「琴子、お前は猫ではない。まずは猫背を直すのだ」

 酔った勢いもあって、トラと熱い誓いを交わした夜。
 ペシペシとしっぽで背中をつつかれて、私は姿勢を矯正されていた。

 最初に出てくるのが姿勢改善とは、なんともおじさん猫のトラらしい。
 動画サイトでストレッチの動画を流しながら、私とトラは深夜のストレッチを始めた。

「痛い痛い痛い……っ!」

 簡単な動きで悲鳴をあげる私とは正反対に、トラはその液体ボディを駆使して、ぺちゃ……と溶けそうなくらい地面と同化していた。

「情けないぞ、琴子。このストレッチを続けて根本から姿勢を矯正するのだ」

「……そりゃあ、トラは猫だから身体柔らかいもんね」

 私は悠々とした表情で自慢げにこちらを見てくるトラに、恨みがましい視線を送った。
 ふふん、とドヤ顔を向けてくるのが腹立たしい。けど、見た目は可愛らしい愛猫なのだからタチが悪い。

「もちろん、これは長い目で見た対策だ。まずは歩く時は俯かない。まっすぐ前を見て、視線を逸らさないことを目標にしていくぞ」

 どこのコーチだ。
 いつの間にか仁王立ちで長い棒をパシパシ叩く姿が可愛くて仕方がない。

「……もうっ、分かってるよ! このセットが終わったら、吸わせてよね……っ!」

「うむ、構わんぞ」

 約束を取りつけて、最後までこなした私は、ソファに倒れ込んでトラの背中を吸った。

「すぅー……、はぁー……、やっぱりこれだぁ……。疲れがとれる……癒される……」

 綺麗に整えてあるふわふわの毛並みが、私の頬を撫でる。

「そういえば、トラってこういう時どんな気持ちなの? あっ、もし嫌だったら……」

「構わん。疲れているのだな、と見ているだけだ。撫でられるのも悪くない。私が琴子を癒せるのなら万々歳だ」

「そっか……」

 大人になってから、こうやって人から真っ直ぐな好意を向けられることが本当になくなった。
 トラと喋れるようになって良かった。元々は一方的に話しかけて、一方的に癒される時間だったのが、会話も弾んでとても楽しい。

 私は嬉しくて堪らなくなり、トラの顎を撫でてやった。
 にゃぁん、と懐かしい鳴き声が私の耳をくすぐった。



 ◇ ◇ ◇



「いいか、琴子。昨日練習した通りにやればいい。分かったな」

「う、うん。だだだ大丈夫。おっけー、私ならやれる。挨拶をする、相手の目を見る、トラと話してると思い込んで聞こえる声で話す。……よし」

「……本当に大丈夫か?」

 私だって、既に不安しかない。だけど、眠たい目を擦りながら、トラが一緒に練習に付き合ってくれたんだ。大丈夫、トラとは普通に話せるんだから。

 心配そうなトラがとてとてと玄関までついてきて見送ってくれた。
 私はいつもと同じ早い電車に乗って、オフィスへ向かった。



「大丈夫……大丈夫……。目を見る、挨拶する……」

 ぶつぶつと念仏を唱える私に、トラからメッセージが届く。

『かおがこわいぞ、ことこ。えがおだ』

「笑顔……笑顔ね。目を見る、挨拶する、笑顔……」

 すると、オフィスの外が騒がしくなり、いつもの出社が早い集団がやってきた。

(いつも、挨拶してくれる。中村さん……。中村さんなら大丈夫。今日は自分から挨拶をするんだ……)

 ガタン……ッ。

「うぉっ、びっくりした……っ」

 いつもの彼らが去ってから、中村さんにだけ話しかけるつもりが、思わず立ち上がってしまった。視線が私に集まるのを肌で感じる。嫌だ、怖い……。けど、後戻りは出来ない。

「ぁの……っ、」

 声が裏返る。
 死にたい。穴があったら入りたい。
 トラとの練習の成果も発揮は出来ず、私は背中を丸めて俯いたまま、なんとか中村さんの方向に挨拶をした。

「ぉは、ようござい、ます……」

 いたたまれなくなった私は、中村さんの返事も待たずに、早歩きでフロアから逃げ出した。

「え、何あれ……」

「あの人の声、初めて聞いたかも」

「いや、マジでなんだったん?」

「俺らが通り過ぎるの待てないくらい、めっちゃトイレ行きたかったんじゃね?」

 後ろからワイワイと私のことを話すのが聞こえるが、内容なんて聞き取れなかった。ぐるぐると脳みそが回って、倒れてしまいそうだ。

 私は女子トイレに駆け込むと、悔しくて、不甲斐なくて涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。
 トラと練習したのに、何も発揮できなかった。中村さん、どんな顔をしていたんだろう。きっと、彼女も呆れ返っていたに違いない。

 始業のベルが鳴る。

 泣いていたのがバレないように、伸びすぎた前髪で目元を隠す。猫背のままの私の姿が、ペットカメラには映っていた。



 ◇ ◇ ◇



「ごめんっ、トラ……。私……」

 結局、トラのアドバイスを実行する事も出来ず、視線に脅えるだけのいつも通りの一日を過ごしてきた。あの挨拶をした後から、遠くで笑う声が全て自分のことのように思えて、普段よりも注意力が散漫になっていた。

 話は何も頭に入ってこないし、オドオドしている私に上司の怒りもヒートアップしていた。それを思い出して、涙が滲む。

 トラはそんな私に怒ることも呆れることもなく、スマホをいじりながら考え込んでいる。その様子は最早、猫ではない。

「琴子には、まずは意識改革が必要だな。……ふむ、私とともに化粧とやらを覚えるか」

 唐突にそんなことを言い出すと、トラはスマホの画面を私に見せてきた。
 そこには、『化粧は働く女を守る心の鎧』とキャッチコピーが書かれた、働く女性特集が組まれていた。