朝靄が朱宮の屋根を淡く包むと、後宮はいつもより静かに息を継いだ。
花は薄手の小襖を開き、襟の中でかんざしを確かめると、ゆっくりと床に足を下ろした。
昨夜の帝の宣言は、まだ夢の中の残像のようにふわりと胸の中を漂っている。
だが夢の残像は、朝が来ればしだいに現実の輪郭を取り、重量を増す。
花は慎重に身を整え、鏡に映る自分の顔を見据える。
そこには皺ひとつないが、瞳は眠れぬ夜の色を帯びていた。
鏡の縁に映る紅玉が、かすかに光を返す。
母の残したものは、まるで意思を帯びた小さな灯のように、彼女を導き続けている。
広間へ向かう廊下で、花は侍女の囁きを耳にした。
その声は細く、しかし確実に刃を含んでいた。
「帝が彼女を護るとはな……しかし、長くは続くまい」
「宵月様が黙っているはずがないわ」
花は言葉を知らぬふりをして通り過ぎたが、胸の奥の石が一つ、落ちるような感覚がした。
宵月――後宮の重鎮であり、宮中の秩序と歴史を守ることに固執する男。
彼にとって、帝の恣意的な寵愛は秩序の破壊であり、許しがたい事態だった。
その日の会合では、宵月が早くも動きを取った。
大広間に面した書斎で、幾人かの高官と諜者がひそやかに顔を寄せ合っている。
宵月は薄い畳の上に座り、静かに言葉を落とした。
「皇家に縁ある印は、放置すべきものではない。あの女を徹底的に調べよ」
諜者のひとりが微かに呻き、また一人が頷く。
男たちの眼差しは冷たく、計算に満ちていた。
花の存在は、彼らの手の中で検証の対象となりつつあった。
花の元へは、次第に訪問者が増えた。
うち一人は、低い声で花に語りかける侍女・玲瓏であった。
玲瓏は表向きは無害で礼節を重んじる女であったが、どこか一枚皮を剥いだような視線を花に向けることがある。
「花殿、世は考えなければならぬことが多い」
玲瓏は穏やかな声で言った。
花はかんざしを見つめ、静かに頷いた。
玲瓏はさらに低い声で続ける。
「あなたはただの奉公人ではない。だが、真実を知ることは危険でもある」
花は答えを求めた。
だが玲瓏は笑みだけを残して去った。
花はその笑みが友ではなく、観測者のものに見えた。
その週のある夜、花は夢を見た。
夢の中で、広漠たる野に一羽の緋色の鳥が翼を休めている。
鳥の胸には朱の紋が刻まれ、風が吹くたびに胸元の羽根が煌めいた。
鳥は低く鳴き、花に言葉を投げかける。
「かんざしの血を忘れるな」
夢から醒めたとき、花の手のひらにはかんざしから零れたように温かい余韻が残っていた。
夢は暗示に満ちており、彼女の不安を深める。
後宮では、表面上は従順に見える者たちが、深い夜に密かに動く。
宵月は宮中記録を洗い直させ、過去の血書や禁制の古文書を探らせた。
古い写本の隙間から、ある記述が浮かび上がる。
『緋鳳の印、皇統に於ける禁具にて』——短い一文が、嘘のように重く響いた。
宵月はその文字を指先でなぞり、険しい顔をして呟いた。
「もしや……」
男の心の中で、古い恐れが目を覚ます。
同じ頃、後宮ではささやかな試練が花に向けられた。
ある朝、花の枕元に密書が投げ込まれる。
紙面には短く、冷たい筆致で一行だけが記されていた。
『身分を偽る者、容赦はしない』
脅迫状だと理解した花は、かすかな震えを覚えながらも、それを懐にしまった。
侍女たちは表面上は心配の色を見せるが、その目は探る。
誰がこの紙を投げ入れたのか――それを突き止めるのは容易ではない。
だが、花には守るべき人々もできていた。
侍女長の心は一見冷たいが、実は花に対してある種の期待と同情が混じっている。
「花殿、見せかけに惑わされるな」
彼女は細く呟き、花の手を強く握った。
その握りは確かな温度を返し、花は少し救われた気がした。
やがて、事件は明確な形を取り出す。
宴の夜、後宮に忍び込んだ者が現れ、花を襲おうとしたのだ。
計略は周到で、屋敷の奥で花の通う小径に罠が張られていた。
暗がりの中から手が伸び、花の襟元を掴んだ。
だが、そのときだった。
背後から黒い影が急速に飛び込んできて、襲撃者を地に叩きつける。
花は驚愕と安堵の混ざった声を上げる。
影の主は、朱皇の近侍の一人であり、帝の密命で常に花の側に置かれていた男だった。
男は花を素早く抱き寄せ、耳元で低く囁く。
「逃げろ。ここは安全ではない」
花はまだ震えていたが、男の腕の中でしばしの安心を得た。
だが襲撃の背後には、別の事情があった。
捕えられた若い侍者は、宵月に繋がる秘密の網の端切れを漏らし、口を割った。
「印の件は、上からの命だ。あの女の正体を暴けと」
その言葉は重く、すべてを物語っていた。
宵月は着実に、花を起点にして宮中の秩序を正そうとしていたのだ。
だがその“正しさ”が、どれほど血で染まるかを、彼は計算していなかったかもしれない。
襲撃の夜が過ぎ、花は疲弊した身体で座り込み、かんざしを掌に取った。
紅玉はほのかに余韻を残し、花の掌を温める。
彼女は小さくつぶやく。
「なぜ、私を狙うの」
かんざしは答えないが、彼女の頭の奥にある記憶の欠片が揺れる。
幼いとき、母が誰かに怯えている姿を見た記憶。
母が夜毎に何かを隠し、泣きながら祈る姿。
その断片は小さく、未だに繋がらない。
だが、その断片の輪郭が徐々に濃くなる予感だけは確かにあった。
襲撃の翌日、帝は花を内陸の静かな一室へと招いた。
部屋は古い書物と香炉の煙で満ちており、窓からは庭の枯山水が見渡せた。
朱皇は扉を閉め、頼りなげな様相の花を正面に座らせると、静かに語り始めた。
「花、昨夜の件は許し難い。お前を狙う者は、表向きの正義を唱えるが……裏では過去を掘り返す者もいる」
花はゆっくりと目を伏せた。
朱皇はさらに言葉を続ける。
「私は知りたい。お前の過去を。だが、それはお前の意志であらねばならぬ」
花は震える声で答える。
「……私に、なにもないのです。母以外の記憶は、ほとんど残っていません」
朱皇は眉を寄せる。
「だが、かんざしは何かを語る。私はそれを感じる」
花は胸の奥から何かがこみあげるのを抑えた。
「母は、私が幼い時に……言っていました。『これは渡すな』と。理由は言わなかった」
朱皇は静かにうなずいた。
「良い。ならば、少しずつでいい。私と共に、真実を探ろう」
それは言葉通りの申し出であり、同時に宣言でもあった。
朱皇は花の手を取り、その掌に自分の指の温もりを伝えた。
花はその温もりに、恐れと希望が同居する奇妙な安心を覚えた。
しかし、帝の守護宣言は新たな波紋を生む。
宵月はそれを看過せず、より大きな策略を巡らせる。
彼は古き家門の血脈図を取り寄せ、花の名字や遠い縁者を洗い出す。
一枚、黄ばんだ紙片に、かすかな筆跡が見つかる。
そこには小さな家紋が描かれていた。
宵月はそれを見て薄く笑った。
「なるほどな……」
だが宵月の微笑みは、やがて怒りに変わる。
紙片の繋がりが示す先は、帝家と古くから断絶した一系統。
それはかつて反乱を企て、血で罰せられた家の末裔の名である可能性があった。
宵月は指先で紙を揉み込み、低く呟く。
「もしこれが真なら――彼女は王権にとって危険である」
花は自分の過去に少しだけ触れる。
書庫で見つけた古い肖像画の中に、見覚えのある面影を見出したのだ。
細い眉、少し上がった唇の輪郭、そして同じ錦木の模様を額飾りにした女性の姿。
花はその絵に引き寄せられ、胸の中で何かが鳴るのを感じた。
「母かもしれない」――その思いが、彼女の内なる決意を固めた。
章の結びは静かだが確かな重みを伴う。
朱宮の夜はいつもと変わらず暗い。
だが、花はもう以前の影の女ではない。
かんざしを握り、母の面影を胸に刻み、彼女は自らの名を取り戻すために歩き出すことを誓う。
夜が深まると、宵月は書斎に戻り、紙片を額にあてて独り囁く。
「王権の守りと、国の安寧。どちらを選ぶか、帝よ」
彼の声には、宿命と試練が同居している。
その言葉は、遠くで眠る花への新たな試練の予告であった。
かんざしの紅玉が、夜の静寂の中でかすかに震え、鋭い光を一瞬放った。
その光は宵月の書斎の闇にまで届き、紙片の一角を照らす。
花の名は、帝の守護のもとで少しずつ露わになりつつある。
だが、その露出は同時に、古い傷を殻から呼び覚ますことになるのだと、まだ誰も気づいていない。
夜風に乗って、朱宮の瓦が静かに鳴る。
赤い紋様が刻まれたかんざしは、花の胸の奥で小さく鼓動する。
その鼓動は、やがて国の命運を揺るがす鼓動へと連なっていく予感を秘めていた。
――――――――――――
後宮に吹く風は、時に香を含み、時に毒を含む。だがそのどちらにも染まらぬ風があるとすれば、それは──花の歩みによって立つ風だった。
彼女は、帝から授かった后候補としての居所⋯⋯へ移るため、侍女に囲まれながら静かに歩いていた。
だが、そこに宿るのは喜びだけではない。居場所を得たという実感ではなく、胸中に巣食うのは、喉元を掴むような不安と、知らぬ世界に放り込まれた孤独だった。
それでも、花は顔を上げた。
帝と交わした、あの言葉が胸の奥から彼女を支えていた。
「お前は、灰から出でた花ではない。己の力で咲こうとしている花だ」
朱皇の声は、冷たさの奥に熱を孕んでいて、その温度だけが、花の夜を照らしてくれる。
◆
新たに与えられた清鈴殿。
そこは、后妃や高位の妃たちが住まう区画に近く、ただの奉公人であった花には到底似つかわしくない場所だった。
踏み入れた瞬間、花は思わず息を止めた。
白檀の香りが満ち、障子には薄桃色の絹が張られ、庭には細工を凝らした石灯籠が並んでいた。
「……わたし、こんな場所に」
「帝より直々に下賜された殿舎です。誇ってよいのですよ、花様」
侍女が言うが、その声には微かな怯えが滲む。
こんな待遇を受けること自体が異常だと、後宮の者なら誰もが理解している。
そしてその異常は、後宮全体にも確実に波紋を広げていた。
◆
夜。
花が寝所へ向かうと、庭に小さな灯りが揺れていた。
「……?」
近づくと、そこに朱皇が立っていた。
帝の袖が夜風に揺れ、その影が花を包む。
「帝、なぜ……?」
「お前が不安そうだったからだ」
その一言に、心臓が甘く震える。
朱皇は続けた。
「明日、正式に后候補としての名を問う儀がある。だが、お前が本当は誰の娘で、どこで生きてきたか……私は、それを追求するつもりはない」
花は胸の奥が痛むほど締めつけられる。
本当は言わなければならない。偽物であることを。身分を欺いていることを。
けれど、その言葉は喉で凍りつく。
朱皇は、花の沈黙の意味を悟ったのか、ゆっくり歩み寄り、その手をとった。
「名など、どうでもよい。お前という“存在”を、私は見ている」
帝の手は温かい。
だが、花はその温かさがいずれ奪われる日を想像し、胸が苦しくなる。
◆
翌日――。
后妃候補の名を記す儀、「冊名の儀」
これは、后に選ばれる可能性のある者を正式に宮中へ記録する重儀である。
花も、その場に並ぶこととなった。
豪奢な十二単を纏わされた花は、動くたびに衣がため息のように揺れる。
周囲では、妃たちが嫉妬と焦燥を隠さず視線を刺してくる。
「あれが、帝に呼ばれた娘……?」
「聞けば、どこの家柄かも怪しいとか……」
「そんな灰女が后候補だなんて、許されるのか」
ざわめきは少女の背を押して崖へ追いやるようだった。
それでも、花は歩み出る。
帝が自ら彼女の名前を呼んだ。
「……花」
たったそれだけの呼び名。苗字も、家名もない。
本来ならば、記録に残せる名ではない。
しかし、帝は側近の反対を許さなかった。
その瞬間、後宮の空気は一変する。
帝が花を――身分も経歴も不明な娘を、正式に后候補として記すと宣言したのだ。
ざわっ、と波が走る。
皇后の席に座る大妃が扇をパチンと閉じた。
「帝よ。名も無き娘に、この場へ立つ資格が……?」
朱皇は視線一つ動かさない。
「ある。私が許す」
その瞬間、大妃の表情は凍りつき、妃たちの顔色も次々と蒼白に変わった。
帝が、本気だという事実が、宮中の均衡を崩し始めたのだ。
◆
儀が終わった夕刻。
花は殿へ戻る途中、ひと気のない回廊で突然腕を掴まれた。
「きゃ……!」
振り返ると、そこには一人の女官。目が細く、笑みが張りついたような女だ。
「花様……いえ、花どのとお呼びすべきかしら?大層なご出世ですこと」
言葉こそ丁寧だが、声音は刺すように冷たい。
「身分のない『灰かぶり』が、この宮にいていいと思って?」
花は息を呑む。
女官はさらに続けた。
「ですがご安心を。この後宮に、あなたのような者を歓迎する者など、一人もいませんわ」
その目は、捕食者のそれだった。
「あなたの本当の身分──いずれ白日の下に晒されます。そう遠くないうちに」
花は震えた。
その震えが、恐怖のものなのか、悔しさか、あるいは名も知らぬ怒りなのか、自分でもわからない。
だが――この瞬間だった。
「……何をしている?」
朗々と響く帝の声。
女官の顔色が、一瞬にして土のように青ざめた。
朱皇が近づき、花を抱き寄せる。
「花に触れるな。――命が惜しければ」
その静謐な怒りの気配に、女官は膝を折り、地に伏した。
◆
その夜。
花は朱皇の膝の上に頭を預けるように、帝の執務間に座っていた。
いつもは書を読む朱皇の傍らに座ってよいなど、許されるはずがない。
だが帝は言った。
「お前は、私のそばにいろ」
「……帝、わたし……怖かった……」
言葉が溢れ、花は唇を噛む。
偽物の身分でここにいる自分が、彼の好意を受けていいはずがないとわかっているのに、心は朱皇の温もりを欲してしまう。
朱皇は花の頬にそっと触れた。
「花。お前が怖がる必要はない。後宮がどう思おうと……お前は私が選んだ娘だ」
その言葉は甘く、恋のようでありながら──。
同時に、逃げ場を失う鎖のようでもあった。
胸の奥で、何かがゆっくりと燃え始める。
花は目を閉じ、朱皇の衣に額を寄せた。
――そのとき、外から風が吹き、部屋の明かりが揺れた。
まるで、これから起こる嵐を告げるように。
花はまだ知らない。
彼女の出生の秘密が、帝家の血筋に関わるほど深く、そして危険なものだということを。
だが、運命の歯車は静かに、しかし確実に、その中心へ向けて回り始めていた。
朱皇の執務間で過ごしたその夜。
花は寝所へ戻っても、胸の高鳴りがしばらく収まらなかった。
帝の瞳に自分が映っていた。
触れられた頬の温もりが、指先から離れない。
けれど同時に、胸の深いところで黒い影が息を潜めている。
――わたしは偽物。
――ばれれば、すべてが終わる。
帝に守られれば守られるほど、それは鋭く胸を刺した。
彼を信じたい。
彼のそばにいたい。
でも、帝は本当のわたしを知らない。
花は薄い布団に身を沈め、眠りの淵でそっと願った。
――どうか、この嘘が、いまはまだ暴かれませんように。
◆
翌朝。
清鈴殿の前に立つと、何やら騒がしい気配が漂っていた。
「何ごと……?」
侍女が駆け寄り、声を潜めて告げた。
「花様、広間にどなたかが来ております。……高位の妃方です」
花は息をのむ。
妃の訪問とは、歓迎より牽制の意味が大きい。
案内されるまま広間へ入ると、三人の妃が優雅に座していた。
一人は、黒髪に紅の簪を挿した麗嬢妃。
一人は、優しげな瞳を装うが、口元に毒を隠す静芳妃。
そしてもう一人は、後宮の影を束ねると噂される、大妃付きの女官長・妙蓮。
――嫌な三人だ、と花は本能で悟った。
麗嬢妃がにやりと笑う。
「まあ、これが噂の灰かぶりの花ですのね。思ったより可愛らしい顔をしておいでだわ」
静芳妃も扇を揺らしながら、甘く囁く。
「帝がお気に入りなのも……なんとなく、わかりますわ」
言葉は柔らかだが、全身から敵意が滲んでいる。
妙蓮が一歩、花に近づいた。
「后候補となったからには、花様にも覚悟が必要です。この後宮は……弱さにつけ込む者に容赦いたしません」
その声の冷たさに、花は背筋が凍る。
「わ、わたしは……」
言葉を紡ぐ前に、麗嬢妃がさらに攻め込んだ。
「そういえば、花様の家名は、まだ記録にありませんのよね。どこの家柄でお育ち?」
あえて周囲に聞こえる声で問う。
花の胸がズキリと痛んだ。
――言えるはずがない。
――身分を偽っているのだから。
きゅっと唇を噛むと、妙蓮が思わせぶりに微笑んだ。
「まあ。……答えられない事情でも?」
「まさか、本当の家が言えないほど……みすぼらしい?」
広間に、乾いた笑いが広がる。
花の指が震えた。
涙が滲みそうになるのを懸命に堪える。
――負けたくない。
帝の言葉が、脳裏に蘇る。
己の力で咲こうとしている花だ。
その一言が、胸の奥で灯をともした。
花は小さく息を吸い、震える声を押しとどめた。
「……名は、恥じるほどではありません。けれど、それを語るのは、帝のお許しがあってからです」
妃たちの表情が一瞬だけ凍った。
妙蓮が眉をひそめる。
「帝のお許し、ですって……?」
そこへ。
「許しなら、すでに与えているが?」
凛とした声が広間全体を震わせた。
妃たちが振り返った先に、朱皇が立っていた。
花は息をつく暇もなかった。
帝は一歩、彼女のそばへ進み、その肩にそっと手を置く。
「花は、私の庇護下にある。彼女を貶める言葉は――許さぬ」
妃たちの顔色が、みるみる蒼白になる。
麗嬢妃が震える声を押し出した。
「し、しかし帝……わたくしどもは、ただ……」
「ただの牽制だろう。後宮の常とはいえ……花を泣かせるならば話は別だ」
帝の声は静かだが、刃のように鋭い。
妙蓮が片膝をついた。
「帝に逆らうつもりなどございません。ただ……后宮の秩序を──」
「秩序は、私が決める」
その一言で、すべての空気が支配された。
妃たちは一斉に退き、広間には花と朱皇だけが残された。
沈黙の中、花は俯き、肩を震わせた。
「……帝。助けてくださらずとも……わたし……」
「泣いてもいい」
朱皇は言い、花をそっと胸に抱き寄せた。
「強くならなくともいい。今は……しがみついていればいい」
その優しさに、花はこらえていた涙をこぼした。
だが、その涙の裏で、帝の瞳には別の色が宿っていた。
花を狙う者がいるのなら……必ず、その根を断つ。
そんな決意を秘めた光だった。
朱皇の胸に泣き崩れたあと、花は深い息をつきながら、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
帝は彼女の背を静かに撫で続けていたが、その指先の動きには迷いがなく、むしろ強く守り抜こうとする意志すら感じられた。
涙が落ち着いた頃、朱皇は花の頬に触れた。
「花。お前は弱くなどない。弱いふりをしているだけだ」
「わたし……?」
「本当に弱ければ、あの場で言葉を返せなかった。泣きそうでも、怯えていても……お前は立っていた。それだけで充分だ」
花の胸に温かさが広がる。
と同時に、強い葛藤が込み上げる。
(わたしは……嘘を抱えている。帝に庇われる資格なんて……本当はどこにもないのに)
けれど、それを告げる勇気はまだ持てなかった。
朱皇は花の手を包む。
「だが……花。お前の身を狙う影が、日に日に濃くなっている」
その声の深さに、花の心臓は跳ねた。
「……狙う、影……?」
「今日の妃たちの行いは氷山の一角だ。後宮は今、お前の出自を嗅ぎ回っている者で満ちている。私が名前を記したことで、抑え込んでいた動きが一気に表へ出てきた」
花は息を呑む。
その影が何であるか、まだ完全には掴めない。
けれど、朱皇の言葉から伝わるものは危険の匂いだけではない。
花自身の過去が、後宮の均衡を壊すほどのなにかを秘めているという事実。
◆
清鈴殿へ戻ると、侍女たちが慌てて部屋を整えていた。
花が入ると、全員が動きを止め、深々と頭を下げる。
以前とは明らかに態度が違う。
帝が公式に庇護を宣言したことが、彼女たちの態度にも出ていた。
だがその空気の変化は、花にとって心地よいものではなかった。
(侍女たちの中にも、きっと誰かの目があるはず……)
後宮は、綺麗な顔をして牙を隠す場所だ。
誰が味方で、誰が敵かなんて、外から見て判断できるはずもない。
花は、寝所へ戻る途中で立ち止まった。
庭の竹林を風が渡り、葉が擦れる音がした。
……その中に混じって、かすかな気配があるように感じた。
(誰か……いる?)
足元の影が伸びる。
竹の間に立つ黒い影。
その姿はすぐに闇へ溶けたが、確かに視線を感じた。
(わたし……監視されている……)
背筋がひやりと冷えた。
清鈴殿という、美しい箱の中。
しかし、その外側はすでに罠に囲まれているようだった。
◆
夜半。
疲れた体を休めようと布団に潜ろうとしたとき、襖が小さく叩かれた。
「花様……お入りしてもよろしいでしょうか」
声の主は、侍女の白雀だった。
「どうぞ……」
白雀が入ると、その表情は深刻で、手に紙束を抱えていた。
「……花様にだけ、お伝えしたいことがございます」
白雀は周囲を見回し、声を潜めた。
「実は⋯⋯ある噂が、宮中に流れ始めているのです」
「噂……?」
白雀は紙束を差し出した。
「これは宮中の書役から漏れ出た、后候補の素性調べの控え書きです。本来なら外に出るものではありません。ですが……そこには、花様の身分について、不自然な空白が多すぎると……」
花の指が震える。
紙には、こう記されていた。
『花』家名不明。
出身地不明。
親族不明。
身元保証者、偽名の可能性あり。
偽物であるという証拠が、少しずつ積み上がっていた。
白雀は続ける。
「帝が庇護してくださっているうちは良いのです。ですが……大妃様の側近たちが、この空白を利用しようと動き出しています」
花は息を呑んだ。
白雀はさらに声を潜める。
「そして……もっと深い噂も広まり始めています。花様が……帝家に縁ある血ではないかと」
花の心臓が止まった。
「わ、わたしが……帝家……?」
白雀は首を振る。
「いいえ。花様が帝家の血だという確証などどこにもありません。ですが、大妃様側の者たちが……そういう新たな物語を作ろうとしているのです」
「どういうこと……?」
「帝が花様を特別扱いなさるのは、血縁を隠しているからだ、と。そう噂すれば、后候補から外す理由が作れます。帝が贔屓している政治的に偏りが出ると」
花の指先から力が抜けていった。
(そんな……そんな嘘……わたしはただの灰かぶりなのに……どうして……どうしてそんな……)
白雀は花の肩に触れた。
「花様は何も悪くありません。けれど……後宮は、真実ではなく利用できる噂で動く場所なのです」
花は震えながら、眠るどころではなく部屋を歩いた。
少しでも落ち着こうと、深呼吸を繰り返すが胸のざわつきは消えない。
(わたしの正体を調べている……嘘が暴かれる……でも、わたしの過去には……
何もないはずなのに……)
だが、その何もないはずの夜の奥深くで小さなさざ波が揺れた。
白雀が帰ったあと、花は布団にうずくまり、胸を抱えた。
ふと、亡き母のかんざしが、月の光を受けて淡く光った。
「……お母さん……わたし……どうすれば……」
その瞬間、かんざしの細工に刻まれている見慣れぬ紋に目が留まった。
(……この紋。今まで気づかなかったけど……どこかで見たような……)
思い出せない。
ただ、胸の奥がざわりと波立つ。
そのとき──。
コン……コン……。
夜半の静けさを破る、控えめなノックが聞こえた。
「花。起きているか」
朱皇の声だった。
花は驚き、急いで襖を開いた。
「て、帝……どうして……?」
朱皇は外套を羽織り、まるで眠る気などなかったような瞳で花を見つめた。
「花。お前に、どうしても話しておかねばならぬことがある」
その声音は、今までにないほど重く。
どこか、覚悟を帯びていた。
花の心臓が、怖いほどに高鳴った。
(帝が……隠してきた何か……?)
朱皇はゆっくりと口を開いた。
「お前の出生についてひとつ、気になる話を聞いた」
その瞬間、花の呼吸が止まった。
夜の帳が落ちる頃、後宮の奥にひっそりと存在する幽月の池は、水面すら凍りついたような静けさに包まれていた。
花は、ひとりその前に立っていた。
昼間、女官たちがひそひそと囁いていた言葉が、まだ耳の奥で疼いている。
――灰かぶりのくせに。
――帝に取り入っただけ。
――あれは身分を偽っている噂もあるらしいぞ。
――いずれ、罰が下る。
花は拳を握りしめた。
自分の呼吸が白く揺れるのが、妙に心細かった。
朱皇の優しさは、嘘ではない。
けれど、優しさだけで守られるほど、後宮は生易しくない。
「……誰かの代わりに紛れ込んだだけの、偽物なのに」
ぽつり、声が静寂に吸い込まれた。
母のかんざしを胸元で握りしめながら、花は池の水面を覗き込んだ。
淡い月が、凍てつく鏡の中に揺れている。
そのとき。
――ぱしゃ。
池の反対側に、波紋が広がった。
花ははっとして顔を上げる。
「こんな時間に、ひとりとは感心しないな」
月の縁から姿を現したのは、
朱皇――ではない。
黒衣の裳裾を引きずり、まるで影のような気配を纏った青年。
金の瞳を持つ異形めいた美しさ。
「……黎(れい)殿?」
帝の側近の中でも、とりわけ異質と噂される男。
帝の影、帝の獣、帝の刃……。
いくつもの呼び名を持つ。
黎は花をじっと見つめたまま、池の縁に立った。
「帝が探しておられたぞ」
「……ご迷惑をおかけして……」
「迷惑ではない。皇は、おまえに探させること自体を拒むだろうな」
どこか皮肉を含みつつ、黎は花の表情を観察するように細い瞳を向けた。
「しかし……ひとりで沈み込む癖は、そろそろ直した方がいい」
「……見ていたんですか?」
「見える場所にいた」
「っ……」
花は顔を伏せた。
黎が続ける。
「花。後宮は、弱みを見せれば喰われる場所だ。おまえは優しすぎる。それが一番の欠点だ」
その声音は冷徹だったが、真実だけを選び取る刃のように澄んでいた。
「……知っています。でも、強くなりたいと思っても、どうしたら……」
「なるほど」
黎は歩み寄ると、花の肩先へ指先を添えた。
触れられるか触れられないかの浅い距離。
「強くなりたいのなら、おまえの出生と向き合うほかあるまい」
花の心臓の音が、一瞬止まったように感じた。
「……出生、とは……」
「気づいていないと思っていたのか?帝が、おまえを過保護に扱っている理由の半分は、情ではない」
「半分は……?」
「血筋だ」
その瞬間、池の水面が風もないのに揺れた。
月の光が砕ける。
花は言葉を失った。
「おまえの母はただの村娘ではない。帝家に深く繋がる禁じられた家の血を引いている」
「そんな……そんなはず……!」
「信じたくなければ、それでもいい。ただ――」
黎が花のかんざしを指さす。
「それは、帝家がかつて滅した一族に伝わるものだ。本来なら持っているだけで罪になる」
花の指が震えた。
「……どうして、私が……」
「理由は、いずれ朱皇から聞くといい。ただし、知る覚悟があるのなら」
黎は静かに背を向けた。
「花。おまえは、灰より生まれたと自嘲するが――」
風がそっと花の頭上を撫でる。
黎の黒衣が揺れた。
「灰は、かつて燃え盛った炎の名残にすぎない。その意味を知る日は近い」
そう言い残し、黎は闇へ溶け込むように消えた。
花は池の前に取り残され、動けなかった。
寒さも痛みも感じないほど、胸の奥で何かが崩れていく。
(お母さん……私は、何者なの……?)
そのとき――。
「……花?」
背後から聞き慣れた声がした。
温かい、救いのような声。
朱皇が立っていた。
薄衣の上に夜用の外套を羽織り、息を切らしている。
「探したぞ……。なぜ、こんな寒いところへ」
花は朱皇に駆け寄りかけて…⋯しかし足が止まった。
黎の言葉が、胸の奥で無音の刃となる。
朱皇は、ゆっくり歩み寄って花の頬に手を添えた。
「震えている……。傷ついたのか?」
花は唇を噛む。
「……朱皇さま。もし……私が、あなたを欺いていたとしたら……?」
「欺く?」
朱皇の瞳が深く揺れる。
花は勇気を振り絞った。
「私が……偽物だったら?」
数拍の沈黙。
そして帝は微笑んだ。
「それでも、私はおまえを選ぶ」
夜空の下、朱皇の声はあまりにも優しく、揺るぎなかった。
「花。真実がなんであれ、私はおまえを離さぬ。おまえが灰にまみれていようと、禁じられた血を抱えていようと、この手だけは――決して放さない」
花の胸の奥で、何かがほどけるように涙が滲んだ。
しかし。
池の水面は静かに揺れ続けていた。
まるで、闇の底から何かが目を覚ますのを待ち構えているように。
花は薄手の小襖を開き、襟の中でかんざしを確かめると、ゆっくりと床に足を下ろした。
昨夜の帝の宣言は、まだ夢の中の残像のようにふわりと胸の中を漂っている。
だが夢の残像は、朝が来ればしだいに現実の輪郭を取り、重量を増す。
花は慎重に身を整え、鏡に映る自分の顔を見据える。
そこには皺ひとつないが、瞳は眠れぬ夜の色を帯びていた。
鏡の縁に映る紅玉が、かすかに光を返す。
母の残したものは、まるで意思を帯びた小さな灯のように、彼女を導き続けている。
広間へ向かう廊下で、花は侍女の囁きを耳にした。
その声は細く、しかし確実に刃を含んでいた。
「帝が彼女を護るとはな……しかし、長くは続くまい」
「宵月様が黙っているはずがないわ」
花は言葉を知らぬふりをして通り過ぎたが、胸の奥の石が一つ、落ちるような感覚がした。
宵月――後宮の重鎮であり、宮中の秩序と歴史を守ることに固執する男。
彼にとって、帝の恣意的な寵愛は秩序の破壊であり、許しがたい事態だった。
その日の会合では、宵月が早くも動きを取った。
大広間に面した書斎で、幾人かの高官と諜者がひそやかに顔を寄せ合っている。
宵月は薄い畳の上に座り、静かに言葉を落とした。
「皇家に縁ある印は、放置すべきものではない。あの女を徹底的に調べよ」
諜者のひとりが微かに呻き、また一人が頷く。
男たちの眼差しは冷たく、計算に満ちていた。
花の存在は、彼らの手の中で検証の対象となりつつあった。
花の元へは、次第に訪問者が増えた。
うち一人は、低い声で花に語りかける侍女・玲瓏であった。
玲瓏は表向きは無害で礼節を重んじる女であったが、どこか一枚皮を剥いだような視線を花に向けることがある。
「花殿、世は考えなければならぬことが多い」
玲瓏は穏やかな声で言った。
花はかんざしを見つめ、静かに頷いた。
玲瓏はさらに低い声で続ける。
「あなたはただの奉公人ではない。だが、真実を知ることは危険でもある」
花は答えを求めた。
だが玲瓏は笑みだけを残して去った。
花はその笑みが友ではなく、観測者のものに見えた。
その週のある夜、花は夢を見た。
夢の中で、広漠たる野に一羽の緋色の鳥が翼を休めている。
鳥の胸には朱の紋が刻まれ、風が吹くたびに胸元の羽根が煌めいた。
鳥は低く鳴き、花に言葉を投げかける。
「かんざしの血を忘れるな」
夢から醒めたとき、花の手のひらにはかんざしから零れたように温かい余韻が残っていた。
夢は暗示に満ちており、彼女の不安を深める。
後宮では、表面上は従順に見える者たちが、深い夜に密かに動く。
宵月は宮中記録を洗い直させ、過去の血書や禁制の古文書を探らせた。
古い写本の隙間から、ある記述が浮かび上がる。
『緋鳳の印、皇統に於ける禁具にて』——短い一文が、嘘のように重く響いた。
宵月はその文字を指先でなぞり、険しい顔をして呟いた。
「もしや……」
男の心の中で、古い恐れが目を覚ます。
同じ頃、後宮ではささやかな試練が花に向けられた。
ある朝、花の枕元に密書が投げ込まれる。
紙面には短く、冷たい筆致で一行だけが記されていた。
『身分を偽る者、容赦はしない』
脅迫状だと理解した花は、かすかな震えを覚えながらも、それを懐にしまった。
侍女たちは表面上は心配の色を見せるが、その目は探る。
誰がこの紙を投げ入れたのか――それを突き止めるのは容易ではない。
だが、花には守るべき人々もできていた。
侍女長の心は一見冷たいが、実は花に対してある種の期待と同情が混じっている。
「花殿、見せかけに惑わされるな」
彼女は細く呟き、花の手を強く握った。
その握りは確かな温度を返し、花は少し救われた気がした。
やがて、事件は明確な形を取り出す。
宴の夜、後宮に忍び込んだ者が現れ、花を襲おうとしたのだ。
計略は周到で、屋敷の奥で花の通う小径に罠が張られていた。
暗がりの中から手が伸び、花の襟元を掴んだ。
だが、そのときだった。
背後から黒い影が急速に飛び込んできて、襲撃者を地に叩きつける。
花は驚愕と安堵の混ざった声を上げる。
影の主は、朱皇の近侍の一人であり、帝の密命で常に花の側に置かれていた男だった。
男は花を素早く抱き寄せ、耳元で低く囁く。
「逃げろ。ここは安全ではない」
花はまだ震えていたが、男の腕の中でしばしの安心を得た。
だが襲撃の背後には、別の事情があった。
捕えられた若い侍者は、宵月に繋がる秘密の網の端切れを漏らし、口を割った。
「印の件は、上からの命だ。あの女の正体を暴けと」
その言葉は重く、すべてを物語っていた。
宵月は着実に、花を起点にして宮中の秩序を正そうとしていたのだ。
だがその“正しさ”が、どれほど血で染まるかを、彼は計算していなかったかもしれない。
襲撃の夜が過ぎ、花は疲弊した身体で座り込み、かんざしを掌に取った。
紅玉はほのかに余韻を残し、花の掌を温める。
彼女は小さくつぶやく。
「なぜ、私を狙うの」
かんざしは答えないが、彼女の頭の奥にある記憶の欠片が揺れる。
幼いとき、母が誰かに怯えている姿を見た記憶。
母が夜毎に何かを隠し、泣きながら祈る姿。
その断片は小さく、未だに繋がらない。
だが、その断片の輪郭が徐々に濃くなる予感だけは確かにあった。
襲撃の翌日、帝は花を内陸の静かな一室へと招いた。
部屋は古い書物と香炉の煙で満ちており、窓からは庭の枯山水が見渡せた。
朱皇は扉を閉め、頼りなげな様相の花を正面に座らせると、静かに語り始めた。
「花、昨夜の件は許し難い。お前を狙う者は、表向きの正義を唱えるが……裏では過去を掘り返す者もいる」
花はゆっくりと目を伏せた。
朱皇はさらに言葉を続ける。
「私は知りたい。お前の過去を。だが、それはお前の意志であらねばならぬ」
花は震える声で答える。
「……私に、なにもないのです。母以外の記憶は、ほとんど残っていません」
朱皇は眉を寄せる。
「だが、かんざしは何かを語る。私はそれを感じる」
花は胸の奥から何かがこみあげるのを抑えた。
「母は、私が幼い時に……言っていました。『これは渡すな』と。理由は言わなかった」
朱皇は静かにうなずいた。
「良い。ならば、少しずつでいい。私と共に、真実を探ろう」
それは言葉通りの申し出であり、同時に宣言でもあった。
朱皇は花の手を取り、その掌に自分の指の温もりを伝えた。
花はその温もりに、恐れと希望が同居する奇妙な安心を覚えた。
しかし、帝の守護宣言は新たな波紋を生む。
宵月はそれを看過せず、より大きな策略を巡らせる。
彼は古き家門の血脈図を取り寄せ、花の名字や遠い縁者を洗い出す。
一枚、黄ばんだ紙片に、かすかな筆跡が見つかる。
そこには小さな家紋が描かれていた。
宵月はそれを見て薄く笑った。
「なるほどな……」
だが宵月の微笑みは、やがて怒りに変わる。
紙片の繋がりが示す先は、帝家と古くから断絶した一系統。
それはかつて反乱を企て、血で罰せられた家の末裔の名である可能性があった。
宵月は指先で紙を揉み込み、低く呟く。
「もしこれが真なら――彼女は王権にとって危険である」
花は自分の過去に少しだけ触れる。
書庫で見つけた古い肖像画の中に、見覚えのある面影を見出したのだ。
細い眉、少し上がった唇の輪郭、そして同じ錦木の模様を額飾りにした女性の姿。
花はその絵に引き寄せられ、胸の中で何かが鳴るのを感じた。
「母かもしれない」――その思いが、彼女の内なる決意を固めた。
章の結びは静かだが確かな重みを伴う。
朱宮の夜はいつもと変わらず暗い。
だが、花はもう以前の影の女ではない。
かんざしを握り、母の面影を胸に刻み、彼女は自らの名を取り戻すために歩き出すことを誓う。
夜が深まると、宵月は書斎に戻り、紙片を額にあてて独り囁く。
「王権の守りと、国の安寧。どちらを選ぶか、帝よ」
彼の声には、宿命と試練が同居している。
その言葉は、遠くで眠る花への新たな試練の予告であった。
かんざしの紅玉が、夜の静寂の中でかすかに震え、鋭い光を一瞬放った。
その光は宵月の書斎の闇にまで届き、紙片の一角を照らす。
花の名は、帝の守護のもとで少しずつ露わになりつつある。
だが、その露出は同時に、古い傷を殻から呼び覚ますことになるのだと、まだ誰も気づいていない。
夜風に乗って、朱宮の瓦が静かに鳴る。
赤い紋様が刻まれたかんざしは、花の胸の奥で小さく鼓動する。
その鼓動は、やがて国の命運を揺るがす鼓動へと連なっていく予感を秘めていた。
――――――――――――
後宮に吹く風は、時に香を含み、時に毒を含む。だがそのどちらにも染まらぬ風があるとすれば、それは──花の歩みによって立つ風だった。
彼女は、帝から授かった后候補としての居所⋯⋯へ移るため、侍女に囲まれながら静かに歩いていた。
だが、そこに宿るのは喜びだけではない。居場所を得たという実感ではなく、胸中に巣食うのは、喉元を掴むような不安と、知らぬ世界に放り込まれた孤独だった。
それでも、花は顔を上げた。
帝と交わした、あの言葉が胸の奥から彼女を支えていた。
「お前は、灰から出でた花ではない。己の力で咲こうとしている花だ」
朱皇の声は、冷たさの奥に熱を孕んでいて、その温度だけが、花の夜を照らしてくれる。
◆
新たに与えられた清鈴殿。
そこは、后妃や高位の妃たちが住まう区画に近く、ただの奉公人であった花には到底似つかわしくない場所だった。
踏み入れた瞬間、花は思わず息を止めた。
白檀の香りが満ち、障子には薄桃色の絹が張られ、庭には細工を凝らした石灯籠が並んでいた。
「……わたし、こんな場所に」
「帝より直々に下賜された殿舎です。誇ってよいのですよ、花様」
侍女が言うが、その声には微かな怯えが滲む。
こんな待遇を受けること自体が異常だと、後宮の者なら誰もが理解している。
そしてその異常は、後宮全体にも確実に波紋を広げていた。
◆
夜。
花が寝所へ向かうと、庭に小さな灯りが揺れていた。
「……?」
近づくと、そこに朱皇が立っていた。
帝の袖が夜風に揺れ、その影が花を包む。
「帝、なぜ……?」
「お前が不安そうだったからだ」
その一言に、心臓が甘く震える。
朱皇は続けた。
「明日、正式に后候補としての名を問う儀がある。だが、お前が本当は誰の娘で、どこで生きてきたか……私は、それを追求するつもりはない」
花は胸の奥が痛むほど締めつけられる。
本当は言わなければならない。偽物であることを。身分を欺いていることを。
けれど、その言葉は喉で凍りつく。
朱皇は、花の沈黙の意味を悟ったのか、ゆっくり歩み寄り、その手をとった。
「名など、どうでもよい。お前という“存在”を、私は見ている」
帝の手は温かい。
だが、花はその温かさがいずれ奪われる日を想像し、胸が苦しくなる。
◆
翌日――。
后妃候補の名を記す儀、「冊名の儀」
これは、后に選ばれる可能性のある者を正式に宮中へ記録する重儀である。
花も、その場に並ぶこととなった。
豪奢な十二単を纏わされた花は、動くたびに衣がため息のように揺れる。
周囲では、妃たちが嫉妬と焦燥を隠さず視線を刺してくる。
「あれが、帝に呼ばれた娘……?」
「聞けば、どこの家柄かも怪しいとか……」
「そんな灰女が后候補だなんて、許されるのか」
ざわめきは少女の背を押して崖へ追いやるようだった。
それでも、花は歩み出る。
帝が自ら彼女の名前を呼んだ。
「……花」
たったそれだけの呼び名。苗字も、家名もない。
本来ならば、記録に残せる名ではない。
しかし、帝は側近の反対を許さなかった。
その瞬間、後宮の空気は一変する。
帝が花を――身分も経歴も不明な娘を、正式に后候補として記すと宣言したのだ。
ざわっ、と波が走る。
皇后の席に座る大妃が扇をパチンと閉じた。
「帝よ。名も無き娘に、この場へ立つ資格が……?」
朱皇は視線一つ動かさない。
「ある。私が許す」
その瞬間、大妃の表情は凍りつき、妃たちの顔色も次々と蒼白に変わった。
帝が、本気だという事実が、宮中の均衡を崩し始めたのだ。
◆
儀が終わった夕刻。
花は殿へ戻る途中、ひと気のない回廊で突然腕を掴まれた。
「きゃ……!」
振り返ると、そこには一人の女官。目が細く、笑みが張りついたような女だ。
「花様……いえ、花どのとお呼びすべきかしら?大層なご出世ですこと」
言葉こそ丁寧だが、声音は刺すように冷たい。
「身分のない『灰かぶり』が、この宮にいていいと思って?」
花は息を呑む。
女官はさらに続けた。
「ですがご安心を。この後宮に、あなたのような者を歓迎する者など、一人もいませんわ」
その目は、捕食者のそれだった。
「あなたの本当の身分──いずれ白日の下に晒されます。そう遠くないうちに」
花は震えた。
その震えが、恐怖のものなのか、悔しさか、あるいは名も知らぬ怒りなのか、自分でもわからない。
だが――この瞬間だった。
「……何をしている?」
朗々と響く帝の声。
女官の顔色が、一瞬にして土のように青ざめた。
朱皇が近づき、花を抱き寄せる。
「花に触れるな。――命が惜しければ」
その静謐な怒りの気配に、女官は膝を折り、地に伏した。
◆
その夜。
花は朱皇の膝の上に頭を預けるように、帝の執務間に座っていた。
いつもは書を読む朱皇の傍らに座ってよいなど、許されるはずがない。
だが帝は言った。
「お前は、私のそばにいろ」
「……帝、わたし……怖かった……」
言葉が溢れ、花は唇を噛む。
偽物の身分でここにいる自分が、彼の好意を受けていいはずがないとわかっているのに、心は朱皇の温もりを欲してしまう。
朱皇は花の頬にそっと触れた。
「花。お前が怖がる必要はない。後宮がどう思おうと……お前は私が選んだ娘だ」
その言葉は甘く、恋のようでありながら──。
同時に、逃げ場を失う鎖のようでもあった。
胸の奥で、何かがゆっくりと燃え始める。
花は目を閉じ、朱皇の衣に額を寄せた。
――そのとき、外から風が吹き、部屋の明かりが揺れた。
まるで、これから起こる嵐を告げるように。
花はまだ知らない。
彼女の出生の秘密が、帝家の血筋に関わるほど深く、そして危険なものだということを。
だが、運命の歯車は静かに、しかし確実に、その中心へ向けて回り始めていた。
朱皇の執務間で過ごしたその夜。
花は寝所へ戻っても、胸の高鳴りがしばらく収まらなかった。
帝の瞳に自分が映っていた。
触れられた頬の温もりが、指先から離れない。
けれど同時に、胸の深いところで黒い影が息を潜めている。
――わたしは偽物。
――ばれれば、すべてが終わる。
帝に守られれば守られるほど、それは鋭く胸を刺した。
彼を信じたい。
彼のそばにいたい。
でも、帝は本当のわたしを知らない。
花は薄い布団に身を沈め、眠りの淵でそっと願った。
――どうか、この嘘が、いまはまだ暴かれませんように。
◆
翌朝。
清鈴殿の前に立つと、何やら騒がしい気配が漂っていた。
「何ごと……?」
侍女が駆け寄り、声を潜めて告げた。
「花様、広間にどなたかが来ております。……高位の妃方です」
花は息をのむ。
妃の訪問とは、歓迎より牽制の意味が大きい。
案内されるまま広間へ入ると、三人の妃が優雅に座していた。
一人は、黒髪に紅の簪を挿した麗嬢妃。
一人は、優しげな瞳を装うが、口元に毒を隠す静芳妃。
そしてもう一人は、後宮の影を束ねると噂される、大妃付きの女官長・妙蓮。
――嫌な三人だ、と花は本能で悟った。
麗嬢妃がにやりと笑う。
「まあ、これが噂の灰かぶりの花ですのね。思ったより可愛らしい顔をしておいでだわ」
静芳妃も扇を揺らしながら、甘く囁く。
「帝がお気に入りなのも……なんとなく、わかりますわ」
言葉は柔らかだが、全身から敵意が滲んでいる。
妙蓮が一歩、花に近づいた。
「后候補となったからには、花様にも覚悟が必要です。この後宮は……弱さにつけ込む者に容赦いたしません」
その声の冷たさに、花は背筋が凍る。
「わ、わたしは……」
言葉を紡ぐ前に、麗嬢妃がさらに攻め込んだ。
「そういえば、花様の家名は、まだ記録にありませんのよね。どこの家柄でお育ち?」
あえて周囲に聞こえる声で問う。
花の胸がズキリと痛んだ。
――言えるはずがない。
――身分を偽っているのだから。
きゅっと唇を噛むと、妙蓮が思わせぶりに微笑んだ。
「まあ。……答えられない事情でも?」
「まさか、本当の家が言えないほど……みすぼらしい?」
広間に、乾いた笑いが広がる。
花の指が震えた。
涙が滲みそうになるのを懸命に堪える。
――負けたくない。
帝の言葉が、脳裏に蘇る。
己の力で咲こうとしている花だ。
その一言が、胸の奥で灯をともした。
花は小さく息を吸い、震える声を押しとどめた。
「……名は、恥じるほどではありません。けれど、それを語るのは、帝のお許しがあってからです」
妃たちの表情が一瞬だけ凍った。
妙蓮が眉をひそめる。
「帝のお許し、ですって……?」
そこへ。
「許しなら、すでに与えているが?」
凛とした声が広間全体を震わせた。
妃たちが振り返った先に、朱皇が立っていた。
花は息をつく暇もなかった。
帝は一歩、彼女のそばへ進み、その肩にそっと手を置く。
「花は、私の庇護下にある。彼女を貶める言葉は――許さぬ」
妃たちの顔色が、みるみる蒼白になる。
麗嬢妃が震える声を押し出した。
「し、しかし帝……わたくしどもは、ただ……」
「ただの牽制だろう。後宮の常とはいえ……花を泣かせるならば話は別だ」
帝の声は静かだが、刃のように鋭い。
妙蓮が片膝をついた。
「帝に逆らうつもりなどございません。ただ……后宮の秩序を──」
「秩序は、私が決める」
その一言で、すべての空気が支配された。
妃たちは一斉に退き、広間には花と朱皇だけが残された。
沈黙の中、花は俯き、肩を震わせた。
「……帝。助けてくださらずとも……わたし……」
「泣いてもいい」
朱皇は言い、花をそっと胸に抱き寄せた。
「強くならなくともいい。今は……しがみついていればいい」
その優しさに、花はこらえていた涙をこぼした。
だが、その涙の裏で、帝の瞳には別の色が宿っていた。
花を狙う者がいるのなら……必ず、その根を断つ。
そんな決意を秘めた光だった。
朱皇の胸に泣き崩れたあと、花は深い息をつきながら、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
帝は彼女の背を静かに撫で続けていたが、その指先の動きには迷いがなく、むしろ強く守り抜こうとする意志すら感じられた。
涙が落ち着いた頃、朱皇は花の頬に触れた。
「花。お前は弱くなどない。弱いふりをしているだけだ」
「わたし……?」
「本当に弱ければ、あの場で言葉を返せなかった。泣きそうでも、怯えていても……お前は立っていた。それだけで充分だ」
花の胸に温かさが広がる。
と同時に、強い葛藤が込み上げる。
(わたしは……嘘を抱えている。帝に庇われる資格なんて……本当はどこにもないのに)
けれど、それを告げる勇気はまだ持てなかった。
朱皇は花の手を包む。
「だが……花。お前の身を狙う影が、日に日に濃くなっている」
その声の深さに、花の心臓は跳ねた。
「……狙う、影……?」
「今日の妃たちの行いは氷山の一角だ。後宮は今、お前の出自を嗅ぎ回っている者で満ちている。私が名前を記したことで、抑え込んでいた動きが一気に表へ出てきた」
花は息を呑む。
その影が何であるか、まだ完全には掴めない。
けれど、朱皇の言葉から伝わるものは危険の匂いだけではない。
花自身の過去が、後宮の均衡を壊すほどのなにかを秘めているという事実。
◆
清鈴殿へ戻ると、侍女たちが慌てて部屋を整えていた。
花が入ると、全員が動きを止め、深々と頭を下げる。
以前とは明らかに態度が違う。
帝が公式に庇護を宣言したことが、彼女たちの態度にも出ていた。
だがその空気の変化は、花にとって心地よいものではなかった。
(侍女たちの中にも、きっと誰かの目があるはず……)
後宮は、綺麗な顔をして牙を隠す場所だ。
誰が味方で、誰が敵かなんて、外から見て判断できるはずもない。
花は、寝所へ戻る途中で立ち止まった。
庭の竹林を風が渡り、葉が擦れる音がした。
……その中に混じって、かすかな気配があるように感じた。
(誰か……いる?)
足元の影が伸びる。
竹の間に立つ黒い影。
その姿はすぐに闇へ溶けたが、確かに視線を感じた。
(わたし……監視されている……)
背筋がひやりと冷えた。
清鈴殿という、美しい箱の中。
しかし、その外側はすでに罠に囲まれているようだった。
◆
夜半。
疲れた体を休めようと布団に潜ろうとしたとき、襖が小さく叩かれた。
「花様……お入りしてもよろしいでしょうか」
声の主は、侍女の白雀だった。
「どうぞ……」
白雀が入ると、その表情は深刻で、手に紙束を抱えていた。
「……花様にだけ、お伝えしたいことがございます」
白雀は周囲を見回し、声を潜めた。
「実は⋯⋯ある噂が、宮中に流れ始めているのです」
「噂……?」
白雀は紙束を差し出した。
「これは宮中の書役から漏れ出た、后候補の素性調べの控え書きです。本来なら外に出るものではありません。ですが……そこには、花様の身分について、不自然な空白が多すぎると……」
花の指が震える。
紙には、こう記されていた。
『花』家名不明。
出身地不明。
親族不明。
身元保証者、偽名の可能性あり。
偽物であるという証拠が、少しずつ積み上がっていた。
白雀は続ける。
「帝が庇護してくださっているうちは良いのです。ですが……大妃様の側近たちが、この空白を利用しようと動き出しています」
花は息を呑んだ。
白雀はさらに声を潜める。
「そして……もっと深い噂も広まり始めています。花様が……帝家に縁ある血ではないかと」
花の心臓が止まった。
「わ、わたしが……帝家……?」
白雀は首を振る。
「いいえ。花様が帝家の血だという確証などどこにもありません。ですが、大妃様側の者たちが……そういう新たな物語を作ろうとしているのです」
「どういうこと……?」
「帝が花様を特別扱いなさるのは、血縁を隠しているからだ、と。そう噂すれば、后候補から外す理由が作れます。帝が贔屓している政治的に偏りが出ると」
花の指先から力が抜けていった。
(そんな……そんな嘘……わたしはただの灰かぶりなのに……どうして……どうしてそんな……)
白雀は花の肩に触れた。
「花様は何も悪くありません。けれど……後宮は、真実ではなく利用できる噂で動く場所なのです」
花は震えながら、眠るどころではなく部屋を歩いた。
少しでも落ち着こうと、深呼吸を繰り返すが胸のざわつきは消えない。
(わたしの正体を調べている……嘘が暴かれる……でも、わたしの過去には……
何もないはずなのに……)
だが、その何もないはずの夜の奥深くで小さなさざ波が揺れた。
白雀が帰ったあと、花は布団にうずくまり、胸を抱えた。
ふと、亡き母のかんざしが、月の光を受けて淡く光った。
「……お母さん……わたし……どうすれば……」
その瞬間、かんざしの細工に刻まれている見慣れぬ紋に目が留まった。
(……この紋。今まで気づかなかったけど……どこかで見たような……)
思い出せない。
ただ、胸の奥がざわりと波立つ。
そのとき──。
コン……コン……。
夜半の静けさを破る、控えめなノックが聞こえた。
「花。起きているか」
朱皇の声だった。
花は驚き、急いで襖を開いた。
「て、帝……どうして……?」
朱皇は外套を羽織り、まるで眠る気などなかったような瞳で花を見つめた。
「花。お前に、どうしても話しておかねばならぬことがある」
その声音は、今までにないほど重く。
どこか、覚悟を帯びていた。
花の心臓が、怖いほどに高鳴った。
(帝が……隠してきた何か……?)
朱皇はゆっくりと口を開いた。
「お前の出生についてひとつ、気になる話を聞いた」
その瞬間、花の呼吸が止まった。
夜の帳が落ちる頃、後宮の奥にひっそりと存在する幽月の池は、水面すら凍りついたような静けさに包まれていた。
花は、ひとりその前に立っていた。
昼間、女官たちがひそひそと囁いていた言葉が、まだ耳の奥で疼いている。
――灰かぶりのくせに。
――帝に取り入っただけ。
――あれは身分を偽っている噂もあるらしいぞ。
――いずれ、罰が下る。
花は拳を握りしめた。
自分の呼吸が白く揺れるのが、妙に心細かった。
朱皇の優しさは、嘘ではない。
けれど、優しさだけで守られるほど、後宮は生易しくない。
「……誰かの代わりに紛れ込んだだけの、偽物なのに」
ぽつり、声が静寂に吸い込まれた。
母のかんざしを胸元で握りしめながら、花は池の水面を覗き込んだ。
淡い月が、凍てつく鏡の中に揺れている。
そのとき。
――ぱしゃ。
池の反対側に、波紋が広がった。
花ははっとして顔を上げる。
「こんな時間に、ひとりとは感心しないな」
月の縁から姿を現したのは、
朱皇――ではない。
黒衣の裳裾を引きずり、まるで影のような気配を纏った青年。
金の瞳を持つ異形めいた美しさ。
「……黎(れい)殿?」
帝の側近の中でも、とりわけ異質と噂される男。
帝の影、帝の獣、帝の刃……。
いくつもの呼び名を持つ。
黎は花をじっと見つめたまま、池の縁に立った。
「帝が探しておられたぞ」
「……ご迷惑をおかけして……」
「迷惑ではない。皇は、おまえに探させること自体を拒むだろうな」
どこか皮肉を含みつつ、黎は花の表情を観察するように細い瞳を向けた。
「しかし……ひとりで沈み込む癖は、そろそろ直した方がいい」
「……見ていたんですか?」
「見える場所にいた」
「っ……」
花は顔を伏せた。
黎が続ける。
「花。後宮は、弱みを見せれば喰われる場所だ。おまえは優しすぎる。それが一番の欠点だ」
その声音は冷徹だったが、真実だけを選び取る刃のように澄んでいた。
「……知っています。でも、強くなりたいと思っても、どうしたら……」
「なるほど」
黎は歩み寄ると、花の肩先へ指先を添えた。
触れられるか触れられないかの浅い距離。
「強くなりたいのなら、おまえの出生と向き合うほかあるまい」
花の心臓の音が、一瞬止まったように感じた。
「……出生、とは……」
「気づいていないと思っていたのか?帝が、おまえを過保護に扱っている理由の半分は、情ではない」
「半分は……?」
「血筋だ」
その瞬間、池の水面が風もないのに揺れた。
月の光が砕ける。
花は言葉を失った。
「おまえの母はただの村娘ではない。帝家に深く繋がる禁じられた家の血を引いている」
「そんな……そんなはず……!」
「信じたくなければ、それでもいい。ただ――」
黎が花のかんざしを指さす。
「それは、帝家がかつて滅した一族に伝わるものだ。本来なら持っているだけで罪になる」
花の指が震えた。
「……どうして、私が……」
「理由は、いずれ朱皇から聞くといい。ただし、知る覚悟があるのなら」
黎は静かに背を向けた。
「花。おまえは、灰より生まれたと自嘲するが――」
風がそっと花の頭上を撫でる。
黎の黒衣が揺れた。
「灰は、かつて燃え盛った炎の名残にすぎない。その意味を知る日は近い」
そう言い残し、黎は闇へ溶け込むように消えた。
花は池の前に取り残され、動けなかった。
寒さも痛みも感じないほど、胸の奥で何かが崩れていく。
(お母さん……私は、何者なの……?)
そのとき――。
「……花?」
背後から聞き慣れた声がした。
温かい、救いのような声。
朱皇が立っていた。
薄衣の上に夜用の外套を羽織り、息を切らしている。
「探したぞ……。なぜ、こんな寒いところへ」
花は朱皇に駆け寄りかけて…⋯しかし足が止まった。
黎の言葉が、胸の奥で無音の刃となる。
朱皇は、ゆっくり歩み寄って花の頬に手を添えた。
「震えている……。傷ついたのか?」
花は唇を噛む。
「……朱皇さま。もし……私が、あなたを欺いていたとしたら……?」
「欺く?」
朱皇の瞳が深く揺れる。
花は勇気を振り絞った。
「私が……偽物だったら?」
数拍の沈黙。
そして帝は微笑んだ。
「それでも、私はおまえを選ぶ」
夜空の下、朱皇の声はあまりにも優しく、揺るぎなかった。
「花。真実がなんであれ、私はおまえを離さぬ。おまえが灰にまみれていようと、禁じられた血を抱えていようと、この手だけは――決して放さない」
花の胸の奥で、何かがほどけるように涙が滲んだ。
しかし。
池の水面は静かに揺れ続けていた。
まるで、闇の底から何かが目を覚ますのを待ち構えているように。



