「化粧……? なんで、いきなり……」
私が尋ねると、トラはスマホの画面を叩いて言った。
「ここに化粧は鎧だと書かれているだろう! 今の琴子は鎧をつけていない状態だ。だから、自分の心を守れなかったのだ」
ふふん、と胸を張ってドヤ顔をするトラの顎を撫でてやる。
「でも……私、本当に最低限しかメイク道具持ってないし……使いこなせないし……」
「だからやるんじゃにゃいか! 武装もせずに戦えるのか? 見よう見まねでも良い。琴子を守る鎧を手に入れるぞ」
「そんな外見を変えたくらいで……」
「何を言う。見ろっ、私のこの愛らしい仕草を!」
そう言って、トラはころんと寝転んで顔を手でくしくしと撫でてみせる。あざとい。可愛い。
私はその魅力にあらがえずに、トラのお腹に吸い寄せられていく。
「自分のチャームポイントを活かすのは大切だ。見た目に自信がつけば、どう振る舞うか、選択肢も広がっていく。琴子、お前は自信のなさから言いたいことも言えなくなっているだろう」
確かにその通りだった。
吸い寄せられるままに、ふわふわのお腹に顔を埋めていた私の頭を撫でて、トラは言った。
「さぁ、善は急げだ。戦道具を揃えるぞ、琴子。私も同行してやろう」
「いやっ、猫はお断りだってば! 分かった。買ってくるから待ってて!」
「うむ……この目で見ておきたかったが、仕方ないか。では、買ってきて欲しいリストをメッセージで送っておくぞ」
そういうと、肉球を駆使してトラはスマホを使いこなすと、私にメッセージを送ってきた。
「えぇ……こんなに種類あるの……? ベースって何……ギターの話……? ファンデーション塗る前になんで同じ肌色塗るの……」
「知らん! が、化粧が崩れにくくなったり、毛穴を隠したり、肌の悩みをカバーする色を取り入れることが出来る……とここに書いてあるぞ!」
全部、スマホの記事を鵜呑みにしたアドバイスだったが、トラがやる気に満ちているのが嬉しかったので、私も頑張ろうと最寄りのデパートに向かった。
◇ ◇ ◇
「ただいまぁ……つ、かれたぁ……。デパートのお姉さん達キラキラ過ぎる……声可愛いし、いい匂いするし。私なんか何にも答えられないし……とりあえず、メモ見せて見繕って貰うしか出来なかったよ……」
「自分を卑下するな、琴子。今までの琴子ならば、デパートの化粧品コーナーなど早々に逃げ帰ってきていただろう。メモを見せて買って帰ってきたとは、上出来だぞ」
お使いをしてきただけでこんなに褒めて貰えるなんて、子供の頃に戻ったみたいだ。
「私も琴子が出掛けている間に化粧とやらを勉強しておいたぞ」
そう言ったトラが真ん丸な手でテレビを指すと、視聴履歴がメイク系動画配信者で埋まっていた。
「さぁ、来い。琴子! 私が最高の化粧を施してやろう!」
自信満々なトラに安心して、私は買ってきた化粧品を手渡した。
「うわっ、……っぷ! ニャンだこれは! 琴子! 助けてくれ、前が見えにゃいぞ!」
前言撤回。
どうして私は猫のトラが化粧を出来ると思ったんだろう。どう見ても、あの手じゃ出来るわけないのに。
トラは派手にファンデーションをぶちまけると、ひっくり返した粉を頭から被っていた。ぷるぷると身体を震わせると、粉が舞い上がって鼻をくすぐる。
「……っくしゅん! トラッ、待って! 今拭いてあげるから!」
慌てるトラにタオルをかぶせて、わしゃわしゃと拭いてあげると、トラはしょんぼりと耳を垂らして座り込んでいた。投げ出された短い足が可愛い。
「すまない、琴子。私には……化粧は難しいようだ」
その丸まった背中には、哀愁が漂っている。
何だか、そんなトラは見ていられなくて、私はスマホの動画を見せて言った。
「大丈夫だよ、トラ! メイクなら私が自分で練習するし、覚えるから! だから、トラは応援してて! 私一人だと上手くいかないとすぐ諦めちゃうし……見張っててくれたら嬉しいし。ね!」
「琴子…………」
「まずは……化粧水の塗り方……って、そんな化粧水塗るだけでやり方とかあるの……? バシャッ、って塗って終わりでしょ……。コットン……? そんなの必要かなぁ」
「えらいぞ、琴子! 頑張ろう、琴子!」
元気を取り戻したのか、トラが満面の笑みで私の背中をぽすぽすと叩いた。
それからの私は休日返上でメイクの特訓を行った。いつの間につくったのか、トラは橙色のポンポンを両手に私のことを応援していた。
「で、出来た……っ!」
鏡の中には、元の自分の面影もない私が写っている。
アイライナーもよれずに描けるようになった。
まつ毛もくるんと丸まって、ビューラーにまぶたを挟まずに済むようになった。
自分の顔にあったハイライトやチークの入れ方も、何度も試して見つけたし、自分に似合う化粧の色も分かってきた。
「トラ、これ本当に私なんだよね!? デパートのお姉さんでも、中村さんでもないんだよね!?」
半信半疑でペタペタと顔を触る私に、トラは嬉しそうに言った。
「どこからどう見ても、お前は琴子だぞ! 最高に美しい、私の飼い主だ!」
「トラ……ッ!」
感極まってトラに抱きつくと、ふわふわな手でぎゅっと抱きしめてくれた。
「琴子、よく頑張ったな。化粧は一生お前の力になってくれるはずだ。これは、琴子の努力の結晶だぞ」
そう言って私を見つめるトラの目の奥はあたたかくて、とても優しかった。

