夜明け前の後宮は、どこか異様な静けさに包まれていた。

灯の儀まであと三日。

だというのに、空気は重く、空っぽの廊下を歩くたび、花の足音だけが異様に響いた。



綺羅が背後を歩き、周囲を絶えず警戒している。



「花様……昨夜の影、必ずまた来ます。あの者たちは一度狙った獲物を諦めません。

しかも後宮内に協力者がいると考えるべきです」



花は喉の奥がぎゅっと痛むのを感じた。



「……わたし、狙われる理由が……まだ信じられません。母が……そんな血を持っていたなんて」



綺羅が言う。



「母君は、それでも花様を守るために後宮を出ました。あの方の想いが途切れなかったから……今、花様がここにいるのです」



花は小さく拳を握った。



そのとき、前方の曲がり角で、紅霞が立ち止まっていた。



薄桃色の衣を揺らし、ふわりと振り返る。

その笑顔は柔らかく、けれど底に小さな棘を隠している。



「花さん……。大丈夫? 昨夜、少し騒ぎがあったそうね」



声は優しげなのに、目だけが探るように光る。



花は軽く頭を下げた。



「ご心配ありがとうございます。わたしは……怪我はありません」



「そう、良かったわ」



紅霞はゆっくり花に近づき、小声で囁いた。



「でも、帝の私室に誰かが入り込んだなんて……絶対に普通じゃない。わたしなら、帝を守るために、そんな隙は作らないのだけれど」



綺羅が一歩前に出る。



「紅霞様。花様を責めるような言い方は⋯⋯」



「責めてなどいないわ。ただ、帝をお慕いする者として、言っているだけよ」



紅霞の瞳が細くなる。



「花さん……。あなた、本当に帝の傍にふさわしいの?」



空気が張りつめる。



だが花は、少しだけ顔を上げた。



「……ふさわしいかどうかは、わたしが決められるものではありません」



紅霞の目がわずかに揺れた。



「まぁ……そうね。でも、世の中には決めたい人が多いのよ?」



紅霞は微笑み、袖を揺らしながら去っていった。

歩み去る背中は柔らかく見えて、その実、氷のように冷たい。



綺羅が小さく息をつく。



「……あれで優しさを装っているつもりなんですから、厄介です」



花は胸に手を当てた。



紅霞の言葉が胸を刺していた。



昼下がり。

朱皇の執務室に呼ばれた花は、緊張で手が少し冷えていた。



扉を叩くと、朱皇の低い声が返る。



「入れ」



中は沈んだ静けさだが、朱皇の姿を見た瞬間、花の胸に不思議な安堵が広がった。



朱皇は書簡を置き、花に近づく。



「昨夜のこと……本当にすまなかった。私室まで影が入り込むとは、私の不覚だ」



花は慌てて首を振った。



「い、いえ!わたしのせいで、朱皇様が危険に」



「いいや、私が守れなかっただけだ」



朱皇は花の手を取り、じっと見つめた。

その瞳は、帝とは思えないほど真っ直ぐで熱を帯びている。



「花。灯の儀が近づくほど、お前に向けられる刃は増える。……だからこそ、私はお前を離さない」



花の胸が強く震える。



朱皇は続けた。



「灯の儀は、この国の帝の選定にも関わる。表向きは灯を捧げる清らかな儀式だが……帝の正当性を示す戦でもある」



「戦……?」



「そうだ。灯の高さ、揺らぎ、炎の色……その全てが帝家の力を示す。そして北枝の血を持つ巫女が灯を捧げることで、儀は完成する」



花は息を呑んだ。



「つまり……わたしは、儀に欠かせない存在……?」



「お前が欠ければ、灯の儀は成立せず、帝位を狙う者たちは混乱を武器にできる。だからこそ――狙われる」



花は静かに目を伏せた。



朱皇はそっと花の頬に手を添えた。



「だが……花。私はお前が危険だから傍に置いているのではない」



花の心臓が跳ねる。



朱皇の声は低く、熱を帯びていた。



「お前を……失いたくない。それが、帝としての私の意志だ」



花の胸が熱く、痛いほどに締めつけられた。



言葉を返す前に――コン、と扉が叩かれた。



朱皇はゆっくり手を離し、声を整える。



「入れ」



現れたのは、後宮の監察官・雲璃うんりだった。

鋭い目と冷たい表情を持ち、後宮の秩序を守る女。



「帝。緊急の報告がございます。先ほど、紅霞様の侍女が倒れているのが発見されました」



花は息を呑む。



「倒れて……?」



雲璃は短く頷く。



「はい。重い毒が使われています。ただ⋯⋯侍女は意識を失う前に、ある言葉を残しました」



朱皇が眉をひそめる。



「言え」



「……狙われているのは……灯の巫女と」



花の背に冷たいものが走る。



朱皇は即座に立ち上がった。



「花を守る警備を三倍にしろ。後宮の出入りをすべて封鎖する。疑わしき者は全て調べよ」



雲璃は深く頭を下げる。



「はっ!」



扉が閉じると、朱皇は花の肩に手を置いた。



「花。もう後宮の誰も信用してはならぬ。影は……お前だけでなく、儀そのものを壊すつもりだ」



花は唇を噛んだ。



「わたし、怖いです……誰を信じていいのか……自分の存在が、後宮を乱してしまっているみたいで……」



朱皇は花の手を強く握った。



「いいか。混乱の原因は影であり、お前ではない。お前がいるからこそ私は帝でいられる。花……お前だけは、私を信じていればいい」



花の胸が熱く満ちていった。



その温度が、恐怖をゆっくり溶かしていく。



だがその瞬間。



遠くで鐘が鳴った。

重く低い、宫中に警告を告げる鐘。



綺羅が駆け込んでくる。



「朱皇様!花様!北枝の間が……何者かに荒らされました!!古文書が多数、奪われています!!」



朱皇の瞳が鋭く光る。



「……ついに動いたか」



花の胸が凍りつく。



朱皇は即座に命じた。



「花を安全な場所へ。私は北枝の間を確認する」



「朱皇様は……!?」



花が伸ばした手を、朱皇はそっと握り返す。



「大丈夫だ。だが――もし何があっても、花は生きろ。それだけは絶対に守れ」



その瞳は、燃えるように強かった。



花は震える声で答えた。



「朱皇様……どうか、無事で……」



朱皇は小さく微笑む。



「お前の灯がある限り、私は消えぬ」



そう言い残し、朱皇は影のように去っていった。



残された花の胸に、恐怖と焦燥が渦巻く。



灯の儀まで、あと二日。

影は禁じられた記録を奪い、後宮は混乱へと沈んでいく。



花は薄く震える手を胸に当てた。



わたしも、もう逃げられない。



その決意が生まれた瞬間、

廊下の奥で、誰かの影がゆっくりこちらを見つめていた。



その目は。

花のことを知り尽くしているかのように、静かで、冷たい。




花は、朱皇の背が完全に見えなくなるまで立ち尽くしていた。

胸の奥がざわつき、何かが軋むように痛む。

怖い。

だが同時に、その恐怖の奥で煮えるように燃えるものがある。



朱皇が一人で影の中心に踏み込むと知りながら、

ただ震えているだけの自分に腹が立った。



綺羅が静かに肩へ手を置く。



「花様……ここは一度、お部屋に戻りましょう。今の花様の顔は……まるで、嵐の中に置き去りにされた子どものようです」



花は小さく首を振った。



「綺羅……わたし、逃げてばかりでいたくない。朱皇様だけに、危険を背負わせたくない」



綺羅は、花を見つめる瞳に複雑な色を宿した。

それは忠誠でも憐れみでもなく、どこか誇らしげな、しかし不安を隠せないような光だった。



「花様……。あの方は帝です。帝には帝の戦があり、花様には花様の立場があります。……そして、花様は灯の巫女。逃げぬ覚悟を持つのは素晴らしいですが、どうか……ご自分の存在が、国の心臓であることを忘れないでください」



花はぎゅっと拳を握った。



「国の……心臓……」



その響きは大きすぎて、怖いほど重かった。

だが逃げるという選択肢は、もうどこにも残されていなかった。



二人が廊下を歩き出したその時。

風が、背からそっと吹き抜けた。



花ははっと振り向く。



遠くの柱の影で、誰かが立っていた。

顔も姿も、薄闇に溶けている。

ただその視線だけは、はっきりと花を狙い澄ましていた。



「誰……?」



花が声を漏らすと、影はゆらり、と動いた。

その瞬間、綺羅が目を鋭く光らせ、花を背後へ押しやる。



「花様、下がって!」



影が音もなく消えた。



綺羅は周囲をすばやく見渡し、低く呟いた。



「……確信しました。狙いは灯の儀を潰すことです。花様を殺すことでも、帝を脅かすことでもなく、儀そのものを破壊する」



花の背筋に、凍りつくものが這い上がる。



「儀を壊す……?」



綺羅は頷いた。



「はい。儀が壊れれば、帝家の血統の正当性が失われます。それは……帝に牙を向く者たちにとって、最大の好機なのです」



花の足がわずかに震えた。



「じゃあ……わたしは……」



「灯をともす鍵です。花様を壊せば、国の均衡が崩れます。狙うには十分すぎる価値があります」



価値。まるで他人のことのようだ。自分がそんなものを持っているとは、いまだに実感が湧かない。



だが、影が動いている事実だけは、どうあっても否定できなかった。



花の部屋へ戻ると、綺羅はすぐに扉と窓を点検し、警護の侍女たちに厳しく指示を出した。



部屋の灯が揺れ、柔らかな橙色が花の頬を照らす。

しかしその灯りが、逆に不安を増幅させているようだった。



綺羅は花の前に座り、深く息を吐いた。



「……花様。灯の儀まで、あと二日です。儀は後宮の中心紫苑殿で行われます。本来なら穏やかで神聖なはずの儀が……今年は、血で染まるかもしれません」



花は震えたまま言葉を出す。



「そんな……儀は、国を守るものなんでしょう……?どうして血を流す必要が……」



綺羅は静かに首を振る。



「守るために、血を流すのです。……この国は、そうやって何度も均衡を保ってきました。灯の儀は表向きこそ清らかですが、裏では帝位争いの真っただ中。誰もが帝を倒し、自分の血を正当だと証明しようと狙っているのです」



花は息を呑んだ。



回りくどい陰謀ではなく、

むしろ正面から帝を引きずり降ろす準備が静かに進んでいる。



それが恐ろしいほど、現実として迫ってくる。



「花様」



綺羅の声が柔らかくなった。



「あなたは朱皇様の光です。帝を導く灯火。だからこそ、必ず守られます。影がいくら襲おうと、帝が護るでしょう」



花は胸が熱くなるのを感じた。

朱皇の言葉が蘇る。



お前を失いたくない。

お前がいる限り、私は消えぬ。



消えない灯。

その言葉が、花の胸に静かに灯り始める。




その夜。

後宮全体が不気味なほどの静けさに包まれる。



空には雲が立ち込め、冴えた月光がわずかに覗いていた。

風が枯れ葉を鳴らし、遠くで鳥が一声だけ啼く。



花は眠れなかった。

眠ろうと目を閉じても、影の視線が脳裏に焼き付いて離れない。



——どうしてわたしが。

——本当に、母が巫女の血……?

——朱皇様はどうして、あんなにもわたしを見てくれるの?



次から次へと浮かぶ疑問に、胸がざわめき続ける。



布団の中で膝を抱えると、そこに母の匂いが残っているような錯覚がした。



「母さま…………逃げたくない……でも怖いの」



涙が零れそうになる。



その時。

コン。と、扉が小さく叩かれた。



花は息を呑む。



「……誰?」



返事はない。

ただ、扉の向こうに薄い気配だけが漂う。



綺羅ではない。

侍女たちでもない。

この静寂、この空気の濃さ⋯⋯違う。



花が身を固くした瞬間、

扉がキィとわずかに開いた。



「……花」



低く囁く声。

その声を聞いた瞬間、全身の緊張が緩む。



「朱皇様……?」



扉の隙間から朱皇の影が差し込む。



灯に照らされた朱皇の瞳は、昼の厳しさとはまるで違い、深く沈む湖のように静かだった。



「……眠れぬのだろうと思ってな」



花は胸が熱くなる。

朱皇は部屋の中へ入り、静かに扉を閉めた。



「影は動いた。だが……私はお前を守る。それを伝えたくて来た」



花の心が揺れる。



「朱皇様……こんな夜更けに……危険です……」



「危険は承知している。だが……花を一人にして眠らせる方が、もっと危険だ」



朱皇は花の手をそっと取り、自分の胸へ当てた。



硬く、強い鼓動が伝わってくる。



「聞こえるか。お前の灯があれば、私はいくらでも戦える。だから……怯えなくていい」



花の視界が滲む。



「朱皇様……わたし……わたし、足手まといじゃ……」



朱皇は即座に否定した。



「違う。お前がいるからこそ私は進める。灯の巫女がいて、帝は初めて帝になれる。……それが、この国の理だ」



花は涙を指で拭った。



「朱皇様……どうか……どうか……ご無事で……わたし……」



言葉の続きは震えて出てこない。



朱皇はその震える肩を、そっと抱き寄せた。



暖かい。

花は胸の奥がほどけていくのを感じた。



「花。お前の灯が、全てを照らす。だから……決して、自分を消すな」



その言葉は、胸の中心に深く根を下ろすように響いた。



朱皇はそっと花から離れ、立ち上がった。



「そろそろ戻らねば。だが……最後に一つだけ言っておく」



花が顔を上げる。



朱皇の瞳は、まるで紅の炎のように揺らいでいた。



「灯の儀が終わったら……私は、お前の運命を変えるつもりだ」



「わたしの……運命……?」



「そうだ。花。お前が后であろうと、なかろうと。私は、お前を選ぶのだ」



花の胸が激しく震える。



息ができないほどに、熱い。



朱皇は扉に手をかけ、振り返る。



「眠れ。お前の灯は……必ず、私が守る」



その言葉を残し、朱皇は静かに去っていった。



残された花の胸の中では、

恐怖と同じくらい強い、ある感情が息をし始めていた。



それは確かな恋の形を成しつつあった。



夜が深く沈む。

花は布団を握りしめたまま、朱皇の暖かさが消えない胸に手を置く。



灯の儀まで、あと一日。

影が動き始めた今、必ず何かが起こる。



花は、苦しくも温かい想いを抱えたまま、静かな夜の底で目を閉じた。



だが、その寝息を聞きながら、部屋の外の闇では確かに誰かが立ち尽くしていた。



花の名を、誰より知っている者。

その瞳は、朱皇と全く違う色で。

冷たく、深く、狂おしい執着を宿していた。





花は、掌に残る朱皇の温もりを振り払うように、そっと息を呑んだ。

その指先はまだ震えていた。

額に触れた彼の手の熱が、じりじりと胸の奥を焦がしつづけている。



だが落ち着きを取り戻す暇など、後宮には与えられない。

花の部屋の戸の向こうから、かすかな衣擦れの音がした。

静寂を破らぬよう潜められた気配。それなのに、確かにそこに誰かがいる。



花は灯りを消し、息を潜めた。

朱皇から贈られた小刀を布の陰へ忍ばせる。



影は、戸の外で止まった。

まるで中の気配を探るように。



やがて、低い囁き声がした。



「……やはり、いるのですね。灰花さま」



花の背筋が凍りついた。

声の主は梅蘭である。



だが、様子が妙だ。

いつもの傲慢な艶っぽさも、嫉妬に濁った毒も感じられない。

かすかに震えているような声だった。



「入っても……よろしいでしょうか」



戸がそっと開き、月光が差し込む。

灯りのない部屋で、梅蘭の顔は半ば影に沈んでいた。

しかし、濡れた瞳だけははっきり見えた。



「……梅蘭様?」



「灰花。あなたに伝えねばならないことがあります」



梅蘭は部屋に入ると、戸をしっかり閉めてから、花のすぐそばに膝をついた。

その仕草があまりに弱り切っていたため、花は思わず息を呑む。



「今日……皇太后様が私を呼びました。理由は、あなた」



花の心臓が、どくり、と大きく脈打つ。



「あなたの身分に、重大な疑いがあると」



花は息を呑む。

だが、梅蘭は続ける。



「けれど、皇太后様はまだ証拠を掴んでいません。今はただ、あなたを泳がせている段階……そう、おっしゃいました」



梅蘭はふるえる指をぎゅっと握りしめる。



「私は……あなたを恨んでいました。帝のお心を奪った女だと。ですが、今日、皇太后様のお言葉を聞き、背筋が凍ったのです。あの方は、あなたの命を簡単に奪おうとしている。そのためなら、手段を選ばない」



花は目を見開いた。



「私を……助けようとしているのですか?」



「私が、あなたを?……ええ。そう聞こえるでしょうね」



梅蘭は自嘲の笑みを浮かべた。



「帝がお心を寄せている相手を、皇太后様が許すはずがありません。あなたが本物の姫であろうと偽物であろうと、あの方にとっては同じ。邪魔なだけなのです」



花の胸の奥が、ずきりと刺された。

朱皇のやさしさ、温もり、言葉の数々が脳裏に蘇る。



朱皇様が危ない。



「皇太后様は、帝にも情報を渡していません。帝があなたを守りに動けば動くほど……あなたは狙われる」



花は震える声で問う。



「……どうすればいいのですか?」



「私の言葉を信じるのなら、今夜、後宮を出てください。せめて、皇太后様の目があなたを確実に敵と認識する前に」



後宮を出る。

朱皇のそばを離れる。

彼の想いを、応えられないまま捨てる。



花の胸に、痛みが走った。



「……逃げれば、朱皇様が……困るのでは」



「困るでしょうね。怒るでしょう。探すでしょう。だけど、あなたが死ぬよりはいい」



梅蘭の指が、花の手を強く握る。



「一度だけでいい。あなたも私も、後悔しない選択を。……灰花。あなたには、生きる価値がある」



梅蘭の涙がぽたりと花の手の甲に落ちた。

そのぬくもりに、花の胸が熱くなる。



「どうして、そこまで……」



「さあ、どうしてでしょうね。嫉妬ばかりしてきた私が、今さら、情けない話ですわ」



梅蘭は立ち上がると、小さな包みを差し出した。

夜着のまま逃げるにはあまりに不自然なため、外出用の衣と布靴が入っている。



「これは、私の部屋から持ってきました。あなたに似合うものではありませんけれど……目立たず逃げられる」



そして、梅蘭は深く頭を下げた。



「どうか、生きてください。そして――いつか、帝の前に戻れるなら……その時は、自分の意志で戻ってください」



花は震える唇を噛む。



「逃げたら……もう戻れない気がします」



「戻れるわ。帝が、あなたを愛しているのだから」



その言葉は、氷のように冷えた胸の底へじんと染みていった。

朱皇の声が頭に響く。



たとえ灰より出でたとしても、お前を選ぶのは私だ。



花は目を閉じ、震える息を吐く。



「……わかりました。行きます」



梅蘭はほっとしたように微笑んだ。

だが、その笑みは儚い。

彼女自身がどれほどの覚悟を背負っているか、花には痛いほど分かった。



花は衣に着替え、髪を布でまとめる。

亡き母のかんざしは胸元に固く結んだ紐の内側へと忍ばせた。



逃げるためではない。

戻るためだ。

いつか、朱皇の前に正しく立つ日のために。



夜風の冷たさを裂くように、闇の中でひそやかに花は立ち上がった。

梅蘭は戸口の前でそっと花の背を押す。



「急いで。北門の見張りは今夜、交代の時間が長く空きます。……私が作った隙です」



花は振り返る。



「梅蘭様……本当に、ありがとう」



「礼など……。どうか、幸せに」



一行改行



月光の下、花は走り出した。

足を踏み出すたび、胸の奥が張り裂けそうになる。

逃げるという罪悪感ではない。



朱皇と、離れてしまう恐怖。



後宮の高い塀が月の光に照らされ、影を落としている。

花はそれを横目に走る。

警備の足音が遠い。



いける。このままなら――。



だが、北門が見え始めたその時。



空気がぴん、と張りつめた。



花は足を止めた。

視線の先に、ひとりの人影が立っていた。



黒い衣。

夜の闇に溶けるようなその姿。

だが月光は、ひとつの特徴だけを鮮明に照らしだす。



金の双眸。



「……どこへ行くつもりだ、花」



朱皇だった。



花はその場に立ち尽くす。



「どうして……ここに……」



「お前が逃げる気配を、感じ取れぬと思ったか」



その声音は怒気を含んでいた。

だが、それ以上に深い悲しみが滲んでいた。



「私から逃げる理由を……言え」



花の胸は痛みで潰れそうになる。

言えない。

言えば、朱皇も危険になる。

皇太后の標的が自分だけでなく、彼にも向かうと分かってしまう。



だから言えない。



朱皇が一歩、花に近づく。

その足音のたび、花の心臓が跳ねた。



「花。私を……信じられないのか」



花は目を伏せ、唇を噛む。

朱皇は、花のすぐ目の前に立った。

伸ばされた手が、花の頬に触れようとしたその瞬間。



花は後ろへ下がった。



朱皇の手が空を切る。



「……そうか。そこまで、私を拒むか」



その声は氷のように冷たく、ひとりの少女を愛し、守ろうとしていた男の声ではなかった。



花は首を横に振る。



「違います。拒んでいるのではありません……朱皇様を、守りたいのです」



「守る?お前が私を?」



朱皇の瞳が、かすかに揺れた。



「私は帝だ。お前ひとり守れずに、何ができる」



花は胸元のかんざしに手を添えた。



「私のせいで、朱皇様に危険が及びます。私の身分が偽物だと疑われています。

皇太后様は……私を――消そうとしている」



朱皇の眉が鋭く動く。



「誰だ、それをお前に伝えたのは」



「……梅蘭様です」



「梅蘭?……あの女が、そこまで」



朱皇はゆっくりと花に近寄り、今度は逃げられないように両肩をそっと包む。



「花。逃げるくらいなら、私の手を取れ。お前を守ると誓った。たとえ相手が皇太后でも私は退かない」



花の胸が、熱くなる。

朱皇は真剣な眼差しで花を見つめる。



「私の隣に立て。逃げるな。私は本当に……お前を失いたくない」



花の喉から、ひゅ、と弱い息が漏れた。

涙がこぼれそうになる。

だがこれ以上迷えば、朱皇は本当に孤独に戦うことになる。



「……朱皇様。私は……どうすれば……」



朱皇は花の頬に触れ、そっと涙を拭った。



「私を信じればいい」



花は迷いを断ち切るように、ゆっくりと朱皇の手を握る。



「……はい」



朱皇の表情が、静かに緩んだ。



「それでいい」



だがその瞬間。



遠くで乾いた笛の音が響き渡った。



「っ……!」



朱皇が花を抱き寄せる。



「見つかったな。皇太后の連中だ」



花は震える手で朱皇の衣を掴む。



「朱皇様……!」



「心配するな。お前は、私が連れ戻す」



夜の闇を裂くように、複数の影が走り寄ってくる。

その先頭には、皇太后直属の禁軍・黒鴉隊の姿があった。



月光を反射する黒い甲冑。

顔を覆う面具。

花を見つけ、朱皇を見つけ、その動きを止める。



沈黙の一瞬が、凍てつくように長く伸びた。



そして黒鴉隊が剣を抜いた。



「帝の御身を確保せよ!女は連行!」



朱皇が花の手を強く握った。



「花、走れ!」



花も応え、駆け出す。

朱皇は彼女の背後を守りながら黒鴉隊を切り裂くように動いた。



夜の帝都に、鋭い剣閃と咆哮が響きわたった。



そして運命の歯車は、大きく動き始めたのである。




黒鴉隊の足音が迫る中、花は朱皇に引かれながら必死に暗い回廊を駆け抜けた。



息は上がり、胸は痛く、足は鉛のように重くなっていく。



それでも立ち止まれば、そこで全てが終わると分かっていた。



朱皇は何度も後ろを振り返り、花を守るように身を寄せる。

剣を抜く気配はあるのに、決して花の手を離さなかった。



帝としての威厳ではなく、ひとりの男として、彼は花を守ろうとしていた。



「まだ追ってくるか……しぶとい連中だ」



朱皇は小さく舌を打ち、花の手を握る力を強めた。花の指先が痛いほどに熱を帯びる。それでも、その痛みすら愛おしく感じてしまう自分がいた。



「朱皇様、私のせいで……!」



「黙っていろ。今は逃げるのが先だ」



短く強い声。だがその奥に、どこか震えた響きがあった。

怖いのは、私ではなく、彼のほうなのだ。

花はそう気付いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。



遠くから甲冑の重い音が響く。後宮の庭を囲む石畳に、黒鴉隊の影が落ちていく。



数が多すぎる。普通の侍女ひとりを捕らえるための戦力ではない。



これは最初から皇太后の命令による処刑だ。



「朱皇様……もし、私のせいで、あなたまで……!」



「いいから前を見る!」



朱皇が花の肩を抱き寄せ、身を低くさせながら建物の影に身を滑り込ませた。朱皇の衣の香が、濃い夜気に混じり、花の鼓動をさらに早める。



「ここだ、近道になる」



後宮の裏門に続く小径は、手入れもされず雑草が生い茂っている。宮仕えの者ですらほとんど通らない道。



こんな抜け道を知っているのは、帝である彼だからこそだろう。



暗闇に目が慣れてきたころ、ずしりとした鉄の扉が視界に入った。朱皇が懐から鍵を取り出し、素早く解錠する。



その瞬間、背後で草がゆれ、足音が近づいた。



「まずい……もう来ている」



朱皇は戸を押し開け、花を先に押しやった。



「花、行け!」



「朱皇様は?」



「後で追う。すぐ行け!」



だが花は戸口で振り返り、必死に首を振った。



「いやです!置いてはいけません!」



朱皇の表情が一瞬だけ揺れた。

まるで胸の奥に刺さった何かが痛んだように、苦しげに眉を寄せる。



「私は帝だ。ここで逃げれば、後宮に残る者はすべて処罰される。私が引きつけなければ、この騒ぎはもっと大きくなる」



「それでも……!」



「花。私は、お前を守りたい」



夜風がひゅうと吹き、朱皇の髪を揺らした。金の瞳が暗闇に溶け、ほんの一瞬、悲痛なほどに脆い光を放つ。



「逃げても、私はお前を必ず見つける。だから行け」



花の喉が震える。

涙が溢れそうになるのを、必死に噛み殺した。



その時、黒鴉隊の甲高い笛が響いた。完全に位置を把握されたのだ。



「……行きます。でも、絶対に、絶対に生きてください。私も……戻りますから」



「もう一度言え」



「戻ります。朱皇様のところへ」



朱皇は微かに目を細め、花の頬に触れた。

その指先は熱く、そして震えていた。



「必ずだ……花」



その一言に、花の心は強く固まる。迷いはない。

彼のために生きる⋯⋯。それが、逃げる理由ではなく、生き抜くための目的になった。



花は裏門へ飛び出した。



背後で鉄の扉が閉まる音がし、朱皇の気配が遠ざかっていく。



足音や剣の金属音、命令を叫ぶ声。

全てが、扉の向こうへ吸い込まれた。



花は走る。

夜の帝都はひどく冷たく、闇は深い。

けれど、胸の中にはひとつだけ熱いものが灯り続けている。



朱皇様が、待っている。



叶わぬ夢だと笑われても、嘘でも構わない。

彼が自分の名を呼んだあの瞬間、花の生は確かに変わったのだ。



しかし、現実は残酷だ。



裏門を出た花の前には、すでに数人の黒鴉隊が潜んでいた。



皇太后の追手はひとつの道だけを塞ぐような甘い敵ではない。

逃げ道すら全て読まれている。



花の胸がざわめく。

ここで捕まれば、朱皇は――。



その瞬間、背後の塀の上から、影が飛び降りた。

草が三日月状に散り、黒鴉隊が驚く。



「動くな」



低く張り詰めた声。黒い外套。

月光に照らされ、刃のように鋭い目が光る。



それは花が奉公していた屋敷でただひとり優しくしてくれた男、元武官の廉(れん)だった。



「花、こっちだ」



驚きながらも、花は廉に手を引かれる。



「なぜ……ここに?」



「恩を返しに来ただけだ。逃げ道は俺が作る。急げ!」



廉は鋭い眼光で黒鴉隊をにらみ、懐から煙玉を取り出して地面に叩きつけた。

白煙が夜気に広がり、その隙に花は再び走り出す。



胸が張り裂けるほど苦しくても、足が痛くても、もう止まれない。



自分が生きることで、朱皇が救われるかもしれない。

彼の手を再び取る未来を信じて。



夜の帝都が遠くに揺れ、月が淡く光を落とす中で花は闇を裂くように走り続けた。





夜風が冷たく頬を刺す。

花は息を切らしながら、廉に手を引かれ、細い裏道を駆け抜けた。



背後で黒鴉隊の甲冑が金属音を立て、石畳に反響する。

その音は、まるで死神の鼓動のように、花の胸を突き刺した。



「ここから先は……さらに危険だ」



廉の低い声が、花の耳に届く。



「黒鴉隊はまだ追ってくる。門は封鎖されている可能性がある」



「そんな……」



花は短く息を吐いた。

走るたびに足が重くなる。

胸は早鐘のように打ち、手のひらは汗で滑る。

だが、振り返ることはできない。

朱皇の笑顔が、胸の奥で強く光っているから。



暗い路地を抜けると、目の前に小さな川が流れていた。

石の橋は古く、夜風に揺れる柳が影を落としている。

だが橋の向こうには、追手の影がちらりと見えた。



「このままでは……」



花が小さく呟くと、廉が鋭い目を光らせた。



「俺が食い止める。花は橋を渡れ」



その言葉に、花の心が震える。

逃げるのは自分だけでいいのか。



朱皇の元へ戻る日はまだ遠いかもしれない。

だが今、立ち止まれば二人とも危ない。



花は頷き、石橋を駆け抜けた。

夜の川面に映る月が、まるで二人を見守るかのように揺れている。



「花!」



廉の叫びが背後で響いた。

振り返る暇もなく、花は走る。

石橋の向こう、細い路地を抜けた先に小屋がある。

そこが一時の隠れ場所だ。



小屋に駆け込むと、花は息を整える。

心臓が痛いほど打ち、膝を抱えたまま床に座り込む。

汗まみれの髪から水滴が落ち、静かな夜に小さな音を立てる。



「……ふぅ」



花の肩が小さく揺れる。

その背中に、誰かの視線が突き刺さる。

振り返ると、そこには廉が立っていた。



「まだ動けるか?」



低く、厳しい声。



花は顔を上げ、頷いた。



「はい……」



「よし。だがここからが本番だ」



廉は短く言うと、懐から地図を取り出した。



「後宮の東門を使えば、敵の目を避けつつ朱皇の近くまで戻れる」



花は息をのむ。



「そんな……行けるのでしょうか?」



「行ける。だが油断するな」



廉の眼光が鋭く光る。



「夜の帝都は、まるで迷宮だ。誰も味方はいないと思え」



花はその言葉に背筋が寒くなる。けれど、胸の奥では朱皇への想いが強く燃えていた。



「行きます。絶対に……朱皇様のところへ戻ります」



廉は一瞬微笑んだ。

だが、それはすぐに険しい表情に戻る。



「よし……なら進もう」



二人は闇に紛れ、細い路地を抜け、屋根伝いに進む。

月光に照らされ、石垣に手をつき、跳ね上がるたびに心臓が破裂しそうになる。



遠くで黒鴉隊の声が響く。

追跡はすぐそこだ。



「花、声を出すな」



廉の耳元で低く囁く。

花は頷き、息を潜める。



闇が深いほど、音は鋭く、命を削る刃となる。



やがて二人は高い塀を前に立ち止まった。

その向こうには、朱皇の姿がちらりと見える。

月光に映る金の衣。

彼の瞳は、花を見つめ、探し、待っている。



「朱皇様……」



花は胸の奥で小さくつぶやく。

涙が頬を伝いそうになるが、震える唇でそれを押さえた。



「今度こそ、絶対に会いに行く……」



その決意が、心臓を強く打たせる。

夜の帝都が、闇の迷宮が、全て彼女を試すかのように伸びている。

しかし花は恐れない。

朱皇のために、生き抜くと心に誓ったからだ。



「花!」



遠くで朱皇の声が響く。

その声は、追手の闇を切り裂く剣のように鋭く、暖かく、確かだった。



花は駆け出す。

朱皇は彼女を待っている。

運命も陰謀も、全てを振り切って。




石垣を越えた先、広い中庭が花の目に飛び込んできた。

月光に照らされた砂利の光景は、まるで銀色の海のように揺れ、闇を一層深く見せる。



だが、視界の隅で動く影がある。黒鴉隊だ。数は増え、もはや包囲は避けられない。



「花、ここで息を止めろ」



廉が低く言う。

その手は鋭く、まるで刃のように夜気を切る。



「彼らは動きに反応する。無闇に走れば死ぬ」



花は震える手を握りしめる。

胸の奥で、朱皇の言葉が鳴る。



たとえ灰より出でたとしても、お前を選ぶのは私だ。



その想いが、恐怖よりも強くなっている。

花は静かに頷いた。

走るのではなく、待つ。⋯⋯この瞬間に全てを賭ける覚悟。



背後で黒鴉隊の気配が迫る。

甲高い呼吸、鎧が擦れる音、剣を抜く冷たい金属音。



だが花は目を閉じず、静かに息を整える。



「朱皇様……待っていてください」



心の中で小さく誓う。

逃げるだけではない。生きて戻るための戦いだ。



一瞬の静寂の後、黒鴉隊の最前列が動いた。

しかし、その瞬間、夜闇を裂くように光と音が走った。



飛び降りる影、弓矢の飛ぶ音、鋭い刃が空を切る。



「――朱皇様!」



花の視界に、金の衣が揺れる。

朱皇が黒鴉隊の前に立ちはだかり、まるで嵐そのもののように、敵を切り裂く。

その姿は、帝であり、守護者であり、彼女を抱きしめる男の全てだった。



「花、ここだ!」



朱皇が叫び、両手を広げる。



花は迷わずその腕に飛び込んだ。

抱きしめられる瞬間、胸の奥で張り詰めていた恐怖が、一気に溶けていく。



「朱皇様……!」



声が夜空に震えた。



朱皇の手が花の背を強く抱く。



「生きろ。絶対に生きるんだ、灰花」



花の胸に、涙が滝のように溢れた。

恐怖も、悲しみも、全てが熱い感情に変わる。

逃げ延びた先に、二人の未来が光を差している。



その瞬間、黒鴉隊の追撃が止まった。

朱皇の威光に押され、指揮官の一人が恐怖に凍ったのだ。

だが油断はできない。夜はまだ深く、敵は確実に残っている。



「今だ、花、逃げるぞ」



朱皇が花の手を取り、闇を裂くように駆け出す。

廉が後方で援護する。

三人の影が、月光の銀色の道を駆け抜ける。



花の胸に、決意が深く刻まれる。

これまで逃げてきた自分とは違う。

帝の隣で、一輪の花として咲くための戦いが、ここから本格的に始まる。



月光に照らされた帝都の夜、風が二人の髪を揺らす。

花は朱皇の手を強く握り返す。

そして心の中で、強く呟いた。



「……私は、朱皇様のそばで、咲きます」



朱皇はその声を聞き、微かに笑った。



「灰花、よく言った」



二人の足音が、夜の帝都にこだまし、静かな闇を切り裂いた。

陰謀と恐怖に満ちた夜はまだ終わらない。



しかし、花はもはや恐れず、朱皇と共に歩む覚悟を決めたのだ。



灰より生まれた花は、帝の光の中で、ついに自らの運命を握った。