視界がぐらついて、スマホを落とす。
 慌ててスマホを拾った私は、間違えてペットカメラを起動してしまった。

 そこには、この状況にまだ気がついていない愛猫が、呑気にふんぞり返ってチュール片手にテレビを見ている姿が映し出された。

 どこまでも我が道を行くトラの姿に、私は自然と笑みが込み上げた。
 なんか……、肩の力が抜けた気がする。

 一呼吸おいてホッとした私は、ゆっくりとスマホを拾って立ち上がった。
 真っ直ぐに見渡すと、ここに居る人の中に私を嘲笑う視線はありはしなかった。

(そうだ、黒いモヤはもう見えない。皆、心配してくれている。まずは落ち着いて、冷静に……)

 よろけた私を気遣って駆け寄ってくれた中村さんにお礼を言うと、私は自分の中で一番の明るい声で、作り笑顔を浮かべて言った。

「ありがとう、中村さん。暗いところが苦手で……少し、よろけちゃった。私のデータも大丈夫だったよ。皆さん、手伝ってくれてありがとうございます。本当に助かりました!」

 私の言葉に、皆もホッとしたように笑顔が戻る。

「あとは私の方で皆さんに作ってもらったデータをまとめて、仕上げるだけだから……ありがとうございました」

 あと少しで終わるのなら、オフィスの施錠も手伝うと待っていてくれようとする中村さんを説得して、私は残って手伝ってくれた皆を先に帰した。

 この嘘は、見栄でも遠慮でもない。
 これは必要な嘘だったと、私は自分を誇りに思えた。そんな嘘だった。

「せっかく手伝って貰ったんだ。ここで私が台無しにしちゃダメだ! なんとかしなくっちゃ……っ!」

 どうにかデータの復元をしなくては、と私は思考を巡らせた。
 駄目人間だからなんだ、から回ったからなんだ。落ち込むには早すぎる。まだ、挽回のチャンスは残されてるはずだ。

 ちらり、と横目でスマホのペットカメラを見る。
 変わらずトラがゴロゴロとリビングを転がっている。

 今までの私なら落ち込んで終わりだった。

(だけど、やり遂げないと。いつまで経っても変われない……っ!)

 私は両頬を叩いて気合を入れ直した。
 その時、ふと……泣きそうになった後輩から相談されたことが頭をよぎった。

『清水さん……っ、僕、バックアップするのを忘れてて……今開こうとしたら先輩が作ったデータも僕の作ったデータも全部壊れて消えてしまって……どうすればいいですか……っ、この後、上司なんです……っ』

『だ、大丈夫ですよ……、落ち着いて……。破損していてもファイルが残っているなら大丈夫です。このデータならオート保存機能がついているはずだから……詳細設定の所から……あった! この時間のデータだと少し戻っちゃうかもしれないけれど、ここから復元出来ましたよ!』

『……っ! 清水さん、本当にありがとうございます……っ!』

『急に消えてしまったら、焦っちゃいますよね。でも、落ち着いて対処すれば案外どうとでもなりますよ……』

 あの時、後輩には落ち着いて考えれば対処できると偉そうに言ったばかりなのに。
 すっかり、頭から抜け落ちていた。私は慌てて、データの復元を試みた。

「…………三十分前のデータが残ってる……っ、これなら、明日に間に合わせられる……っ!」

 私は安堵で膝から崩れ落ちた。

(良かった。私、ちゃんと自分で解決出来るんだ……)

 よたよたとデスクに手をかけて椅子に座ると、私は震える指で復元ボタンを押した。

 ブブッ、とスマホが震えた。

『せいちょうしたな。えらいぞ、ことこ』

 スマホの画面には、トラからの短いメッセージが届いていた。
 カメラ越しにこちらを見ているであろうトラに向かって、両手でピースをつくる。目尻に滲んだ涙を手の甲で拭うと、私はニッカリと笑ってみせた。

 きっと今頃、ソファの上で腕を組みながら、満面の笑みで喜んでくれていることだろう。
 見てもいないのに、小さな愛猫のその姿が頭に思い浮かんで、私はくすりと微笑んだ。