「なかなか、綺麗に写るじゃにゃいか」

 茶トラ猫はソファに座ると、短い足を組みかえた。
 スマホをふわふわの両手で包み込んで、ペットカメラから写し出された琴子を眺めている。上出来だ、と褒めてやると、カメラの向こうの琴子が笑った。

『どうした、なにがおかしいんだ?』

 メッセージを送ってやれば、琴子はペットカメラに写っているのを思い出したのか、きょろきょろと恥ずかしそう視線を動かした。

「全く、誰一人として出社していないというのに、遅くまで仕事をしているのも、朝早くに仕事をしているのも琴子だけじゃないか」

 今日は天気が悪くて寒いと愚痴をこぼすと、出社前に琴子はホットミルクを作ってくれた。やはり、琴子は身内の贔屓目なく、気立ての良い娘だ。
 これが親心というやつか。琴子の素晴らしさをそこらじゅうの人間に自慢して回りたいくらいだ。

「あちっ……」

 私は猫であるので猫舌である。琴子が出掛けてしばらく経っていたこともあって、油断していた。ぺろぺろと手を舐めて舌を冷やす。

 気を取り直して、琴子の様子を観察していると、他の人間達がぞろぞろと出社してきたようだ。急にオフィスがざわざわと賑やかになる。

 和気あいあいと会話を弾ませて近づいてくる集団に、琴子は目を合わせないように俯いた。

「にゃんだ、琴子。なぜ、俯いた。入ってきたのは分かっているだろう。おはようと挨拶をすればいいだけだぞ!」

 私の言葉は琴子には届かない。
 琴子の近くを通り過ぎる集団が、ペットカメラ越しに映った。奴らも琴子のことなど視界に入っていないようで、話しかけずに去っていく。

『おはようございます。清水さん、今日も早いですね』

 すると、若い女性が一人だけ立ち止まって、笑顔で琴子に挨拶をした。琴子がびくり、と肩を震わせる。

『ぉ…………おはよう、ございます…………』

 オドオドと立ち上がった琴子の背中は、私のようにまん丸に丸まっている。若い女性に視線を合わせられず、俯いたまま、ちらちらと顔を見上げて挨拶を返す。

 うむ、私から見ても大変態度が良くないぞ。

 聞き取れないくらい小さな琴子の声に、女性は困ったような顔をすると、会釈してその場を立ち去った。

 まさか、ここまで外での琴子が人目を気にして過ごしているとは、夢にも思わなかった。
 家での琴子は、愚痴はこぼすがどもることなく私に話しかけてくるし、自分で自分を鼓舞したりと、そこまで暗い性格でもない。

 文句の一つでも言ってやろうかと、ふわふわな両手でスマホを握ったが、ここではないと思いとどまった。
 今日一日の琴子を観察してからでも遅くは無いだろう。

「さて、おやつの時間にするか」

 私は一日一つだけだと琴子に渡されたチュールを抱えて、ごろんとリビングに寝そべった。



 ◇ ◇ ◇



 今日一日、琴子を観察していて分かったことは、琴子の態度が余りにも酷いということだった。

 話しかけてきた人間の目は見れない。
 俯いたまま、ぼそぼそと聞き取れない音量で話し、会話の返事も要領を得ない。
 琴子の愚痴の内容通り、上司は琴子を叱ってばかりいた。

 かと思えば、自分の仕事ではない仕事でもお願いされれば断らずに受け取ってしまうし、自分の手に負えない仕事量でも誰にも相談せずに一人で抱え込んでしまって、結局今日も終電で帰ってくるのだろう。

 侮られるのも、怒らせるのも、当たり前の話だ。
 琴子の態度が周りにそうさせていると言っても過言では無い。

「ただいま〜、ごめん。また遅くなっちゃった……」

 遅くに帰ってきた琴子が私に謝る。
 この謝り癖にも困ったものだ。

「琴子! ソファに座れ!」

「えっ? あっ、うん」

 私に言われるがままソファに座った琴子に、私は冷蔵庫から缶ビールを出して、手渡した。

「ビール?」

「いつも帰ってきたら飲んでいるだろう。まずは自分を(いたわ)るのだ。ご褒美は大切だからな」

 そう言った私の手には、未開封のチュールが握られている。

「……トラ。今日のおやつ、もうあげたよね……?」

 じっとりとした目で琴子が私を見つめる。それを無視して私は話を続けることにした。大事な話だ。

「今日一日、琴子を見ていて分かったぞ。原因は琴子の態度にある! 自分で自分を追い詰めているのだぞ!」

 私が感じたことを琴子に話してやると、琴子はバツが悪そうに両手の人差し指をつんつんと重ね合わせた。

「……うぅ、そんなの私が一番分かってるよ。でも、もう癖っていうか……」

「情けない声を出すな。いいか、昨日も言ったかもしれないが、琴子の課題は自信が無いことだ」

「自信なんてそんなのもう、どうにも出来ないよ……」

 琴子が諦めきった声で弱音を吐いた。
 今にも泣き出してしまいそうな琴子に、私のしっぽも垂れてしまう。

 自信をつけさせたいだなんて、無謀なのか。
 これ以上、琴子に『頑張れ』と声をかけるのは酷なのか。
 このままで居た方が、琴子は幸せなのか……?

 そこまで考えたところで、私は短い足で踏みとどまった。

 私が諦めてどうするんだ。
『頑張れ』じゃない、私もともに頑張るのだ。

 琴子に大切にされて、私は沢山の幸せを享受(きょうじゅ)した。
 琴子を幸せにするんだろう!

「一度きりのニャン生ぞ! 本当にこのままでいいのか? それで琴子は幸せなのか?」

「…………幸せなんかじゃない。このままじゃ嫌だ。私だって、変われるものなら変わりたいよ……っ!」

 琴子の瞳から涙が流れる。
 その手には蓋の空いた缶ビールが握られている。

「よく言ったぞ、琴子! お前は変わる、私に任せろ。愛され猫の私が、琴子が愛される人間になれるようにプロデュースしてやろう!」

 お団子のようなまん丸なお月様に照らされて、一人と一匹は熱く拳を交わしたのだ。