陰鬱な朝だった。空は鉛色の雲を垂らし、細やかな灰が風に乗って屋根瓦の隙間へと沈んでいく。そんな朝にもかかわらず、花はいつもと同じ時間に起き上がり、薄暗い奉公先の土間へと足を運んだ。指先は冷たく、かんざしだけは、まるで生きているものを見るように胸の内で熱を帯びている。



「花、早う。屋敷の掃除はな、手早うに済ませんと女将の機嫌が損なわれるぞ」



声は辛辣で、躾という名の下に人を潰す刃になっている。差し伸べられた仕事はいつも過剰で、花はそれを黙って受け取るしかなかった。灰だらけの衣の裾を気にする者は誰もいない。彼女は荊棘のように尖った視線を避けつつ、箒を取り、黙々と働いた。働くことが彼女の呼吸であり、赦しであり、また罰でもあった。



亡き母の形見は、緋色に染めたべっ甲のかんざし一振り。簡素だが、細やかな彫刻が施されており、一本の茎から幾重にも花びらを広げる錦木の図が刻まれていた。それは花の誇りであり、秘密でもあった。女将や同僚たちはその存在すら知らない。花はいつも髪の奥にそれを差し込み、指を滑らせては母を思い出す。母の香、母の笑い、そして母の囁き——どれも遠ざかり、しかしかんざしだけは確かな重みを以て花の胸に在った。



奉公先の屋敷は都の外れ、塵芥の露店や煤けた長屋が連なる一角に位置している。階層は分断され、上層の者は下層を顧みぬ。花の居場所は陰と同義で、存在することすら疑われるほど薄い。だが、薄くとも花には観察の眼があった。人の癖や物言いの端々を拾う習慣は、いつしか彼女の防御となり、またささやかな機知を育んだ。



ある日、いつものように重い桶を抱えて井戸へ向かう途中、屋敷の小間使いが狼狽した様子で走り寄ってきた。額の汗は垂れ、息遣いは乱れている。



「大変だ、花!今日、后選の宴に行くはずの家の娘が——病に伏したって。替えを立てぬと家の体面が潰れるんだと。屋敷の者が、代わりを出すよう上の者が言うておる」



言葉はぶっきらぼうで、しかし花の胸は瞬時に締めつけられた。后選——帝の后を選ぶというあの大仰な儀式。耳慣れない言葉ではない。町の噂や高札で散見する言葉であり、遠い灯のように眩い存在だ。だが、あの場に行けるのは礼を尽くされし貴族の娘、雅やかな立居振舞を備えた者だけである。花のような奉公娘が紛れ込むなど、想像することすら許されないことだった。



「……わたしが、行くというのですか?」



花の声はか細く、しかし沈着だ。目の前の小間使いは首を振ると、しどろもどろに続けた。



「いや、いや、正確に言えばな。屋敷の女中が、貴族の娘の証札を持ち出すことになった。都合で、身分を示す物が必要だから——取り違えが起こり得ると判断したんだ。お前の身形と、病罹りの娘とは似ている。短い髪は取り替えればなんとかなる。差し出せと言われておる」



その言葉は冷たい計算のように花の心を貫いた。許されぬ代償だと分かっていながら、花は目の前の差し迫った現実を見た。拒めば屋敷に災いが及ぶかもしれない。受ければ——受ければ何が待つのか。虚無の底で、ある種の虫が蠢く。



母のかんざしをぎゅっと掴む。指の腹に刻まれた微かな凹凸が、震えを抑えた。かんざしは守るべき唯一の朱い灯であった。もしこれを失えば、花は何を以て自分を保てようか。



「行って来い。命じられたことは従え」



女将の言葉は冷たかった。諦観と呼ぶにはあまりにも無慈悲で、花はただ首を垂れた。身代わりとして差し出されること——それは辱めと同義であったが、花には選択の余地がなかった。彼女の世界は他人の都合に縛られている。だが、その同じ都合が、或る種の可能性を彼女に与えるとも言えるのだろうか。そんな希望は自棄のように浅薄で、花自身もそれを否定した。



出立の当日、花は粗末な小袖に硫黄の灰を拭き取ることもなく着せられた。貴族の代役としての振る舞いを最小限に装うために、髪は女中がせっせと結い上げ、古い朱の袴を重ねられた。かんざしは髪に差し込み、暖かな重みが鼓動に合わせて揺れた。鏡など与えられぬ身で、花は自分の容貌を確かめる機会を持てない。だが、それでも母が残した顔立ちの輪郭が内側から光っているように思えた。煤けた肌に隠れていても、表情の端々に宿る凛とした曲線が消せない。



馬車は灰色の曇天の下で待っていた。屋敷の者たちは口を噤み、花は静かに乗り込んだ。車の屋根に差し込まれる薄明かりは幾重にも折り重なって、彼女の影を撫でる。車輪が石畳を刻む音が、足音の代わりに彼女の胸へ刻まれた。



都への道は延々と続いた。行商人の声、屋台の匂い、門前町のざわめき——どれもが遠景に溶け込み、花はただ窓の外を眺めるのみだった。心の中に侵食してくる不安を抑えるため、彼女は母の形見を何度も撫でた。かんざしの柄に刻まれた小さな錦木の花弁が、冷たい指先に小さな慰めを伝えた。



朱都は、思っていたよりも遥かに大きかった。城壁は雲を切り裂くようにそびえ、楼閣は雲霞を織り込んだかのように煌びやかだ。だが、その美しさは人を沈ませる重さを伴っていた。中心へ近づくほど、空気は粛然とし、人の動きもまた神経質に整えられている。車が城門をくぐると、哨兵たちが黒い甲冑の縁で整列し、眼光を花へ向けた。彼らの視線は無言の審判であり、花はその重圧に顔を伏せた。



瑞花宮――後宮は外郭と異なり、庭園が幾重にも連なり、池には蓮が浮かび、石灯籠が詩を刻んでいた。花の目にはそれが一幅の絵画のように美しかったが、その麗しさは決して彼女を迎える柔らかさを含んでいない。迎えの女官は花の身を検めるように、肌のひとつひとつを穿るような視線で見定めた。



「貴女は——どの家の方かね?」



女官の問いは礼を欠かせぬ形式であるが、その奥底には疑念が潜んでいる。花は口を慎み、女将から渡された身分札を差し出す。札は簡素な紙に家紋が記されており、確かに瑠璃という名の姫を示している。だが、花はその名を知らない。名前を借りるという行為は砂を踏むようで、足元が崩れる予感がした。



「瑠璃殿の代役でございます」



声は小さくも、揺るがぬ。女官は札を確認すると、眉をひそめたが、それでも儀式のために予定は替えられぬらしく、ただ少しばかりの不機嫌を漏らした程度であった。案内されて脇座へと通されると、そこには既に多くの姫君たちが集っていた。刺繍の襟、絹の光沢、簪の先で月を掬うような仕草——どれもが華やかに輝き、花はその中で尚一層、灰色に沈んで見えた。



しかし、不思議なことに、その場の喧騒の中でひとつの沈黙が生じた。それは人の視線の方向ではなく、空気の様相が変わったのだ。群衆のざわめきがふと掻き消え、花は息を呑む。彼女の視線は自然と会場の高座へと向き、そこで静かに坐す青年の背を捉えた。



朱色の衣を纏った若き帝――朱皇(すおう)。耳にした噂よりも、実像は遥かに存在感を帯びていた。彼は高座で控えめに体を縦にしており、その表情は冷澄で、まるで霜をまとった池の如く静謐であった。周囲に配置された侍女たちは所作を凝らし、姫たちはそれぞれに舞い、香を焚き、色香を競っている。



だが、そのとき、帝の瞳が花へと留まった。まるで刃先が欠片を探すかのように、彼の視線は花の存在を捉え、そこから離れようとしない。花は一瞬、体の芯が針で突かれたように冷たくなるのを感じた。視線は重く、責めるようでもあり、問いかけるようでもあった。



「名も無き花よ。なぜ、そんな眼で私を見る?」



声は柔らかく、しかしその一語は会場の空気を波立たせた。周囲はざわめき、囁きが波紋のように広がっていく。誰も彼もが花を見やり、その姿を審査する。だが花は言葉を失い、ただ視線を返すことしか出来なかった。瞳の奥には涙がにじんでいたが、それは恥でもあり、祈りであり、そして何よりも、深い孤独の色だった。



帝は微かに眉を寄せ、しかし顔には困惑にも似た柔らかさを浮かべた。その瞬間、花の胸の中のかんざしがかすかに震えた。熱を帯びるような、懐かしい感触が指先へと伝わる。誰の目にもわからぬほどの小さな現象だったが、花自身はそれを確かに感じた。心の奥底で閉じていた何かが、薄紙を破るように擦れる。



「お前は誰だ。名を告げよ」



帝の声は命令ではなく、問いかけだった。花は息を整え、母の名を喉に宿らせるようにして言った。



「私は、花と申します――代わりの者として参りました」



言葉は慎ましく、それでいて嘘ではない。会場の空気は再びざわめき、幾つかの視線に含まれた冷笑が花の背筋を刺した。だが、帝の顔には微かな興味が刻まれていた。それは警戒とも侮蔑とも異なり、厳格な好奇心であった。



その日、花は知らぬうちに運命の輪の糸に触れた。かんざしは秘密を抱え、帝の瞳はそれを探る者となった。後宮の庭木が揺れるたび、花の心は震え、知らぬうちに新しい章の扉が開き始めていた。



だが、その扉の向こうにあるものは、優しさだけではない。嫉妬、陰謀、そして彼女自身の血が呼び覚ます荒ぶる記憶。それらが静かに、動き出しているのだった。




灰まみれの小屋へ戻った花は、戸口に腰を下ろし、夕闇に沈む空をぼんやりと見上げていた。



遠く、都の中心部に築かれた朱の宮殿が、茜色に燃えていた。



そこに自分が足を踏み入れる日が来るなど、つい数刻前まで思いもよらなかった。



胸の奥がざわりと揺れる。



恐れか、戸惑いか、それとも——名も知らぬ感情か。



「……私が、后選びの宴に?」



言葉にすると、その突拍子もなさに思わず笑みが漏れた。



だがすぐに、喉奥に苦いものが込み上げる。



これは、笑って済む話ではない。



奉公先の女将から告げられたのは、身分証の取り違えという、どう考えても不自然な理由だった。



花の名が、どこかの貴族の娘の名と取り違えられ、代わりに宴へ出ろと言われたのだ。



拒めばどうなるかは明白だった。



奉公人など、替えはいくらでもいる。



逆らえば追い出され、路上に転がるしかない。



花は唇を噛んだ。



「……母さま」



胸元に提げた、亡き母のかんざしを握りしめる。



煤けてはいても、細工は美しく、どこか雅の香りを残している。



幼いころから、これだけは離さず肌身に付けてきた。



形見であると同時に、自分がここに生きていると示す唯一の証のように思えた。



かんざしの冷たさが、わずかに心を鎮めてくれる。



「これさえあれば……きっと大丈夫」



そう言い聞かせても、胸のざわめきは消えない。



帝——朱皇。



冷徹無比と恐れられ、若くして即位した稀代の君主。



花のような下民が目を合わせることすら許されぬ存在。



その前に立つことになるなど、夢か悪夢か、判別すらつかない。



「私なんて、誰にも見えていないほうがいいのに……」



ずっとそうして生きてきた。



灰をかぶり、埃を払い、目立たぬように息を潜めて。



そうすれば、傷つくことも少なかった。



——けれど。



帝は、そんな花に目を留めた。



宴の場に広がる噂を、すでに奉公先の者たちが囁いているのを聞いた。



「灰まみれの娘に、帝がお声をかけられたらしいぞ」



「ありえぬ……あの冷徹な帝が?」



聞いた瞬間、心臓が跳ねた。



逃げ出したいほどに。



だが同時に——胸のどこかが、熱を帯びた。



帝の視線。



ほんの一瞬、花の存在を確かに捉えたあの気配。



思い出しただけで、頬がじんと熱くなる。



「……だめ。浮かれてる場合じゃない」



花は激しく頭を振った。



宴はまだ始まりにすぎない。



明日には、都の中央にある后選びの宮への呼び出しが届くという。



そこで、自分が偽物だと露見すれば——処罰は免れない。



「どうすれば……」



考えても答えは出ない。



けれど、逃げる道も閉ざされていた。



——そう思ったその時。



戸口の外を乾いた風が吹き抜け、灰の匂いを運んできた。



夜の帳が降り、都の灯がぽつりぽつりと瞬き始める。



その中心、朱皇の住まう朱殿だけが、まるで焔のように光を増していく。



花は胸の奥に手を当てた。



そこは、恐怖だけではなく、別の何かで満ちていた。



名を知らぬ感情。



避けるべきだと頭ではわかっているのに、決して消えてはくれない温度。



「……帝さまは、なぜ、私を見たんだろう」



その答えを知る日は、すぐに訪れる。



そして花はまだ知らない。



その瞳が帝の目に宿った瞬間、后宮の運命すら音を立てて動き始めていたことを。



――――――――――――



翌朝、城門の太鼓が鳴る前に、呼び出しの使者が屋敷にやって来た。



花は使者の前で小さく玉手箱のように息を整えた。



使者は簡潔に、しかし冷ややかな調子で言葉を紡いだ。



「朱殿より、直に参内の命あり」



その文面には余計な装飾がなく、命令の匂いだけが濃厚に漂っていた。



屋敷の者はそわそわと動き、花に手早く装束を着せた。



彼らの所作は洗練を装っているが、その眼差しのほとんどは計算づくめであった。



花は鏡を与えられることなく、着せられた絹の感触だけで自分を確かめるしかなかった。



だが、薄汚れた肌に絹が触れると、まるで異物を纏ったかのように居心地の悪さが胸に広がった。



女将は言葉少なに、しかし念を押すように花の肩を叩いた。



「余所で恥をかくでない。お前のことは、私どもが面倒をみる」



その言葉は慰めにも脅しにも聴こえた。



花自身はそれを慰めとは受け取れず、ただ深くうなずいた。



馬車は朱殿へ向かう参道を速やかに進んだ。



道中、花の心は波を立て、過去の断片と未来の予感が錯綜した。



幼い日の母の囁きが、かんざしの軋みと共にふと甦る。



「かんざしは、決して外すな」



母の声は淡く、それでいて命令のように確固たる響きを帯びていた。



花は指先でかんざしを確かめた。



鈍い光の中で、細工の筋がほんの僅かに震え、掌に伝播するような温度差が生じた。



その些細な反応が、花の胸に不安と同時に説明し難い安堵をもたらした。



朱殿に着くと、侍従たちの規則正しい足音が行列のように石畳へ落ちる。



広間に通されると、既に何人かの姫たちが先に控えていた。



彼女らの姿は前日より一層手練れて見え、その動作の一つ一つが計算の産物であった。



視線が花に向けられるたび、温度が変わるのを感じた。



中には囁き、軽く鼻で笑う者もいた。



だが、その些細な嘲りをも帝の視界は濾過してしまうらしく、花は再び高座へ目をやった。



朱皇は席に座し、顎の線は切れ長で、顔面に刻まれた表情は石の如く硬い。



だが、その瞳だけは生き物のように揺れていた。



彼の周囲には、従う者と近侍が控え、気配は凛としていた。



ある侍女が花の前に進み出て、形式に則って挨拶を求めた。



花は浅く頭を下げ、声を震わせて自己紹介を行った。



「瑠璃の代役、花にございます。」



室内に静寂が生まれ、誰もがその声の質を探った。



朱皇はゆっくりと顔を上げ、花の名を呼ぶことなく彼女を見るだけであった。



侍女が花を更に近くへ連れて来ると、朱皇は微かに身体を傾け、言葉を紡いだ。



「お前の目には、なにが映っているのだ」



その問は、宴の喧噪をすり抜けて花の胸へ直に届いた。



花は瞬時に、言葉の刃の鋭さを知った。



この問いは単なる好奇ではなく、洞察の範疇に属する。



言葉の裏にあるのは、見透かす力であり、隠蔽を許さぬ静かな追及であった。



花は声をかすれさせながら答えた。



「私が見ているものには、色がありません」



その答えは率直で、かつ危うかった。



朱皇は眉間に皺を寄せ、しかし表情に糸を通すような微笑を浮かべた。



「色がない、とな」



会場の空気が引き締まり、周囲の囁きはさらに大きくなる。



ひとりの姫が低く笑って言った。



「下女が詩めいたことを言うとは」



だが、その言葉の端で、他者と異なる波紋が起きていた。



侍従の一人が目を見張り、朱皇の手元へと視線を下ろした。



朱皇の掌に、かすかな光の残滓が見えたのだ。



花の胸に巣食うかんざしは、その瞬間、針先でほのかな反応を示した。



花自身は気づかぬまま、内部で何かが微かに震えた。



その反応は儀礼の場としては許されぬ異常であり、幾分かの緊張が一斉に走った。



宵月という名の宮中高官が、冷ややかな足取りで高座の端へと寄った。



彼の眼差しは狡猾で、宮中の秩序を守ることに執着する男であった。



宵月の口元が僅かに動き、低い吐息のような言葉を漏らす。



「この者を詳しく調べるべきだ」



彼の声は低く、しかしその場にあっては命令のように作用した。



朱皇は宵月を見据え、短く言葉を発した。



「暫時待て。ここでは不要の騒ぎだ」



その裁定は即座に場を沈め、宵月の顔色にはわずかな不満が浮かんだ。



しかし、宵月は黙して引き下がらぬことを心に決めた。



花は、自分の内側で何かが目醒めたことを未だに理解できずにいた。



だが、周囲の空気の変化は彼女に明確な警告を与えていた。



この後宮において、無垢な者など存在しない。



感情は利用され、顔の影は刃となる。



帰路、花は呼吸を整えつつ城外へ向かった。



馬車の揺れが、乱れた思考を少しずつほどいていく。



女将の顔が妙に明るく見えた。



その明るさは祝意にも似ていたが、花には皮肉にも感じられた。



「お前は目立った。帝が興味を示されたらしい」



女将はその言葉を囁くように言った。



花は俯き、答えを濁した。



興味⋯⋯それは救いかもしれず、また罠の触媒でもある。



夜、花は薄暗い部屋でかんざしを取り出し、それを掌の上で撫でた。



光を受けて、刻まれた錦木の図様が影を落とす。



母の面影がその細工に宿っているように思え、花は涙を堪えた。



「母上、私はどうすればよいのですか。」



声はか細く、しかし誰にも届かぬ祈りであった。



かんざしは答えぬ。



だが、その夜、かんざしが再び微かに震え、花の掌に冷たい余韻を残した。



それは単なる物の反応ではなく、もはや宿命の前触れであるかのように感じられた。



花は眠りながら、漠然とした決意を抱いた。



「私が、何者であれ――逃げることはしない。」



この誓いは弱々しく、しかし真摯であった。



後宮の深奥で更なる小さな波紋が立つことを、花はまだ知らない。




翌朝、後宮からの召しが再び花のもとへ届いた。



文面は簡素でありながら、ひどく重かった。



「本日、朱殿にて臨時の対面あり。速やかに参れ」



その書きぶりには説明すらなく、ただ命だけが横たわっていた。



女将は浮き立つように笑みを深め、花に薄紅の衣を着せた。



昨日の絹よりも柔らかく、肌に吸い付くような質であったが、花にはどこか鎖に等しく感じられた。



「良い機会だよ、花。帝のお眼鏡に入れば、私たちも安心して暮らせる」



その「私たち」という言葉に、花は冷気を感じた。



自分の肩に何かが乗せられた。



それは期待という名の重圧であり、逃れ得ぬ縛りであった。



馬車が城門へ着くと、以前より多くの侍従が待ち構えていた。



花が下りると、その場の空気が瞬時に変わった。



昨夜、帝の視線を受けたという噂が既に後宮を駆け巡っているのだと悟った。



侍従たちの視線には好奇と警戒が混じり、何者かを品定めするような鋭さがあった。



花は視線を逸らし、胸にそっと手を置いた。



かんざしが冷たく、しかし心臓の鼓動と微弱に呼応しているように感じた。



「こちらへ」



案内役の侍女が一歩進むたび、花の足元を緊張が縛った。



広間に通されると、朱皇は既にその場に居た。



昨日よりも近い距離だった。



その距離が一歩縮まるだけで、空気の密度が変わる。



彼の視線は刀のように鋭く、しかしどこか熱を孕んでいた。



花はそのなかに沈みそうになり、息を飲んだ。



朱皇は手を軽く上げると、侍女たちはすべて退いた。



広間に残ったのは、帝と花だけ。



扉が閉じられる音が、まるで世界を分断したかのように響いた。



「来い」



その声は低く、だが命令というよりは、花を引き寄せる不可視の糸のようだった。



花は歩を進めた。



膝が震えているのを悟られぬよう、必死に息を整えた。



帝は玉座の階段を降り、花の前に立った。



その近さは、花の存在すべてを掌握するかのようであった。



そして、帝はゆっくりと手を伸ばし——花の頬に触れた。



花は反射的に身を引こうとしたが、その指先は驚くほど静かで、優しかった。



「昨日、お前を見たとき——」



帝の声が、花の鼓膜に直接響く。



「胸の奥が、妙に騒いだ」



花は瞬きすら忘れた。



その言葉の意味を理解するのに、数秒が必要だった。



帝は目を細めた。



「私は、理由のない感情を信用せぬ」



静かに続けられる言葉には、長年の孤独と戒めが滲んでいた。



「だが……お前を見たときだけは、理が通らぬ」



花の心臓が跳ねた。



「お前はいったい、何者だ」



その問いに、花は震えた声で答えた。



「私は……ただの、奉公人で……」



だが、その言葉を聞き終わる前に、帝は花の胸元へ視線を落とした。



「そのかんざし」



花の心拍が一気に高まった。



帝はゆっくりと手を伸ばし、花のかんざしに触れようとした。



触れた瞬間——。



かんざしが微かに光を帯びた。



朱皇の指先に淡い紅光が灯る。



それはまるで、彼の血脈そのものが呼応しているようであった。



「……これは」



帝の瞳に驚愕の色が走る。



花は慌ててかんざしを握りしめた。



しかし光は止まらず、むしろ花の掌の中で脈打つように強まっていった。



帝は低く呟いた。



「この反応……まさか、これは皇統にまつわる——」



その瞬間、広間の扉が荒々しく開いた。



宵月が蒼白な面持ちで駆け込んだ。



彼の視線がかんざしの光を捉え、顔色が凍りつく。



「帝よ!その娘を離してはなりませぬ!」



花は二人の視線の間で立ち尽くした。



宵月は叫ぶ。



「そのかんざし……禁忌の宝具緋桜の印にございます!」



その名は、宮中において語ることすら禁忌とされたもの。



帝は目を細め、花の手からかんざしを解こうとする。



だが花の指は強張り、離れなかった。



宵月は続けようとした。



「その宝具は、かつて帝家の血脈に深く関わり、反乱を起こした——」



だが言葉は、帝の一喝によって遮られた。



「黙れ」



帝の声は広間を震わせた。



宵月はひるんだが、続けて言う。



「花と名乗るその娘……もしや、反逆者の血を継ぐ者かもしれませぬ!」



花の呼吸が詰まった。



自分の身にそんな大それた血が流れているはずがない。



しかし——胸の奥で脈打つかんざしは、否定するようには沈黙してくれなかった。



帝は花を庇うように一歩前へ進んだ。



「花は罪ではない。」



その声には迷いがなかった。



だが宵月は食い下がる。



「帝よ!もしそれが真なら、その娘を庇うことは国家の危機!」



帝の瞳が鋭く光った。



「ならば——その危機すら、私が引き受ける」



宵月は絶句した。



花は胸が締め付けられた。



帝が自分のためにそこまで言うのか、理解が追いつかなかった。



帝はゆっくりと花に向き直った。



「花」



呼ばれるたび、胸に小さな焔が灯るようだった。



「たとえ灰より出でたとしても……私は、お前を選ぶ」



その言葉は、花の心を深く震わせた。



だが、同時に恐ろしいほどの現実が迫ってきた。



自分の出生。



母が遺したかんざし。



帝家と禁忌の宝具。



後宮の嫉妬。



そして——宵月が仕掛けた陰謀の影。



帝は花の顎をそっと持ち上げ、まっすぐに目を覗き込んだ。



「花。お前の真実を……必ず私が守る」



胸の奥で、花の何かが決壊した。



涙が零れそうになるのを必死に堪えた。



しかし、涙の代わりに花の唇から漏れたのは、小さく震えた言葉だった。



「……私、逃げません」



帝の瞳が僅かに揺れた。



その揺らぎは鉄でできた男の奥に、人としての温度が確かに存在するという証だった。



宵月は歯噛みした。



「帝よ……民は納得いたしませぬ」



帝は振り返り、冷ややかな声で告げた。



「民に語るのは後だ。先に守るべきは、この娘だ」



宵月は沈黙し、深く頭を垂れた。



その影に隠れた目が、どれほどの策を巡らせているのか、花には分からなかった。



だが、確かに分かることが一つだけあった。



——この瞬間、花は後宮の中心に立った。



——すべての矛先が、自分へ向けられた。



そして帝は、すべてを承知で花を選んだ。



その選択が、帝国の運命までも変えてしまうとも知らずに。



花は静かに目を閉じた。



恐怖でも、絶望でもない。



胸に灯った焔が、消えずに燃え続けていた。



帝が言った言葉が、何度も反響していた。



「たとえ灰より出でたとしても、お前を選ぶのは私だ。」



——この瞬間、一輪の花は、帝の焔に照らされて開き始めた。



その開花が、後宮の暗部と帝国の秘密を暴き、封ぜられた血筋に迫ることになるという未来を知らぬままに。



―――――――――――




花が奉公のために暮らしていた「霞野屋(かすみのや)」は、都の最外縁に位置していた。都といっても、その端の端、外堀の向こうには畑と野犬くらいしか見当たらない薄暗い地域である。

 店の者たちは、奉公人である花に対し、主の機嫌が悪い日は容赦なく八つ当たりした。花が耐えられたのは、ただ 「母の形見さえ守れればそれでいい」 と、胸の奥で念じ続けていたからにほかならない。



 

 花が身に着けたかんざしは、練銀に薄い紅玉をあしらい、風を受けると微かに花弁のような光を散らす。粗末な身なりの花には明らかに不釣り合いな品で、奉公人の中には「盗んできたのではないか」と陰口を叩く者もいた。

 しかし花は、誰に何を言われようとも決して手放さなかった。それだけが、母が生きていた証であり、唯一、自分が “花” と名付けられた意味を繋ぎとめてくれるものだった。



 

 そして、運命の日が訪れる。



 

 霞野屋を訪れた役人が、貴族家に仕える女中を招集するために名簿を確認し、そこで信じられない取り違えが起きた。

 本来呼ばれるはずだったのは、同じ奉公名簿に名前だけ登録されている貴族の遠縁の娘・香凛(かりん)。

 彼女は身分は高いが、病弱を理由に奉公を形だけにしていた。だが役人は名簿を素通りし、その場にいた花を「香凛」と決めつけたのだ。



 

「後選びの宴へ、屋敷の娘・香凛殿をお連れいたす。支度せよ」



 

 花は耳を疑った。

 霞野屋の主人は一瞬困惑したが、すぐに計算したような目で花を見た。



「……良い機会だ。どうせ香凛様は来ぬと分かっている。代わりにこやつを出してしまえ。帝に選ばれぬ限り、顔など見られまい」



 

 花は拒む間も与えられず、古い匂いのする箱から取り出された晴れ着を無理やり身に纏わされた。

 袖を通す布は豪奢で重い。だが花の体を包むその感触は、まるで自分の人生そのものを否応なく引きずられていくように冷たかった。



 

「わ、私などが……そんな場に出れば、きっと罰を受けてしまいます」



 

「黙っていろ。帝は多忙だ。お前のような影の薄い娘、気づきもしないだろう」



 

 その言葉を最後に、花は駕籠へ押し込まれた。

 霞野屋の門を出る瞬間、夕暮れの陽がかんざしの紅玉に反射し、ひときわ強く光った。



 

 その光は、花の行く末を祝福するのか、あるいは警告するのか。

 花には分からない。ただ、胸の奥をきゅう、と掴むような焦燥だけが残った。



 

 帝城「朱宮(しゅきゅう)」――。

 都の中央にそびえるその巨大な宮は、花のような下働きには生涯縁のない世界だった。

 駕籠が進むにつれ、石畳が光を帯び、城壁が近づく。日の入り寸前の朱が世界全体を染め上げていく。



 

 やがて花は、煌びやかな灯りが連なる正門前に降ろされた。

 そこにはすでに数々の貴族の娘たちが、色とりどりの衣を靡かせ、香をまとい、互いに火花を散らすような視線を交わしていた。



 

(場違い……)



 

 花は膝の内側が震え、うまく歩けないほどだった。

 周囲の姫君たちは、一目で彼女の劣った装束を見抜き、眉をひそめ、袖で口元を隠しながら囁いた。



「誰? あれ、香凛様ではないはずよね……」

「どうみても奉公人上がりではなくて?」

「まさか身分を偽って?」



 

 花はただ、うつむいたまま、影のように会場の隅へと移動した。

 本当は、すぐにでも逃げ出したかった。

 だが、逃げれば取り押さえられ、罪人として扱われる。

 ここで嵐が去るのを待つしかなかった。



 

 ――そして、宴の中央に。



 

 帝・朱皇(すおう)が姿を現した。



 

 白磁を思わせる肌に、深い緋色の衣。

 その瞳は、冗談ではなく “夜の底” のような色をしていた。

 人を切り捨てるような冷徹な眼差しで知られ、臣下から「氷帝」と陰で恐れられる存在。



 

 貴族たちは一斉に頭を垂れた。

 花も慌てて頭を下げたが、視線の低い位置から見る朱皇の足元だけでも、異質なほど神々しく思えた。



 

 帝は一歩、二歩と進みながら、宴に集う姫君たちに目を走らせた。

 誰もがその視線を待ちわび、選ばれる一瞬を願って微笑みを作る。



 

 だが、朱皇の瞳は彼女たちを素通りし――。

 会場の隅で、息を潜めて縮こまっていた花へ向けられた。



 

 花は、針で刺されたように体を強張らせた。



 

 朱皇が歩き出す。

 足音は静かで、しかし逃れられぬ宿命のように近づいてくる。



 

 そして、花の前に立った。



 

「……名は?」



 

 低く、よく通る声だった。

 花は震える唇をかみ、必死に声を押し出した。



「か、香凛……と、申します」



 

 偽りの名を口にした瞬間、胸が痛んだ。

 しかしその痛みを押し殺さねば、ここでは生き残れない。



 

 朱皇は目を細め、花の顔をじっと眺めた。

 花は、まるで魂まで見透かされるような感覚に襲われた。



 

「……お前の目。なぜ、そんなふうに私を見る?」



 

「え……?」



 

「他の者たちとは違う。恐れでも、媚でも、欲でもない。まるで――私を 知らぬとでも言うような目だ」



 

 花は返答に迷った。

 だが真実は、ただ一つ。



「……わたくしは、宮のことも、帝のことも……何も存じ上げません。だから、どう見ればよいのかも……分からないのです」



 

 会場がざわめいた。

 帝に対して「どう見ればよいのか分からない」と言い放つ娘など、普通は存在しない。



 

 だが朱皇は、ほんの僅かに――本当に僅かに、唇を緩めた。



 

「そうか。……良い」



 

 その声は、この場の誰もが耳を疑うほど柔らかかった。



 

「今宵の宴――私は、その名も無き花を側へ置こう」



 

 場内が凍りついた。

 花自身も、頭が真っ白になった。



 

(ここで、わたしが……?)



 

 姫君たちの胸に、嫉妬と困惑が渦巻く。

 そしてその瞬間から、後宮の水面下で多くの者が動き始めた。



 



 

 帝の選択は、後宮全体に波紋を広げた。

 花は謁見の後、小部屋へ案内され、侍女たちの視線に晒されながら座らされた。

 彼女たちの誰もが、花の身なりを怪しんでいる。



 

 やがて、侍女長が近づき、冷たく言い放った。



「香凛様――とお呼びすべきなのでしょうが、あなたの衣、作法、立ち居振る舞い。どれを取っても貴族の娘には見えません」



 

 花の心臓が跳ねた。



「……いずれ、すぐに化けの皮が剝がれましょう。ですが帝の御心に留まった以上、今は我らも従うしかございません」



 

 その声には、従うというより 観察して暴くという意図が隠されていた。



 

 そして、侍女長はさらりと続けた。



「帝は、あなたを花と呼ばれました。名も無き花、と。本名を問われたとき、何と返すおつもりです?」



 

 花は言葉を失い、視線を落とした。

 その胸元で、かんざしの紅玉が小さく震える。



 

 侍女長は紅玉を見て、何かに気づいたように眉を寄せた。



「……そのかんざし。どこで?」



 

「母の形見です」



 

「母の名は?」



 

「……分かりません。幼い頃に亡くしてしまい……」



 

 その返答に、侍女長は表情を変えぬまま深く頷いた。

 だがその瞳の奥には、違う色が宿っていた。



 

(この娘……何者?このかんざし――見覚えが……?)



 

 それは、後宮にとって単なる奉公人上がりの娘では済まない、そんな予感を抱かせる何か。



 

 花は知らぬまま、静かに息を呑んだ。



 

 この日を境に、帝を巡る波乱の渦へと巻き込まれていく――その始まりであった。