猫の目のように力強く跳ね上げたアイライン。
 くるんとカールさせたまつ毛に、トラの毛色のような茶色のマスカラを塗る。口紅は勝負の色、真っ赤に染める。

 いつもより気合いの入ったアイメイクを念入りに確認している私に、トラが話しかける。

「琴子、昨日の夜に仕上げたプレゼン発表用の原稿は持ったか」

「も、持ってる……!」

「震えた手では格好がつかない、このカイロを持っていくのだ。直前まで手を温めておくといい」

「うん、ありがとう!」

 入念なダブルチェックに、忘れ物の心配はない。

「……琴子っ!」

「はいっ!」

 力強いトラの声に振り返った。
 私の真後ろに仁王立ちで立っていたトラは、耳をピンと立てて言った。

「今日の化粧、キマっているぞ!」

「……っ! ありがとう!」

 戦の準備を整えて、いざ、発表の舞台へ。
 座り込んでパンプスに足を通していると、トラが私に声をかける。

「琴子、お前は大丈夫だ。自信を持って行ってこい! おまじないだ!」

 そう言うと、私のまぶたの上をトントンと肉球で優しく触れた。そして、私の背中をしっぽでポンと押した。

「うんっ、行ってきます!」

 玄関のドアを開けると、朝日が差し込んだ。
 私のまぶたにかけられたおまじないが、陽の光を反射して、キラキラと輝いていた。



 ◇ ◇ ◇



「おはようございます、清水さん。いよいよ、発表だね」

「元はと言えば人の仕事なんすから、気負わずやればいいんすよ」

「もうっ、田中さんってば、またそんなこと言って……」

 いつも通りの中村さんと田中さんの掛け合いに、緊張する心が和らいだ。

「要するに気楽に行ってこいってことだろ? 俺も会議ではサポートするから、間違えても大丈夫だ」

「……本当に、ありがとうございます……っ」

 同僚に勇気づけられて、私はプレゼン資料を抱えて、会議室のドアをくぐった。
 ここからは、私の戦場だ。



「本日は、お集まり頂きありがとうございます。新企画について提案させて頂きますので、皆さんのお手元に配られている資料をお手に取り下さい。まずは資料一ページ目より…………」

 いつもよりも声を張り上げて、背筋を伸ばして堂々と会議室を見渡した。

 私に集中している視線に目眩がしそうになったけれど、その中にはよく知っている同僚や中村さんの、大丈夫だよと伝える視線があった。
 それが何より心強くて、私は映し出されたスクリーンを指して、企画について説明を続けた。

 ユーモアなんて織り交ぜる余裕もなくて、聞く人が聞けば、なんて綱渡りのような発表かと思うかもしれない。だけど、私は私に出来ることをするだけだ。

「…………である為、こちらのグラフからも読み取れるように、より効果的にアピール出来ると考えております。また、弊社では日頃より……」

 これは、後輩が作ってくれたグラフ。
 さっき、話す内容が飛んでしまいそうになった時は、同僚の資料に助けられた。
 私はもう、一人で仕事をしているわけじゃないんだ。

 私の発表に、取引相手が聞き入っているのが分かる。それがとてつもなく、嬉しかった。

「最後に、私どもは顧客の声に耳を傾けることが何より大切だと考えております。今回の合同企画について、何卒ご検討を宜しくお願い致します。ご清聴ありがとうございました……っ!」

 やりきった。

 私が頭を上げると、いつも怒られてばかりだった上司が、満足そうに頷いていた。
 取引先の人達も、熱心に渡した資料を読み込んでくれている。

 何より、発表を受け入れてもらえている。そんな手応えを感じていた。
 今までの私では考えられないことだった。


 トラが喋ったあの日、一歩を踏み出して本当に良かった。


 私は、いつも眉間にシワを寄せている上司と肩を並べて、会議室を後にするお偉い方を頭を下げて見送った。