あの日の朝から、私は中村さんと田中さんと一緒にお弁当を食べるようになった。
 二人は好みも性格も違ったけれど、人の悪口を言ったりしないので、気楽に過ごすことが出来た。

 私が二人とのランチに緊張することがなくなった頃に、事件は起きた。

 化粧という鎧を身につけて、仕事中も人の目を見て話すことが出来るようになった私は、上司に怒られることも減っていて良い意味で調子に乗っていた。

「清水! 明日のプレゼンの資料が上がってこないが、どうなっているんだ!」

 それは、急に退職した人が担当していたプレゼンの資料だった。引き継ぎも誰にもせずに辞めてしまって、責任の所在も有耶無耶(うやむや)のまま、その人の残した業務が何があるのかも誰も知らない状態だった。

 それを上司が適当に割り振って、よく分からないまま押し付けられた話だった。

「明日、ですか……? そんなの聞いてないです……」

 そう言いかけると、上司の顔色が変わった。

「聞いてないのなら、聞けばいいだろう」

 そんな無茶な、とは思ったものの、私にも非はあったから何も言えなかった。
 確かにその退職者の仕事を押し付けられた他の人……仕事の出来る同僚は、すぐに上司に内容を質問しにいき、自主的に納期確認や資料作成を行っていた。

 私は自分の仕事で手一杯で、何も言われないからと放置してしまっていたのだ。

「す、すみません……でした。私の確認不足です」

「謝っても仕方がないだろう……進捗は?」

 私は震える指でスカートの裾を掴んで、恐る恐る返事をする。

「何も……出来ていません。申し訳ありません……」

 上司の大きなため息が聞こえる。私はびくりと肩を竦ませて、俯きながら泣くのを堪えていた。ここで泣いてしまったら、迷惑をかける。その一心だった。

「分かった……。終わる目処は……?」

「……分かりま、せん」

「……説明は私がする。抱えている業務のいくつかは他に回すから、清水はとにかく作業に戻れ」

「…………はい。申し訳ありませんでした」

 顔を上げたら、涙がこぼれ落ちてもしまいそうだった。

「……清水。お前が仕事をサボってないのは見ていれば分かる。お前が自分のキャパシティを超えて引き受けたであろうこともな。……だが、それでも自分が引き受けた仕事だ。説明されていないと思ったら、責任を持って確認するのが清水の仕事だ。分かるな?」

「…………はい」

「これ以上の仕事を引き受けられないと思ったら、断るのもお前の責任だ。視野を広く持て。もっと、他人に助けを求めろ。以上だ」

 断る勇気がなくて、安請け合いをした。誰かがやってくれると思って、元々は自分の仕事じゃなかったからといって、聞くことも出来たはずなのに後回しにした。
 私の優柔不断が招いたことだった。

 上司が言っているのが意地悪ではなく、正論だからこそ、自分の不甲斐なさが悔しかった。

 泣いちゃダメだ。
 きっと今も、トラがカメラの向こうで見てる。

 私は涙を堪えて、パソコンに向き合った。



「清水さん、大丈夫……? さっき聞いたんだけど、退職した野中さんのプレゼン資料……明日までだって……」

「中村さん……、田中さん……。うん、私がずっと放ったらかしにしちゃっていたから……」

「あのね、私達に手伝えることがあったら手伝わせて! ほら、三人でやれば早く帰れるよ!」

 中村さんの言葉に、田中さんも頷いた。

「さっき、上司には確認したし、元々清水さんの仕事じゃないんでしょ? だったら、私達が手伝っても全然いいじゃん」

 優しい二人の気遣いに、目頭が熱くなる。
 すると、近くにいた同僚達が集まってきた。

「俺達も手伝うよ。ほら、この資料を少し変えれば流用出来るはずだから、貸して」

「どうして……手伝ってくれるんですか……?」

 ぽろっと漏れた本音に、同僚が不思議そうに笑った。

「いつも清水さんだって、手伝ってくれるでしょ。他の人に断られた時も、清水さんだけは手伝ってくれて本当に助かったからさ。今度は俺が手伝う番ってだけでしょ」

「そうだよ! いつも一番早く出社して……残業だって沢山して……私達、そんな清水さんのこと尊敬してるんだからね」

 まさか、コミュニケーションが出来ずに黙々と仕事をしていただけの時の私を、そうやって見ていてくれてる人がいたなんて思ってもいなかった。

「最近だって、清水さんは変わらず仕事を頑張ってるし、前よりも話しやすくなったっていうか……仕事が忙しくても、後輩のこと気にかけてやったり助かってるんだ」

 化粧という鎧を身につけて、周りの人とも普通に会話が出来るようになって、今まで遠目に心配していただけの後輩にも声をかけるようになった。
 私が今までやってきたこと。全部、無駄じゃなかったんだ。

「……あのっ、僕も……手伝います。清水さんにこの前教えてもらったから、データ送って貰えればグラフだったら作れますよ!」

「……あり、がとう。それじゃあ、これ……お願いしてもいいかな……?」

 人にお願いをするのは初めてだった。
 きっと、今までの私なら全部断って、一人で抱え込んで、間に合わなくて怒られていた。

 すんなりとお願いの言葉が自分から出てきたことに驚いた。だけど、嫌な気分ではなかった。
 人に頼るって、申し訳ない気持ちだけじゃなくて、あたたかい気持ちにもなるんだって初めて知った。

 ひとりぼっちではない残業時間は、いつもと違って苦しくはなかった。