朱皇に手を握られたまま、花は後宮の奥へ導かれていた。

夜気は冷たく、しかしその温い掌だけが、花を現実に結びつけていた。



だが――。

その温もりの奥に、花は微かな焦燥を感じ取った。



(朱皇さまは……何か、隠している?)



黎の言葉。

出生の秘密。

禁じられた血。



なぜ朱皇は、そんなものを知りながら自分を守ろうとするのか。



花の胸中が乱れる中、朱皇は立ち止まり、振り返った。



「花。今夜は、おまえに見せねばならぬ場所がある」



その声音は穏やかだが、普段とは違う張り詰めた気配を含んでいた。



花は一歩近寄って囁く。



「……どこへ行くのですか?」



「後宮ではない。皇城の心臓と呼ばれる場所だ」



朱皇は指先で花の頬をなぞり、優しく、しかしどこか切なげに言った。



「おまえに真実を告げる時が来た。逃げ出したいなら今だ。これから知ることは……おまえの運命を変える」



逃げたい。

でも、逃げたくない。



朱皇の瞳を見た瞬間、その矛盾が花の胸で溶け合い、答えは自然と形になった。



「私は……朱皇さまのそばにいたい。何があっても、もう背を向けません」



その言葉に、朱皇の翳った表情が一瞬ほどける。



「……ならば来い」



二人は、宮中でも限られた者しか入れない“深紅の回廊”へと足を踏み入れた。




暗く長い回廊は、まるで永遠に続く洞穴のようだった。

壁面には古代文字が刻まれ、灯火は赤い。

花はその不気味な光に包まれながら、朱皇に寄り添う。



「朱皇さま……ここは……」



「帝家にまつわる最も古い儀式と歴史が眠る場所だ。おまえの母も、ここに……」



「……母が?」



胸の奥に、凍った涙の塊のようなものが生まれた。



朱皇は頷く。



「花。おまえの母は、紅蓮の巫女と呼ばれる血筋の最後の娘だった」



花の呼吸が止まる。



紅蓮の巫女――。

遠い昔、帝家の力を支えながらも、その力を恐れられ、ついには禁忌の一族として断たれた者たち。



朱皇の指が花の手に触れた。



「本来なら、その血を継ぐ者は宮中に入れない。しかし――私は、どうしてもおまえを失いたくなかった」



「朱皇さま……」



「だから、ここまで連れてきた。この扉の先に、おまえの母の記録がある」



朱皇は巨大な石扉の前に立つ。

その表面には紅蓮の紋が刻まれていた。

花の胸元で揺れるかんざしと同じ紋。



花の息が震える。



「開くぞ」



朱皇が手をかざすと、石扉は重々しく震え、ゆっくりと開いた。



内部は、薄く紅い光に満ちていた。

中央には一本の大樹――幾千もの花びらを抱いた紅蓮樹が立ち、

その根元に、一冊の古びた巻物が置かれている。



花は思わず呟いた。



「……母が、ここに……」



朱皇は巻物をそっと持ち上げ、花の前に差し出す。



「読むか?」



花はゆっくり頷いた。



巻物を広げると、母の名が記されていた。

そして、その下に続くのは――。



『我が娘・花に告ぐ』



花の心臓が跳ねた。



震える指で文を追う。



『花。おまえがこの文を見るとき、私はもう傍にはおれぬでしょう。しかし、どうか怯えないで。おまえは呪われた血ではない。紅蓮の血は、帝を守る血なのです。』



『私は、それゆえに追われた。だが同時に、帝家は私を必要としていた。朱皇の父帝は、私に未来を視る力を求めていた。私は見たのです――いつか、帝の命を救う娘が現れる、と。その娘は、灰をまとい、誰よりも清らかな心を持つ、と。』



花の指が震えた。



『それがおまえだ、花。帝の傍に歩めるのは、おまえの運命であり――おまえだけの資格なのです』



「……どうして……どうして……」



花は涙をこぼしながら巻物を抱きしめた。



朱皇がその肩に手を置く。



「花。私は知っていた。おまえが帝を救う鍵だということを」



「だったら……だったら……私は……利用されて……?」



その瞬間、朱皇の顔色が変わった。



「違う!」



初めて聞くような強い声だった。



「私はおまえを利用しない。運命などどうでもいい。おまえが花だから――私はおまえを愛した」



花の瞳が大きく揺れる。



「朱皇さま……」



朱皇は花の手を包み込み、額をそっと触れさせた。



「運命がどうであれ、おまえが私の隣にいてほしい。その願いだけは偽れぬ」



胸が熱く、痛く、切なくなる。



しかし、その瞬間――。



紅蓮樹がざわりと揺れた。



朱皇が花を庇うように前へ出る。



「……まさか、もう動き出したのか」



「え……?」



朱皇の視線は、紅蓮樹の根元ではなく、扉の外――回廊の暗闇へ向けられていた。



「花。後宮で、おまえの身分を暴こうとしている者がいる。だがそれだけではない。もっと大きな力が絡んでいる」



冷気が背筋を駆け上がった。



「どういう……」



「おまえの血を求める者がいるのだ。帝家さえ揺るがす古い影が」



花の指が母の巻物を握りしめる。



「朱皇さま……怖いです」



「怖れていい。だが――離れるな」



朱皇は花を抱き寄せ、耳元で囁く。



「何が起ころうと、私は必ずおまえを守る。たとえ帝位を捨てることになろうとも」



その言葉は熱く、強く、絶対だった。



しかし同時に、扉の外から冷たい風が吹き込み、

回廊に響き渡る足音がゆっくりと近づいてきた。



宮中の誰でもない。

女官でもない。

兵でもない。



もっと、忌まわしい気配。



朱皇が花を背に隠し、低く呟いた。



「来たか……影宮の者」




影の足音は、深紅の回廊をゆっくりと進んでくる。

花の背筋が冷たく震えた。朱皇は一歩前へ出る。衣の裾が静かに揺れ、帝の気が緊張とともに張りつめる。



「花、下がれ」



「朱皇さま……」



「離れるなと言ったが、これは別だ。おまえを中心に狙っている気配がある」



花は朱皇の背の影へ寄り添いながら、扉の向こうを見つめた。

紅蓮樹の光が、不規則に脈打つように明滅し始めている。それがまるで警告のようで、花の胸がさらに締めつけられた。



――足音が止まった。



次の瞬間、闇からひとりの男が現れた。



深い群青の衣。

顔の半分を覆う仮面。

そして、金ではなく深紅に濁った瞳。



花は息を呑んだ。



朱皇の声が低く響く。



「……影宮えいきゅうの参しん、と見るべきか」



「さすが、帝。察しが早い」



男の声はやけに柔らかく、その柔らかさが逆に不気味だった。

彼は花に視線を向けた。その瞬間、花の体に冷たい針を刺したような寒気が走り、思わず朱皇の袖を握る。



朱皇が怒気を帯びる。



「我が后候補に、汚れた目を向けるな」



「后候補……?ええ、たしかに表向きはそうでしょう。ですが皇。あなたこそ、ずいぶん無茶をなさった。禁じられた血を持つ娘を、ここまで引き上げるとは」



花の胸に、重い不安が落ちた。

しかし、参の目はそれ以上の冷酷さで彼女を刺し貫く。



「その娘は、紅蓮の器。帝家にとっては宝であり、呪いでもある。そして影宮にとっては――必要な『鍵』だ」



朱皇は花を後ろへ押し出し、刀に手をかける。



「花には指一本触れさせぬ」



参は肩をすくめた。



「触れろとは言っていません。連れていくと言っているだけだ」



「ふざけるな」



「ふざけてなどいません。紅蓮の器は、帝の血脈を揺るがす存在。あなた一人に任せておけませんよ。そもそも――花の母が死んだのは、誰の命でだと思っている?」



花の呼吸が途切れた。

喉の奥で凍ったような痛みが走る。



「……母が……?」



参は愉悦の滲む声で続ける。



「紅蓮の巫女は力を持ちすぎた。先帝は恐れた。だから消された。あなたの母は、その運命から逃げ切れなかっただけですよ、花殿」



花の視界が揺らぎ、膝が折れそうになった。

朱皇がすぐ支える。



「参。これ以上、花を口で傷つけるな」



「真実を言ったまでです」



「その真実は私の前では無価値だ!」



朱皇が叫ぶように言い放った瞬間、紅蓮樹の根元が光り、大気が震えた。

参の紅い瞳が細められる。



「ほう……器が反応するとは」



花の胸の奥で、かつてない熱が弾ける。

痛みではない。灼けるような、光が流れ込むような感覚。



「……っ、私……なにか……が……!」



朱皇が驚愕する。



「花?!」



花は胸元を押さえた。母のかんざしが紅く光り、その光が紅蓮樹へと呼応している。

紅蓮樹の花びらがひとつ、ふっと落ちた。



参がすぐに指を鳴らす。



「やはり本物だ。――回収する」



その瞬間、参の背後に黒い霧が渦を巻き、影が形を成そうとした。



朱皇の刀が閃いた。



「花から離れろッ!」



斬撃が影を裂くが、霧はすぐに再形成される。



参が冷ややかに笑った。



「帝の剣が鈍ったとは言いませんが……守るものが増えた分、切れ味が落ちた」



「黙れ……!」



「あなたは帝としては優秀ですが、影宮の相手としては甘すぎる」



影が花へ迫る。

花は一歩後ずさり、背中が紅蓮樹に触れた瞬間――樹の花びらがふわりと舞い、花の身体を包むように光を放った。



参が目を見開く。



「……紅蓮の樹が……花を守っている?馬鹿な」



朱皇が花を抱き寄せる。



「花、動くな!」



花は必死に朱皇の袖を掴む。



「朱皇さま……助けて……!」



「必ずだ!」



参は舌打ちする。



「……なるほど。帝家の鍵は、予想以上に覚醒が早い。だがいいでしょう。今日は退きます」



「逃がす気はない」



「逃げますとも。影宮は、正面から戦う場ではありませんので」



参は背後の影へ溶け込むように消えかけたが、最後に花に視線を投げた。



「花殿。いずれ迎えに参ります。あなたの力が完全に開く前に」



影が霧散し、気配が途絶えた。



静寂だけが残った。



朱皇は深呼吸し、花を強く抱き寄せて言う。



「……花、無事か?」



「朱皇さま……こわ……かった……」



「もう大丈夫だ。絶対に離さない」



花は朱皇の胸元に顔を埋めた。

彼の心臓が大きく脈打っていて、その音が少しだけ恐怖を薄めた。



しかし、紅蓮の樹はまだ微かに脈動している。

まるでこれで終わりではないと告げるように。



朱皇は花の肩を両手で包み、真剣な瞳で見つめた。



「花。影宮は、おまえが紅蓮の器であることを完全に悟った。彼らは必ずまた来る。

そして……もっと強い手を使う」



花は震えながら問う。



「どうすれば……朱皇さまを……この国を……守れるんですか」



朱皇はそっと花の頬をなで、静かに答えた。



「おまえは守らなくていい。守るのは私の役目だ」



「でも……」



「花。紅蓮の血は人を救うための力だと、母上の手紙にあっただろう。その力をどう扱うかは……おまえ自身に任せる」



花の胸に、赤い光がまだ小さく残っている。

それは温かく、しかし重く、これからを示すように脈打っていた。



朱皇は花の手を取り、紅蓮樹の前から離れようとした。



「まずは後宮に戻ろう。おまえを守るための布陣を整える。そして――影宮への対抗策も」



花は朱皇の横顔を見上げる。

その横顔は決意に燃え、美しくも危うく見えた。



「朱皇さま……私……あなたを守りたい。紅蓮の力があるなら、使いたい」



朱皇の歩みが止まる。



「花……」



花は一歩前に出た。



「だって……私はあなたを……失いたくないから」



沈黙。

朱皇はゆっくり花を抱き寄せ、耳元に低く囁いた。



「……私も、おまえを失えない」



その抱擁は、恐怖を抱えながらも確かに未来へ繋がるものだった。



しかし――。

深紅の回廊の奥で、誰かが微かに笑ったような気配がした。



花は振り返る。

誰もいない。

ただ闇が、じっとこちらを見つめているようだった。



後宮の均衡は、完全に崩れ始めていた。




花が後宮へ入って三日目。

朝靄の立つ庭は、静かでひどく冷えていた。



花は薄い外套を肩に掛け、手桶を抱えて水場へ向かっていた。

侍女の身分としての雑事は相変わらずで、帝に対面したあの日の出来事が幻のように感じられるほどだった。



だが。



耳朶にかすかに触れる声が、足を止めさせた。



「……名も無き花よ。今朝は冷える」



心臓が跳ねた。

朝靄の中、黒衣の青年が立っていた。

帝・朱皇だった。



「しゅ、朱皇様……!なぜ、このような場所に……」



花は慌てて跪こうとした。しかし、袖口を掴まれた。



「そのままでよいと言ったはずだ。後宮の誰も見ていない時間くらい、私に気を遣うな」



「で、ですが……」



「……顔色が悪いな。眠れていないのか?」



朱皇は近づき、花の頬に触れそうなほど身を屈めた。

その距離の近さに、花の息が止まる。



「毎晩、陰口が聞こえるだろう。無理に気丈に振る舞う必要はない」



「……わたしは、大丈夫です」



「強がりだ」



囁くように断言され、花はうつむいた。

確かに眠れていなかった。

名も無き身から突然后候補のひとりになった少女に向けられる視線は、嫉妬と不信に満ちている。

どれほど身を縮めても、声は耳に届いた。



朱皇は、そんな花の沈黙をすべて理解しているように言った。



「後宮のことは気にするな。私が……お前を守る」



そのたった一言が、胸の奥を熱くする。

花は脳裏に浮かぶ言葉を押し殺し、無理に笑みを作った。



「もったいないお言葉です……。ですが、わたしは、ただの奉公人。立場を弁えなければ……」



「立場を気にするのは私の役目だ。お前は……ただ、息をしていればいい」



どう答えれば良いのかわからない。

朱皇は花の返答を待つでもなく、視線を朝靄へ向けた。



「もうすぐ『灯(ともしび)の儀』がある」



「……宮中最大の祭、ですよね。后を定める際の……」



「そうだ。今年は特に注目度が高い。外朝の師家(しか)、貴族の間でも駆け引きが激しい」



花の喉がひりつく。

そんなところへ、自分が紛れ込んでいるのだ。



「……帝のお隣に立つのは、わたしではありません」



「お前が決めることではない」



即答だった。

花は胸の奥が深く揺れた。



朱皇は、やわらかい声音で続けた。



「その儀の前に、お前に見せたいものがある。今日の夕刻……こっそり、天鏡殿へ来い」



「……天鏡殿、ですか? 帝以外は立ち入りを禁じられていると……」



「だから、お前だけを招く。誰にも気づかれないように来い。良いな?」



命じられるように、やさしく。

抗えぬほどに。



花はただ頷いていた。



朱皇はそのまま背を向け、霧の向こうへ歩み去る。

花の胸元には、彼の残した静かな熱だけが残された。



夕刻。



天鏡殿は、宮中の奥深くにあり、日が落ちた今は誰の気配もない。

花は足音を立てぬよう歩き、巨きな扉の前に立った。



――本当に、入っていいのだろうか。



逡巡していると、扉がひとりでに静かに開いた。



「来たか、花」



朱皇だった。

部屋の奥に立っている。

天鏡殿の中心には巨大な鏡――古の仙が作ったとされる神器が鎮座していた。

名前の通り、天をも映すという鏡。



「この鏡は、帝の血筋にのみ姿を明確に映す。だが……稀に、帝家に縁深い者にも反応することがある」



「縁……?」



「花。お前に、試してほしい」



心臓が落ちた。



「わたし、が……?」



「お前の出生は、ずっと霧に包まれている。名も無き灰の少女が、なぜ母の遺した簪(かんざし)だけを持っていたのか。誰にも語られず、誰にも気づかれず……」



朱皇が花に歩み寄る。



「その簪を、鏡の前で掲げてみろ」



花の呼吸が浅くなる。

簪は母の形見。

ただの飾り以上のものだと思ったことはない。

しかし、帝がこう言うということは――。



「……もし、何も起きなければ?」



「その時は、何も変わらない。お前はお前だ。それでいい」



朱皇の声音は、ひどく静かだった。

花は震える指で簪を取り出し、鏡の前に立った。



鏡面に映るのは灰色にくすんだ、自分の顔。

これが、すべて。



そう思った瞬間。



鏡が、脈打った。



花の腕に震動が伝わる。

簪が淡く光り、鏡に紅蓮の紋が浮かび上がった。



朱皇が目を見開いた。



「この紋は……帝家の古紋。失われたはずの……」



光はさらに強くなり、花を包み込んだ。

熱くも冷たくもない、不思議な感覚が全身を駆け巡る。



そして光が静まると。



鏡には、花の後ろにもうひとつの影が映っていた。

白い衣を纏った女性。

花と同じ簪を髪に挿し、穏やかに微笑んでいる。



「……母上……?」



花は思わず呟いた。

女性は口を動かした。



――花。隠されて生まれたあなたへ。



その声は、確かに聞こえた。

聞こえたはずだった。



次の瞬間、影が霧のように消える。



花は足元から崩れそうになり、朱皇が支えた。



「花……。お前の母は、ただの奉公人ではない。帝家の遠縁……いや、それ以上の、深い血筋を持っていたのだろう」



「わたし……帝家の……血……?」



「確証はない。だが、天鏡殿の鏡が認めたのだ。後宮の誰が疑おうと……お前の出生は、もはや否定できぬ」



花の瞳はゆらゆらと揺れた。



「そんな……わたし、は……ただ……」



ただ灰に埋もれて生きてきた。

母の死で世界が崩れ、奉公先に拾われた。

身分を偽るつもりも、帝に近づくつもりもなかった。



なのに――ここまで来てしまった。



朱皇は花の頬に手を添え、そっと言った。



「花。たとえ灰より出ようとも……鏡は、お前を選んだ。ならば、この宮も……私も、お前を選ぶ理由になる」



「朱皇様……」



「灯の儀までに、すべて整える。お前の身を危険に晒してはならない。今後は私の側近の者を、お前の周囲に張りつかせる」



「そんな……大袈裟です……」



「お前を狙う者がいる。嘘の身分を暴こうとする者も、これから増える。だが――」



朱皇は花を抱き寄せた。

花の肩が震える。



「どれほど陰が襲おうと……私は、お前を離さない」



その言葉は、花の胸に深く沈む。

逃げ場のないほど、やさしく。



花は震える声で答えた。



「……わたし……朱皇様の重荷になりませんか……?」



「むしろ、支えになれ。私が選んだ花だ。その誇りを持て」



花の視界が滲んだ。



その時――。



天鏡殿の扉の外に、微かな気配が走った。

砂を踏むような、鋭く小さな音。



朱皇の表情が一瞬で冷える。



「……誰だ」



張り詰めた気配が、殿内に満ちた。



花の心臓が跳ね、喉が締まる。



外にいるのは――。

味方か、敵か。



それとも、后候補の誰かか。



朱皇は花を背にかばい、腰の刀に手をかけた。



「花……決して離れるな」



天鏡殿の扉が、きしむ音を立ててゆっくり開いていく――。




扉が軋む音は、闇を裂く刃のようだった。

花は朱皇の背に守られながら、息を潜める。



冷えた空気を震わせるように、白い影が滑り込んできた。



「……失礼いたします、帝。どうか刀をお納めくださいませ」



現れたのは、宦官長・綸瑞(りんずい)だった。

痩せた身体に白衣をまとい、無駄のない動きで深く頭を垂れる。



だが、花は気づいた。

その眼が――、一瞬、花に向けて鋭く細められたのを。



朱皇は刀を抜きはしなかったが、すぐには手を離さなかった。



「綸瑞。何の用だ」



「は。帝が天鏡殿におられると伺い、念のため警備の強化を……」



「必要ない。この時間帯、この場所に入れるのは私が許した者だけだ」



「……かしこまりました」



綸瑞の声は丁重だが、どこか冷気を帯びている。

花の背に冷たい汗が伝う。



朱皇は花を一歩後ろに下がらせ、綸瑞へと一歩進む。



「綸瑞。お前は今、扉の外で何かを聞いたか?」



「いえ。誰の気配も感じられませんでした」



「嘘だな」



空気が凍った。

綸瑞がゆるりと顔を上げる。



「……帝は、私が虚偽を述べたと?」



「聞こえたはずだ。扉の前を動く影が。お前ほどの者が気づかぬわけがない」



綸瑞の唇が、ひどくわずかに笑った。

しかしその笑みは、花の背をひどく冷たくした。



「……ならば、見間違いかもしれません」



「ならば、見落としか」



朱皇の声が鋭くなる。



「綸瑞。天鏡殿は帝家の最奥。誰であれ、近づくことそのものが異常だ。それに気づかぬとは――お前らしくない」



「……ご忠告、肝に銘じます」



そのやり取りのすべてが、花の胸に重く沈んだ。



綸瑞は退去しながら、最後の一瞬だけ花を見た。

氷の刃のような視線。



――帝の背後に、何者かが立っている。



そんな冷たい言葉を心の底に刻むような目。



扉が閉じ、音が遠ざかっても、花の震えは消えなかった。



朱皇は花に向き直り、落ち着いた声で言う。



「怖がらせたな。だが今のでわかっただろう。お前は……監視されている」



「わたし……?」



「天鏡殿の鏡が反応した。あれを見られたとしたら、お前の身はもう隠しきれぬ」



花は喉を押さえた。

乾いた息しか出ない。



「……わたし、どうすれば……」



朱皇は花の肩に手を置いた。



「花。決して一人で動くな。今日から天鏡殿と私の私室以外へは、必ず付き人をつける」



「つ、付き人……?」



「信頼できる者だ。お前の影となって守る。これは命令だ」



花は言葉もなく頷くしかなかった。



朱皇は花の手を取り、ゆっくりと天鏡殿を後にした。

冷たい闇が背後で閉じていく。



翌朝。



二行改行。



薄曇りの空が宮中を覆い、どこか陰りがある。

花が目を覚ますと、寝所の前に一人の少女が控えていた。



短く切りそろえた黒髪。

凛とした眼差し。

無駄のない立ち姿。



「本日付で、朱皇様よりあなた様の護衛を命じられました。

私、綺羅(きら)と申します」



「護衛……?」



花は戸惑いながらも、少女の礼儀正しさに一礼を返す。



「わ、わたしはただの奉公人で……そんな、護衛なんて……」



「いいえ。今は帝の特別なお方として、どこへ行くにも私が同行いたします」



「と、特別……」



胸の奥がくすぐったくも、息が詰まる。



綺羅は続けた。



「昨夜、天鏡殿の周囲で不審者が出たと聞きました。花様の身に危険が及ぶ可能性があります。以後は、私の指示に従ってください」



言葉は硬いが、声は優しかった。



花は頷く。



「……よろしくお願いします、綺羅さん」



「綺羅で構いません。あなたを護るのが、今の私のすべてです」



その目には曇りがなかった。



綺羅がつく最初の日、花は後宮の訓読所――女官たちが文章を学ぶ場へ向かった。

朱皇の指示でもあった。



「花。儀式に備えよ。最低限の礼儀作法と文を身につけた方がいい」



その言葉の重みを、花は知っていた。



訓読所へ入ると、十数名の女官が読み書きを行っていた。

教鞭を取るのは、書院出身の女師・芹蓉(せりよう)。



花が姿を見せた瞬間、空気が変わった。



ざわ、と集まる視線。

囁き。

嘲りと興味の混じった目。



「……あれが、あの灰の娘」



「帝に見初められたって噂、本当?」



「まあ……あの格好、見てみなさいよ。貴族の娘の所作じゃないわ」



針のような言葉が飛ぶ。

身を縮める花の背後で、綺羅が一歩前に出た。



「侮辱は許しません」



その声の鋭さに、女官たちは口を噤んだ。



芹蓉がその場をまとめるように、優雅に笑う。



「皆、静かに。花様は本日より私が預かります。帝のお言葉により、正式に訓読を受けるお立場です。軽々しい態度は慎むように」



冷たい沈黙が走った。



花は深く頭を下げる。



「よ、よろしくお願いします……」



芹蓉は微笑んだが、どこかその目に得体の知れぬ色があった。



「こちらこそ。花様……あなたの本当の素質、楽しみですわ」



素質――鏡の光景が脳裏に蘇る。



芹蓉は花を席につかせ、文の読みから始めさせた。

花はもとより読み書きは最低限のみ。

貴族の娘のように流麗な筆は持たない。



しかし――。



「これは……」



芹蓉が、花が書いた字を見て息を呑む。



花は不安になって手を止めた。



「す、すみません。字が汚いですよね……?」



「いえ……違います。……花様、この筆運び、誰に習いました?」



「誰にも……母が少し、教えてくれたくらいで……」



芹蓉の眼が鋭く細められる。



「古筆(こひつ)の流れを知っているような……不思議な癖がありますわ。

これは……帝家古来の筆筋……」



花は思わず息を呑む。



また――また帝家の影。



芹蓉は微笑み、花の肩に手を置く。



「花様。あなたは……自分が思うほど、ただ者ではありませんわ」



その言葉に周囲の女官たちの視線がざわつく。



花の胸は、落ち着かないほど波打った。



午後。



二行改行。



訓読所を出た頃には、花の体は緊張で固まっていた。

綺羅はそんな花を見て言う。



「花様。お気を強く。今日のことで敵が増えても……味方も増えます」



「わたし……味方なんて、いるでしょうか……」



「私がいます。それだけでは足りませんか?」



真っすぐな言葉に、花の胸が少しだけ温かくなる。



その時。



背後で、風が揺れた。



「――花殿」



振り返ると、紅霞(こうか)がいた。

后候補のひとりで名門の娘。

絹衣をまとい、美しい笑みを浮かべている。



だが、その笑みは氷のように薄い。



「お久しぶりですわね。訓読所でのご活躍、耳にいたしましたわ」



「あ、紅霞さま……」



紅霞は花の手を取り、傍目には親しげに見える仕草をした。

しかしその握りは、痛いほど強い。



「花殿。帝に近づくのは……大変ですわよ?」



「わ、わたしは……」



「あなたのような出自の者が、帝の目に留まるなんて……嫉妬されるに決まっていますでしょう?……お気をつけあそばせ。あなたの身は、思っている以上に――軽いのですもの」



綺羅がすぐに間に入り、冷たい声で切り返す。



「手をお離しください。それ以上の接触は、帝の命により差し控えていただきます」



紅霞はふっと手を離し、穏やかに笑った。



「まあ恐ろしい⋯⋯では、花殿。灯の儀でお会いしましょうね。……その日まで、無事でいられたら、ですが」



紅霞の背が遠ざかる。

花の手は震えていた。



綺羅が静かに言う。



「……あの方は危険です。笑顔の奥に、鋭い刃を持っている」



「わかっています……」



花は胸元を押さえた。

簪が、ひどく重く感じられる。



朱皇の言葉。

鏡の光。

母の影。



すべてが絡まり、花の中でほどけない結び目になっていく。



そして。その結び目を狙う影は、もうすぐそこに迫っているような気がした。



綺羅が歩み出す。



「花様。本日の最後に、朱皇様がお呼びです。……天鏡殿ではなく、帝の私室へ」



「わたしを……? どうして……?」



「理由は……朱皇様のみぞ知る、でしょう」



花は息を整え、綺羅と共に歩き出す。



胸の奥がざわつく。

帝の私室へ呼ばれるということは――。

何か、さらなる真実が待っているのかもしれない。



花の足音だけが、静かに廊下に響いた。



そして、扉の向こう。

帝の部屋の前で足が止まる。



綺羅が扉を叩く。



「朱皇様。花様をお連れしました」



沈黙。

そして、低く落ち着いた声が返る。



「入れ」



花は深呼吸をし、扉を押し開けた。



そこにいた朱皇の顔は――いつもの冷静さとは違う、沈痛な影を落としていた。



「……花。お前に、どうしても伝えねばならぬことがある」



花の心臓が跳ねた。



朱皇はゆっくりと歩み寄り、花を見つめる。



「花。お前の母のことだ。そして……お前の出生にまつわる“封じられた秘密”、その核心を」



次の瞬間――。

朱皇の言葉が、花の運命を大きく動かすことになる。




花は朱皇の瞳の奥に、言いようのない影を感じた。

それは冷酷さでも、怒りでもない。

もっと深く、触れてはならない暗闇のようなもの。



朱皇の私室は静かで、灯火だけが揺れている。

まるで、この部屋だけが宮中の時間から切り離されているようだった。



「花……座れ。話は長くなる」



花は胸を押さえ、静かに頷いた。



朱皇は花の正面に腰を下ろし、一度、深く息をついた。



「……お前の母の名は、華蓮(かれん)といったな」



「はい……。母は、わたしが十の時に亡くなりました」



朱皇は花の瞳に優しく視線を落とし、

そしてゆっくりと続けた。



「華蓮は……帝家の姫だった」



花の呼吸が止まった。



「……ひめ……?そんな……母は奉公人で……」



「いや。奉公人として身を隠していただけだ。

本来、華蓮は帝家でも古い北枝(ほくし)の血の直系にあたる。

その血は、帝を支える守護の力を持つと言われてきた」



花は自分の胸元に下げた簪に触れた。



朱皇は続ける。



「天鏡殿の鏡は、帝家かその守護の血を持つ者しか光を返さない。花……お前が鏡に選ばれたのは、偶然ではない」



花の胸が大きく波打つ。



母が。

奉公先の裏庭で、灰を被りながらも微笑んでいた母が。

帝家の姫。

そんなこと、考えたこともなかった。



朱皇は、花の震えを包み込むように言った。



「華蓮は、後宮の北枝の間で育てられた。慎ましい性格で、争いごとを嫌い……だが、彼女の美しさと才は人々の嫉妬を買った」



花の心に、何か冷たいものが刺さる。



「……母は……どうして、宮を出たのですか?」



朱皇は短く目を伏せた。

その沈黙が、答えをすでに語っているように思えた。



「華蓮に、暗殺の影が及んだからだ」



花は思わず身を乗り出した。



「……あん、さつ……?」



朱皇は頷く。



「帝家の血を脅威と感じた者たちが、華蓮を排除しようとした。その中には、今も後宮に影響力を持つ家がある」



「そ、そんな……」



「華蓮は身を隠すために後宮を出て、身分を偽り、奉公人として暮らした⋯⋯そして、お前を産んだ」



花の呼吸が乱れた。

胸の奥で大きな波が押し寄せてくる。



「じゃあ……わたしは……」



「帝家の北枝の血の継承者だ。そして……華蓮が遺した最後の娘」



言葉の重さに、花の指先が震えた。



朱皇は花の手をそっと取り、包み込むように握った。



「花。お前を追い詰めようとする者たちは、今も後宮にいる。華蓮を追い出した影は……まだこの宮のどこかに潜んでいる」



花の背に、冷たい汗が流れる。



紅霞の笑み。

綸瑞の視線。

芹蓉の目の奥に潜む光。



すべてが、ひどく不穏に重なり合う。



朱皇は花の手を離し、真っ直ぐに見つめた。



「花。灯の儀が近づくほど、お前の身は危険に晒される。だが――私は、お前を後宮のどんな影からでも守る」



花は震える声で言った。



「朱皇様……わたし、は……ただの灰の娘で……こんな……大きな秘密を背負うなんて……」



「花」



朱皇の声音が低く、強くなる。



「灰から出た花ほど、強いものはない」



その一言が、胸に深く突き刺さった。



花は唇を噛みしめた。



「……でも、わたしは怖い……。わたしのせいで、誰かが……朱皇様までもが危険に……」



朱皇はそっと花の頬を両手で挟む。



「危険など、構わぬ」



花の瞳が揺れる。



朱皇の声は、ひどく静かで、ひどく確かな響きだった。



「花。私はお前が何者であろうと側から離れるつもりはない」



胸の奥が、抑えきれないほど熱くなる。



その瞬間だった。



突然、外で大きな叫び声が響いた。



「帝の私室に不審者!!」



朱皇がすぐさま花をかばい、刀に手をかける。



綺羅の鋭い声が廊下から響く。



「花様、後ろへ!朱皇様、扉の外へ複数の影!」



朱皇は花を背後の屏風の陰へ押し込み、短く命じた。



「花、絶対に動くな」



扉が激しく叩かれる音。



「朱皇様、開門を!警衛隊を!」



だがその声に、嫌な違和感があった。

勢いはあるが、どこか作り物のような響き。



朱皇の眉がわずかに動く。



「違う……これは、撹乱だ」



花は息を呑んだ。



トン――。



静かに、ありえないほど静かに、私室の奥の障子が揺れた。



そこから闇のような影が、ひとつ、すべり込んでくる。



綺羅も、警衛隊も気づかぬほどに。

そして朱皇の背後、花が隠れる屏風へ向けて、まっすぐに。



影は、手に短刀を持っていた。



花の喉から、声にならない息が漏れた。



その瞬間。



ギィィンッ!!



鋭い金属音。

綺羅がどこからともなく飛び込み、影の腕をはじき飛ばした。



短刀が床を転がる。



影が低く唸る。



「……邪魔だ、北枝の守り人……!」



綺羅の目が、冷たく光る。



「やはり……花様を狙っていたのか」



朱皇はすぐさま刀を抜いた。



「名を名乗れ」



影は笑った。

低く、ひどく歪んだ笑い。



「名など不要……灰の娘が帝の隣に立つなど、許されぬ。お前たちの血は……滅ぶべきだ……」



花の心臓に冷たい手が触れたような感覚が走る。



朱皇の目が、怒りで燃え上がる。



「花を……誰だと思っている」



影は逃げるように窓へ走る。

綺羅が追い、朱皇も刀を構える。



影は最後に振り返り、花の姿を確かに確認して笑った。



「帝も……愚かよ……北枝の血を、守りきれるものか……」



そして、闇へと消えた。



静寂が戻る。

花は震えながら屏風の陰から出た。



朱皇が駆け寄り、花を抱きしめる。



「花……怪我はないか」



「だ……大丈夫です……」



だが花の声は震えていた。



朱皇は花の背をゆっくり撫で、深く低く言う。



「……花。今夜は、私の私室の近くで休め。もう離さない。何があっても、お前を守る」



花は朱皇の胸の中で、静かに頷いた。



胸の震えは止まらない。

だが。

確かに、朱皇の腕の中は温かかった。



その温もりが、花の未来を照らす唯一の光のようだった。



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