「琴子、洋服はネット通販でしか買わないのか?」

「うーん、やっぱり人の視線が怖いっていうか……店員さんに話しかけられると帰りたくなっちゃうから、通販がいいなぁ」

「なるほどな」

「どうして、嬉しそうなの?」

「ふふん、通販ならば私も一緒に選べるからな」

 トラは私の肩の上で、嬉しそうにマウスをスクロールしている。揺れるたびにふわふわの耳が私の頬にあたって、くすぐったい。

「琴子は桃色より橙色が似合うな。この金木犀のシャツはどうだ」

「うーん、ちょっと可愛すぎないかな。寒色系の方が落ち着くかも……」

「琴子の好みはどれなんだ?」

「えっ、シンプルなのばっかり着てたけど……あんまり好みって考えたこと無かったかも」

「なら、これを機にいろいろ見て見てもいいんじゃないか」

 トラの言葉に私はさっきまで見ていた、カラー診断のサイトを横目で見た。

「でも、似合う色や形を選ばないとって書いてあるし……。トラの方がセンスありそうだから、選んでよ」

「似合うものを選ぶのがいいのは勿論だ。それに私も琴子の洋服を選ぶのは楽しい。だが、最後にどれにするかを決めるのは琴子なのだ。自分が好きなものを着て、自分の気持ちを盛り上げるのが一番だと私は思うぞ。なんせ、ニャン生は……」

「一度きり、でしょ?」

 トラのセリフを奪ってやると、驚いたように目をまん丸にしてニヤリと笑った。

「ふふん、分かってきたじゃにゃいか。自分で選ぶことに意味があるのだ」

 トラのしっぽが嬉しそうに私に絡みつく。
 それが私も嬉しかった。



 ◇ ◇ ◇



「ほれ、猫背になるな。背筋を伸ばせ、胸を張ってしゃんとしろ!」

 鏡の前で深呼吸をしていると、後ろから私の背中に向かってトラが飛んできた。その衝撃で背筋が伸びた私は、我ながら別人のようだった。

「琴子、忘れ物だ」

 トラはそう言って、私をしゃがませると、私のまぶたの上をトントンと肉球で優しく触れた。不思議そうに私が首を傾げると、トラはいたずらっぽい表情で言った。

「ふふん、おまじないだ」



 ◇ ◇ ◇



 メイクと新しい洋服で武装して、私はいつも通りの時間にオフィスへ出社した。
 心なしか、通勤の足取りが軽かった。

(……来た、中村さんだ)

 いつものように自分のデスクに座って、呼吸を整える。周りに聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、心臓の音がけたたましく鳴り響いている。

『背筋を伸ばせ、胸を張ってしゃんとしろ!』

 トラの言葉がよぎる。
 背筋を伸ばして顔を上げると、オフィスのガラスに今の私の姿が写った。

「お、おはようございます……っ!」

 前回、自分から声をかけた時と比べて、声が裏返らなかった。ちゃんと、前の自分の失敗も、今の自分の糧になっているんだ。

 驚いた様子の中村さんと数人の社員に、縮こまりそうになる身体を必死に維持する。
 すると、ガラスにはいつもキラキラしている中村さん達と、そこに混ざっていてもいつもより浮いていない自分の姿が見えた。

(あれ、私……そんなに浮いてない……?)

 一人だけ暗い表情を浮かべた自分が浮いている姿が嫌で仕方なかった。だけど、今は私もどこにでも居るような普通の女性社員に見えた。
 逃げ出したい気持ちがやわらいで、落ち着いた気持ちで中村さんの返事を待てたと思う。

「……清水さんっ!? お、おはようございます! もしかして、イメチェンなさったんですか!? そのリップ……すっごく似合ってます!」

 中村さんがキラキラした表情で褒めてくれる。それを皮切りに、周りにいた社員達もざわざわと私を囲んだ。

 荒んだ気持ちのままだったら、動物園のパンダみたいな気持ちになっていたかもしれない。でも、顔を上げてみた周りの人の表情は、普通に驚きや称賛を称えていたから……もっと素直に受けとってもいいのかもしれない。

「えと、その……もっと、自分に自信を持ちたくて……。変じゃない、ですか?」

「変じゃないです! 清水さん、背も高いし、化粧映えする顔だなって私思ってて……。思った通り、とっても素敵です!」

 そんな風に思われていたなんて。褒め上手な中村さんに思わず口元が緩んでしまうのを、必死にくいとめた。

「なになに〜、清水さんめっちゃ印象変わるじゃないっすか。ってか、そのアイシャドウ……ラメが上品でめっちゃ似合ってるじゃないっすか! 清水さんて、メイクとか興味ないと思ってたけど、そんなこと無かったんすね〜」

「えっ、ラメ?」

 私、アイシャドウにラメなんて乗せてない。
 ふと、朝のトラの行動を思い出す。

(まさか、あの時のおまじないって…………)

 慌てて手持ちの鏡を見ると、まるで日向ぼっこをするトラの毛並みのように、キラキラと金色に輝くラメがまぶたの真ん中に乗せられていた。

「あははっ、何やってんすか。自分でメイクしてきたんでしょ。どこのメーカーのか忘れちゃったなら、今度どこのやつか教えてくださいよ!」

 中村さんのそばに居た派手めな女性社員が、屈託のない笑顔を浮かべて言った。

(なんだ……こんなに簡単に話せたんだ……。こんな、皆……なんでもない顔して笑ってたんだ)

 俯いていた時は、聞こえてくる笑い声が全て自分を嘲笑っているような気がしていた。けれど、それも自意識過剰だったのだと今ならわかる。きっと彼女達は普通に過ごして、普通に他愛のない会話をしていて、私なんかに興味もなかったんだ。

「ちょっと、田中さん! いきなりそんな……清水さん困ってるよっ……!」

「え〜、そんなことなくない?」

 中村さんと派手な女性社員……田中さんという人が私をじっと見つめる。その視線も怖くはなかった。

「い、いえ。困ってないです。私、人見知りで……上手く話せなかったから、羨ましくて。いつも楽しそうにしてるなって思っていたから……びっくりしただけで」

「本当ですか!? 良かったぁ……。もしかして、話しかけられたくないのかなって思ってたんです」

「ほらぁ、大丈夫じゃん」

「田中さんは遠慮がなさすぎるんですよ!」

 わいわいと会話をする中村さんと田中さんの間に私がいる。名前は分からなかったけれど、他にもいた女性社員達も、化粧を褒めてくれたり、私がまだ慣れていないと言うとオススメを教えてくれたりと、私の想像の中と違って親切な人ばかりだった。
 きっと、大人になった彼女達にとって、陰口を言う時間も勿体ないのだろう。

 今までモヤがかかって見えていた女性社員達の顔が晴れていく。
 怯えていた怖い視線は全部私の被害妄想で、周りが黒いモヤモヤに見えていた。その視線は意地悪そうな顔で私を嘲笑っていて、皆が私の悪口を言っているように見えた。

(この人達って、こんな表情(かお)をしていたんだ……)

 今は、霧が晴れている。

 私は顔を隠すことなく、人前で笑えていた。