夜明け前の後宮は、どこか異様な静けさに包まれていた。
灯の儀まであと三日。
だというのに、空気は重く、空っぽの廊下を歩くたび、花の足音だけが異様に響いた。
綺羅が背後を歩き、周囲を絶えず警戒している。
「花様……昨夜の影、必ずまた来ます。あの者たちは一度狙った獲物を諦めません。しかも後宮内に協力者がいると考えるべきです」
花は喉の奥がぎゅっと痛むのを感じた。
「……わたし、狙われる理由が……まだ信じられません。母が……そんな血を持っていたなんて」
綺羅が言う。
「母君は、それでも花様を守るために後宮を出ました。あの方の想いが途切れなかったから……今、花様がここにいるのです」
花は小さく拳を握った。
そのとき、前方の曲がり角で、紅霞が立ち止まっていた。
薄桃色の衣を揺らし、ふわりと振り返る。
その笑顔は柔らかく、けれど底に小さな棘を隠している。
「花さん……。大丈夫? 昨夜、少し騒ぎがあったそうね」
声は優しげなのに、目だけが探るように光る。
花は軽く頭を下げた。
「ご心配ありがとうございます。わたしは……怪我はありません」
「そう、良かったわ」
紅霞はゆっくり花に近づき、小声で囁いた。
「でも、帝の私室に誰かが入り込んだなんて……絶対に普通じゃない。わたしなら、帝を守るために、そんな隙は作らないのだけれど」
綺羅が一歩前に出る。
「紅霞様。花様を責めるような言い方は⋯⋯」
「責めてなどいないわ。ただ、帝をお慕いする者として、言っているだけよ」
紅霞の瞳が細くなる。
「花さん……。あなた、本当に帝の傍にふさわしいの?」
空気が張りつめる。
だが花は、少しだけ顔を上げた。
「……ふさわしいかどうかは、わたしが決められるものではありません」
紅霞の目がわずかに揺れた。
「まぁ……そうね。でも、世の中には決めたい人が多いのよ?」
紅霞は微笑み、袖を揺らしながら去っていった。
歩み去る背中は柔らかく見えて、その実、氷のように冷たい。
綺羅が小さく息をつく。
「……あれで優しさを装っているつもりなんですから、厄介です」
花は胸に手を当てた。
紅霞の言葉が胸を刺していた。
昼下がり。
朱皇の執務室に呼ばれた花は、緊張で手が少し冷えていた。
扉を叩くと、朱皇の低い声が返る。
「入れ」
中は沈んだ静けさだが、朱皇の姿を見た瞬間、花の胸に不思議な安堵が広がった。
朱皇は書簡を置き、花に近づく。
「昨夜のこと……本当にすまなかった。私室まで影が入り込むとは、私の不覚だ」
花は慌てて首を振った。
「い、いえ!わたしのせいで、朱皇様が危険に」
「いいや、私が守れなかっただけだ」
朱皇は花の手を取り、じっと見つめた。
その瞳は、帝とは思えないほど真っ直ぐで熱を帯びている。
「花。灯の儀が近づくほど、お前に向けられる刃は増える」
朱皇は続けた。
「灯の儀は、この国の帝の選定にも関わる。表向きは灯を捧げる清らかな儀式だが……帝の正当性を示す戦でもある」
「戦……?」
「そうだ。揺らぎ、炎の色……その全てが帝家の力を示す。そして北枝の血を持つ巫女が灯を捧げることで、儀は完成する」
花は息を呑んだ。
「つまり……わたしは、儀に欠かせない存在……?」
「お前が欠ければ、灯の儀は成立せず、帝位を狙う者たちは混乱を武器にできる。だからこそ狙われる」
花は静かに目を伏せた。
朱皇はそっと花の頬に手を添えた。
「だが……花。私はお前が危険だから傍に置いているのではない」
花の心臓が跳ねる。
朱皇の声は低く、熱を帯びていた。
「お前を……失いたくない。それが、帝としての私の意志だ」
花の胸が熱く、痛いほどに締めつけられた。
言葉を返す前に、――コン⋯⋯と扉が叩かれた。
朱皇はゆっくり手を離し、声を整える。
「入れ」
現れたのは、後宮の監察官・雲璃だった。
鋭い目と冷たい表情を持ち、後宮の秩序を守る女。
「帝。緊急の報告がございます。先ほど、紅霞様の侍女が倒れているのが発見されました」
花は息を呑む。
「倒れて……?」
雲璃は短く頷く。
「はい。毒が使われています。ただ⋯⋯侍女は意識を失う前に、ある言葉を残しました」
朱皇が眉をひそめる。
「言え」
「……狙われているのは……灯の巫女と」
花の背に冷たいものが走る。
朱皇は即座に立ち上がった。
「花を守る警備を三倍にしろ。後宮の出入りをすべて封鎖する。疑わしき者は全て調べよ」
雲璃は深く頭を下げる。
「はっ!」
扉が閉じると、朱皇は花の肩に手を置いた。
「花。もう後宮の誰も信用してはならぬ。影は……お前だけでなく、儀そのものを壊すつもりだ」
花は唇を噛んだ。
朱皇は花の手を強く握った。
「いいか。混乱の原因は影であり、お前ではない。お前がいるからこそ私は帝でいられる。花……お前だけは、私を信じていればいい」
花の胸が熱く満ちていった。
その温度が、恐怖をゆっくり溶かしていく。
だがその瞬間。
遠くで鐘が鳴った。
重く低い、宫中に警告を告げる鐘。
綺羅が駆け込んでくる。
「朱皇様!花様!北枝の間が……何者かに荒らされました!!古文書が多数、奪われています!!」
朱皇の瞳が鋭く光る。
「……動いたか」
朱皇は即座に命じた。
「花を安全な場所へ。私は北枝の間を確認する」
「朱皇様は……!?」
花が伸ばした手を、朱皇はそっと握り返す。
「大丈夫だ。だがもし何があっても、花は生きろ。それだけは絶対に守れ」
その瞳は、燃えるように強かった。
花は震える声で答えた。
「朱皇様……どうか、無事で……」
朱皇は小さく微笑む。
「お前の灯がある限り、私は消えぬ」
そう言い残し、朱皇は影のように去っていった。
残された花の胸に、恐怖と焦燥が渦巻く。
灯の儀まで、あと二日。
影は禁じられた記録を奪い、後宮は混乱へと沈んでいく。
花は薄く震える手を胸に当てた。
わたしも、もう逃げられない。
その決意が生まれた瞬間、
廊下の奥で、誰かの影がゆっくりこちらを見つめていた。
その目は花のことを知り尽くしているかのように、静かで、冷たい。
花は、朱皇の背が完全に見えなくなるまで立ち尽くしていた。
胸の奥がざわつき、何かが軋むように痛む。
怖い。
だが同時に、その恐怖の奥で煮えるように燃えるものがある。
朱皇が一人で影の中心に踏み込むと知りながら、ただ震えているだけの自分に腹が立った。
綺羅が静かに肩へ手を置く。
「花様……ここは一度、お部屋に戻りましょう。今の花様の顔は……まるで、嵐の中に置き去りにされた子どものようです」
花は小さく首を振った。
「綺羅……わたし、逃げてばかりでいたくない。朱皇様だけに、危険を背負わせたくない」
綺羅は、花を見つめる瞳に複雑な色を宿した。
それは忠誠でも憐れみでもなく、どこか誇らしげな、しかし不安を隠せないような光だった。
「花様……。あの方は帝です。帝には帝の戦があり、花様には花様の立場があります。……そして、花様は灯の巫女。逃げぬ覚悟を持つのは素晴らしいですが、どうか……ご自分の存在が、国の心臓であることを忘れないでください」
花はぎゅっと拳を握った。
「国の……心臓……」
その響きは大きすぎて、怖いほど重かった。
だが逃げるという選択肢は、もうどこにも残されていなかった。
二人が廊下を歩き出したその時。
風が、背からそっと吹き抜けた。
花ははっと振り向く。
遠くの柱の影で、誰かが立っていた。
顔も姿も、薄闇に溶けている。
「誰……?」
花が声を漏らすと、影はゆらり、と動いた。
その瞬間、綺羅が目を鋭く光らせ、花を背後へ押しやる。
「花様、下がって!」
影が音もなく消えた。
綺羅は周囲をすばやく見渡し、低く呟いた。
「……確信しました。やはり狙いは灯の儀を潰すことです。花様を殺すことでも、帝を脅かすことでもなく、儀そのものを破壊する」
花の背筋に、凍りつくものが這い上がる。
「儀を壊す……?」
綺羅は頷いた。
「はい。儀が壊れれば、帝家の血統の正当性が失われます。それは……帝に牙を向く者たちにとって、最大の好機なのです」
花の足がわずかに震えた。
「じゃあ……わたしは……」
「灯をともす鍵です。花様を壊せば、国の均衡が崩れます。狙うには十分すぎる価値があります」
価値。まるで他人のことのようだ。自分がそんなものを持っているとは、いまだに実感が湧かない。
だが、影が動いている事実だけは、どうあっても否定できなかった。
花の部屋へ戻ると、綺羅はすぐに扉と窓を点検し、警護の侍女たちに厳しく指示を出した。
部屋の灯が揺れ、柔らかな橙色が花の頬を照らす。
しかしその灯りが、逆に不安を増幅させているようだった。
綺羅は花の前に座り、深く息を吐いた。
「……花様。灯の儀まで、あと二日です。儀は後宮の中心花蓮殿で行われます。本来なら穏やかで神聖なはずの儀が……今年は、血で染まるかもしれません」
花は震えたまま言葉を出す。
「そんな……儀は、国を守るものなんでしょう……?どうして血を流す必要が……」
綺羅は静かに首を振る。
「守るために、血を流すのです。……この国は、そうやって何度も均衡を保ってきました。灯の儀は表向きこそ清らかですが、裏では帝位争いの真っただ中。誰もが帝を倒し、自分の血を正当だと証明しようと狙っているのです」
花は息を呑んだ。
回りくどい陰謀ではなく、
むしろ正面から帝を引きずり降ろす準備が静かに進んでいる。
それが恐ろしいほど、現実として迫ってくる。
「花様」
綺羅の声が柔らかくなった。
「あなたは朱皇様の光です。帝を導く灯火。だからこそ、必ず守られます。影がいくら襲おうと、帝が護るでしょう」
花は胸が熱くなるのを感じた。
朱皇の言葉が蘇る。
お前を失いたくない。
お前がいる限り、私は消えぬ。
消えない灯。
その言葉が、花の胸に静かに灯り始める。
その夜。
後宮全体が不気味なほどの静けさに包まれる。
空には雲が立ち込め、冴えた月光がわずかに覗いていた。
風が枯れ葉を鳴らし、遠くで鳥が一声だけ啼く。
花は眠れなかった。
眠ろうと目を閉じても、影の視線が脳裏に焼き付いて離れない。
——どうしてわたしが。
——本当に、母が巫女の血……?
——朱皇様はどうして、あんなにもわたしを見てくれるの?
次から次へと浮かぶ疑問に、胸がざわめき続ける。
布団の中で膝を抱えると、そこに母の匂いが残っているような錯覚がした。
「母さま…………逃げたくない……でも怖いの」
涙が零れそうになる。
その時。
コン。と、扉が小さく叩かれた。
花は息を呑む。
「……誰?」
返事はない。
ただ、扉の向こうに薄い気配だけが漂う。
綺羅ではない。
侍女たちでもない。
この静寂、この空気の濃さ⋯⋯違う。
花が身を固くした瞬間、扉がキィとわずかに開いた。
「……花」
低く囁く声。
その声を聞いた瞬間、全身の緊張が緩む。
「朱皇様……?」
扉の隙間から朱皇の影が差し込む。
灯に照らされた朱皇の瞳は、昼の厳しさとはまるで違い、深く沈む湖のように静かだった。
「……眠れぬのだろうと思ってな」
花は胸が熱くなる。
朱皇は部屋の中へ入り、静かに扉を閉めた。
「影は動いた。だが……私はお前を守る。それを伝えたくて来た」
花の心が揺れる。
「朱皇様……こんな夜更けに……危険です……」
「危険は承知している。だが……花を一人にして眠らせる方が、もっと危険だ」
朱皇は花の手をそっと取り、自分の胸へ当てた。
硬く、強い鼓動が伝わってくる。
「聞こえるか。お前の灯があれば、私はいくらでも戦える。だから……怯えなくていい」
花の視界が滲む。
「朱皇様……わたし……わたし、足手まといじゃ……」
朱皇は即座に否定した。
「違う。お前がいるからこそ私は進める。灯の巫女がいて、帝は初めて帝になれる。……それが、この国の理だ」
花は涙を指で拭った。
「朱皇様……どうか……どうか……ご無事で……わたし……」
言葉の続きは震えて出てこない。
朱皇はその震える肩を、そっと抱き寄せた。
暖かい。
花は胸の奥がほどけていくのを感じた。
「花。お前の灯が、全てを照らす。だから……決して、自分を消すな」
その言葉は、胸の中心に深く根を下ろすように響いた。
朱皇はそっと花から離れ、立ち上がった。
「そろそろ戻らねば。だが……最後に一つだけ言っておく」
花が顔を上げる。
朱皇の瞳は、まるで紅の炎のように揺らいでいた。
「灯の儀が終わったら……私は、お前の運命を変えるつもりだ」
「わたしの……運命……?」
花の胸が激しく震える。
息ができないほどに、熱い。
朱皇は扉に手をかけ、振り返る。
「眠れ。お前の灯は……必ず、私が守る」
その言葉を残し、朱皇は静かに去っていった。
残された花の胸の中では、恐怖と同じくらい強い、ある感情が息をし始めていた。
それは恋の形を成しつつあった。
夜が深く沈む。
花は布団を握りしめたまま、朱皇の暖かさが消えない胸に手を置く。
灯の儀まで、あと一日。
影が動き始めた今、必ず何かが起こる。
花は、苦しくも温かい想いを抱えたまま、静かな夜の底で目を閉じた。
だが、その寝息を聞きながら、部屋の外の闇では確かに誰かが立ち尽くしていた。
花の名を、誰より知っている者。
その瞳は、朱皇と全く違う色で。
冷たく、深く、狂おしい執着を宿していた。
花は、掌に残る朱皇の温もりを振り払うように、そっと息を呑んだ。
その指先はまだ震えていた。
額に触れた彼の手の熱が、じりじりと胸の奥を焦がしつづけている。
だが落ち着きを取り戻す暇など、後宮には与えられない。
花の部屋の戸の向こうから、かすかな衣擦れの音がした。
静寂を破らぬよう潜められた気配。それなのに、確かにそこに誰かがいる。
花は灯りを消し、息を潜めた。
朱皇から贈られた小刀を布の陰へ忍ばせる。
影は、戸の外で止まった。
まるで中の気配を探るように。
やがて、低い囁き声がした。
「……やはり、いるのですね。花さま」
花の背筋が凍りついた。
声の主は梅蘭である。
だが、様子が妙だ。
いつもの傲慢な艶っぽさも、嫉妬に濁った毒も感じられない。
かすかに震えているような声だった。
「入っても……よろしいでしょうか」
戸がそっと開き、月光が差し込む。
灯りのない部屋で、梅蘭の顔は半ば影に沈んでいた。
しかし、濡れた瞳だけははっきり見えた。
「……梅蘭様?」
「花。あなたに伝えねばならないことがあります」
梅蘭は部屋に入ると、戸をしっかり閉めてから、花のすぐそばに膝をついた。
その仕草があまりに弱り切っていたため、花は思わず息を呑む。
「今日……皇太后様が私を呼びました。理由は、あなた」
花の心臓が、どくり、と大きく脈打つ。
「あなたの身分に、重大な疑いがあると」
花は息を呑む。
だが、梅蘭は続ける。
「けれど、皇太后様はまだ証拠を掴んでいません。今はただ、あなたを泳がせている段階……そう、おっしゃいました」
梅蘭はふるえる指をぎゅっと握りしめる。
「私は……あなたを恨んでいました。帝のお心を奪った女だと。ですが、今日、皇太后様のお言葉を聞き、背筋が凍ったのです。あの方は、あなたの命を簡単に奪おうとしている。そのためなら、手段を選ばない」
花は目を見開いた。
「私を……助けようとしているのですか?」
「私が、あなたを?……ええ。そう聞こえるでしょうね」
梅蘭は自嘲の笑みを浮かべた。
「帝がお心を寄せている相手を、皇太后様が許すはずがありません。あなたが本物の姫であろうと偽物であろうと、あの方にとっては同じ。邪魔なだけなのです」
花の胸の奥が、ずきりと刺された。
朱皇のやさしさや温もり、言葉の数々などが脳裏に蘇る。
朱皇様が危ない。
「皇太后様は、帝にも情報を渡していません。帝があなたを守りに動けば動くほど……あなたは狙われる」
花は震える声で問う。
「……どうすればいいのですか?」
「私の言葉を信じるのなら、今夜、後宮を出てください。せめて、皇太后様の目があなたを確実に敵と認識する前に」
後宮を出る。
朱皇のそばを離れる。
彼の想いを、応えられないまま捨てる。
花の胸に、痛みが走った。
「……逃げれば、朱皇様が……困るのでは」
「困るでしょうね。怒るでしょう。探すでしょう。だけど、あなたが死ぬよりはいい」
梅蘭の指が、花の手を強く握る。
「一度だけでいい。あなたも私も、後悔しない選択を。……花。あなたには、生きる価値がある」
梅蘭の涙がぽたりと花の手の甲に落ちた。
そのぬくもりに、花の胸が熱くなる。
「どうして、そこまで……」
「さあ、どうしてでしょうね。嫉妬ばかりしてきた私が、今さら、情けない話ですわ」
梅蘭は立ち上がると、小さな包みを差し出した。
夜着のまま逃げるにはあまりに不自然なため、外出用の衣と布靴が入っている。
「これは、私の部屋から持ってきました。あなたに似合うものではありませんけれど……目立たず逃げられる」
そして、梅蘭は深く頭を下げた。
「どうか、生きてください。そしていつか、帝の前に戻れるなら……その時は、自分の意志で戻ってください」
花は震える唇を噛む。
「逃げたら……もう戻れない気がします」
「戻れるわ。帝が、あなたを愛しているのだから」
その言葉は、氷のように冷えた胸の底へじんと染みていった。
朱皇の声が頭に響く。
たとえ灰より出でたとしても、お前を選ぶのは私だ。
花は目を閉じ、震える息を吐く。
「……わかりました。行きます」
梅蘭はほっとしたように微笑んだ。
だが、その笑みは儚い。
彼女自身がどれほどの覚悟を背負っているか、花には痛いほど分かった。
花は衣に着替え、髪を布でまとめる。
亡き母のかんざしは胸元に固く結んだ紐の内側へと忍ばせた。
逃げるためではない。
戻るためだ。
いつか、朱皇の前に正しく立つ日のために。
夜風の冷たさを裂くように、闇の中でひそやかに花は立ち上がった。
梅蘭は戸口の前でそっと花の背を押す。
「急いで。北門の見張りは今夜、交代の時間が長く空きます。……私が作った隙です」
花は振り返る。
「梅蘭様……本当に、ありがとう」
「礼など……。どうか、幸せに」
月光の下、花は走り出した。
足を踏み出すたび、胸の奥が張り裂けそうになる。
逃げるという罪悪感ではない。
朱皇と、離れてしまう恐怖。
後宮の高い塀が月の光に照らされ、影を落としている。
花はそれを横目に走る。
警備の足音が遠い。
いける。このままなら――。
だが、北門が見え始めたその時。
空気がぴん、と張りつめた。
花は足を止めた。
視線の先に、ひとりの人影が立っていた。
黒い衣。
夜の闇に溶けるようなその姿。
だが月光は、ひとつの特徴だけを鮮明に照らしだす。
金の双眸。
「……どこへ行くつもりだ、花」
朱皇だった。
花はその場に立ち尽くす。
「どうして……ここに……」
「お前が逃げる気配を、感じ取れぬと思ったか」
その声音は怒気を含んでいた。
だが、それ以上に深い悲しみが滲んでいた。
「私から逃げる理由を……言え」
花の胸は痛みで潰れそうになる。
言えない。
言えば、朱皇も危険になる。
皇太后の標的が自分だけでなく、彼にも向かうと分かってしまう。
だから言えない。
朱皇が一歩、花に近づく。
その足音のたび、花の心臓が跳ねた。
「花。私を……信じられないのか」
花は目を伏せ、唇を噛む。
朱皇は、花のすぐ目の前に立った。
伸ばされた手が、花の頬に触れようとしたその瞬間。
花は後ろへ下がった。
朱皇の手が空を切る。
「……そうか。そこまで、私を拒むか」
その声は氷のように冷たく、ひとりの少女を愛し、守ろうとしていた男の声ではなかった。
花は首を横に振る。
「違います。拒んでいるのではありません……朱皇様を、守りたいのです」
「守る?お前が私を?」
朱皇の瞳が、かすかに揺れた。
「私は帝だ。お前ひとり守れずに、何ができる」
花は胸元のかんざしに手を添えた。
「私のせいで、朱皇様に危険が及びます。私の身分が偽物だと疑われています。皇太后様は……私を消そうとしている」
朱皇の眉が鋭く動く。
「誰だ、それをお前に伝えたのは」
「……梅蘭様です」
「梅蘭?……あの女が、そこまで」
朱皇はゆっくりと花に近寄り、今度は逃げられないように両肩をそっと包む。
「花。逃げるくらいなら、私の手を取れ。お前を守ると誓った。たとえ相手が皇太后でも私は退かない」
花の胸が、熱くなる。
朱皇は真剣な眼差しで花を見つめる。
「私の隣に立て。逃げるな。私は本当に……お前を失いたくない」
花の喉から、ひゅ、と弱い息が漏れた。
涙がこぼれそうになる。
「……朱皇様。私は……どうすれば……」
朱皇は花の頬に触れ、そっと涙を拭った。
「私を信じればいい」
花は迷いを断ち切るように、ゆっくりと朱皇の手を握る。
「……はい」
朱皇の表情が、静かに緩んだ。
「それでいい」
だがその瞬間。
遠くで乾いた笛の音が響き渡った。
「っ……!」
朱皇が花を抱き寄せる。
「見つかったな。皇太后の連中だ」
花は震える手で朱皇の衣を掴む。
「朱皇様……!」
「心配するな」
夜の闇を裂くように、複数の影が走り寄ってくる。
その先頭には、皇太后直属の禁軍・黒鴉隊の姿があった。
月光を反射する黒い甲冑。
顔を覆う面具。
花を見つけ、朱皇を見つけ、その動きを止める。
沈黙の一瞬が、凍てつくように長く伸びた。
そして黒鴉隊が剣を抜いた。
「帝の御身を確保せよ!女は連行!」
朱皇が花の手を強く握った。
「花、走れ!」
花も応え、駆け出す。
朱皇は彼女の背後を守りながら黒鴉隊を切り裂くように動いた。
夜の帝都に、鋭い剣閃と咆哮が響きわたった。
そして運命の歯車は、大きく動き始めたのである。
黒鴉隊の足音が迫る中、花は朱皇に引かれながら必死に暗い回廊を駆け抜けた。
息は上がり、胸は痛く、足は鉛のように重くなっていく。
それでも立ち止まれば、そこで全てが終わると分かっていた。
朱皇は何度も後ろを振り返り、花を守るように身を寄せる。
剣を抜く気配はあるのに、決して花の手を離さなかった。
帝としての威厳ではなく、ひとりの男として、彼は花を守ろうとしていた。
「まだ追ってくるか……しぶとい連中だ」
朱皇は小さく舌を打ち、花の手を握る力を強めた。花の指先が痛いほどに熱を帯びる。それでも、その痛みすら愛おしく感じてしまう自分がいた。
「朱皇様、私のせいで……!」
「黙っていろ。今は逃げるのが先だ」
怖いのは、私ではなく、彼のほうなのだ。
花はそう気付いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
遠くから甲冑の重い音が響く。
数が多すぎる。普通の侍女ひとりを捕らえるための戦力ではない。
これは最初から皇太后の命令による処刑だ。
「朱皇様……もし、私のせいで、あなたまで……!」
「いいから前を見る!」
朱皇が花の肩を抱き寄せ、身を低くさせながら建物の影に身を滑り込ませた。朱皇の衣の香が、濃い夜気に混じり、花の鼓動をさらに早める。
「ここだ、近道になる」
後宮の裏門に続く小径は、手入れもされず雑草が生い茂っている。宮仕えの者ですらほとんど通らない道。
こんな抜け道を知っているのは、帝である彼だからこそだろう。
暗闇に目が慣れてきたころ、ずしりとした鉄の扉が視界に入った。朱皇が懐から鍵を取り出し、素早く解錠する。
その瞬間、背後で草がゆれ、足音が近づいた。
「まずい……もう来ている」
朱皇は戸を押し開け、花を先に押しやった。
「花、行け」
「朱皇様は?」
「後で追う。すぐ行け」
だが花は戸口で振り返り、必死に首を振った。
「いやです!置いてはいけません!」
朱皇の表情が一瞬だけ揺れた。
まるで胸の奥に刺さった何かが痛んだように、苦しげに眉を寄せる。
「私は帝だ。ここで逃げれば、後宮に残る者はすべて処罰される。私が引きつけなければ、この騒ぎはもっと大きくなる」
「それでも……!」
「花。私は、お前を守りたい」
夜風がひゅうと吹き、朱皇の髪を揺らした。金の瞳が暗闇に溶け、ほんの一瞬、悲痛なほどに脆い光を放つ。
「逃げても、私はお前を必ず見つける。だから行け」
花の喉が震える。
涙が溢れそうになるのを、必死に噛み殺した。
その時、黒鴉隊の甲高い笛が響いた。完全に位置を把握されたのだ。
「……行きます。でも、絶対に、絶対に生きてください。私も……戻りますから」
「もう一度言え」
「戻ります。朱皇様のところへ」
朱皇は微かに目を細め、花の頬に触れた。
その指先は熱く、そして震えていた。
「必ずだ……花」
その一言に、花の心は強く固まる。迷いはない。
彼のために生きる⋯⋯。それが、逃げる理由ではなく、生き抜くための目的になった。
花は裏門へ飛び出した。
背後で鉄の扉が閉まる音がし、朱皇の気配が遠ざかっていく。
花は走る。
夜の帝都はひどく冷たい。
けれど、胸の中にはひとつだけ熱いものが灯り続けている。
朱皇様が、待っている。
叶わぬ夢だと笑われても、嘘でも構わない。
彼が自分の名を呼んだあの瞬間、花の生は確かに変わったのだ。
しかし、現実は残酷だ。
裏門を出た花の前には、すでに数人の黒鴉隊が潜んでいた。
皇太后の追手はひとつの道だけを塞ぐような甘い敵ではない。
逃げ道すら全て読まれている。
花の胸がざわめく。
ここで捕まれば、朱皇は――。
その瞬間、背後の塀の上から、影が飛び降りた。
草が三日月状に散り、黒鴉隊が驚く。
「動くな」
低く張り詰めた声。黒い外套。
月光に照らされ、刃のように鋭い目が光る。
それは花が奉公していた屋敷でただひとり優しくしてくれた男、元武官の廉だった。
「花、こっちだ」
驚きながらも、花は廉に手を引かれる。
「なぜ……ここに?」
「恩を返しに来ただけだ。逃げ道は俺が作る。急げ!」
廉は鋭い眼光で黒鴉隊をにらみ、懐から煙玉を取り出して地面に叩きつけた。
白煙が夜気に広がり、その隙に花は再び走り出す。
胸が張り裂けるほど苦しくても、足が痛くても、もう止まれない。
自分が生きることで、朱皇が救われるかもしれない。
彼の手を再び取る未来を信じて。
夜の帝都が遠くに揺れ、月が淡く光を落とす中で花は闇を裂くように走り続けた。
夜風が冷たく頬を刺す。
花は息を切らしながら、廉に手を引かれ、細い裏道を駆け抜けた。
背後で黒鴉隊の甲冑が金属音を立て、石畳に反響する。
その音は、まるで死神の鼓動のように、花の胸を突き刺した。
「ここから先は……さらに危険だ」
廉の低い声が、花の耳に届く。
「黒鴉隊はまだ追ってくる。門は封鎖されている可能性がある」
「そんな……」
花は短く息を吐いた。
走るたびに足が重くなる。
胸は早鐘のように打ち、手のひらは汗で滑る。
だが、振り返ることはできない。
朱皇の笑顔が、胸の奥で強く光っているから。
暗い路地を抜けると、目の前に小さな川が流れていた。
石の橋は古く、夜風に揺れる柳が影を落としている。
だが橋の向こうには、追手の影がちらりと見えた。
「このままでは……」
花が小さく呟くと、廉が鋭い目を光らせた。
「俺が食い止める。花は橋を渡れ」
その言葉に、花の心が震える。
逃げるのは自分だけでいいのか。
朱皇の元へ戻る日はまだ遠いかもしれない。
だが今、立ち止まれば二人とも危ない。
花は頷き、石橋を駆け抜けた。
夜の川面に映る月が、まるで二人を見守るかのように揺れている。
「花!」
廉の叫びが背後で響いた。
振り返る暇もなく、花は走る。
石橋の向こう、細い路地を抜けた先に小屋がある。
そこが一時の隠れ場所だ。
小屋に駆け込むと、花は息を整える。
心臓が痛いほど打ち、膝を抱えたまま床に座り込む。
汗まみれの髪から水滴が落ち、静かな夜に小さな音を立てる。
「……ふぅ」
花の肩が小さく揺れる。
その背中に、誰かの視線が突き刺さる。
振り返ると、そこには廉が立っていた。
「まだ動けるか?」
低く、厳しい声。
花は顔を上げ、頷いた。
「はい……」
「よし。だがここからが本番だ」
廉は短く言うと、懐から地図を取り出した。
「後宮の東門を使えば、敵の目を避けつつ朱皇の近くまで戻れる」
花は息をのむ。
「行けるのでしょうか?」
「行ける。だが油断するな」
廉の眼光が鋭く光る。
「夜の帝都は、まるで迷宮だ。誰も味方はいないと思え」
花はその言葉に背筋が寒くなる。けれど、胸の奥では朱皇への想いが強く燃えていた。
「行きます。絶対に……朱皇様のところへ戻ります」
廉は一瞬微笑んだ。
だが、それはすぐに険しい表情に戻る。
「よし……なら進もう」
二人は闇に紛れ、細い路地を抜け、屋根伝いに進む。
月光に照らされ、石垣に手をつき、跳ね上がるたびに心臓が破裂しそうになる。
遠くで黒鴉隊の声が響く。
追跡はすぐそこだ。
「花、声を出すな」
廉の耳元で低く囁く。
花は頷き、息を潜める。
闇が深いほど、音は鋭く、命を削る刃となる。
やがて二人は高い塀を前に立ち止まった。
その向こうには、朱皇の姿がちらりと見える。
月光に映る金の衣。
彼の瞳は、花を見つめ、探し、待っている。
「朱皇様……」
花は胸の奥で小さくつぶやく。
涙が頬を伝いそうになるが、震える唇でそれを押さえた。
「今度こそ、絶対に会いに行く……」
その決意が、心臓を強く打たせる。
夜の帝都が、闇の迷宮が、全て彼女を試すかのように伸びている。
しかし花は恐れない。
朱皇のために、生き抜くと心に誓ったからだ。
「花!」
遠くで朱皇の声が響く。
花は駆け出す。
朱皇は彼女を待っている。
運命も陰謀も、全てを振り切って。
石垣を越えた先、広い中庭が花の目に飛び込んできた。
月光に照らされた砂利の光景は、まるで銀色の海のように揺れ、闇を一層深く見せる。
だが、視界の隅で動く影がある。黒鴉隊だ。数は増え、もはや包囲は避けられない。
「花、ここで息を止めろ」
廉が低く言う。
その手は鋭く、まるで刃のように夜気を切る。
「彼らは動きに反応する。無闇に走れば死ぬ」
花は震える手を握りしめる。
胸の奥で、朱皇の言葉が鳴る。
たとえ灰より出でたとしても、お前を選ぶのは私だ。
その想いが、恐怖よりも強くなっている。
花は静かに頷いた。
走るのではなく、待つ。⋯⋯この瞬間に全てを賭ける覚悟。
背後で黒鴉隊の気配が迫る。
だが花は目を閉じず、静かに息を整える。
「朱皇様……待っていてください」
心の中で小さく誓う。
逃げるだけではない。生きて戻るための戦いだ。
一瞬の静寂の後、黒鴉隊の最前列が動いた。
しかし、その瞬間、夜闇を裂くように光と音が走った。
飛び降りる影、弓矢の飛ぶ音、鋭い刃が空を切る。
「――朱皇様!」
花の視界に、金の衣が揺れる。
朱皇が黒鴉隊の前に立ちはだかり、まるで嵐そのもののように、敵を切り裂く。
その姿は、帝であり、守護者であり、彼女を抱きしめる男の全てだった。
「花、ここだ!」
朱皇が叫び、両手を広げる。
花は迷わずその腕に飛び込んだ。
抱きしめられる瞬間、胸の奥で張り詰めていた恐怖が、一気に溶けていく。
「朱皇様……!」
声が震えた。
朱皇の手が花の背を強く抱く。
「生きろ。絶対に生きるんだ、花」
花の胸に、涙が滝のように溢れた。
恐怖も、悲しみも、全てが熱い感情に変わる。
その瞬間、黒鴉隊の追撃が止まった。
朱皇の威光に押され、指揮官の一人が恐怖に凍ったのだ。
だが油断はできない。夜はまだ深く、敵は確実に残っている。
「今だ、花、逃げるぞ」
朱皇が花の手を取り、闇を裂くように駆け出す。
廉が後方で援護する。
三人の影が、月光の銀色の道を駆け抜ける。
花の胸に、決意が深く刻まれる。
これまで逃げてきた自分とは違う。
帝の隣で、一輪の花として咲くための戦いが、始まる。
月光に照らされた帝都の夜、風が二人の髪を揺らす。
花は朱皇の手を強く握り返す。
そして心の中で、強く呟いた。
「……私は、朱皇様のそばで、咲きます」
朱皇はその声を聞き、微かに笑った。
「花、よく言った」
花はもはや恐れず、朱皇と共に歩む覚悟を決めたのだ。
灰より生まれた花は、帝の光の中で、ついに自らの運命を握った。
灯の儀まであと三日。
だというのに、空気は重く、空っぽの廊下を歩くたび、花の足音だけが異様に響いた。
綺羅が背後を歩き、周囲を絶えず警戒している。
「花様……昨夜の影、必ずまた来ます。あの者たちは一度狙った獲物を諦めません。しかも後宮内に協力者がいると考えるべきです」
花は喉の奥がぎゅっと痛むのを感じた。
「……わたし、狙われる理由が……まだ信じられません。母が……そんな血を持っていたなんて」
綺羅が言う。
「母君は、それでも花様を守るために後宮を出ました。あの方の想いが途切れなかったから……今、花様がここにいるのです」
花は小さく拳を握った。
そのとき、前方の曲がり角で、紅霞が立ち止まっていた。
薄桃色の衣を揺らし、ふわりと振り返る。
その笑顔は柔らかく、けれど底に小さな棘を隠している。
「花さん……。大丈夫? 昨夜、少し騒ぎがあったそうね」
声は優しげなのに、目だけが探るように光る。
花は軽く頭を下げた。
「ご心配ありがとうございます。わたしは……怪我はありません」
「そう、良かったわ」
紅霞はゆっくり花に近づき、小声で囁いた。
「でも、帝の私室に誰かが入り込んだなんて……絶対に普通じゃない。わたしなら、帝を守るために、そんな隙は作らないのだけれど」
綺羅が一歩前に出る。
「紅霞様。花様を責めるような言い方は⋯⋯」
「責めてなどいないわ。ただ、帝をお慕いする者として、言っているだけよ」
紅霞の瞳が細くなる。
「花さん……。あなた、本当に帝の傍にふさわしいの?」
空気が張りつめる。
だが花は、少しだけ顔を上げた。
「……ふさわしいかどうかは、わたしが決められるものではありません」
紅霞の目がわずかに揺れた。
「まぁ……そうね。でも、世の中には決めたい人が多いのよ?」
紅霞は微笑み、袖を揺らしながら去っていった。
歩み去る背中は柔らかく見えて、その実、氷のように冷たい。
綺羅が小さく息をつく。
「……あれで優しさを装っているつもりなんですから、厄介です」
花は胸に手を当てた。
紅霞の言葉が胸を刺していた。
昼下がり。
朱皇の執務室に呼ばれた花は、緊張で手が少し冷えていた。
扉を叩くと、朱皇の低い声が返る。
「入れ」
中は沈んだ静けさだが、朱皇の姿を見た瞬間、花の胸に不思議な安堵が広がった。
朱皇は書簡を置き、花に近づく。
「昨夜のこと……本当にすまなかった。私室まで影が入り込むとは、私の不覚だ」
花は慌てて首を振った。
「い、いえ!わたしのせいで、朱皇様が危険に」
「いいや、私が守れなかっただけだ」
朱皇は花の手を取り、じっと見つめた。
その瞳は、帝とは思えないほど真っ直ぐで熱を帯びている。
「花。灯の儀が近づくほど、お前に向けられる刃は増える」
朱皇は続けた。
「灯の儀は、この国の帝の選定にも関わる。表向きは灯を捧げる清らかな儀式だが……帝の正当性を示す戦でもある」
「戦……?」
「そうだ。揺らぎ、炎の色……その全てが帝家の力を示す。そして北枝の血を持つ巫女が灯を捧げることで、儀は完成する」
花は息を呑んだ。
「つまり……わたしは、儀に欠かせない存在……?」
「お前が欠ければ、灯の儀は成立せず、帝位を狙う者たちは混乱を武器にできる。だからこそ狙われる」
花は静かに目を伏せた。
朱皇はそっと花の頬に手を添えた。
「だが……花。私はお前が危険だから傍に置いているのではない」
花の心臓が跳ねる。
朱皇の声は低く、熱を帯びていた。
「お前を……失いたくない。それが、帝としての私の意志だ」
花の胸が熱く、痛いほどに締めつけられた。
言葉を返す前に、――コン⋯⋯と扉が叩かれた。
朱皇はゆっくり手を離し、声を整える。
「入れ」
現れたのは、後宮の監察官・雲璃だった。
鋭い目と冷たい表情を持ち、後宮の秩序を守る女。
「帝。緊急の報告がございます。先ほど、紅霞様の侍女が倒れているのが発見されました」
花は息を呑む。
「倒れて……?」
雲璃は短く頷く。
「はい。毒が使われています。ただ⋯⋯侍女は意識を失う前に、ある言葉を残しました」
朱皇が眉をひそめる。
「言え」
「……狙われているのは……灯の巫女と」
花の背に冷たいものが走る。
朱皇は即座に立ち上がった。
「花を守る警備を三倍にしろ。後宮の出入りをすべて封鎖する。疑わしき者は全て調べよ」
雲璃は深く頭を下げる。
「はっ!」
扉が閉じると、朱皇は花の肩に手を置いた。
「花。もう後宮の誰も信用してはならぬ。影は……お前だけでなく、儀そのものを壊すつもりだ」
花は唇を噛んだ。
朱皇は花の手を強く握った。
「いいか。混乱の原因は影であり、お前ではない。お前がいるからこそ私は帝でいられる。花……お前だけは、私を信じていればいい」
花の胸が熱く満ちていった。
その温度が、恐怖をゆっくり溶かしていく。
だがその瞬間。
遠くで鐘が鳴った。
重く低い、宫中に警告を告げる鐘。
綺羅が駆け込んでくる。
「朱皇様!花様!北枝の間が……何者かに荒らされました!!古文書が多数、奪われています!!」
朱皇の瞳が鋭く光る。
「……動いたか」
朱皇は即座に命じた。
「花を安全な場所へ。私は北枝の間を確認する」
「朱皇様は……!?」
花が伸ばした手を、朱皇はそっと握り返す。
「大丈夫だ。だがもし何があっても、花は生きろ。それだけは絶対に守れ」
その瞳は、燃えるように強かった。
花は震える声で答えた。
「朱皇様……どうか、無事で……」
朱皇は小さく微笑む。
「お前の灯がある限り、私は消えぬ」
そう言い残し、朱皇は影のように去っていった。
残された花の胸に、恐怖と焦燥が渦巻く。
灯の儀まで、あと二日。
影は禁じられた記録を奪い、後宮は混乱へと沈んでいく。
花は薄く震える手を胸に当てた。
わたしも、もう逃げられない。
その決意が生まれた瞬間、
廊下の奥で、誰かの影がゆっくりこちらを見つめていた。
その目は花のことを知り尽くしているかのように、静かで、冷たい。
花は、朱皇の背が完全に見えなくなるまで立ち尽くしていた。
胸の奥がざわつき、何かが軋むように痛む。
怖い。
だが同時に、その恐怖の奥で煮えるように燃えるものがある。
朱皇が一人で影の中心に踏み込むと知りながら、ただ震えているだけの自分に腹が立った。
綺羅が静かに肩へ手を置く。
「花様……ここは一度、お部屋に戻りましょう。今の花様の顔は……まるで、嵐の中に置き去りにされた子どものようです」
花は小さく首を振った。
「綺羅……わたし、逃げてばかりでいたくない。朱皇様だけに、危険を背負わせたくない」
綺羅は、花を見つめる瞳に複雑な色を宿した。
それは忠誠でも憐れみでもなく、どこか誇らしげな、しかし不安を隠せないような光だった。
「花様……。あの方は帝です。帝には帝の戦があり、花様には花様の立場があります。……そして、花様は灯の巫女。逃げぬ覚悟を持つのは素晴らしいですが、どうか……ご自分の存在が、国の心臓であることを忘れないでください」
花はぎゅっと拳を握った。
「国の……心臓……」
その響きは大きすぎて、怖いほど重かった。
だが逃げるという選択肢は、もうどこにも残されていなかった。
二人が廊下を歩き出したその時。
風が、背からそっと吹き抜けた。
花ははっと振り向く。
遠くの柱の影で、誰かが立っていた。
顔も姿も、薄闇に溶けている。
「誰……?」
花が声を漏らすと、影はゆらり、と動いた。
その瞬間、綺羅が目を鋭く光らせ、花を背後へ押しやる。
「花様、下がって!」
影が音もなく消えた。
綺羅は周囲をすばやく見渡し、低く呟いた。
「……確信しました。やはり狙いは灯の儀を潰すことです。花様を殺すことでも、帝を脅かすことでもなく、儀そのものを破壊する」
花の背筋に、凍りつくものが這い上がる。
「儀を壊す……?」
綺羅は頷いた。
「はい。儀が壊れれば、帝家の血統の正当性が失われます。それは……帝に牙を向く者たちにとって、最大の好機なのです」
花の足がわずかに震えた。
「じゃあ……わたしは……」
「灯をともす鍵です。花様を壊せば、国の均衡が崩れます。狙うには十分すぎる価値があります」
価値。まるで他人のことのようだ。自分がそんなものを持っているとは、いまだに実感が湧かない。
だが、影が動いている事実だけは、どうあっても否定できなかった。
花の部屋へ戻ると、綺羅はすぐに扉と窓を点検し、警護の侍女たちに厳しく指示を出した。
部屋の灯が揺れ、柔らかな橙色が花の頬を照らす。
しかしその灯りが、逆に不安を増幅させているようだった。
綺羅は花の前に座り、深く息を吐いた。
「……花様。灯の儀まで、あと二日です。儀は後宮の中心花蓮殿で行われます。本来なら穏やかで神聖なはずの儀が……今年は、血で染まるかもしれません」
花は震えたまま言葉を出す。
「そんな……儀は、国を守るものなんでしょう……?どうして血を流す必要が……」
綺羅は静かに首を振る。
「守るために、血を流すのです。……この国は、そうやって何度も均衡を保ってきました。灯の儀は表向きこそ清らかですが、裏では帝位争いの真っただ中。誰もが帝を倒し、自分の血を正当だと証明しようと狙っているのです」
花は息を呑んだ。
回りくどい陰謀ではなく、
むしろ正面から帝を引きずり降ろす準備が静かに進んでいる。
それが恐ろしいほど、現実として迫ってくる。
「花様」
綺羅の声が柔らかくなった。
「あなたは朱皇様の光です。帝を導く灯火。だからこそ、必ず守られます。影がいくら襲おうと、帝が護るでしょう」
花は胸が熱くなるのを感じた。
朱皇の言葉が蘇る。
お前を失いたくない。
お前がいる限り、私は消えぬ。
消えない灯。
その言葉が、花の胸に静かに灯り始める。
その夜。
後宮全体が不気味なほどの静けさに包まれる。
空には雲が立ち込め、冴えた月光がわずかに覗いていた。
風が枯れ葉を鳴らし、遠くで鳥が一声だけ啼く。
花は眠れなかった。
眠ろうと目を閉じても、影の視線が脳裏に焼き付いて離れない。
——どうしてわたしが。
——本当に、母が巫女の血……?
——朱皇様はどうして、あんなにもわたしを見てくれるの?
次から次へと浮かぶ疑問に、胸がざわめき続ける。
布団の中で膝を抱えると、そこに母の匂いが残っているような錯覚がした。
「母さま…………逃げたくない……でも怖いの」
涙が零れそうになる。
その時。
コン。と、扉が小さく叩かれた。
花は息を呑む。
「……誰?」
返事はない。
ただ、扉の向こうに薄い気配だけが漂う。
綺羅ではない。
侍女たちでもない。
この静寂、この空気の濃さ⋯⋯違う。
花が身を固くした瞬間、扉がキィとわずかに開いた。
「……花」
低く囁く声。
その声を聞いた瞬間、全身の緊張が緩む。
「朱皇様……?」
扉の隙間から朱皇の影が差し込む。
灯に照らされた朱皇の瞳は、昼の厳しさとはまるで違い、深く沈む湖のように静かだった。
「……眠れぬのだろうと思ってな」
花は胸が熱くなる。
朱皇は部屋の中へ入り、静かに扉を閉めた。
「影は動いた。だが……私はお前を守る。それを伝えたくて来た」
花の心が揺れる。
「朱皇様……こんな夜更けに……危険です……」
「危険は承知している。だが……花を一人にして眠らせる方が、もっと危険だ」
朱皇は花の手をそっと取り、自分の胸へ当てた。
硬く、強い鼓動が伝わってくる。
「聞こえるか。お前の灯があれば、私はいくらでも戦える。だから……怯えなくていい」
花の視界が滲む。
「朱皇様……わたし……わたし、足手まといじゃ……」
朱皇は即座に否定した。
「違う。お前がいるからこそ私は進める。灯の巫女がいて、帝は初めて帝になれる。……それが、この国の理だ」
花は涙を指で拭った。
「朱皇様……どうか……どうか……ご無事で……わたし……」
言葉の続きは震えて出てこない。
朱皇はその震える肩を、そっと抱き寄せた。
暖かい。
花は胸の奥がほどけていくのを感じた。
「花。お前の灯が、全てを照らす。だから……決して、自分を消すな」
その言葉は、胸の中心に深く根を下ろすように響いた。
朱皇はそっと花から離れ、立ち上がった。
「そろそろ戻らねば。だが……最後に一つだけ言っておく」
花が顔を上げる。
朱皇の瞳は、まるで紅の炎のように揺らいでいた。
「灯の儀が終わったら……私は、お前の運命を変えるつもりだ」
「わたしの……運命……?」
花の胸が激しく震える。
息ができないほどに、熱い。
朱皇は扉に手をかけ、振り返る。
「眠れ。お前の灯は……必ず、私が守る」
その言葉を残し、朱皇は静かに去っていった。
残された花の胸の中では、恐怖と同じくらい強い、ある感情が息をし始めていた。
それは恋の形を成しつつあった。
夜が深く沈む。
花は布団を握りしめたまま、朱皇の暖かさが消えない胸に手を置く。
灯の儀まで、あと一日。
影が動き始めた今、必ず何かが起こる。
花は、苦しくも温かい想いを抱えたまま、静かな夜の底で目を閉じた。
だが、その寝息を聞きながら、部屋の外の闇では確かに誰かが立ち尽くしていた。
花の名を、誰より知っている者。
その瞳は、朱皇と全く違う色で。
冷たく、深く、狂おしい執着を宿していた。
花は、掌に残る朱皇の温もりを振り払うように、そっと息を呑んだ。
その指先はまだ震えていた。
額に触れた彼の手の熱が、じりじりと胸の奥を焦がしつづけている。
だが落ち着きを取り戻す暇など、後宮には与えられない。
花の部屋の戸の向こうから、かすかな衣擦れの音がした。
静寂を破らぬよう潜められた気配。それなのに、確かにそこに誰かがいる。
花は灯りを消し、息を潜めた。
朱皇から贈られた小刀を布の陰へ忍ばせる。
影は、戸の外で止まった。
まるで中の気配を探るように。
やがて、低い囁き声がした。
「……やはり、いるのですね。花さま」
花の背筋が凍りついた。
声の主は梅蘭である。
だが、様子が妙だ。
いつもの傲慢な艶っぽさも、嫉妬に濁った毒も感じられない。
かすかに震えているような声だった。
「入っても……よろしいでしょうか」
戸がそっと開き、月光が差し込む。
灯りのない部屋で、梅蘭の顔は半ば影に沈んでいた。
しかし、濡れた瞳だけははっきり見えた。
「……梅蘭様?」
「花。あなたに伝えねばならないことがあります」
梅蘭は部屋に入ると、戸をしっかり閉めてから、花のすぐそばに膝をついた。
その仕草があまりに弱り切っていたため、花は思わず息を呑む。
「今日……皇太后様が私を呼びました。理由は、あなた」
花の心臓が、どくり、と大きく脈打つ。
「あなたの身分に、重大な疑いがあると」
花は息を呑む。
だが、梅蘭は続ける。
「けれど、皇太后様はまだ証拠を掴んでいません。今はただ、あなたを泳がせている段階……そう、おっしゃいました」
梅蘭はふるえる指をぎゅっと握りしめる。
「私は……あなたを恨んでいました。帝のお心を奪った女だと。ですが、今日、皇太后様のお言葉を聞き、背筋が凍ったのです。あの方は、あなたの命を簡単に奪おうとしている。そのためなら、手段を選ばない」
花は目を見開いた。
「私を……助けようとしているのですか?」
「私が、あなたを?……ええ。そう聞こえるでしょうね」
梅蘭は自嘲の笑みを浮かべた。
「帝がお心を寄せている相手を、皇太后様が許すはずがありません。あなたが本物の姫であろうと偽物であろうと、あの方にとっては同じ。邪魔なだけなのです」
花の胸の奥が、ずきりと刺された。
朱皇のやさしさや温もり、言葉の数々などが脳裏に蘇る。
朱皇様が危ない。
「皇太后様は、帝にも情報を渡していません。帝があなたを守りに動けば動くほど……あなたは狙われる」
花は震える声で問う。
「……どうすればいいのですか?」
「私の言葉を信じるのなら、今夜、後宮を出てください。せめて、皇太后様の目があなたを確実に敵と認識する前に」
後宮を出る。
朱皇のそばを離れる。
彼の想いを、応えられないまま捨てる。
花の胸に、痛みが走った。
「……逃げれば、朱皇様が……困るのでは」
「困るでしょうね。怒るでしょう。探すでしょう。だけど、あなたが死ぬよりはいい」
梅蘭の指が、花の手を強く握る。
「一度だけでいい。あなたも私も、後悔しない選択を。……花。あなたには、生きる価値がある」
梅蘭の涙がぽたりと花の手の甲に落ちた。
そのぬくもりに、花の胸が熱くなる。
「どうして、そこまで……」
「さあ、どうしてでしょうね。嫉妬ばかりしてきた私が、今さら、情けない話ですわ」
梅蘭は立ち上がると、小さな包みを差し出した。
夜着のまま逃げるにはあまりに不自然なため、外出用の衣と布靴が入っている。
「これは、私の部屋から持ってきました。あなたに似合うものではありませんけれど……目立たず逃げられる」
そして、梅蘭は深く頭を下げた。
「どうか、生きてください。そしていつか、帝の前に戻れるなら……その時は、自分の意志で戻ってください」
花は震える唇を噛む。
「逃げたら……もう戻れない気がします」
「戻れるわ。帝が、あなたを愛しているのだから」
その言葉は、氷のように冷えた胸の底へじんと染みていった。
朱皇の声が頭に響く。
たとえ灰より出でたとしても、お前を選ぶのは私だ。
花は目を閉じ、震える息を吐く。
「……わかりました。行きます」
梅蘭はほっとしたように微笑んだ。
だが、その笑みは儚い。
彼女自身がどれほどの覚悟を背負っているか、花には痛いほど分かった。
花は衣に着替え、髪を布でまとめる。
亡き母のかんざしは胸元に固く結んだ紐の内側へと忍ばせた。
逃げるためではない。
戻るためだ。
いつか、朱皇の前に正しく立つ日のために。
夜風の冷たさを裂くように、闇の中でひそやかに花は立ち上がった。
梅蘭は戸口の前でそっと花の背を押す。
「急いで。北門の見張りは今夜、交代の時間が長く空きます。……私が作った隙です」
花は振り返る。
「梅蘭様……本当に、ありがとう」
「礼など……。どうか、幸せに」
月光の下、花は走り出した。
足を踏み出すたび、胸の奥が張り裂けそうになる。
逃げるという罪悪感ではない。
朱皇と、離れてしまう恐怖。
後宮の高い塀が月の光に照らされ、影を落としている。
花はそれを横目に走る。
警備の足音が遠い。
いける。このままなら――。
だが、北門が見え始めたその時。
空気がぴん、と張りつめた。
花は足を止めた。
視線の先に、ひとりの人影が立っていた。
黒い衣。
夜の闇に溶けるようなその姿。
だが月光は、ひとつの特徴だけを鮮明に照らしだす。
金の双眸。
「……どこへ行くつもりだ、花」
朱皇だった。
花はその場に立ち尽くす。
「どうして……ここに……」
「お前が逃げる気配を、感じ取れぬと思ったか」
その声音は怒気を含んでいた。
だが、それ以上に深い悲しみが滲んでいた。
「私から逃げる理由を……言え」
花の胸は痛みで潰れそうになる。
言えない。
言えば、朱皇も危険になる。
皇太后の標的が自分だけでなく、彼にも向かうと分かってしまう。
だから言えない。
朱皇が一歩、花に近づく。
その足音のたび、花の心臓が跳ねた。
「花。私を……信じられないのか」
花は目を伏せ、唇を噛む。
朱皇は、花のすぐ目の前に立った。
伸ばされた手が、花の頬に触れようとしたその瞬間。
花は後ろへ下がった。
朱皇の手が空を切る。
「……そうか。そこまで、私を拒むか」
その声は氷のように冷たく、ひとりの少女を愛し、守ろうとしていた男の声ではなかった。
花は首を横に振る。
「違います。拒んでいるのではありません……朱皇様を、守りたいのです」
「守る?お前が私を?」
朱皇の瞳が、かすかに揺れた。
「私は帝だ。お前ひとり守れずに、何ができる」
花は胸元のかんざしに手を添えた。
「私のせいで、朱皇様に危険が及びます。私の身分が偽物だと疑われています。皇太后様は……私を消そうとしている」
朱皇の眉が鋭く動く。
「誰だ、それをお前に伝えたのは」
「……梅蘭様です」
「梅蘭?……あの女が、そこまで」
朱皇はゆっくりと花に近寄り、今度は逃げられないように両肩をそっと包む。
「花。逃げるくらいなら、私の手を取れ。お前を守ると誓った。たとえ相手が皇太后でも私は退かない」
花の胸が、熱くなる。
朱皇は真剣な眼差しで花を見つめる。
「私の隣に立て。逃げるな。私は本当に……お前を失いたくない」
花の喉から、ひゅ、と弱い息が漏れた。
涙がこぼれそうになる。
「……朱皇様。私は……どうすれば……」
朱皇は花の頬に触れ、そっと涙を拭った。
「私を信じればいい」
花は迷いを断ち切るように、ゆっくりと朱皇の手を握る。
「……はい」
朱皇の表情が、静かに緩んだ。
「それでいい」
だがその瞬間。
遠くで乾いた笛の音が響き渡った。
「っ……!」
朱皇が花を抱き寄せる。
「見つかったな。皇太后の連中だ」
花は震える手で朱皇の衣を掴む。
「朱皇様……!」
「心配するな」
夜の闇を裂くように、複数の影が走り寄ってくる。
その先頭には、皇太后直属の禁軍・黒鴉隊の姿があった。
月光を反射する黒い甲冑。
顔を覆う面具。
花を見つけ、朱皇を見つけ、その動きを止める。
沈黙の一瞬が、凍てつくように長く伸びた。
そして黒鴉隊が剣を抜いた。
「帝の御身を確保せよ!女は連行!」
朱皇が花の手を強く握った。
「花、走れ!」
花も応え、駆け出す。
朱皇は彼女の背後を守りながら黒鴉隊を切り裂くように動いた。
夜の帝都に、鋭い剣閃と咆哮が響きわたった。
そして運命の歯車は、大きく動き始めたのである。
黒鴉隊の足音が迫る中、花は朱皇に引かれながら必死に暗い回廊を駆け抜けた。
息は上がり、胸は痛く、足は鉛のように重くなっていく。
それでも立ち止まれば、そこで全てが終わると分かっていた。
朱皇は何度も後ろを振り返り、花を守るように身を寄せる。
剣を抜く気配はあるのに、決して花の手を離さなかった。
帝としての威厳ではなく、ひとりの男として、彼は花を守ろうとしていた。
「まだ追ってくるか……しぶとい連中だ」
朱皇は小さく舌を打ち、花の手を握る力を強めた。花の指先が痛いほどに熱を帯びる。それでも、その痛みすら愛おしく感じてしまう自分がいた。
「朱皇様、私のせいで……!」
「黙っていろ。今は逃げるのが先だ」
怖いのは、私ではなく、彼のほうなのだ。
花はそう気付いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
遠くから甲冑の重い音が響く。
数が多すぎる。普通の侍女ひとりを捕らえるための戦力ではない。
これは最初から皇太后の命令による処刑だ。
「朱皇様……もし、私のせいで、あなたまで……!」
「いいから前を見る!」
朱皇が花の肩を抱き寄せ、身を低くさせながら建物の影に身を滑り込ませた。朱皇の衣の香が、濃い夜気に混じり、花の鼓動をさらに早める。
「ここだ、近道になる」
後宮の裏門に続く小径は、手入れもされず雑草が生い茂っている。宮仕えの者ですらほとんど通らない道。
こんな抜け道を知っているのは、帝である彼だからこそだろう。
暗闇に目が慣れてきたころ、ずしりとした鉄の扉が視界に入った。朱皇が懐から鍵を取り出し、素早く解錠する。
その瞬間、背後で草がゆれ、足音が近づいた。
「まずい……もう来ている」
朱皇は戸を押し開け、花を先に押しやった。
「花、行け」
「朱皇様は?」
「後で追う。すぐ行け」
だが花は戸口で振り返り、必死に首を振った。
「いやです!置いてはいけません!」
朱皇の表情が一瞬だけ揺れた。
まるで胸の奥に刺さった何かが痛んだように、苦しげに眉を寄せる。
「私は帝だ。ここで逃げれば、後宮に残る者はすべて処罰される。私が引きつけなければ、この騒ぎはもっと大きくなる」
「それでも……!」
「花。私は、お前を守りたい」
夜風がひゅうと吹き、朱皇の髪を揺らした。金の瞳が暗闇に溶け、ほんの一瞬、悲痛なほどに脆い光を放つ。
「逃げても、私はお前を必ず見つける。だから行け」
花の喉が震える。
涙が溢れそうになるのを、必死に噛み殺した。
その時、黒鴉隊の甲高い笛が響いた。完全に位置を把握されたのだ。
「……行きます。でも、絶対に、絶対に生きてください。私も……戻りますから」
「もう一度言え」
「戻ります。朱皇様のところへ」
朱皇は微かに目を細め、花の頬に触れた。
その指先は熱く、そして震えていた。
「必ずだ……花」
その一言に、花の心は強く固まる。迷いはない。
彼のために生きる⋯⋯。それが、逃げる理由ではなく、生き抜くための目的になった。
花は裏門へ飛び出した。
背後で鉄の扉が閉まる音がし、朱皇の気配が遠ざかっていく。
花は走る。
夜の帝都はひどく冷たい。
けれど、胸の中にはひとつだけ熱いものが灯り続けている。
朱皇様が、待っている。
叶わぬ夢だと笑われても、嘘でも構わない。
彼が自分の名を呼んだあの瞬間、花の生は確かに変わったのだ。
しかし、現実は残酷だ。
裏門を出た花の前には、すでに数人の黒鴉隊が潜んでいた。
皇太后の追手はひとつの道だけを塞ぐような甘い敵ではない。
逃げ道すら全て読まれている。
花の胸がざわめく。
ここで捕まれば、朱皇は――。
その瞬間、背後の塀の上から、影が飛び降りた。
草が三日月状に散り、黒鴉隊が驚く。
「動くな」
低く張り詰めた声。黒い外套。
月光に照らされ、刃のように鋭い目が光る。
それは花が奉公していた屋敷でただひとり優しくしてくれた男、元武官の廉だった。
「花、こっちだ」
驚きながらも、花は廉に手を引かれる。
「なぜ……ここに?」
「恩を返しに来ただけだ。逃げ道は俺が作る。急げ!」
廉は鋭い眼光で黒鴉隊をにらみ、懐から煙玉を取り出して地面に叩きつけた。
白煙が夜気に広がり、その隙に花は再び走り出す。
胸が張り裂けるほど苦しくても、足が痛くても、もう止まれない。
自分が生きることで、朱皇が救われるかもしれない。
彼の手を再び取る未来を信じて。
夜の帝都が遠くに揺れ、月が淡く光を落とす中で花は闇を裂くように走り続けた。
夜風が冷たく頬を刺す。
花は息を切らしながら、廉に手を引かれ、細い裏道を駆け抜けた。
背後で黒鴉隊の甲冑が金属音を立て、石畳に反響する。
その音は、まるで死神の鼓動のように、花の胸を突き刺した。
「ここから先は……さらに危険だ」
廉の低い声が、花の耳に届く。
「黒鴉隊はまだ追ってくる。門は封鎖されている可能性がある」
「そんな……」
花は短く息を吐いた。
走るたびに足が重くなる。
胸は早鐘のように打ち、手のひらは汗で滑る。
だが、振り返ることはできない。
朱皇の笑顔が、胸の奥で強く光っているから。
暗い路地を抜けると、目の前に小さな川が流れていた。
石の橋は古く、夜風に揺れる柳が影を落としている。
だが橋の向こうには、追手の影がちらりと見えた。
「このままでは……」
花が小さく呟くと、廉が鋭い目を光らせた。
「俺が食い止める。花は橋を渡れ」
その言葉に、花の心が震える。
逃げるのは自分だけでいいのか。
朱皇の元へ戻る日はまだ遠いかもしれない。
だが今、立ち止まれば二人とも危ない。
花は頷き、石橋を駆け抜けた。
夜の川面に映る月が、まるで二人を見守るかのように揺れている。
「花!」
廉の叫びが背後で響いた。
振り返る暇もなく、花は走る。
石橋の向こう、細い路地を抜けた先に小屋がある。
そこが一時の隠れ場所だ。
小屋に駆け込むと、花は息を整える。
心臓が痛いほど打ち、膝を抱えたまま床に座り込む。
汗まみれの髪から水滴が落ち、静かな夜に小さな音を立てる。
「……ふぅ」
花の肩が小さく揺れる。
その背中に、誰かの視線が突き刺さる。
振り返ると、そこには廉が立っていた。
「まだ動けるか?」
低く、厳しい声。
花は顔を上げ、頷いた。
「はい……」
「よし。だがここからが本番だ」
廉は短く言うと、懐から地図を取り出した。
「後宮の東門を使えば、敵の目を避けつつ朱皇の近くまで戻れる」
花は息をのむ。
「行けるのでしょうか?」
「行ける。だが油断するな」
廉の眼光が鋭く光る。
「夜の帝都は、まるで迷宮だ。誰も味方はいないと思え」
花はその言葉に背筋が寒くなる。けれど、胸の奥では朱皇への想いが強く燃えていた。
「行きます。絶対に……朱皇様のところへ戻ります」
廉は一瞬微笑んだ。
だが、それはすぐに険しい表情に戻る。
「よし……なら進もう」
二人は闇に紛れ、細い路地を抜け、屋根伝いに進む。
月光に照らされ、石垣に手をつき、跳ね上がるたびに心臓が破裂しそうになる。
遠くで黒鴉隊の声が響く。
追跡はすぐそこだ。
「花、声を出すな」
廉の耳元で低く囁く。
花は頷き、息を潜める。
闇が深いほど、音は鋭く、命を削る刃となる。
やがて二人は高い塀を前に立ち止まった。
その向こうには、朱皇の姿がちらりと見える。
月光に映る金の衣。
彼の瞳は、花を見つめ、探し、待っている。
「朱皇様……」
花は胸の奥で小さくつぶやく。
涙が頬を伝いそうになるが、震える唇でそれを押さえた。
「今度こそ、絶対に会いに行く……」
その決意が、心臓を強く打たせる。
夜の帝都が、闇の迷宮が、全て彼女を試すかのように伸びている。
しかし花は恐れない。
朱皇のために、生き抜くと心に誓ったからだ。
「花!」
遠くで朱皇の声が響く。
花は駆け出す。
朱皇は彼女を待っている。
運命も陰謀も、全てを振り切って。
石垣を越えた先、広い中庭が花の目に飛び込んできた。
月光に照らされた砂利の光景は、まるで銀色の海のように揺れ、闇を一層深く見せる。
だが、視界の隅で動く影がある。黒鴉隊だ。数は増え、もはや包囲は避けられない。
「花、ここで息を止めろ」
廉が低く言う。
その手は鋭く、まるで刃のように夜気を切る。
「彼らは動きに反応する。無闇に走れば死ぬ」
花は震える手を握りしめる。
胸の奥で、朱皇の言葉が鳴る。
たとえ灰より出でたとしても、お前を選ぶのは私だ。
その想いが、恐怖よりも強くなっている。
花は静かに頷いた。
走るのではなく、待つ。⋯⋯この瞬間に全てを賭ける覚悟。
背後で黒鴉隊の気配が迫る。
だが花は目を閉じず、静かに息を整える。
「朱皇様……待っていてください」
心の中で小さく誓う。
逃げるだけではない。生きて戻るための戦いだ。
一瞬の静寂の後、黒鴉隊の最前列が動いた。
しかし、その瞬間、夜闇を裂くように光と音が走った。
飛び降りる影、弓矢の飛ぶ音、鋭い刃が空を切る。
「――朱皇様!」
花の視界に、金の衣が揺れる。
朱皇が黒鴉隊の前に立ちはだかり、まるで嵐そのもののように、敵を切り裂く。
その姿は、帝であり、守護者であり、彼女を抱きしめる男の全てだった。
「花、ここだ!」
朱皇が叫び、両手を広げる。
花は迷わずその腕に飛び込んだ。
抱きしめられる瞬間、胸の奥で張り詰めていた恐怖が、一気に溶けていく。
「朱皇様……!」
声が震えた。
朱皇の手が花の背を強く抱く。
「生きろ。絶対に生きるんだ、花」
花の胸に、涙が滝のように溢れた。
恐怖も、悲しみも、全てが熱い感情に変わる。
その瞬間、黒鴉隊の追撃が止まった。
朱皇の威光に押され、指揮官の一人が恐怖に凍ったのだ。
だが油断はできない。夜はまだ深く、敵は確実に残っている。
「今だ、花、逃げるぞ」
朱皇が花の手を取り、闇を裂くように駆け出す。
廉が後方で援護する。
三人の影が、月光の銀色の道を駆け抜ける。
花の胸に、決意が深く刻まれる。
これまで逃げてきた自分とは違う。
帝の隣で、一輪の花として咲くための戦いが、始まる。
月光に照らされた帝都の夜、風が二人の髪を揺らす。
花は朱皇の手を強く握り返す。
そして心の中で、強く呟いた。
「……私は、朱皇様のそばで、咲きます」
朱皇はその声を聞き、微かに笑った。
「花、よく言った」
花はもはや恐れず、朱皇と共に歩む覚悟を決めたのだ。
灰より生まれた花は、帝の光の中で、ついに自らの運命を握った。



