朝日が射し込み始めた頃、帝都はまだ夜の余燼を引きずっていた。



黒煙の匂いが風に混じり、通りを行く人々の表情はいつもより硬い。

禁書庫の一角から生まれた嵐は、あっという間に宮中の隅々へと波及している。



花は朱皇の側に立ち、息を整えながら広がる混乱を見つめていた。



近衛たちが奔走し、使者が往復している。だが、その忙しさの隙間に、確かな静寂が生まれていた。

それは、誰も本当のことをまだ言えない沈黙だ。



朱皇は玉座前に戻ると、深く礼をしてから厳しい顔で端座した。



「秋臣を呼べ。太鼓で騒ぎの起きた方角の監査を、今すぐ始めよ」



彼の声には朝の凍った空気をも溶かす力があった。



秋臣は短く頭を下げ、表情を曇らせたまま去って行った。

その背中を見送る朱皇の瞳には、幾分の疲労と怒りが混じっている。



花は静かに呟いた。



「朱皇様……私は、何かできることはありますか」



朱皇は花の顔を一度だけ見つめ、柔らかいが決然とした口調で答えた。



「今日一日は、私の傍から離れるな。だが夜になれば、ある者を通じて外に出してやる。外の世界を……少しでも見せたい。お前が血の重さだけで縛られないために」



花はその言葉に胸が詰まり、ただ頷いた。

だが、その裏で何かが動いているのを肌で感じていた。



誰かが禁書庫の巻物を奪った。本気で狙ったのだ。



巻物は単なる古文書ではない。そこに書かれた言葉が、人の命と国の理を揺るがす。




昼が過ぎ、宮中の空気はさらに乾いていった。

綺羅は花の周囲に常に控え、視線は鋭く、動きは機敏だ。



二人が密やかに歩む庭園の苔道には、昨夜の事態を惜しむように落ち葉が一枚、静かに横たわっていた。



「花様」



綺羅がひそりと囁く。



「先ほど、私に密偵が一人付きまして。外でもう動いている人間がいるとのこと。彼は廉の旧友で、外の路地に顔が利く者です。夜になれば、その男と会う手はずを整えました」



花はわずかに息を詰めたが、思い切って笑みを作る。



「ありがとう。綺羅さん。あなたがいてくれると心強い」



綺羅は首を軽く傾げて見せた。



「花様の覚悟がある限り、私は従います。だが覚えておいてください。外へ出るということは、監視の目から逃れるだけでなく、さらに多くの目に晒されることでもあります」



花は黙ってうなずいた。



外に出ることは情報を得るためであり、自らの名の由来を確かめるためでもある。

だがその意志は、単なる好奇心ではなく、朱皇と共に立つための武具を得る行為だった。




夕刻が近づき、空が赤く溶けていく頃、禁書庫の門前に人だかりができた。



巻物が盗まれた箇所はすでに封鎖され、近衛の中にも緊張が走る。

封緘の巻が示すもの、それを誰の手に渡らせるかが、今後の運命の分岐点だ。



綸瑞が朱皇の側へ駆け寄る。

小さな湯気の上がる書簡を朱皇に差し出し、声を潜める。



「帝、外より急報。北辺の密偵より。禁書を持ち出したのは影宮の一団の可能性あり。彼らは密かに都に潜入しておるとのことです」



朱皇の顔が固まった。



影宮。その名は、宮中の何処にも属さぬ影の組織を示す。



表向きは伝承のように古く、だが実際には冷酷な力を持ち、今回のように必要な時に動くことができる。



もし影宮が動いたなら、それは単なる混乱工作ではなく、国の芯を切り崩す企てだ。



朱皇は握った書簡を揉み消すようにして、深く吐息をついた。



「ならば、影宮の足跡を辿れ。秋臣、綸瑞、貴公らを中心に、痕跡を掴め」



彼の指示は速やかに広がり、近衛は奔走し始めた。




夜。



花は密偵との待ち合わせ場所に出向く。廉を通じて紹介されたというその男は、裏町の酒屋の奥にいた。背は低く、目つきは鋭い。古い傷痕が頬を走り、笑みはほとんど消えている。



「お前が花だな」



男は低く言った。



「生きてるな、お前を狙った企みはまだ続いてる。だがここで会うのは安全じゃない。あの巻を奪った連中は、もっと上の命令で動いている。影宮の外にいる連中の指揮者は、宵月の影響下にいるという噂だ」



花は思わず息を飲む。宵月――後宮の重鎮であり、制度と継承を守る保守派の象徴。もし彼が影宮と結びつくなら、後宮の深部そのものが腐っていることになる。



「証拠は?」



花は尋ねた。



男は薄く笑って酒の杯を傾けると、小さな紙片を差し出した。



そこには見覚えのある家紋の端が印刷されている。花の胸が低く、ひどくなる。



「これは、宵月に繋がる屋敷から出た細工だ。影宮は昔から表向きの手先を持つ。宵月派は、帝家の安泰を口実に清めると称して動く。今回はそれが過ぎたのだ。封緘を奪い、事実を操作して、帝の信を逆手に取る」



花は紙片を握りしめ、目を閉じた。母の名、紫苑。母が逃げたその真意が、やっと少しずつ輪郭を露わにしてくる。だが真相に近づくほど、周囲の危険は増す。



男は花を見る。



「お前が動くなら道具になる。だが覚えておけ。影宮は把握したいだけだ。お前を利用する者もいれば、消す者もいる」



その言葉は冷たく、だが事実の輪郭を示していた。




密偵の情報を携え、花は戻る。だがその夜、庭の一隅で待ち構えていた男がいた。黒い外套に身を包み、腰には細い短剣。金の瞳が月のように光る。



「黎」



花は小さく息を漏らした。

黎は朱皇の近侍であり、その存在は噂の域を越えない異端の気配を纏っている。



だが今夜は、彼の表情がいつになく柔らかかった。



「花。影宮の糸は宵月へつながるかもしれない。だが、宵月を糾弾するにはもっと確かな証が必要だ。いま、宵月の屋敷に向かう。お前には見ておいて欲しい。証拠を。自分で確かめるのだ」



花は一瞬躊躇する。宵月の屋敷に入れば、後宮の者から敵視される。それでも、彼女は頷いた。真実を得るために、自らを晒す覚悟がある。



黎は静かに笑った。



「臆するな。私はお前の影にはつきまとうが、必要な時は表へ出る。だが今は、静かに屋敷の蔵へ忍び込め。私が前を斬り開く」




深夜、宵月の屋敷は予想以上に厳重だった。



石積みの塔、塀に巡らされた紋章、玄関先には夜警が立つ。黎は影のように屋根を伝い、花は彼の後に続いた。心臓の鼓動が、夜の静けさに鋭く響く。



蔵の扉は古色を帯び、鍵は硬い。黎は指先一つで細工を解き、花の腕に短く目配せした。中は薄暗く、木箱が整然と並んでいる。埃に混じって、古い紙の匂いが充ちる。



「ここだ」



黎が小さく囁く。木箱の一つを引き出すと、中に厚紙に包まれた巻物がある。封緘が程よく古び、だが封じの符がまだ十分に残っている。花の手が震える。



「紫苑の封緘だ」



黎の声が低く震えた。

紙を開くと、そこには古い筆致でびっしりと文字が並ぶ。内容は難解で、ただ一行だけが花の目を奪った。



『燈子の血は、灯を以て世を清む。帝を導き、帝と相補う。しかし道は曲がりやすく、守るべき誓約が破れれば、光は禍へ転じる。』



花はその一文を何度も繰り返し読んだ。意味は深く、危うい。



燈子の血とは、ただ力の称号ではなく、世界の理を支える代償を伴うものに違いない。母が残した巻は、力を持つがゆえの責務と呪縛を示していた。



黎はさらに箱をめくる。



隠し箱の底から、朱皇の父代の古布に包まれた地図と、ひとつの短い手紙が見つかった。



手紙は母・紫苑から朱皇の先代へ宛てられているようだった。花は指先が震えるのを感じながら、その封を切った。



『もし万が一の時には、この者(花)を守り給え。帝の灯が迷うならば、燈子の血は代わりに歩むであろう。だが――決して交わってはならぬ契りを破るな。』



署名は鮮やかではないが、紋様が確かに紫苑のそれを示していた。手紙の文字は、愛情と畏怖の混ざったものであり、最後にこう締められていた。



『我が娘よ、汝の光は帝を照らすべし。されど、光は刃にもなる。道を誤る時、我は後ろより立ち、汝を導くであろう。』



花は胸が詰まるのを感じた。



母は命を賭して、この世に残る約束を託していたのだ。約束は守られなければならない。



しかし、今その約束が誰かの手で封じられ、そして奪われた。誰が何のためにこの流れを作ったのか。宵月が何を企んでいるのか。問いは深まるばかりだ。




蔵を出ると、黎は花の肩に手を置いた。



「持ち帰るのは危険だ。だが写真も写せない。代わりに、私はこれを朱皇に預ける。お前は一旦、戻れ」



花は涙をこらえ、首を振る。



「いいえ。私は一緒に行きます。母の言葉は私の言葉。私が見届けます」



黎はしばらく黙ってから深く息をつき、短くうなずいた。




宵月の屋敷を離れる頃、月は高く、風が鋭く肌を刺した。



だがその夜、影は更に深まっていた。



帰路すがら、二人は屋敷の塀陰で何者かに待ち伏せされる。黒衣に身を包んだ影宮の小隊が、闇の中から流線のように現れ、二人を取り囲む。



「綺羅の手回しか」



細い笑いが闇を切る。影の一人が前に出て、短剣を振るった。



黎が刀を抜き、交差する金属音が夜に鋭く響き渡る。



闇の戦は速く、血の匂いが浮かぶ。黎の動きは冷酷で、だが受けた傷は大きい。



花は必死に後退し、足を滑らせる。



「花、走れ!」



黎が叫ぶ。



だが花は立ち尽くす。影の中の一人が、低く唸りながら唇を割った。



「花。燈子の末裔よ。おまえは逃げ果せぬ。光を奪う者が現れしとき、世界は裁きに晒される」



その声は、空恐ろしい伝承のように花の鼓膜を震わせる。



黎の刀が閃く。影は散り、だがその代償は重い。



黎の肩に深い刃痕が入り、彼は膝をつきながらも花を抱えて走る。



月下の逃避行は血と汗で彩られ、二人は廃屋の陰に辿り着いた。



黎は荒い息で言った。



「影宮は……想像以上に密だ。宵月の名は出たが、それは火元に過ぎぬ。誰かが宵月を操る、あるいは宵月が誰かを恐れているのかもしれぬ」



花は頷き、呻く黎の背で手を押さえる。彼の額からは血が滴り落ちる。



「黎、あなたは……」



花が声を震わせる。黎は薄く笑い、震える手で花の髪を撫でた。



「私は……お前の守り人だ。帝の影であれ、裏切り者であれ、こいつを片付けるのは俺の役目だ」



その言葉に、花は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。




翌朝、玉座の間にて会議が開かれた。秋臣、綸瑞、宵月、芹蓉、そして朱皇⋯⋯ぎりぎりのメンバーが揃う。



空気は張り詰め、誰もが言葉を選んで発言する。



禁書庫の巻は奪われ、影宮の痕跡が宵月の屋敷につながる可能性が高まった。だが宵月は人をよそおい、平静を装う。



「いかなる理由があろうとも、禁書庫への侵入は許されぬ。犯人を割り出し、厳罰に処すべきだ」



宵月が低く言う。だが彼の声の下には冷たい計算が潜む。



朱皇は冷ややかに問い返す。



「宵月、屋敷に何か隠してはいないか。お前の名が頻繁に挙がっている」



宵月は顔色を変えず、長い手を組んで言葉を返す。



「帝を守る者の名が挙がるのは不思議だな。貴方が知らぬ情報を我らが隠していると言うのか」



その挑発に、会議は一瞬火花を散らす。



秋臣が重い声で立ち上がる。



「封緘の内容を外に出されれば、民心は揺らぐ。帝家の正当性を掻き乱す者は、内外問わず排さねばならぬ」



だが朱皇の目は冷静だった。彼は一歩前へ出て、深く息をついた。



「秋臣。私に一つ頼む。事実ならば全てを示せ。もし偽情報ならば、その根を洗いざらい暴いてみせよ。だが花を人質に利用することは許さん」



会議は散会したが、残された不信は深い。後宮の誰を信じるべきか。帝自身が問いを抱える。花はその重さを一番近くで感じている。




夕刻、花は禁書庫の復旧作業の隙に、念願の場所⋯⋯灯の間へと向かった。



そこにはもう灯芯石はなく、銀の台座だけが寂しく残る。



ひんやりとした床に膝をつき、花は母の手紙を取り出す。



文面をもう一度目に焼き付けるように読み返す。だが心のどこかで、彼女は知っていた。真実が出てきた時、それは鮮やかに世界を斬る刃となるだろうと。



小さな物音がして、誰かが近づく。振り返ると、そこには梅蘭が立っていた。



彼女の顔は疲れているが、目は真剣だった。二人は言葉なく見つめ合う。しばらくの沈黙の後、梅蘭は破顔せずに言った。



「花。私は昨夜、皇太后の前に呼ばれた。あの方は静かに、だが確かに言った。紫苑の巻は、帝の正統を脅かすと。だがそれ以上に、あの方の瞳に宿るのは恐怖だった。皇太后はただの保守ではない。彼女は守りたいものがあるのだ。それが本当の危機かもしれない」



花は息を詰める。皇太后はかつて朱皇の母后であり、後宮の古い掟を体現する存在だ。彼女が恐れるものとは何か。梅蘭は続ける。



「皇太后は、お前を生かす意味を問いかけた。『光は必要だが、制御されねばならぬ』と。しかし制御を口実に、誰かが封緘を奪った。支配の道具にするために。だからこそ、私たちは気を抜けない」



二人の間に、静かな決意が生まれた。かつては争った女同士が、今は同じ敵に向かい合う盟友となる。花は小さく息をついた。



「ありがとう、梅蘭。あなたの言葉が欲しかった。私、まだ怖い。でも、逃げない。母が教えてくれた意味を、私は見届ける」



梅蘭は無言で頷き、短く頭を下げて離れて行った。




夜更け、玉座の間に突如呼び出しの声が響いた。



秋臣が紙を手に血相を変えて立つ。



綸瑞が知らせる。



外に出た動きがあったと。逃げた窃盗団の一部が北の市で捕らえられたという。だが、取り押さえられた者たちの口から出た言葉は予想以上に鮮烈だった。



「封緘は……宵月の陰で動く者に渡した。だがそれは計略の一部。真に狙っているのは……帝の心臓だ」

帝の心臓。それは象徴か。あるいは具体的な人名か。会議室の空気が一瞬で凍りつく。



秋臣が地図を広げ、指で一点を指し示した。そこは、古くから灯を繋ぐ家門が守られてきた土地。だが文言は曖昧で、誰もが顔を見合わせるばかりだ。



朱皇は静かに立ち上がった。



「待て。焦るな。敵の意図は、まず混乱を生むことだ。焦りは相手の勝ちだ」



その言葉は冷静さを取り戻させるが、同時に緊張は高まる。




深夜、花は一人で庭を歩く。



月明かりに濡れた苔が足元で淡く光る。母の巻、封緘の文、そして朱皇の瞳。



いくつもの重みが肩にのしかかる。彼女はかんざしを握りしめ、静かに誓った。



「私は、ただの道具にはならない。母の光を、朱皇のそばで正しく輝かせる」



遠くで風が唸る。宮中の影は、明日さらに濃くなるだろう。



だが花の内側には、火がともっている。小さく、しかし確かに光る火だ。彼女はそれを胸に携え、明日の嵐に向かって歩き始めた。




禁書庫の爆ぜる音がまだ耳に残っていた。



朱皇は花の手を引き、後宮奥へと向かう。



その歩みは一歩ごとに鋭さを増し、まるで足跡そのものが宮中の闇を切り裂いていくようだった。



だが花は、ただ従っているわけではなかった。



胸の奥では、母・紫苑の名と、巻物の奪取、その意味が粘りつくように広がっている。

母は何を残し、何を恐れて逃げたのか。

紫苑を追う者達は、なぜ今になって動き出したのか。



その答えは、宮中の奥底に埋まっている。



二人は大路を抜け、灯火の揺れる細い通路へ入った。

朱皇は何度も背後を確認し、近衛に指示を飛ばす。



「黒鴉隊を第二陣まで展開させろ。宮中に入れる者を制限しろ。外部の者は全て別室に拘束し、今夜中に取り調べる」



近衛は即座に散っていく。



花はそれを見ながら、不安を押し殺して問う。



「朱皇様。私の母……紫苑は、本当に帝家を呪ったのですか?」



朱皇は歩みを止め、花を振り返る。



「あり得ぬ」



強い言葉だった。



「紫苑は、父帝が信頼した浄炎の巫だ。朱炎の力を鎮める儀式を司り、帝位を継ぐ者を守る立場だった。呪うなど……考えられぬ」



「ではなぜ、禁書庫の巻に母の名が……?」



「……わからぬ。だが、紫苑が危険視されたのは事実だ。力を持つ者は、後宮にとって脅威にもなる」



花の胸がざわつく。

脅威。

その言葉は、花自身にも重なる。



朱皇は花の頬に触れた。



「花、お前は母の罪に縛られるべきではない。紫苑が何を背負っていたとしても、お前は……お前だ」



その言葉は温かかった。

だが、温かさが逆に胸を痛ませた。

もし自分が帝位にとって災いだとしたら。

もし、母がそれを知り、逃げたのだとしたら。



朱皇の隣に立つ資格など、本当にあるのだろうか。




大路を抜けると、皇后の居所である朱華殿(しゅかでん)の前へ出た。

その周囲だけ、場違いなほど静かだった。

人の気配が薄い。



花は不安を覚え、朱皇の袖を掴む。



「ここ……静かすぎませんか?」



「……ああ。警戒しろ」



朱皇が答えると同時に、殿の片隅の屏風が不自然に揺れた。



風ではない。

人の気配だ。



朱皇は刀に手を置く。

花も息を飲んだ。



屏風の裏から、ゆっくりと影が現れる。

薄桃の衣、長い黒髪、紅を引いた唇。

その姿は、後宮随一の美しさと噂される人物だった。



「……蒼蓮妃?」



花は思わず名前を漏らす。

後宮の中で最も朱皇に近い立場にいる妃。

政治力も、後宮での影響も強い。



蒼蓮は微笑んだ。

美しい笑み。

だがその目は、氷のように冷たい。



「朱皇陛下。お探しのものが、ここにございます」



そう言って、彼女は懐から白い巻物を取り出した。

封緘の巻⋯⋯紫苑が残したとされる禁書。



花の背筋が凍る。



朱皇が言う。



「蒼蓮。それはどこで手に入れた?」



「奪ったわけではありません。ただ⋯⋯陛下が誤った道を進まぬよう、先に拝読させていただいただけ」



蒼蓮の微笑は優しげだが、言葉の棘は鋭い。



「陛下。巻にはこうあります。紫苑は炎の巫の中でも、もっとも強き力を持ち、帝位の炎と相反する力を宿すと」



朱皇の眉が動く。



蒼蓮は視線を花に向けた。



「そして、娘⋯⋯つまりあなた、花。あなたは紫苑の力をそのまま継いでいる。ゆえに、帝を滅ぼす因子と記されているわ」



花の心臓が一瞬止まる。



滅ぼす因子。



蒼蓮は続ける。



「陛下。あなたがどれほど花を思おうと……この娘は、帝家と相容れぬ炎を宿している。近くに置けば、陛下の炎を弱める。国を危うくするのです」



その言葉は、後宮そのものの総意のようだった。



朱皇は刀の柄を強く握る。



「……蒼蓮。その巻物を寄越せ。花を否定する根拠として使うつもりなら容赦はしない」



蒼蓮は笑った。



「陛下。あなたが花を寵愛することは周知の事実。けれど⋯⋯」



その目が鋭く光る。



「帝とは、この国そのもの。あなたが彼女を選べば、国が傾くのです」



花の喉が震えた。

朱皇が花の前に立ちふさがる。



「何を言われようと花を手放すつもりはない」



「陛下、愚かですわ。紫苑がなぜ逃げたか、ご存じなのですか?」



花の胸が跳ねる。



蒼蓮は巻物を広げ、やわらかい声で続けた。



「紫苑は自分の娘が、帝を殺すと予言されたから逃げたのです」



朱皇も花も息を呑む。



蒼蓮は静かに言った。



「花。あなたの出生そのものが、帝位を揺るがす禍なのよ」



巻物には、古い筆致でこう記されていた。



炎の巫の血は、帝の炎を喰らう。

帝と結ばれし時、帝家の炎は絶える。



花の頭が真っ白になる。



帝を喰らう炎。

母が逃げた理由。

後宮が紫苑を排除しようとした理由。



すべてが一本につながっていく。



朱皇が花を見つめる。

その目に迷いが揺れた。



蒼蓮は冷ややかに笑った。



「陛下。もう迷ったふりはおやめなさい。花を手放せばすべて丸く収まるのです。

後宮も、朝廷も、帝都も⋯⋯」



花は震える声で言った。



「朱皇様……私、本当に……あなたを……」



蒼蓮の声がかぶさる。



「殺す力を持っているのです」



花は震えた指で胸元を押さえた。

心臓が痛いほど早く走っている。



だが――その時。



朱皇が、はっきりと花の手を握った。



強く、迷いなく。



「違う」



蒼蓮の目が細められる。



朱皇の声は低く、炎のように揺らぎながらも澄んでいた。



「花は私を滅ぼす娘ではない。私を救うために生まれた娘だ」



花は目を見開いた。



蒼蓮が冷笑する。



「陛下、巻物を読んでもまだ気づかれないのですか?愚かを通り越して、もはや盲目ですわ」



だが朱皇は一歩踏み出し、蒼蓮の目の前で言い放った。



「花の血に真実があるなら、私自身が確かめる。他者の言葉に左右されるくらいなら帝などやめる方がましだ」



蒼蓮の顔色が変わった。



近衛たちがざわめく。



花は息を呑んだ。

朱皇が帝位そのものを賭ける覚悟で、彼女の手を握っている。



蒼蓮は睨み、巻物を握りしめた。



「陛下……愚弄も大概に。帝位は天より授かるもの。あなたが捨てて良いものではありません」



「ならば天に問う。天が花を拒むなら、天ごと斬り裂く」



花の胸が震えた。

朱皇はここまで自分のために言ってくれるのか。



蒼蓮は巻物を胸元に引き寄せ、表情を変える。



その瞳の奥で、何か黒い気配が、うごめいた。



「陛下。ならば、覚悟なさいませ。あなたが花を選ぶなら、後宮は全て敵になります」



「……望むところだ」



「それならば」



蒼蓮は、巻物を開いたまま両手を上げた。



宮中の灯籠の炎が突然、逆巻くように揺らいだ。



風が吹いたわけではない。

蒼蓮の周囲の空気そのものが歪む。



花は息を呑んだ。



蒼蓮の衣がふわりと舞い、彼女の背後に影が揺らめく。



黒い炎。



紫苑とは違う。

朱皇の炎とも違う。

生き物のように蠢く、禍々しい負の炎。



朱皇が刀に手をかけた。



「蒼蓮……まさか、お前は⋯⋯!」



蒼蓮は微笑んだ。



「ええ。紫苑が封じた力を、わたくしが引き継いだのです。紫苑は浄炎を司った。

ならばわたくしは呪炎を手にする。宮中を支配するにふさわしい炎を」



黒炎が噴き上がる。



花は足がすくんだ。



蒼蓮は巻物を広げたまま、静かに言う。



「花。あなたは呪われた娘ではありません。あなたは朱皇を滅ぼす鍵。そして、わたくしが帝位を奪うための器。」



朱皇が花の肩を抱き寄せる。



蒼蓮は黒炎をさらに広げ、殿全体を覆うほどの圧を放った。



「花。あなたの力は、いずれ目覚める。その時、陛下はあなたに喰われるわ。

ならば⋯⋯いっそ今、わたくしが陛下をいただきましょう?」



黒い炎が、音もなく膨れ上がった。

殿の梁さえきしむほどの圧。



花は思わず叫ぶ。



「やめて!!」



その瞬間。



花の胸元のかんざしが、強く震えた。

まばゆい光が走る。



蒼蓮の黒炎が、一瞬だけ後退した。



朱皇が驚き、蒼蓮が顔色を変える。



そして、花自身の手が熱い。



痛いほどの熱。

でも、焼ける痛みではない。

まるで体の奥に眠っていた何かが、目を覚まそうとしているような熱。



蒼蓮が目を見開いた。



「……まさか、紫苑の浄炎が……?」



朱皇が花の手を握る。



「花……大丈夫か?」



花は震える声で答えた。



「わからない……でも……胸の奥で、何かが……」



蒼蓮が巻物を強く握りしめる。



「そう。それこそ、紫苑が封じた炎。あなたは、帝家を滅ぼす炎を宿している。目覚めれば、陛下の炎を喰い尽くす」



花は苦しげに息をついた。



朱皇は揺らがない。



「花の炎は、私を滅ぼさぬ。私がそれを止める。花と共に乗り越える」



蒼蓮の瞳が冷たく光る。



「では証明なさい。この炎の中で、花があなたを殺さぬと」



黒炎が殿全体を飲み込む勢いで膨れ上がる。



花の胸の炎もまた、疼き始める。



朱皇は刀を構え、花の手を握った。



「花。怖いか?」



「……怖い」



朱皇は微笑む。



「行くぞ。お前の炎も、蒼蓮の炎も私が受け止める」



蒼蓮が叫ぶ。



「ならば燃え尽きなさい、朱皇!!」



黒炎が爆ぜた。



花の胸の炎も同時に炸裂した。



殿全体が炎の光で白く染まる。




殿を覆った黒炎と浄炎が、稲妻のように弾けながら絡み合っていた。



蒼蓮の呪炎は殿の柱を焦がし、朱皇と花の足元の絨毯まで溶かそうとしている。

花の胸の奥で暴れる浄炎は、抑えきれないほど強く脈打ち、気を抜けば全身を焼き尽くしてしまいそうだ。



朱皇は花の手を握り、炎の奔流の中でも一歩も引かなかった。



「花。お前の炎は呪いではない」



花は震える視界の中で、必死に朱皇の瞳を捉える。



そこには迷いがなかった。

天より授かった帝位を握りしめた男の強さではなくただ一人の少女を守り抜く覚悟だけがあった。



それが胸に刺さるほど痛い。

涙が出るほど美しい姿。



だが、体は逆らうように熱を増していく。



「朱皇様……わたし、止まらない……このままでは、本当に朱皇様まで」



「ならば」



朱皇は花を抱き寄せ、彼女の耳元で低く、静かに囁いた。



「俺が、お前の炎に触れて確かめる」



花の心臓が跳ねた。

熱の波が一瞬止まる。



蒼蓮の驚愕の声が響く。



「陛下!正気ですか!?その炎は帝位を喰らうと記された力!触れれば死ぬに決まっています!!」



朱皇は振り返らず言った。



「黙れ。花が滅ぼすのは帝ではなく俺を弱い者にする恐れだ」



蒼蓮の表情が歪む。



黒炎がさらに巨大化し、殿の天井を揺らす。

木材が悲鳴のような音を立てた。



「ならば証明しなさい、陛下ッ!!あなたがその娘に殺されぬと!!帝位を守り抜けると!わたくしの炎に勝てると!!」



黒炎が巨大な蛇のように鎌首をもたげ、朱皇へ襲い掛かる。



朱皇は刀を抜き、咆哮のような一閃で黒炎を切り裂いた。



火花のように黒い欠片が散る。



「蒼蓮。帝位を欲するなら、それに相応しい誇りを持て」



「誇りだと……?」



蒼蓮の眉が吊り上がる。



「後宮の影に隠れ、禁術を盗み、巫の力を利用する。そんなものが、帝の隣に立つ資格があると思うな」



蒼蓮の顔から血の気が引いた。



「……陛下。あなたは、わたくしを裏切ったのですか」



「最初から裏切っていない。お前が勝手に帝の影に自分を置いただけだ」



蒼蓮の黒炎が暴走する。



殿の壁が崩れ、瓦が落ち、風が巻き起こる。



花の浄炎も反応して脈打つ。

細い白い光が、花の足元から空気中へ伸びていく。



蒼蓮が叫ぶ。



「花ァァァ!!あなたの炎は、最終的に陛下を焼き殺す!!紫苑もそれを恐れて逃げたのよ!!わたくしだけが真実を知っていた!!陛下を守れるのはわたくしだけ!!」



花の胸に言葉が突き刺さる。

だが、その瞬間。



朱皇が花の肩を掴み、ゆっくりと彼女の額に自分の額を重ねた。



ほんの一瞬で、花の暴れる炎が落ち着いていく。



朱皇の声はとても低く、震えるほど優しかった。



「花。お前は……誰かを殺す炎なんかじゃない。俺を救った炎だ。あの後宮で、ただ一人⋯⋯俺の孤独を溶かしてくれた」



花の目から涙がこぼれる。



「朱皇様……でも、もし私が……もし本当に……」



「ならばこの手で確かめると言ったはずだ」



朱皇は花の手を取った。



彼女の掌には、蒼蓮の黒炎にも負けぬほどの強烈な浄炎が宿っている。



朱皇は、その炎に、何のためらいもなく触れた。



蒼蓮が絶叫する。



「陛下ァァァァ!!!!!死にます!!本当に死にます!!」



殿中に、白い光が爆ぜた。

花の炎が朱皇の掌に触れた瞬間。



蒼蓮の叫びが止まった。



黒炎が揺らぐ。

花の炎の脈動が変わる。

殿を満たしていた殺気が、一瞬だけ、息を潜めた。



朱皇は痛みを堪える表情をしていたが手は離さなかった。

むしろ、握る力を強める。



「……ほらな、花」



朱皇は、息をつきながら笑った。



「お前の炎は……俺を殺さない」



花の目から大粒の涙が溢れた。



「朱皇様……!」



蒼蓮の顔が歪む。



「馬鹿な……!そんなはず、ない……その炎は……帝の炎を喰らうはず……花は帝を滅ぼす娘……紫苑の血は……呪いの血……わたくしの手に入れた呪炎こそ……!」



蒼蓮の声が次第に乱れていく。



黒炎が制御を失い、彼女の周囲で暴れ始める。



朱皇は刀を構えた。



「蒼蓮。これ以上暴れれば後宮も、宮中も、帝都も焼ける。退け。それが最後の警告だ」



蒼蓮は唇を噛み、涙を滲ませた。



その涙は黒い炎に触れて蒸発する。



「陛下……わたくしは……陛下のために……陛下を守るために……影になったのです……なのに、なのに……あなたは……その影より……」



朱皇は言う。



「光を選んだ」



蒼蓮の心が砕けるような音が、殿の中に響いた気がした。



黒炎が大きく膨れ、そして殿の天井を突き破る勢いで噴き上がる。



蒼蓮は、炎の中心でかすれた声で呟いた。



「……なら、せめて……この炎で……花を……」



その瞬間。



「蒼蓮、やめろ!!」



朱皇の叫びが殿を揺らすより早く、花が一歩踏み出した。



浄炎が、蒼蓮の黒炎の前に立ちはだかるように立ち上がった。



白と黒の炎が衝突し。



轟音とともに、殿はまばゆい閃光に包まれた。



視界が完全に白く染まり、音も熱も消える。



そして光が引いたとき。

蒼蓮の姿は、殿の奥に膝をついてうなだれていた。

黒炎は消え、彼女の肩は小刻みに震えている。



花の浄炎は収まり、胸の熱だけが残っていた。



朱皇が刀を下ろし、花を抱き寄せる。



「……花。良くやった」



花は震える声で答える。



「朱皇様……」



「お前の炎は……やはり人を救う炎だ」



蒼蓮は、震えた声で呟いた。



「どうして……光ばかりが……選ばれるのですか……」



朱皇は一度だけ彼女を見た。



悲しげに。

しかし、決して揺らがない目で。



「蒼蓮。影は必要だ。だが光を憎む影は、いずれ自らを焼く」



蒼蓮はもう言葉を返さなかった。



殿に残ったのは、崩れた瓦と焦げた空気、

そして花と朱皇の体を包む温かな炎だけだった。



外では、夜風が吹き、宵の鈴が静かに響いている。



この夜。

帝国の歴史は動いたのだった。