夜風がまだ冷たさを残す明け方、後宮の空に幾筋もの雲が流れていた。



帝都全体がざわつくような、見えない気配が漂っている。

まるで、この一日が、国そのものの流れを変えると知っているかのように。



灯の儀――。

帝に選ばれし存在を示す、古来からの神事。

だが今、その意味は大きく揺らごうとしていた。



花は朱皇に連れられ、禁苑の外れに立っていた。

昨夜の逃亡の余韻はまだ身体に残り、腕や足の痛みがじんと脈打つ。

それでも、花の目は澄んでいた。

逃げるための足ではなく、進むための足で立っている。



その違いが、自分の中で確かな力になっているのを感じていた。



朱皇が少し離れた場所で軍の者たちと短く言葉を交わしている。

その背中はいつもより強く、厳しく、しかし花に向けられたときだけ柔らかさを見せた。



「花」



振り返り、朱皇が歩み寄る。

その眼差しは、昨夜と同じ。⋯⋯いや、それ以上に熱を帯びている。



「これより灯の儀へ向かう。だが、その前に言っておくことがある」



花は緊張に息をのみ、小さく頷く。



「お前の出自について、紫苑たちが何かを掴んだ。灯の儀で、おそらくその一部が表に出る可能性がある。だが――」



朱皇の声が低く、鋼のように硬くなる。



「何が明かされようと、私はお前を手放さない」



胸の奥に熱い波が押し寄せた。

昨夜の抱擁よりも強く、心を震わせてくる。



「朱皇様……」



その名を呼ぶと、朱皇は静かに花の頬へ手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、花の身体はわずかに震えた。

恐怖ではない。

それよりもずっと、深く甘い何かだ。



「生きろ。どんな儀式になろうと、決して退かないでくれ」



「……はい」



花が頷くと、朱皇は満足したように微かに目を細めた。



一行の護衛を率いて、二人は禁苑の奥へと進んだ。

朝陽の気配が遠くにあるのに、空気はどこか重く、儀式の場へ近づくほどに冷たさが強まる。



金色の鳥居をくぐり、木々が茂る参道を抜けた先に、灯の儀が行われる“天灯の間”が広がっていた。



円形の広間、天井には無数の火を宿す灯籠。



中心には、古代から帝位の証として伝わる灯芯石の台座がある。



すでに多くの后妃や女官が集まり、ざわめきが起こっていた。

花の姿を見つける者は、驚き、怯え、そして嫉妬の色を隠せない。



「どうして……昨夜の騒ぎから、なぜ無事に?」



「帝が隠して守ったとしか……」



「まさか、灯の儀にあの灰かぶりを出すつもりでは――」



囁きが四方から刺すように飛ぶ。

花は下を向きかけたが、朱皇の手がそっと背に添えられた。



「顔を上げろ、花」



その声は優しいが、命令の強さを失わない。



「お前はこの場に立つ資格がある」



花は息を吸い、真っ直ぐ顔を上げた。

すると空気がわずかに震えた気がした。

その表情に、誰もが息をのむ。



灰をかぶり、蔑まれていた少女はもういない。

儀式の朝の光を浴びて立つ花は、まだ名も持たぬ花であっても。確かに、帝の隣に相応しい気配を纏っていた。



しかし、そんな空気を裂くように、鋭い声が響いた。



「朱皇様!本日の灯の儀……その灰花を参加させるつもりですか?」



声の主は、第一后妃・璃羅。

その目は怒りと恐怖で濁り、手には古びた巻物を握っていた。



「それはあり得ぬこと!なぜならその娘には、帝位を揺るがす禁忌の血が流れているのです!」



広間が一瞬で凍りついた。



花は息を呑んだ。

朱皇もわずかに眉を動かす。



璃羅は腕を振り上げ、巻物を台座へ叩きつけた。



「ここに記されている!あの娘は、先帝により封じられた血統の末裔!皇族に匹敵する、いや⋯⋯皇統そのものを奪いかねない危険な存在!」



ざわめきではなく、どよめきが広間に響き渡る。

后妃たちの顔が一斉に青ざめた。



花の胸がきつく締めつけられる。

封じられた血。

母が口にしなかった秘密。

自分でも知らない、名前。



足が震えそうになるそのとき、朱皇が一歩前へ出る。



「璃羅、その巻物……誰から渡された?」



朱皇の声は、底冷えするほど冷たかった。

侮蔑も怒りもなく、ただ真実を切り裂く刃のような響き。



璃羅は震えながらも、朱皇を睨み返す。



「黒鴉隊の副長、秋臣様から。朱皇様には伝えられぬ真実だと――」



その瞬間、朱皇の気配が変わった。

広間の空気が一気に張り詰める。



「……秋臣。やはり、お前か」



花は朱皇の横顔を見た。

怒りではない。

深く、鋭く、諦めを含んだような影があった。



朱皇は深く息を吸い、花の手を握った。

その手の強さが、花を震えから救う。



「花、怯えるな。真実が何であれ、お前はお前だ」



ふっと花の胸に温かいものが広がった。

まるで暗闇に灯がともるように。



だが、儀式は止まらない。

天井の灯籠が揺れ、古い祈祷の声が響きはじめる。



灯芯石が微かに光り、花の胸奥がまた熱く疼いた。



次の瞬間、広間の空気が震え、灯籠の炎が一斉に揺らいだ。

花の体から、薄く光る文様が浮かび上がる。

花自身も気づかぬ、封じられていた力。



后妃たちの悲鳴が上がる。



「なっ……!」



「やはり禁忌の血!」



「帝位を揺るがす……!」



朱皇が花の肩をすばやく抱き寄せる。



「落ち着け、花!これは⋯⋯」



その瞬間、広間へ黒い影が滑り込んだ。



秋臣だった。

黒鴉隊を率い、冷たい目で朱皇と花を見据える。



「朱皇様……灯の儀は正しき血のみが立つ場所。禁忌の血を持つ娘を帝の傍に置くこと、それ自体が国を滅ぼす」



花の視線が秋臣に向く。

冷たさも、敵意も、初めて受けた恐怖でもない。

何かもっと深い感情がそこにあった。



秋臣の目は、花の黒髪を見た瞬間、かすかに揺れていたからだ。



(この人……私を、知っている?)



朱皇は花を庇い、秋臣の前に立つ。

その双眸は烈火のように燃えていた。



「秋臣。たとえ何を知っていようと、花を奪わせはしない」



秋臣は一歩前に出る。

朱皇が刃を抜くのと、ほぼ同時だった。



広間の空気が裂ける。

灯籠が激しく揺れる。

花の胸で、封じられていた文様がさらに強く輝く。



そして。

灯芯石が、花に反応して眩く光りはじめた。



后妃たちが悲鳴を上げる中、朱皇だけがその光に目を細める。



「……やはり、花。前は帝の灯に選ばれている」



次の瞬間、光が広間を覆い、すべてを白く染めた。



世界は音を失った。

灯芯石からあふれた眩い光は、ただ明るいというだけではない。

胸の奥を見透かされるような、魂の底に触れるような、重く古い響きを伴っている。



花の身体はふらついた。

しかし倒れない。



朱皇が支えてくれたのだと気づいたのは、光が少しずつ薄れ、音が戻ろうとする頃だった。



「朱皇……様……」



声に力が入らない。

だが、朱皇の手の温度だけが、生きている証のように強く感じられる。



「花、無理に話すな。お前の体は、封じられていた力に触れたせいで今、混乱している」



朱皇の低い声は、荒れた空気に不思議とよく通った。



後宮の女たちは床に倒れ込んだり、柱にもたれて震えたりしている。

一部の女官は泣き叫び、祈るように灯芯石を見上げていた。



「し、信じられぬ……灯芯石が……」



「皇統の証が……娘に反応するなど……そんな、そんなはず……!」



広間の空気は恐怖で切り裂かれていた。

だが、恐怖だけではない。

認めたくない希望が混ざっていた。



花は必死に息を整えながら、灯芯石を見た。

古い石はまだほのかに光を宿している。

その光は、花の胸に浮かぶ文様と同じ色を帯びていた。



(……なぜ。私が……?)



その疑問に答えるかのように、広間の奥にいた秋臣が一歩進んだ。

光に照らされた彼の影は、やけに大きく見える。

目は花ではなく朱皇に向けられていた。



「朱皇様。これでおわかりでしょう。その娘の血は帝を選ぶ側の血。帝に選ばれるのではない――帝を選んでしまう。だからこそ、先帝は封じたのです」



花は息を呑んだ。

朱皇が震えるほど強く花の肩を掴む。



「帝を……選ぶ……?」



秋臣の声は冷徹なのに、どこかに痛みを含んでいた。



「帝国の始祖以前より、燈子(とうこ)の血と呼ばれる一族がいた。彼らは帝を超える力を持ち、帝位そのものに干渉できた。ゆえに歴代の帝都では恐れられ、いずれの時代も排され続けた」



花の胸の奥で、また文様がざわめいた。



「……私が……その血……?」



秋臣は目を伏せ、短く頷いた。



「お前の母も、その血を持っていた。だから先帝は彼女を庇護しつつも、遠ざけた。帝位を揺るがす光が、いつか帝を飲み込むのを避けるためだ」



その言葉は、花の胸に重く落ちた。

母の笑顔が浮かぶ。

優しく、儚く、いつも何かを恐れていた。



(……あれは……私に何かを隠していたから……)



だが、思考を押し流すように朱皇の声が響く。



「秋臣。お前が何を言おうと私は花を手放さない」



朱皇はゆっくりと花を抱き寄せ、全身で庇うように立ちはだかった。

その姿は帝としてではなく、一人の男としての決意そのものだった。



秋臣は眉をわずかに痛むように寄せる。

その表情に花は冷酷な将ではない別の何かを見る。



「朱皇様……あなたは……あの方を守りたいのですね」



朱皇は言葉を返さない。

返せないほど、花を抱く手に力を込めていた。



秋臣は深く息をつき、黒鴉隊へ手を上げた。

隊士たちが一斉に動き、広間の出口をふさぐ。



「朱皇様。申し訳ありませんが、帝都を危険に晒すわけにはいきません。その娘を灯芯石から離してください」



広間に再び緊張が走った。

朱皇の側近である廉が、刀を抜いて秋臣に刃を向ける。



「貴様……帝に刃向かうというのか!」



秋臣は首を横に振った。



「帝にではない。帝が守ろうとしている脅威にだ」



花の胸が凍りつく。



自分が脅威なのか。誰かを傷つけるのか。そんなはずは⋯⋯ない。



だが朱皇は即座に言った。



「脅威ではない」



「しかし」



「花は……花だ。灰より出でた、私が選んだ花だ。脅威と呼ぶなら、私が帝ではなくなる」



その一言に、広間の女たちは息を呑んだ。

后妃たちの顔が蒼白になり、ざわめきが走る。



朱皇が帝位よりも花を選ぶ。

それは帝国の秩序そのものを揺るがす選択だった。



秋臣の目が痛ましく揺れた。



「朱皇様……あなたは愛に目が眩んでいる」



「そうだ。だが、それで何が悪い」



朱皇の声は鋭く、しかし確固としていた。



「帝である以前に、私は一人の人間だ。花が泣くのなら、花が苦しむなら帝位などいらぬ」



広間の空気が一瞬で変わった。

誰もが凍りつく。



花の胸に、熱いものがせり上がる。

気づいたときには、小さく震える声で呟いていた。



「朱皇様……やめてください……帝位を……そんな……」



朱皇は花の顔をそっと持ち上げた。

優しい指。

だがその瞳は、帝ではない。

ただ花だけを見ている男のものだった。



「花。私は……お前を救いたい」



「……わたし……」



涙が零れ、言葉が続かない。



そのとき。灯芯石が再び光り、花の胸の文様が反応した。



秋臣が目を見開く。

朱皇は花の肩を抱きしめたまま、光を見据えた。



灯芯石は、花に選ばれるように揺らめいている。

まるで、千年封じられていた意志が、花を求めているようだった。



その光が強まるにつれ、秋臣が苦しげに叫ぶ。



「花!その血は……帝を選ぶ血だ!受け入れれば帝を超える存在になり、帝そのものを危険に晒す!」



「危険ではない」



朱皇が即座に遮る。



「朱皇様……!」



その言葉に、花の胸の文様がさらに鮮烈に輝き始めた。



いや、光っているのは文様ではない。

花の胸そのものから、力が溢れ出している。



広間の灯籠が一斉に揺れ、火が伸びた。

まるで炎が花の力に呼応しているように。



花は息を呑んだ。

自分が何かを始めようとしていることを、本能で悟った。



(このままでは……危ない……!私は……)



朱皇が花の頬に手を添えた。

その目は揺らがない。

どんな光よりも強い光。



「花。大丈夫だ。お前が何者になろうと……私はお前の傍にいる」



その声が、花の胸の暴れる力をほんの少し静めた。

それでも光は止まらず、広間全体を照らし続ける。



秋臣が歯を食いしばった。



「朱皇様……っ、もう限界です!その光は帝位そのものを揺るがす……!彼女を……止めなければ!」



黒鴉隊が一斉に動いた。

刃が光り、花へ向けられる。



花の体が震える。

だが朱皇が動いた。

圧倒的な速さで花を抱き寄せ、背を向け、刃に対峙する。



「来るなら来い。花には触れさせぬ」



その瞬間、花の胸の光が爆ぜるように膨れ――。

広間全体を飲み込み、風のような衝撃が吹き荒れた。



黒鴉隊が床へ叩きつけられ、灯籠が千々に揺れる。

后妃たちが悲鳴を上げる。



しかし朱皇だけは、花を抱いたまま踏みとどまっていた。



光の渦の中で、花の意識が揺らぎ始める。

胸が熱く、頭がぼんやりする。

力があふれ続けて、身体がもう自分のものではないようだった。



(朱皇様……わたし……どうなるの……?)



意識が暗闇へ落ちようとする瞬間、ただ一つ残ったのは朱皇の声だった。



「花……!離れるな……!」



その声を最後に、花の意識は完全に白い光へと沈んだ。




花は目を覚ますと、薄く透き通るような光が、天蓋の布越しに揺れていた。



夜と朝の境目がまだ定まらない淡い刻限で、世界の輪郭がぼやけている。



息を吸うと、ほんのわずかに乳香の匂いがした。



胸の奥の痛みは治まってきていたが、身体はまだ重く、動くたびに筋肉が軋む。

だが、それ以上に胸に残ったのは、あの夜──朱皇の手の温度だった。

熱くもなく冷たくもない、不思議な温度。

触れられた場所だけが、未だに余熱を宿しているようだった。



花は寝台に上半身を起こし、深く息をつく。

心臓が、自分でも嫌になるほど跳ねていた。



晩に朱皇が去る前、彼は確かに言った。



「お前には、まだ聞かなければならぬことがある」



その声音は、決して花を責める響きではなかった。

それがかえって胸を締め付ける。



自分は偽物の身分のまま、帝の優しさに甘えているのではないか。

その罪悪感が重く、言葉にならぬまま積もっていく。



寝台から布団をよけると、侍女がすぐに控えの間から歩み寄ってきた。



「お身体は……もうよろしいのですか、花様?」



「ええ、大丈夫。まだ少しふらつくけれど」



侍女はほっとしたように微笑んだが、その奥に何かためらう気配があった。

花が首をかしげると、侍女は視線を揺らしつつ言った。



「実は……つい先ほど、外より急ぎの知らせが届きまして」



「知らせ?」



「はい。玉座の間の一角が、夜明け前に荒らされたそうで。どうやら、誰かが禁書庫への道を探っていたとの噂です」



花の背筋が強張る。



禁書庫⋯⋯帝と限られた者しか入れない、宮中の最深部。

母が亡くなる前、震える声で「絶対に近づいてはだめ」と言った場所と同じだ。



胸の奥がざわつき、嫌な汗がにじむ。



「……それが、私と何か関係あるの?」



「いえ……ただ、それだけでなく。夕べ、花様を襲った賊の遺体が、後宮の庭から消えたそうで……」



花は息を呑む。



あの男が単独で動いたのではないことは、薄々分かっていた。

だが、遺体まで消えるとなれば。



誰かが事実を隠そうとしている。



何のために。

誰が。

その目的は。



考えれば考えるほど、背後にある闇が深く、底が見えない。



侍女が続ける。



「さらに……もうひとつ。朱皇様より、花様をただちに謁見へとの勅が出ております」



花の心臓が跳ねる。

侍女も緊張しているのか、声がわずかに震えていた。



「帝から……?」



「はい。この時刻に直接の召し上げは異例でございます。花様のご容体をお案じになってのことかもしれませんが……」



言葉を濁す侍女。

だが花には、嫌でも分かる。



この呼び出しは、帝の優しさだけではない。

昨夜の襲撃。

禁書庫の騒ぎ。

そして、花が隠している出生の秘密。



すべてが、徐々にひとつの線を描き始めている。



花は襟元を整え、かんざしに目を落とした。

母の形見の、ただ一つの誇り。

このかんざしだけは手放せない。



指先でそっと触れると、ひんやりとした金属が心を静めた。



「……行きます。帝に会わなければいけない」



そう言うと、侍女は強く頷き、すぐに支度を整え始めた。



控えの間の障子が開かれる音がして、朝の空気が流れ込む。



どこか遠くで鶴が声を上げた。



花は深く息を吸い、宮中の奥──玉座の間へと歩き出した。




玉座の間は、朝の光を受けて荘厳な輝きを帯びていた。

静謐でありながら、どこか張りつめた空気が漂っている。

近衛が二列に並び、彼女が近づくと同時に道を開いた。



その奥、玉座の手前に朱皇が立っていた。

赤い衣をまとい、背筋は真っ直ぐで、ただその存在だけで空気が震えるようだった。

だが花が近づくと、鋭かった視線がゆっくり柔らいでいく。



「花。来たか」



深い声。

その一言で、緊張が胸からほどけていきそうになる。

けれどその甘さに浸るわけにはいかない。



花は膝をつき、深く頭を垂れた。



「お呼びにより参りました、朱皇様」



朱皇はしばらく花を見つめていたが、やがて近くまで歩み寄り、手を差し出した。



「顔を上げよ。お前に問いたいことがある」



花は、上げてはいけないと思いながらも、抗えずに顔を上げた。



帝の瞳が、真っ直ぐに花を射抜く。

怒りはない。

憐れみもない。

ただ、真実だけを見ようとする強さがあった。



「昨夜の賊のことも、禁書庫の騒ぎも……すべて偶然で片づけられるものではない。そして、その渦の中心にいるのは他でもない。お前だ」



花は息を呑む。

朱皇は一歩、花に近づいた。



「花。お前は……本当にあの身分で后選びに来たのか?」



喉がひりつき、言葉が出なかった。

視界が揺れ、心臓が乱れる。



いよいよ来たのだ。

逃げ続けることは、もうできない。



朱皇は、花のかんざしに目を落とした。

そして、驚くほど優しい声で囁く。



「そのかんざし……どこで手に入れた?」



花は唇を噛んだ。

この問いだけは、いつか来ると分かっていた。

しかし恐れていた。



「……母の形見です」



「名は?」



「……紫苑と」



朱皇の瞳が揺らいだ。

一瞬、信じられないものを見たような顔になる。

花は思わず身体を固くする。



「紫苑……。まさか⋯⋯いや、しかし……そうであるなら……」



朱皇の胸の内に渦巻く混乱が、息遣いにまで現れていた。

彼は花の肩に手を置き、吐息を落とす。



「花……お前の母の名は、記録上では十六年前、宮中である事件の後に失われたことになっている。禁書庫にも、その名がひっそり記されていた。もし今、お前がその娘だと言うのなら……」



花の胸が痛むほど締めつけられた。

朱皇は、真剣すぎるほど真剣な瞳で続ける。



「お前の存在は、帝位継承にさえ影響する。それほどの血筋なのだ」



息が止まりそうだった。

それは、花が最も知りたくて、

最も聞きたくなかった言葉。



朱皇はさらに言う。



「だがこの真実を、お前自身は知らぬのだろう」



花は震える声で答えた。



「……はい。母は何も教えてくれませんでした。ただ……『かんざしだけは、決して手放すな』と」



朱皇は目を閉じ、深く息をついた。

その表情は悲しみとも苦悩ともつかない。

花の手を取ると、強く握りしめた。



「花。お前がどのような生まれであろうと私は、お前を手放すつもりはない」



世界が止まったように感じた。

だが次の瞬間、玉座の間の扉が勢いよく開く。



近衛の声が響く。



「朱皇様!禁書庫に侵入した賊の一人が、宮中北門に現れました!花様の名を叫んでおります!」



花の血の気が引いた。

朱皇の表情も鋭く変わる。



「……花を狙ってのことか」



「恐らくは!」



花は震える。

朱皇は即座に袖をはためかせ、



「花、私の後ろへ!」



その声音は鋼のように強く、揺るぎなかった。



花は思う。

この男を信じてよいのか。

偽物の身分で近づいた自分を、彼は本当に守ってくれるのか。



しかしあの手の強さが、迷いをすべて断ち切った。



朱皇は振り返り、低く言う。



「花。どうか、私を信じろ。この宮中に渦巻く影は、すべてお前に関わる真実へ通じている。だが、お前が望む限り……私はそのすべてを、一緒に暴く」



胸が熱くなる。

怖い。

でも逃げたくない。



花が小さく頷いたその瞬間。

玉座の外から、ざわめきと悲鳴が響いた。



賊が、ついに宮中へ踏み込んだのだ。



帝と花を巻き込む、最大の波乱が、今まさに動き始める。




宮中北門へ続く回廊は、朝霧のように白い気配に満ちていた。

だがその静けさの奥、遠くでざわりと空気が揺れる。



近衛達が走り、鎧の金具が触れ合って鮮鋭な音を立てる。

花の胸にも、その緊張が針のように刺さってきた。



朱皇は花を伴いつつ、歩を止めない。

その背中から放たれる気配は、まるで闇を押し分ける刃のようだった。



「花。恐れるな」



低い声が響く。

その一言だけで、花の心は不思議とほどける。

だが同時に、胸の奥が痛む。



自分はまだ何ひとつ真実を差し出せていない。

それなのに、朱皇は揺るがぬ態度で彼女を守ろうとする。



それが苦しい。



北門の前へたどり着くと、すでに数十名の近衛が槍を構え陣を敷いていた。

その中央。ひとりの男が地面に押さえつけられている。



荒い息。

髪は血と土で固まり、身体中傷だらけ。

それでも、その男は花の名を叫んでいた。



「花!出てこい……!お前を、必ず連れ戻す……!」



花の足がすくむ。

知らない声だ。

だが、彼の言葉には確かな執念の色があった。



朱皇の気配が鋭くなる。



「離れていろ」



彼が一歩前へ出ると、近衛たちは道を空け、賊の男が朱皇を睨みつける。



「朱皇……!その女を……その女を渡せば……!」



「ふざけるな」



朱皇の声は氷のように冷たかった。

近衛たちがその殺気に押されて息を呑むほどだ。



男は歯を剥き、狂気の光を宿した目で花を追う。



「お前は……本物じゃない。帝に選ばれる資格なんて……!」



花は眉を寄せた。

本物とは何のことか。

資格とは何を指すのか。



だが、男は続ける。



「紫苑の娘……!お前の血は帝の血筋を揺るがす禁忌なんだよ……!」



花の胸が締め付けられる。

母の名を、またしても知らない男が口にした。

禁忌。

その言葉が、花の頭に焼き付く。



朱皇も眉をひそめる。



「貴様。紫苑を知っているのか」



男は笑った。

血を吐くような、ひどく歪んだ笑みだった。



「知っているさ。あの女がどれほどの罪を犯したか……お前は知らぬんだろう、朱皇」



「黙れ」



朱皇の眉間に深い影が落ちる。

その反応は怒りではなく、混乱に近い。

つまり朱皇は紫苑に何があったのか、すべてを知らない。



花も知らない。

誰も知らないまま、すべてが封じられてきた。



男は続ける。



「禁書庫の奥だ……紫苑が隠した封緘の巻を見れば分かる……あの女は、帝家を!呪ったんだ……!」



空気が凍りついた。

あまりにも重い言葉。

花は息をすることさえ忘れそうになる。



朱皇の表情が一変する。



「紫苑が……帝家を呪った?馬鹿を言うな。紫苑は、父帝が生前、最も信を置いていた巫女だ」



男は笑い、血を吐いた。



「巫女……?は……違うな……紫苑は、帝と並ぶ力を持つ者と恐れられた。ゆえに後宮の者たちは怖れ……排除しようとした……紫苑は最後に巻を残し⋯⋯娘を抱いて宮中を逃げ出した……その娘が……目の前の女だ……!」



花の視界が揺れる。

母が逃げた?

巻を残した?

帝家と並ぶ力?

後宮が排除しようとした?



何ひとつ理解が追いつかない。



ただ一つだけ、はっきり感じた。



自分は、生まれた瞬間から影の中にいたのだ。



朱皇が近衛に命じる。



「この男を拘束し、すぐに禁書局へ。何が真実で、何が虚言か、必ず明らかにさせる」



男はなおも花を見て叫ぶ。



「お前は帝の隣に立つ器じゃない!!帝の血を壊す禍つ花だ!!お前が宮中にいる限り、帝は⋯⋯!」



「引け!!」



朱皇の一声で近衛たちが男を引きずっていく。

賊は靴を引っかけながらも、花へ向けて怨嗟を吐き続けた。



花の胸は、焼けるように熱かった。

怖い。

でも、恐怖だけではない。



胸の奥に、知らない感情が渦巻いていた。

怒りのような。

失望のような。

そして⋯⋯母に置いていかれた子どものような、深い孤独。



朱皇が花の前に立った。



「……花。信じなくていい。あれは、ただの狂言だ」



花は首を振る。



「朱皇様。私……本当に、帝を脅かす存在なのでしょうか……?」



朱皇の表情が固まった。

その瞬間、彼の心が揺れたのが分かった。



帝であっても、揺れるのだ。



「違う。お前は脅かす存在ではない。私を……救う存在だ」



花は目を見開いた。



「救う……?」



朱皇は静かに言う。



「紫苑のことも。禁書庫の巻も。お前の出生も。すべての真実を、私が必ず暴く。だから……恐れるな」



その声は、熱を帯びていた。

帝としての言葉ではなく、ひとりの男としての言葉。

花の胸に、熱が広がる。



だがそのとき。

北門の上に掲げられた太鼓が、急に鳴り響いた。



ドン⋯⋯ドン⋯⋯ドン!



宮中内部に異変が起きたときにだけ鳴らされる合図。



近衛が駆け寄る。



「朱皇様!禁書庫の封印が……破られました!!何者かが侵入し、巻物を奪った形跡が!!」



朱皇の顔つきが一変する。



花は胸がざわつき、思わず朱皇の袖をつかんだ。



朱皇は花を見下ろし、静かに言う。



「花。どうやら、真実を隠そうとしている者は……まだ宮中にいる」



「……私、巻物が何か分からないのに……狙われるんですか?」



「お前の力を恐れている者がいる。紫苑の血を。その意味を知る者が、な」



花の喉がひりつくように乾く。



朱皇が指先で花の手を掴んだ。



その瞬間、宮中全体が揺れた。

風が巻き上がり、遠くから黒い煙が空へと立ち上る。



禁書庫の奥。

封緘の巻が奪われた。

そこにあったはずの真実が、誰かの手に渡った。



花は直感する。



この宮中は、もう元の静けさには戻らない。



そして、自分の出生の秘密は、想像していたより遥かに大きく、帝位と歴史と呪いに絡む核心へと繋がっている。



朱皇が言う。



「花。覚悟を決めろ。これより先、お前はただの灰かぶりではいられない。お前は帝の許嫁として、私と共に真実へ踏み込むのだ」



その言葉に、花の胸は強く震えた。



自分が選んだ道ではない。

だが逃げたくない。



「……はい。離れません。朱皇様とともに、進みます」



朱皇の瞳が揺れ、微かに笑みが浮かんだ。

その直後、彼は愛刀を引き抜き、炎のような気配をまとわせた。



「よし。では行く。宮中に巣食う闇の主を暴くぞ」



花は頷き、朱皇の背へと寄り添う。

すでに後戻りはできなかった。



その瞬間、風が吹き荒れ、どこかで花のかんざしが微かに震えた。

まるで母が何かを伝えようとしているかのように。



宮中の運命が、音を立てて動き始めた。