「清水」

「……はいっ」

 会議室で取引相手を見送り終わると、いつもしかめっ面の上司が私を呼び止めた。緊張しながら返事をすると、意外にも上司の声色は優しかった。

「さっきのプレゼン、とても良い出来だった。一晩で良くやったな。まぁ、発表は荒くはあったが……初めてにしては上出来だ」

 驚いて顔を上げると、相変わらず眉間にシワは寄っていたが、上司の口元は微笑んでいた。

(笑っているところ、初めて見た…………)

 その上司の物言いが、なんだかトラに似ていることに気づく。厳しいことを言っていながらも、理不尽さは感じない。

 ずっと、怖い人だと思っていたけど違うのかもしれない。この上司(ひと)は、ちゃんと叱って、褒めてくれる人だ。

「……あ、ありがとう……ございます!」

 反射的に勢い良く頭を下げた。
 認められたことが嬉しくて、目頭が熱くなった。

 そんな私を一瞥(いちべつ)して、上司は自分の席へと戻っていった。
 後ろからやって来た同僚が私の肩を叩く。

「あの上司(ひと)が褒めるなんて珍しい。良かったな」

「清水さんが頑張ったからだよ! 資料も私たちが作った時より良くなっていたし、さっきのプレゼン……堂々としていて本当に格好良かったよ!」

「ほんと、昨日の夜に作ったとは思えないくらいちゃんとした発表だったよ。どうせ、清水さんのことだから……私たちが帰った後にも残業してたんでしょ?」

 中村さん、田中さん。次々と声をかけてくれる。
 当たり前のようにねぎらってくれる。この光景が、私にとっては奇跡みたいなことだった。

「清水さん……っ! 僕、さっきすれ違った取引先の方から頼もしい先輩で羨ましいなって声かけられましたよ! 今後も宜しくって言ってました!」

 慌てて駆け寄ってくる後輩は、まるで犬の耳としっぽが見えてしまいそうな勢いで、私は声を出して笑ってしまった。

「……ははっ、良かったぁ……っ」

「「「「清水さんが、笑った……っ!」」」」

 皆が声を揃えて言うものだから、私はそれがおかしくてまた笑ってしまった。



 ◇ ◇ ◇



 プレゼンを終えて、そのまま休憩時間に入った私は、コーヒーでも買いに行こうと財布を手に取って、オフィスを出た。

 オフィスを出ると、取引先の人達が車に乗って次々と会社へ帰る所に遭遇した。その中の一人が私に気づくと、会釈をしながら駆け寄ってきた。

「清水さん……っ!」

 声をかけてくれたのは、スマートで格好良くて、仕事も出来て……冴えなかった私にも気遣ってくれていた、密かに憧れていた人だった。

「お疲れ様です。先程のプレゼン、とても良かったです。私の上司も前向きに検討したいと話をしていましたよ」

「……っ、ありがとうございます!」

「清水さんが作る資料、いつも丁寧で分かりやすくて、うちでも評判がいいんですよ。でも、それって……発表でも仰っていたように、寄り添う姿勢を忘れないからなんですね」

 過去の私をも肯定してくれる言葉に、私は目を丸くして驚いていた。
 目立たない私でも、地味で冴えない私でも、今までに積み重ねてきた私の仕事を見てくれていた人がいる。

「……ありがとう、ございます……っ」

 頭を下げる私に、顔を上げてくださいよ、と言って彼は笑った。

「こんなことを言ったら失礼かもしれませんけど……、清水さん、最近とても素敵ですよね。もしかして、良い出会いでもありましたか?」

「良い出会い…………」

 私の脳裏に、ぽっちゃりとした二足歩行の茶トラ猫の姿がよぎる。

「ふふっ、出会い……は無いんですけど、心境の変化はあって……、自分に自信が持てるように、自分の人生を楽しく生きられるように努力することに決めたんです」

「そうですか……! 良かった、あの……もし、今付き合っている人がいないようなら……、今夜……僕と食事に行きませんか?」

「えっ……!?」

 こ、これって、デート……だよね?

 今までの私なら舞い上がって、焦って、勢いで食いついていたかもしれない。
 だけど、今夜は……すぐにでも帰って、今日のことをトラに話したかった。

「ごめんなさいっ! お誘いして頂いて……凄く、嬉しいです! ただ、今日は早く帰らないといけなくって……良かったら、また今度、誘っていただけますか?」

 自分でも驚くほど、するりと出てきた言葉に嘘はなかった。

「そう、ですよね。急に誘ってしまってすみません。もしかして、先約がありましたか?」

 彼の言葉に、私は満面の笑みでスマホの待ち受け画面を見せて言った。

「はいっ! うちで猫が待っているのでっ!」

 とにかく、今すぐにトラと話がしたかった。

 何故か、穴が空いてしまいそうなほど、彼は私のことを見つめていた。
 ぺこり、とお辞儀をして、私はコーヒーを買いに街へと歩き出した。すると、後ろから大きな声で彼に呼び止められた。

「あのっ! また、誘いますね!」

 その声に振り返ると、彼は名残惜しそうに片手を上げていた。私は負けないくらい大きな声で返事をすると、スカートをひるがえして街へ向かった。

「ぜひっ! 楽しみにしていますね!」

 あぁ、私ってこんなに大きな声が出るんだ。
 憧れのあの人に誘われたのに、どう見られているかなんて気にならなかった。これが、私の為の人生を生きているってことなんだろうか。

 弾む足取りで、私は青空の下を歩いていく。



 ◇ ◇ ◇



「ただいま、トラ! ねぇ、聞いてっ! あのね、今日のプレゼンでねーー」

 帰るなり、パンプスを脱ぎ捨てて、いのいちばんにトラに話しかける。そんな私を、トラは満足そうに見つめていた。

「琴子」

「なに、トラ?」

「もう、猫背は治ったにゃ!」

 バシン、と背中を叩かれても、もう私の視界が変わることは無い。真っ直ぐに伸ばされた背筋が、私の視界を広げてくれる。

 トラが喋って、変わりたいって思った。
 いつの間にか、人目を気にすることも忘れて、毎日を生きるのが楽しくなった。

「なぁ、琴子。今……自分の為に、生きられているか?」

 トラの問いに、私はニッカリと歯を出して笑って答えた。

「うんっ! だって、一度きりの人生だもん!」