
朱皇が思わず花の肩へ手を置く。
巫司長は続ける。
「紫苑は最後にこう言った。炎が娘に受け継がれたら、必ず伝えてくれ。その炎は、帝国の罪を暴くための炎だと」
花の視界が揺れた。
母は。
紫苑は。
死ぬ間際まで何かを隠していた。
巫司長の言葉は続く。
「花。お前は知らぬだろうが、紫苑は……帝位の血と深く繋がっていた女だ」
朱皇の目が見開かれる。
花は心臓を掴まれたように息を失った。
「……どういう……意味ですか……?」
巫司長は静かに答えた。
「紫苑は、ただの巫ではない。彼女は帝の血を守るために産まれた守炎の巫だ」
朱皇の手が震えた。
花の胸に、雷が落ちたような衝撃が走る。
守炎の巫。
帝の血を守る巫。
では自分の炎は。
自分の出生は。
自分の運命は。
どこに繋がるのか。
そして巫司長の最後の言葉が、幕を切り裂くように放たれた。
「花。お前は帝と同じ皇統の炎を宿している」
朱皇の目が花へ向けられた。
花は震えていた。
朱皇もまた、同じように震えていた。
黒炎の夜よりも深い真実が、ついに光の中へ姿を現したのだ。
花が目を覚ましたのは、深夜に近い刻だった。
部屋の灯は落ち、紙障子越しの月光だけが薄く床を照らしている。
胸の奥で脈が荒く波立ち、夢と現の境がはっきりしない。
数息を置いてようやく意識が冴えたとき、花は自分が布団の上で身体を横たえていることに気づいた。
誰が運んだのか。どうやってここに戻ったのか。記憶は途切れたままだ。
喉がひどく乾いていた。起き上がろうとした瞬間、障子の向こうからかすかな衣擦れがした。
花は反射的に身を固くした。
「起きていたのか」
低く押し殺した声。だが聞き間違えるはずもない。
朱皇だ。
花は慌てて身を起こし、膝を折って座り直した。
「陛下……なぜ、このような時刻に……」
障子が静かに開き、月光の中へ朱皇の姿が現れた。
闇に浮かぶその輪郭は、どこか普段よりも鋭い。
帝というより、獣が獲物を見据える時のような、張りつめた緊張が纏わりついている。
「お前が倒れたと聞いて、医士を呼んだ。命に別状はないと言われたが……」
朱皇は室内へ入り、花の正面に膝をついた。
「花。私に隠していることがあるな」
その声音は穏やかなのに、逃げ場を与えぬ重さがあった。
花の胸がひりついた。
「……いいえ、なにも」
嘘をつく声が震えている。朱皇はそれに気づかぬはずもない。
「倒れるほどに心を蝕む何かを抱えている。それをないと言い張るのは、私を信用していない証ではないのか」
「違います……私は……っ」
言い返そうとしたが、胸の奥に絡みついた言葉がどうしても喉を越えない。
朱皇は花の手を取った。冷えていた指先が、帝の体温に触れてじん、と痛いほど熱を帯びる。
「花。私はお前に嘘をついてほしくない」
花は顔を伏せ、小さく息を震わせた。
「……私が、陛下にふさわしくないからです」
朱皇の指がわずかに動いた。
「ふさわしいかどうかなど、誰が決める?」
「世間です。後宮です。貴族たちです。……本来、后選びの場に立つ資格さえ、私は持っていませんでした。あの日、私は――」
言いかけて、花は慌てて口をつぐんだ。
この先を告げたら終わる。
偽物と知れれば、処罰も、追放も免れない。
――そして、朱皇が危険にさらされる。
沈黙の中、朱皇がゆっくりと花の顎に指をかけ、顔を上げさせた。
月光が朱皇の瞳を照らし、その奥に揺れるものを花は見た。
「花。私は、お前の口から出た言葉よりも、沈黙の方がよほど恐ろしい」
「……」
「どれほど重い秘密でも、私は受け止める。お前が苦しむよりは、何倍もましだ」
その言葉が胸に刺さり、花は視界を滲ませた。
だが言えない。
言えば、すべてが崩れる。
「陛下……私は、まだ……言えません」
絞り出すように告げると、朱皇は一瞬まぶたを伏せ、深く息をついた。
「わかった。無理に聞き出すつもりはない」
その返答は意外なほど静かで、責める色はどこにもなかった。
けれど、静けさの奥に潜む決意が肌を刺す。
「だが――花。お前を守るためなら、私はどんな秘密でも暴く」
花は思わず息を呑んだ。
朱皇は続ける。
「後宮内で動く影がいる。お前の居所や動きを探る者、医局に嘘の報告をさせようとした者……どれも不自然だ。誰かがお前を狙っている」
「……!」
胸が締め付けられた。
やはり、動き出している。
花の正体を掴もうとする手が。
朱皇は花の両肩にそっと手を置いた。
「花。お前が恐れていることは、私の知らぬところでお前を傷つけようとしている者がいる、という事実か」
「違い……いえ……ちがわなくも、ない……」
歯を噛み、必死に言葉を整えようとしたが、胸の奥がつまってうまく言えない。
朱皇は花の頭に手を置き、やわらかく撫でた。
「怖いなら、尚更そばにいろ。離すつもりはない」
花の肩が震えた。
「陛下……」
「花」
呼ぶ声は柔らかいのに、命令のように逆らえない重さがある。
「私の側に立て。……それが、お前の安全に繋がる」
花は胸の奥に渦巻く恐れを押し込みながら、かすかに頷いた。
すると朱皇はそっと花を抱き寄せた。
いつもは冷静で、他者に触れようとさえしない帝が、迷いなく腕に力を込めてくる。
花はその胸に支えられるように、静かに目を閉じた。
そのとき。
「……失礼いたします」
襖の向こうから控えめな女官の声が響いた。
だがその声音には、かすかな緊張が混じっている。
朱皇が腕をほどき、表情を引き締めた。
「何だ」
「今しがた、北苑の倉にて……不審火が発見されました。火はすでに消されましたが……保管されていた書翰や記録が、一部焼失しており……」
花の胸がざわりと揺れた。
朱皇は鋭く訊いた。
「焼けたのはどの記録だ」
「……帝室の血統に関わる古文書が含まれていた、とのことです」
花は冷たい衝撃に心臓を掴まれたように息を呑んだ。
帝室の血統。朱皇の血筋。
そして、自分の出生に関わる封じられた秘密も、そこに繋がっている。
朱皇はゆっくりと立ち上がった。
その横顔は、怒りでも動揺でもなく、深い底なしの静寂に沈んでいる。
「花。今夜はここにいろ。誰も入れるな」
花はただ頷くしかなかった。
朱皇はゆっくりと襖に向かい、ひとつ足を踏み出した。
だが出ていく直前、ふいに振り返った。
その目は、花だけを射抜く。
「花。何があろうと――私は必ず、お前を真実の場所まで連れてゆく」
花は胸が苦しくなるほど強く、唇を噛んだ。
「……はい」
朱皇が去ったあと、室内に残る温もりが胸を締めつける。
自分が抱える秘密。
燃やされた帝室の記録。
暗躍する影。
朱皇の決意。
すべてが糸で結ばれ、いま静かに、だが確実に動き出している。
花は布団の上で拳を握った。
逃げてはいけない。
怯えているだけでは、誰も守れない。
胸の奥で、何かがそっと目を覚ました。
花はしばらく、朱皇が去った襖を見つめていた。
月光は静かで、風の音すら聞こえない。
なのに胸の奥では、何かが激しく蠢いて止まらない。
燃やされた帝室の記録。
それを望む者の存在。
自分の正体と、朱皇の血筋に絡む闇。
まるで、目に見えない網がゆっくりと自分の足元に絡みつくようだった。
花は深く息を吐き、布団から立ち上がった。
身体はまだ重い。倒れた影響が残っているのだろう。
だが、じっとしてはいられなかった。
どうして失われたのか。
誰が燃やしたのか。
もし、自分に関わる記録が含まれていたなら……。
胸が痛むほどに脈打つ。
そのとき――。
「……花さま」
部屋の隅から、囁きのような声がした。
花は驚いて振り返った。
薄闇の中から姿を見せたのは、幼い女官・露だった。
いつもは明るく花の世話をしてくれる少女だが、今は怯えに似た緊張をまとっている。
「露……どうしたの?」
「お声をかけるべきか迷いましたが……伝えなければと思い、ここに……」
露は周囲を見回し、花に近づくと小声で続けた。
「――花さまのお名前を、後宮の一部の者が探っております」
花の表情が強ばる。
「……探っている?」
露はこくりと頷き、さらに声を潜めた。
「花さまが倒れられたあの夜、医局へ花さまは貧族の出だと証言しろと迫った者がいたそうです。医局の医士が拒んだところ……何かを握られているようで、怯えながら黙りました」
花は息を呑んだ。
「どうして貧族だと……」
「たぶん、花さまの身の周りを混乱させ、陛下が疑念を抱くよう仕向けているのだと思います。花さまを、后にしたくないのでしょう」
胸の奥が熱くなる。
怒りとも悲しみともつかぬ感情が、音もなく押し寄せた。
「露……詳しく話して」
「はい……。実は――」
露の声が震えていた。
「倉が燃えた時、記録だけでなく、花さまのお名前に似た誰かの出生譚が収められた巻物も……燃えたようなのです」
花は足元が揺れるような感覚に襲われた。
出生譚。
まさか。
「誰のものか、露はわかりません。ただ、火の出る前に、誰かが倉に入るのを見た者がいると噂が……」
「誰……?」
露は唇を噛んだ。
「姿は見えなかったそうですが……雅香妃の側仕えの影があったと」
雅香妃――。
帝に長く仕え、後宮でも権勢を誇る妃。
花をことあるごとに牽制してきた人物。
花は拳を強く握った。
――本気で自分を消しに来ている。
その瞬間、襖が静かに叩かれた。
露は怯えて身を縮める。
花は深呼吸し、静かに声をかけた。
「どうぞ」
襖が開き、律が姿を見せた。
朱皇の側近にして、鋭い目をした青年。
だが今はどこか焦りを隠している。
「花殿。お怪我はありませんか」
「律さま……」
露は律を見ると、安堵の息を漏らした。
律は花のそばに歩み寄り、声を潜めた。
「陛下より、花殿を厳重に守れとのご命令です。今宵はこの部屋の前に私が控えます」
「律さま……倉の火事の件で、なにか……?」
律はわずかに眉を寄せた。
「……花殿。知らぬ方が安全なこともございます」
「でも、聞かなければならないこともあります」
目を逸らさずに告げると、律はしばし沈黙し、やがて深く頭を垂れた。
「倉の記録の中に……封じられた系譜がございました。帝室に連なるはずのない者の名が記されていたと」
花の鼓動が止まりそうになった。
「その名とは……」
「焼け落ち、読めなくなりました。だが――」
律の目が、まっすぐ花を射抜いた。
「花という字が一部に残っていたという話がございます」
室内の空気が凍りついた。
露は手で口を押さえ、震えている。
花の喉が、乾いた音を立てた。
「……それは、偶然でしょう」
「偶然か否かを確かめようとした者がいる。その者は記録の在り処を探り、真っ先に倉へ向かった。火の手が上がったのは、その直後です」
律の声は低く、確信を帯びていた。
「誰かが真実を消そうとした。そして――」
律は花のすぐそばに膝をつき、静かだが鋭い声で続けた。
「花殿。あなたの出生は、おそらく帝室に連なる何かを持っています」
胸の奥が強く痛んだ。
認めてしまえば、すべてが動く。
否定しても、火はもう燃えた。隠せるものは減り続けている。
「律さま……陛下は……?」
「陛下はすべてを疑っております。己の周囲も、朝廷も、後宮も。だが――花殿だけは、最初から疑っていません」
花の視界が揺れた。
朱皇が。
自分だけを、疑わなかった。
ならば。
逃げてばかりでは、彼を裏切ることになる。
露が不安げに袖を握る。
「花さま……どうされますか……?」
花はゆっくりと息を吸い込んだ。
震える心を押し込み、静かに立ち上がる。
「露、律さま。……私、知りたい。自分が何者なのか」
「花殿……!」
「陛下も、後宮も、誰かの思惑に飲まれて動かされている気がする。だったら、私自身が真実に向かわないと」
花は拳を握りしめた。
「でないと……陛下を守れない」
律の目がわずかに見開かれ、やがて深く頷いた。
「……その覚悟、確かに承りました。では――真実に近づく手がかりをお教えします」
律の声は低く、緊張に満ちていた。
「倉で焼け落ちた系譜の写しが、もう一つ存在します。誰もが忘れていたはずのそれが、宮中のどこかに残されている。だが、触れようとした者は、皆、理由もなく遠ざけられました」
「どうして……?」
「呪いと呼ばれているからです」
花は息をのむ。
律は続けた。
「封じられたその写しは帝が触れてはならぬ血”の記録だと言われている」
露が青ざめ、花の手を握りしめた。
花の胸の奥に、ひどく嫌な予感が静かに沈んでいく。
「花さま……それってまさか……」
「花殿の出生が、帝室にとって“知られてはならぬもの”だった可能性があります」
律はそう告げると、花に深く頭を垂れた。
「花殿。あなたが真実へ踏み出すなら……命を懸ける覚悟をお持ちください」
花はゆっくりと目を閉じた。
灰にまみれ、蔑まれ、生きてきた。
だが、逃げるために生きてきたわけではない。
胸の奥に、小さく、しかし確かな光が宿った。
「……覚悟なら、とっくにできています」
花がそう告げた瞬間――
襖が激しく叩かれた。
「失礼します! 大変です、花殿!!」
聞き慣れぬ声。
露も律も身構える。
襖が開き、息を切らした侍従が駆け込んできた。
「陛下が……っ、北苑で刺客に狙われました!!」
花の心臓が止まった。
朱皇が――刺客に。
侍従は続ける。
「陛下はご無事ですが……倒した刺客の懐から、“花殿の名が記された紙片”が見つかりました……!」
室内の空気が凍りつき、露が短く悲鳴を上げる。
律の目が鋭く光った。
「――花殿。真実は、もうあなたを避けて通らぬ」
花は震える唇を噛み、立ち上がった。
「陛下のもとへ向かいます」
誰に止められようとも、もう足を止めるつもりはない。
花は襖へと歩き出した。
「待ってください、花さま!」
露が追いすがる。
律もすぐさま後に続いた。
夜の宮は静寂に満ちているのに、足音ばかりがやけに大きく響く。
胸の鼓動は乱れ、息は痛むほど荒い。
だが花は走り続ける。
刺客が持っていた、自分の名。
狙われた朱皇。
燃やされた帝室の記録。
自分の出生の闇。
すべてが一本の線で結ばれ、いま刃となって朱皇を襲った。
「陛下……!」
花は夜の闇へ走りながら、心の底から強く願った。
どうか無事でいて――。
花は北苑へ向かって必死に走った。
夜は深く、風は冷たく、宮の回廊はまるで闇に沈んだ迷宮のようだった。
足音が自分のものとは思えないほど大きく響き、鼓動は胸の奥で暴れるように波打っている。
――朱皇が、刺客に襲われた。
その事実が喉の奥で重く固まり、呼吸を奪っていく。
露の不安げな声も、律の鋭い警戒の気配も、すべてが遠く感じられた。
ただ、朱皇の名を心の底で叫び続けながら走った。
曲がり角を過ぎ、石畳の冷たさが足裏にじんじんと伝わる。
ほぼ駆け抜けるように北苑へ至ると、灯りが異常に多く、兵たちが厳しい表情であたりを固めていた。
その中心で――朱皇が立っていた。
花は息を呑み、足が止まった。
朱皇は怪我こそないものの、衣の袖が裂け、血が一筋だけ流れている。
その姿はいつも以上に冷えた輝きを帯び、周囲の兵や官人たちすら近づくことをためらうほどの威圧感を放っていた。
花は震えを抑え、ゆっくりと朱皇へ歩き出した。
朱皇が少しだけ振り返り、花を見る。
その瞳の奥には、怒りとも焦りともつかぬ深い影が宿っていた。
「……来るなと命じたはずだ」
花は胸に手を当て、呼吸を整えようとしたが、震えは止まらない。
「陛下が……刺客に……と聞いて……」
声は掠れていた。
朱皇は花の様子を一瞥し、その瞳に短く痛みの色を浮かべた。
「かすり傷だ。心配する必要はない」
「それでも……私は……来ずには……」
朱皇の視線が花の震える肩をとらえた。
そのまま歩み寄り、花の手をそっと掴む。
「震えている」
「陛下が……危なかったと聞けば……震えずには……」
そこまで言うと、花の声は細く途切れた。
朱皇はその手を胸元へ引き寄せた。
自分の心音を聞かせるように。
「……花。私は簡単には死なぬ。お前を残すつもりもない」
その言葉に花は目を伏せ、こみ上げる涙を必死にこらえた。
しかし、二人の間に一瞬だけ訪れた静寂を、律の声が断ち切る。
「陛下。倒した刺客から、まだお伝えしていないものが」
朱皇は花の手を離さず、律へ視線を向けた。
「見せよ」
律は懐から小さな紙片を取り出した。
焦げ跡があるが、文字は辛うじて読めた。
花の胸が冷たくなる。
『花』
自分の名が、はっきりと記されていた。
「花殿を探れ、とだけ書かれております。背後に誰がいるかは不明」
律の声は静かだったが、その奥に怒りを潜めていた。
朱皇は紙片をつまみ、指先で強く押しつぶす。
「花を狙う者が、ついに私を殺そうとしたか」
その声音には、鋼のような冷たさと、爆ぜそうなほどの怒気が混ざっていた。
花は震える声で言った。
「陛下が巻き込まれてしまう……私がここにいるから……」
朱皇は花へ向き直ると、その言葉を遮るように手を伸ばした。
花の頬に触れ、強く、しかし優しく言った。
「勘違いするな」
花は息を呑む。
「お前のせいではない。お前を狙う者は、いずれ私も狙う。それは正体を知られたくないからだ」
「正体……?」
朱皇は花の髪を一筋掬い、静かに続けた。
「花。お前の出生には、帝室に絡む何かがある。私をも揺るがすほどの」
花の喉が詰まり、返す言葉が見つからなかった。
露は青ざめ、律は片手を強く握りしめている。
「陛下……」
朱皇は花から目を逸らさず、静かに告げた。
「今日、倉で焼けた文書。あれは古い系譜――帝室に連なる血を記す巻物だった」
花の鼓動が痛むほど速くなる。
「そして、そこには――」
朱皇は少しだけ言葉を溜め、深く息を吸った。
「帝室の外に流された子についての記述があったと聞いた」
花の視界が揺れた。
帝室の外に、流された子――。
朱皇の声はさらに低く、鋭くなる。
「花。お前の母は……亡くなる前に、何か言い残さなかったか?」
花の胸が締めつけられた。
母の最期の記憶が、脳裏に浮かぶ。
『花……生まれてきてくれて……ありがとう……』
あの時、母は何か言いかけていた。
だが、苦しげに咳き込み、その言葉の続きを聞くことはできなかった。
花は小さく首を振った。
「……いいえ。でも、母は……なにか隠していた気がします」
朱皇は頷き、その手を花の肩へ添えた。
「お前の出生を知った者が、真実を封じるために動いている。そしてお前を消そうとしている」
花は唇を噛む。
朱皇は続けた。
「花よ。何があろうと――私はお前を手放さぬ」
その強い声に花の胸が熱くなった。
だが、次に響いた声は――全員の心臓を凍らせた。
「手放さねばならぬ時が来るかもしれませんよ、陛下」
鋭い、刺すような声。
三人が振り向くと、灯火の向こうからゆっくり姿を現したのは――。
雅香妃だった。
衣装は深緋。
長い黒髪を艶やかにまとめ、冷たい微笑を浮かべている。
朱皇の目に怒りの色が宿った。
「雅香妃。どうしてここに」
「陛下が刺客に襲われたと聞き、心配で駆けつけましたの。……まあ、どうやら無事のようで何よりです」
雅香妃は扇を口元に当て、花へ視線を流した。
「それにしても……花殿。その身に何を隠しておいでですの?」
花の胸がかすかに震えた。
雅香妃は一歩、また一歩と近づく。
その足取りは滑らかで、まるで獲物へ歩み寄る蛇のようだった。
「帝室の記録が燃え、刺客が動き、陛下までもが危険に晒される。すべては……あなたが現れてからですわ」
露が花をかばうように前に出た。
「雅香妃さま!花さまがそんな――!」
「黙りなさい、子ども」
雅香妃の一言で、露は怯えて口を閉じた。
朱皇は一歩前に出て雅香妃の進路を遮る。
「雅香妃。花への侮辱は許さぬ」
雅香妃は冷たく微笑んだ。
「侮辱? 真実を問うだけですわ。花殿。あなたは、誰ですの?」
花の手が震えた。
朱皇はすぐに花の肩に腕を回し、守るように引き寄せた。
「雅香妃。花に触れようとするな」
雅香妃はため息をつき、視線を細める。
「陛下がお慕いになるのは構いません。ですが――陛下へ牙を向く血筋が、后のそばに立つなど……あり得ないでしょう?」
花の胸が締め付けられる。
牙を向く血筋。
雅香妃は続けた。
「倉に残っていた文字を、わたくしも拝見いたしましたわ。……『花』の字でしたね」
花の呼吸が止まる。
雅香妃は扇を閉じ、朱皇をじっと見つめた。
「陛下。その娘は――帝室を揺るがす火種です」
朱皇の瞳に宿る怒りが、ついに爆ぜる寸前まで膨れ上がった。
「雅香妃。二度と花を害する言葉を口にするな。次は……私とて容赦はしない」
雅香妃は少しだけ目を細め、口元を歪ませた。
「……陛下。お気をつけあそばせ。その娘は、あなたの過去をひっくり返す存在。
帝にあるまじき禁じられた血に関わる、忌み名なのですから」
その言葉は、夜風よりも冷たく、刃よりも鋭い。
花はその場に立ち尽くし、朱皇は横で怒りに震え、露は怯え、律は剣の柄に手をかけている。
雅香妃は踵を返し、闇に消えるように去っていった。
残された沈黙が、重くのしかかる。
花は震える声を絞り出した。
「陛下……私は……いったい……」
朱皇は花の両肩を抱き、強く抱き寄せた。
「花。雅香妃の言葉など信じるな」
「でも……!」
「私はお前を選ぶ。出生がどうであろうと、呪われていようと、忌まれていようと関係ない。お前は、花だ。私が選んだ、たった一人の⋯⋯花だ」
花は胸が苦しくて、言葉が出なかった。
顔を朱皇の胸に埋めると、彼の手がそっと背に触れた。
その温もりが、花の震えを少しずつ和らげていく。
だが――。
夜の奥で、誰かの影がひっそりと動いた。
花の出生を探る者。
帝室の血統を塗り替えようとする者。
反乱の火種として花を見ている者。
朱皇を揺るがすための駒と狙う者。
それらすべてが、静かに糸を引き始めていた。
そして、その糸の中心には花と、朱皇の二人が立っていた。
「陛下……怖いです……」
花の震える呟きに、朱皇は耳元で静かに答えた。
「怖がっていい。だが――逃げるな」
朱皇の手に力がこもる。
「花。真実を暴こう。お前の出生も、倉の火の犯人も、雅香妃の企みも。すべてを……この手で終わらせる」
花の脈が、強く跳ねた。
そして彼女は――。
ゆっくりと朱皇の衣を握り返した。
「……はい」
夜風が二人を包む。
まるで、これから嵐が始まると告げるように。
殿の崩落を知らせる鐘が鳴り響いたのはほんの数刻前のこと。
だというのに、すでに后妃たちの間では噂が飛び交い、御渡りで向かう道すがら、花はその視線のすべてを浴びていた。
「……わたしのせいで、また……」
花の胸が締め付けられる。
蒼蓮を救えたわけでも、傷つけずに止められたわけでもない。
殿は焼け、巫女候補たちは怯え、後宮全体が動揺している。
朱皇はそんな不安を察したように、花の肩へ静かに手を添えた。
「花。お前を責める者などいない」
「……でも」
「いいから前を見ろ。今日のお前は、逃げることも隠れることも許さない」
花は顔を上げる。
視界の先。
御前の間へと続く長い回廊の向こうには、薄明りに照らされた朱の扉があった。
その扉の奥では、今回の事件を審議する御前会議が開かれようとしている。
帝自らが裁くのではなく、后妃・公家・軍の長・巫司、四方の代表が揃う重会議。
この国の中枢を動かす者たちが、一堂に会する。
普通の娘なら震え上がる場所だ。
まして、花は後宮に紛れ込んだ身分偽装の少女。
それは、まだ表に出していない事実。
だが、一度でも言葉を誤れば、全てが露見する。
「わたし、朱皇様の隣にいて……いいのでしょうか……?」
「当たり前だ」
朱皇は迷いなく言う。
「お前がいなければ、あの炎を収められなかった。今日、お前がここへ来る理由は十分すぎるほどある」
花は小さく息を吐く。
朱皇の言葉はいつも、恐れを吹き飛ばしてしまう。
だが、それと同時に胸を刺す不安もあった。
蒼蓮は生きている。
黒炎は消えたものの、彼女が何を知り、何をしようとしていたのかはまだ分からない。
そして紫苑。
花の母が残した封印の真実。
巫としての血。
浄炎の力の意味。
すべてが霧の奥で蠢いている。
そんな中、花と朱皇は御前の間へと足を踏み入れた。
そこには、冷たい視線と張り詰めた空気が待っていた。
宰相が扇を閉じ、朱皇に深く頭を下げる。
「陛下。夜明け前にも関わらず、御出座の儀、恐れ入ります。今回の事件の核心⋯⋯ご説明を願います」
朱皇は花を傍らに立たせた。
その瞬間、会議の場に小さなざわめきが走る。
ある公家がひそひそと囁く。
「……またあの娘か……」
「蒼蓮殿以外の者と共に……?」
「いや、陛下があれほどの庇護を見せるなど……」
視線の鋭さに、花は思わず息を呑んだ。
朱皇は一歩前に出る。
「まず、蒼蓮の暴走について説明する。あの黒炎は禁術・喰火の式によるものだ。蒼蓮は後宮の呪庫に残されていた禁書に独断で触れ、そこに記された術を己の命と引き換えにして発動させた」
御前の間がざわつく。
朱皇は続けた。
「理由は……帝位を守るためだと本人の口から聞いた」
巫司が眉をひそめる。
「守る……?あの暴走が、結果的に後宮を焼きかけたというのに……」
朱皇の声は静かだった。
「蒼蓮は、帝位が巫の血に蝕まれることを恐れていた」
その瞬間、ざわめきが一層強くなる。
花の指先が震える。
朱皇はすぐに花の手を取った。
「蒼蓮はこの娘の炎が帝を滅ぼすと信じていたらしい。だが、俺はその炎に触れ⋯⋯
何も起きなかった」
場が揺れた。
多くの視線が花へ向けられる。
好奇、恐れ、警戒、疑念。
全てが混じった目だった。
巫司の長が口を開く。
「では、その娘の力は……巫の力そのもの、という認識でよろしいか?」
朱皇は頷く。
「そうだ」
その瞬間、何人かの公家が顔を強張らせた。
「巫の血……この后宮に……?」
「では、この娘は本来……」
「いや、しかしその存在は……」
花の胸がドクンと跳ねる。
紫苑の声が聞こえた気がした。
花。
いつか必ず、この炎に怯える者が現れる。
けれど、決して自分を疑ってはだめよ。
お前の炎は、人を照らすための炎だから。
花は小さく息を整え、顔を上げる。
「わたしの炎は……誰も滅ぼしません。朱皇様を、傷つけることもありません。この炎は……わたしが守りたい人を守るためにあると……信じています」
御前の間が静まり返った。
その中で、ただ一人、巫司長だけが目を細めた。
まるで何か知っているかのように。
やがて朱皇が振り返り、会議の者たちへ告げる。
「今日ここに集まったのは、蒼蓮の処遇を決めるためだけではない。後宮を覆う闇の根がどこにあるのか。それを暴くためだ」
ある老臣が息を呑む。
「陛下……まさか、黒炎の背後に何者かいると?」
朱皇の目が鋭く光った。
「蒼蓮が禁書に辿り着いたのは偶然ではない。彼女を利用した者がいる。この国の巫の血を巡る罪を、長年隠してきた者が」
花の背筋が凍った。
朱皇は、あの夜、蒼蓮の黒炎の奥で見た影を忘れていないのだ。
あれは、蒼蓮の意思ではない。
呪いを撫で、炎を煽り、彼女を狂わせる何かが確かにいた。
その影を、朱皇ははっきりと認識していた。
「そしてその闇は後宮のどこかに潜んでいる」
花の心臓が、まるで殴られたように跳ねる。
誰かが、後宮でずっと見ている。
花を。
朱皇を。
巫の血を。
蒼蓮はただ、操られたにすぎない。
本当の敵は、まだ姿を現していない。
朱皇が言う。
「本日より、後宮全殿の封鎖と、全員の再調査を命じる。花は俺の保護下に置く。異論がある者は前へ出ろ」
空気が凍りついた。
誰も動かない。
誰も逆らえない。
花は自分の胸に手を当てる。
その鼓動は、恐怖だけでなく、決意の音にもなっていた。
そして、会議が解散されようとしたその時。
巫司長が花を呼び止めた。
「……花殿。一つ、よろしいか」
朱皇がわずかに警戒を強める。
巫司長は深く、重く、花を見つめた。
「その炎。紫苑⋯⋯お前の母が持っていた炎と同じか?」
花の呼吸が止まった。
朱皇が思わず花の肩へ手を置く。
巫司長は続ける。
「紫苑は最後にこう言った。炎が娘に受け継がれたら、必ず伝えてくれ。その炎は、帝国の罪を暴くための炎だと」
花の視界が揺れた。
母は。
紫苑は。
死ぬ間際まで何かを隠していた。
巫司長の言葉は続く。
「花。お前は知らぬだろうが、紫苑は……帝位の血と深く繋がっていた女だ」
朱皇の目が見開かれる。
花は心臓を掴まれたように息を失った。
「……どういう……意味ですか……?」
巫司長は静かに答えた。
「紫苑は、ただの巫ではない。彼女は帝の血を守るために産まれた守炎の巫だ」
朱皇の手が震えた。
花の胸に、雷が落ちたような衝撃が走る。
守炎の巫。
帝の血を守る巫。
では自分の炎は。
自分の出生は。
自分の運命は。
どこに繋がるのか。
そして巫司長の最後の言葉が、幕を切り裂くように放たれた。
「花。お前は帝と同じ皇統の炎を宿している」
朱皇の目が花へ向けられた。
花は震えていた。
朱皇もまた、同じように震えていた。
黒炎の夜よりも深い真実が、ついに光の中へ姿を現したのだ。
花が目を覚ましたのは、深夜に近い刻だった。
部屋の灯は落ち、紙障子越しの月光だけが薄く床を照らしている。
胸の奥で脈が荒く波立ち、夢と現の境がはっきりしない。
数息を置いてようやく意識が冴えたとき、花は自分が布団の上で身体を横たえていることに気づいた。
誰が運んだのか。どうやってここに戻ったのか。記憶は途切れたままだ。
喉がひどく乾いていた。起き上がろうとした瞬間、障子の向こうからかすかな衣擦れがした。
花は反射的に身を固くした。
「起きていたのか」
低く押し殺した声。だが聞き間違えるはずもない。
朱皇だ。
花は慌てて身を起こし、膝を折って座り直した。
「陛下……なぜ、このような時刻に……」
障子が静かに開き、月光の中へ朱皇の姿が現れた。
闇に浮かぶその輪郭は、どこか普段よりも鋭い。
帝というより、獣が獲物を見据える時のような、張りつめた緊張が纏わりついている。
「お前が倒れたと聞いて、医士を呼んだ。命に別状はないと言われたが……」
朱皇は室内へ入り、花の正面に膝をついた。
「花。私に隠していることがあるな」
その声音は穏やかなのに、逃げ場を与えぬ重さがあった。
花の胸がひりついた。
「……いいえ、なにも」
嘘をつく声が震えている。朱皇はそれに気づかぬはずもない。
「倒れるほどに心を蝕む何かを抱えている。それをないと言い張るのは、私を信用していない証ではないのか」
「違います……私は……っ」
言い返そうとしたが、胸の奥に絡みついた言葉がどうしても喉を越えない。
朱皇は花の手を取った。冷えていた指先が、帝の体温に触れてじん、と痛いほど熱を帯びる。
「花。私はお前に嘘をついてほしくない」
花は顔を伏せ、小さく息を震わせた。
「……私が、陛下にふさわしくないからです」
朱皇の指がわずかに動いた。
「ふさわしいかどうかなど、誰が決める?」
「世間です。後宮です。貴族たちです。……本来、后選びの場に立つ資格さえ、私は持っていませんでした。あの日、私は――」
言いかけて、花は慌てて口をつぐんだ。
この先を告げたら終わる。
偽物と知れれば、処罰も、追放も免れない。
――そして、朱皇が危険にさらされる。
沈黙の中、朱皇がゆっくりと花の顎に指をかけ、顔を上げさせた。
月光が朱皇の瞳を照らし、その奥に揺れるものを花は見た。
「花。私は、お前の口から出た言葉よりも、沈黙の方がよほど恐ろしい」
「……」
「どれほど重い秘密でも、私は受け止める。お前が苦しむよりは、何倍もましだ」
その言葉が胸に刺さり、花は視界を滲ませた。
だが言えない。
言えば、すべてが崩れる。
「陛下……私は、まだ……言えません」
絞り出すように告げると、朱皇は一瞬まぶたを伏せ、深く息をついた。
「わかった。無理に聞き出すつもりはない」
その返答は意外なほど静かで、責める色はどこにもなかった。
けれど、静けさの奥に潜む決意が肌を刺す。
「だが――花。お前を守るためなら、私はどんな秘密でも暴く」
花は思わず息を呑んだ。
朱皇は続ける。
「後宮内で動く影がいる。お前の居所や動きを探る者、医局に嘘の報告をさせようとした者……どれも不自然だ。誰かがお前を狙っている」
「……!」
胸が締め付けられた。
やはり、動き出している。
花の正体を掴もうとする手が。
朱皇は花の両肩にそっと手を置いた。
「花。お前が恐れていることは、私の知らぬところでお前を傷つけようとしている者がいる、という事実か」
「違い……いえ……ちがわなくも、ない……」
歯を噛み、必死に言葉を整えようとしたが、胸の奥がつまってうまく言えない。
朱皇は花の頭に手を置き、やわらかく撫でた。
「怖いなら、尚更そばにいろ。離すつもりはない」
花の肩が震えた。
「陛下……」
「花」
呼ぶ声は柔らかいのに、命令のように逆らえない重さがある。
「私の側に立て。……それが、お前の安全に繋がる」
花は胸の奥に渦巻く恐れを押し込みながら、かすかに頷いた。
すると朱皇はそっと花を抱き寄せた。
いつもは冷静で、他者に触れようとさえしない帝が、迷いなく腕に力を込めてくる。
花はその胸に支えられるように、静かに目を閉じた。
そのとき。
「……失礼いたします」
襖の向こうから控えめな女官の声が響いた。
だがその声音には、かすかな緊張が混じっている。
朱皇が腕をほどき、表情を引き締めた。
「何だ」
「今しがた、北苑の倉にて……不審火が発見されました。火はすでに消されましたが……保管されていた書翰や記録が、一部焼失しており……」
花の胸がざわりと揺れた。
朱皇は鋭く訊いた。
「焼けたのはどの記録だ」
「……帝室の血統に関わる古文書が含まれていた、とのことです」
花は冷たい衝撃に心臓を掴まれたように息を呑んだ。
帝室の血統。朱皇の血筋。
そして、自分の出生に関わる封じられた秘密も、そこに繋がっている。
朱皇はゆっくりと立ち上がった。
その横顔は、怒りでも動揺でもなく、深い底なしの静寂に沈んでいる。
「花。今夜はここにいろ。誰も入れるな」
花はただ頷くしかなかった。
朱皇はゆっくりと襖に向かい、ひとつ足を踏み出した。
だが出ていく直前、ふいに振り返った。
その目は、花だけを射抜く。
「花。何があろうと――私は必ず、お前を真実の場所まで連れてゆく」
花は胸が苦しくなるほど強く、唇を噛んだ。
「……はい」
朱皇が去ったあと、室内に残る温もりが胸を締めつける。
自分が抱える秘密。
燃やされた帝室の記録。
暗躍する影。
朱皇の決意。
すべてが糸で結ばれ、いま静かに、だが確実に動き出している。
花は布団の上で拳を握った。
逃げてはいけない。
怯えているだけでは、誰も守れない。
胸の奥で、何かがそっと目を覚ました。
花はしばらく、朱皇が去った襖を見つめていた。
月光は静かで、風の音すら聞こえない。
なのに胸の奥では、何かが激しく蠢いて止まらない。
燃やされた帝室の記録。
それを望む者の存在。
自分の正体と、朱皇の血筋に絡む闇。
まるで、目に見えない網がゆっくりと自分の足元に絡みつくようだった。
花は深く息を吐き、布団から立ち上がった。
身体はまだ重い。倒れた影響が残っているのだろう。
だが、じっとしてはいられなかった。
どうして失われたのか。
誰が燃やしたのか。
もし、自分に関わる記録が含まれていたなら……。
胸が痛むほどに脈打つ。
そのとき――。
「……花さま」
部屋の隅から、囁きのような声がした。
花は驚いて振り返った。
薄闇の中から姿を見せたのは、幼い女官・露だった。
いつもは明るく花の世話をしてくれる少女だが、今は怯えに似た緊張をまとっている。
「露……どうしたの?」
「お声をかけるべきか迷いましたが……伝えなければと思い、ここに……」
露は周囲を見回し、花に近づくと小声で続けた。
「――花さまのお名前を、後宮の一部の者が探っております」
花の表情が強ばる。
「……探っている?」
露はこくりと頷き、さらに声を潜めた。
「花さまが倒れられたあの夜、医局へ花さまは貧族の出だと証言しろと迫った者がいたそうです。医局の医士が拒んだところ……何かを握られているようで、怯えながら黙りました」
花は息を呑んだ。
「どうして貧族だと……」
「たぶん、花さまの身の周りを混乱させ、陛下が疑念を抱くよう仕向けているのだと思います。花さまを、后にしたくないのでしょう」
胸の奥が熱くなる。
怒りとも悲しみともつかぬ感情が、音もなく押し寄せた。
「露……詳しく話して」
「はい……。実は――」
露の声が震えていた。
「倉が燃えた時、記録だけでなく、花さまのお名前に似た誰かの出生譚が収められた巻物も……燃えたようなのです」
花は足元が揺れるような感覚に襲われた。
出生譚。
まさか。
「誰のものか、露はわかりません。ただ、火の出る前に、誰かが倉に入るのを見た者がいると噂が……」
「誰……?」
露は唇を噛んだ。
「姿は見えなかったそうですが……雅香妃の側仕えの影があったと」
雅香妃――。
帝に長く仕え、後宮でも権勢を誇る妃。
花をことあるごとに牽制してきた人物。
花は拳を強く握った。
――本気で自分を消しに来ている。
その瞬間、襖が静かに叩かれた。
露は怯えて身を縮める。
花は深呼吸し、静かに声をかけた。
「どうぞ」
襖が開き、律が姿を見せた。
朱皇の側近にして、鋭い目をした青年。
だが今はどこか焦りを隠している。
「花殿。お怪我はありませんか」
「律さま……」
露は律を見ると、安堵の息を漏らした。
律は花のそばに歩み寄り、声を潜めた。
「陛下より、花殿を厳重に守れとのご命令です。今宵はこの部屋の前に私が控えます」
「律さま……倉の火事の件で、なにか……?」
律はわずかに眉を寄せた。
「……花殿。知らぬ方が安全なこともございます」
「でも、聞かなければならないこともあります」
目を逸らさずに告げると、律はしばし沈黙し、やがて深く頭を垂れた。
「倉の記録の中に……封じられた系譜がございました。帝室に連なるはずのない者の名が記されていたと」
花の鼓動が止まりそうになった。
「その名とは……」
「焼け落ち、読めなくなりました。だが――」
律の目が、まっすぐ花を射抜いた。
「花という字が一部に残っていたという話がございます」
室内の空気が凍りついた。
露は手で口を押さえ、震えている。
花の喉が、乾いた音を立てた。
「……それは、偶然でしょう」
「偶然か否かを確かめようとした者がいる。その者は記録の在り処を探り、真っ先に倉へ向かった。火の手が上がったのは、その直後です」
律の声は低く、確信を帯びていた。
「誰かが真実を消そうとした。そして――」
律は花のすぐそばに膝をつき、静かだが鋭い声で続けた。
「花殿。あなたの出生は、おそらく帝室に連なる何かを持っています」
胸の奥が強く痛んだ。
認めてしまえば、すべてが動く。
否定しても、火はもう燃えた。隠せるものは減り続けている。
「律さま……陛下は……?」
「陛下はすべてを疑っております。己の周囲も、朝廷も、後宮も。だが――花殿だけは、最初から疑っていません」
花の視界が揺れた。
朱皇が。
自分だけを、疑わなかった。
ならば。
逃げてばかりでは、彼を裏切ることになる。
露が不安げに袖を握る。
「花さま……どうされますか……?」
花はゆっくりと息を吸い込んだ。
震える心を押し込み、静かに立ち上がる。
「露、律さま。……私、知りたい。自分が何者なのか」
「花殿……!」
「陛下も、後宮も、誰かの思惑に飲まれて動かされている気がする。だったら、私自身が真実に向かわないと」
花は拳を握りしめた。
「でないと……陛下を守れない」
律の目がわずかに見開かれ、やがて深く頷いた。
「……その覚悟、確かに承りました。では――真実に近づく手がかりをお教えします」
律の声は低く、緊張に満ちていた。
「倉で焼け落ちた系譜の写しが、もう一つ存在します。誰もが忘れていたはずのそれが、宮中のどこかに残されている。だが、触れようとした者は、皆、理由もなく遠ざけられました」
「どうして……?」
「呪いと呼ばれているからです」
花は息をのむ。
律は続けた。
「封じられたその写しは帝が触れてはならぬ血”の記録だと言われている」
露が青ざめ、花の手を握りしめた。
花の胸の奥に、ひどく嫌な予感が静かに沈んでいく。
「花さま……それってまさか……」
「花殿の出生が、帝室にとって“知られてはならぬもの”だった可能性があります」
律はそう告げると、花に深く頭を垂れた。
「花殿。あなたが真実へ踏み出すなら……命を懸ける覚悟をお持ちください」
花はゆっくりと目を閉じた。
灰にまみれ、蔑まれ、生きてきた。
だが、逃げるために生きてきたわけではない。
胸の奥に、小さく、しかし確かな光が宿った。
「……覚悟なら、とっくにできています」
花がそう告げた瞬間――
襖が激しく叩かれた。
「失礼します! 大変です、花殿!!」
聞き慣れぬ声。
露も律も身構える。
襖が開き、息を切らした侍従が駆け込んできた。
「陛下が……っ、北苑で刺客に狙われました!!」
花の心臓が止まった。
朱皇が――刺客に。
侍従は続ける。
「陛下はご無事ですが……倒した刺客の懐から、“花殿の名が記された紙片”が見つかりました……!」
室内の空気が凍りつき、露が短く悲鳴を上げる。
律の目が鋭く光った。
「――花殿。真実は、もうあなたを避けて通らぬ」
花は震える唇を噛み、立ち上がった。
「陛下のもとへ向かいます」
誰に止められようとも、もう足を止めるつもりはない。
花は襖へと歩き出した。
「待ってください、花さま!」
露が追いすがる。
律もすぐさま後に続いた。
夜の宮は静寂に満ちているのに、足音ばかりがやけに大きく響く。
胸の鼓動は乱れ、息は痛むほど荒い。
だが花は走り続ける。
刺客が持っていた、自分の名。
狙われた朱皇。
燃やされた帝室の記録。
自分の出生の闇。
すべてが一本の線で結ばれ、いま刃となって朱皇を襲った。
「陛下……!」
花は夜の闇へ走りながら、心の底から強く願った。
どうか無事でいて――。
花は北苑へ向かって必死に走った。
夜は深く、風は冷たく、宮の回廊はまるで闇に沈んだ迷宮のようだった。
足音が自分のものとは思えないほど大きく響き、鼓動は胸の奥で暴れるように波打っている。
――朱皇が、刺客に襲われた。
その事実が喉の奥で重く固まり、呼吸を奪っていく。
露の不安げな声も、律の鋭い警戒の気配も、すべてが遠く感じられた。
ただ、朱皇の名を心の底で叫び続けながら走った。
曲がり角を過ぎ、石畳の冷たさが足裏にじんじんと伝わる。
ほぼ駆け抜けるように北苑へ至ると、灯りが異常に多く、兵たちが厳しい表情であたりを固めていた。
その中心で――朱皇が立っていた。
花は息を呑み、足が止まった。
朱皇は怪我こそないものの、衣の袖が裂け、血が一筋だけ流れている。
その姿はいつも以上に冷えた輝きを帯び、周囲の兵や官人たちすら近づくことをためらうほどの威圧感を放っていた。
花は震えを抑え、ゆっくりと朱皇へ歩き出した。
朱皇が少しだけ振り返り、花を見る。
その瞳の奥には、怒りとも焦りともつかぬ深い影が宿っていた。
「……来るなと命じたはずだ」
花は胸に手を当て、呼吸を整えようとしたが、震えは止まらない。
「陛下が……刺客に……と聞いて……」
声は掠れていた。
朱皇は花の様子を一瞥し、その瞳に短く痛みの色を浮かべた。
「かすり傷だ。心配する必要はない」
「それでも……私は……来ずには……」
朱皇の視線が花の震える肩をとらえた。
そのまま歩み寄り、花の手をそっと掴む。
「震えている」
「陛下が……危なかったと聞けば……震えずには……」
そこまで言うと、花の声は細く途切れた。
朱皇はその手を胸元へ引き寄せた。
自分の心音を聞かせるように。
「……花。私は簡単には死なぬ。お前を残すつもりもない」
その言葉に花は目を伏せ、こみ上げる涙を必死にこらえた。
しかし、二人の間に一瞬だけ訪れた静寂を、律の声が断ち切る。
「陛下。倒した刺客から、まだお伝えしていないものが」
朱皇は花の手を離さず、律へ視線を向けた。
「見せよ」
律は懐から小さな紙片を取り出した。
焦げ跡があるが、文字は辛うじて読めた。
花の胸が冷たくなる。
『花』
自分の名が、はっきりと記されていた。
「花殿を探れ、とだけ書かれております。背後に誰がいるかは不明」
律の声は静かだったが、その奥に怒りを潜めていた。
朱皇は紙片をつまみ、指先で強く押しつぶす。
「花を狙う者が、ついに私を殺そうとしたか」
その声音には、鋼のような冷たさと、爆ぜそうなほどの怒気が混ざっていた。
花は震える声で言った。
「陛下が巻き込まれてしまう……私がここにいるから……」
朱皇は花へ向き直ると、その言葉を遮るように手を伸ばした。
花の頬に触れ、強く、しかし優しく言った。
「勘違いするな」
花は息を呑む。
「お前のせいではない。お前を狙う者は、いずれ私も狙う。それは正体を知られたくないからだ」
「正体……?」
朱皇は花の髪を一筋掬い、静かに続けた。
「花。お前の出生には、帝室に絡む何かがある。私をも揺るがすほどの」
花の喉が詰まり、返す言葉が見つからなかった。
露は青ざめ、律は片手を強く握りしめている。
「陛下……」
朱皇は花から目を逸らさず、静かに告げた。
「今日、倉で焼けた文書。あれは古い系譜――帝室に連なる血を記す巻物だった」
花の鼓動が痛むほど速くなる。
「そして、そこには――」
朱皇は少しだけ言葉を溜め、深く息を吸った。
「帝室の外に流された子についての記述があったと聞いた」
花の視界が揺れた。
帝室の外に、流された子――。
朱皇の声はさらに低く、鋭くなる。
「花。お前の母は……亡くなる前に、何か言い残さなかったか?」
花の胸が締めつけられた。
母の最期の記憶が、脳裏に浮かぶ。
『花……生まれてきてくれて……ありがとう……』
あの時、母は何か言いかけていた。
だが、苦しげに咳き込み、その言葉の続きを聞くことはできなかった。
花は小さく首を振った。
「……いいえ。でも、母は……なにか隠していた気がします」
朱皇は頷き、その手を花の肩へ添えた。
「お前の出生を知った者が、真実を封じるために動いている。そしてお前を消そうとしている」
花は唇を噛む。
朱皇は続けた。
「花よ。何があろうと――私はお前を手放さぬ」
その強い声に花の胸が熱くなった。
だが、次に響いた声は――全員の心臓を凍らせた。
「手放さねばならぬ時が来るかもしれませんよ、陛下」
鋭い、刺すような声。
三人が振り向くと、灯火の向こうからゆっくり姿を現したのは――。
雅香妃だった。
衣装は深緋。
長い黒髪を艶やかにまとめ、冷たい微笑を浮かべている。
朱皇の目に怒りの色が宿った。
「雅香妃。どうしてここに」
「陛下が刺客に襲われたと聞き、心配で駆けつけましたの。……まあ、どうやら無事のようで何よりです」
雅香妃は扇を口元に当て、花へ視線を流した。
「それにしても……花殿。その身に何を隠しておいでですの?」
花の胸がかすかに震えた。
雅香妃は一歩、また一歩と近づく。
その足取りは滑らかで、まるで獲物へ歩み寄る蛇のようだった。
「帝室の記録が燃え、刺客が動き、陛下までもが危険に晒される。すべては……あなたが現れてからですわ」
露が花をかばうように前に出た。
「雅香妃さま!花さまがそんな――!」
「黙りなさい、子ども」
雅香妃の一言で、露は怯えて口を閉じた。
朱皇は一歩前に出て雅香妃の進路を遮る。
「雅香妃。花への侮辱は許さぬ」
雅香妃は冷たく微笑んだ。
「侮辱? 真実を問うだけですわ。花殿。あなたは、誰ですの?」
花の手が震えた。
朱皇はすぐに花の肩に腕を回し、守るように引き寄せた。
「雅香妃。花に触れようとするな」
雅香妃はため息をつき、視線を細める。
「陛下がお慕いになるのは構いません。ですが――陛下へ牙を向く血筋が、后のそばに立つなど……あり得ないでしょう?」
花の胸が締め付けられる。
牙を向く血筋。
雅香妃は続けた。
「倉に残っていた文字を、わたくしも拝見いたしましたわ。……『花』の字でしたね」
花の呼吸が止まる。
雅香妃は扇を閉じ、朱皇をじっと見つめた。
「陛下。その娘は――帝室を揺るがす火種です」
朱皇の瞳に宿る怒りが、ついに爆ぜる寸前まで膨れ上がった。
「雅香妃。二度と花を害する言葉を口にするな。次は……私とて容赦はしない」
雅香妃は少しだけ目を細め、口元を歪ませた。
「……陛下。お気をつけあそばせ。その娘は、あなたの過去をひっくり返す存在。
帝にあるまじき禁じられた血に関わる、忌み名なのですから」
その言葉は、夜風よりも冷たく、刃よりも鋭い。
花はその場に立ち尽くし、朱皇は横で怒りに震え、露は怯え、律は剣の柄に手をかけている。
雅香妃は踵を返し、闇に消えるように去っていった。
残された沈黙が、重くのしかかる。
花は震える声を絞り出した。
「陛下……私は……いったい……」
朱皇は花の両肩を抱き、強く抱き寄せた。
「花。雅香妃の言葉など信じるな」
「でも……!」
「私はお前を選ぶ。出生がどうであろうと、呪われていようと、忌まれていようと関係ない。お前は、花だ。私が選んだ、たった一人の⋯⋯花だ」
花は胸が苦しくて、言葉が出なかった。
顔を朱皇の胸に埋めると、彼の手がそっと背に触れた。
その温もりが、花の震えを少しずつ和らげていく。
だが――。
夜の奥で、誰かの影がひっそりと動いた。
花の出生を探る者。
帝室の血統を塗り替えようとする者。
反乱の火種として花を見ている者。
朱皇を揺るがすための駒と狙う者。
それらすべてが、静かに糸を引き始めていた。
そして、その糸の中心には花と、朱皇の二人が立っていた。
「陛下……怖いです……」
花の震える呟きに、朱皇は耳元で静かに答えた。
「怖がっていい。だが――逃げるな」
朱皇の手に力がこもる。
「花。真実を暴こう。お前の出生も、倉の火の犯人も、雅香妃の企みも。すべてを……この手で終わらせる」
花の脈が、強く跳ねた。
そして彼女は――。
ゆっくりと朱皇の衣を握り返した。
「……はい」
夜風が二人を包む。
まるで、これから嵐が始まると告げるように。



