酒臭いサラリーマン達をかき分けて、最終電車に駆け込んだ。窓から見えるビルの明かりも軒並み消えて、冴えない顔の女が映り込む。
 無造作に伸びただけの長髪に、度数の高い瓶底メガネ。見るからにくたびれたOLが私、清水(しみず)琴子(ことこ)だ。

 明かりのついていない家に帰るなり、缶ビールを空ける。ビールを一気に飲み干して、空き缶を小さなテーブルの上に置いて突っ伏した。

 窓から差し込む月明かりに照らされて、スヤスヤと気持ち良さそうに眠っている愛猫の姿が見えた。その自由気ままさが羨ましくて、私は思わず恨みがましく呟いた。

「トラはいいね、いつも幸せそうで。……私は、誰の為に生きているんだろう……」

 強制的な睡魔に襲われて、私はそのまま眠りについた。


「おいっ! 起きろっ、琴子(ことこ)! 朝だぞ、飯の時間だ。最高の一日が始まるぞ!」

 背中に衝撃を感じて目を覚ますと、野太い声で誰かが私に呼びかけている。

「……ん、えっ……! 待って、誰……っ!?」

 慌てて飛び起きて、周囲を見回してみても、飼い猫が不思議そうに私を見上げているだけだ。二足歩行で。

「トラッ!? 二足歩行……っ!?」

 ぽっちゃりとした茶トラ猫が、仁王立ちで私を見上げている。

「朝から騒がしいぞ、琴子。寝ぼけているのか? あぁ、寝起きの一杯やっとくか?」

 トラがおじさんみたいに話している。

 私の反応を気にも止めずに、二足歩行で冷蔵庫へ向かうと、まんまるい手で器用に冷蔵庫の扉を開けた。勝手知ったるなんとやら。牛乳パックを両手で掴むと、ぽてぽてと歩いてきて私に差し出した。

「ほら、飲むか?」

「い、いい……」

「そうか。ならば、私だけ戴こう」

 そう言うと、トラは牛乳パックを両手で持ち上げて、ごくごくと飲み始めた。

「ト、トラが喋った……っ!」

「なんだ今更。相変わらず、お前はのんびりしているな。琴子」

「私の事、琴子って呼び捨てにしてたの!? いや、確かにトラはもうおじさんな年齢になるけど……なんか、可愛くない……」

「ほう、そこに突っ込むとはなかなかやるな。琴子は私の話し方に不満があるのか」

「ない、けど……猫が喋ってることを受け入れられないの! 現実逃避してるんだよ……。なんで、トラが喋ってるの……?」

「知らん」

 即答だった。
 答えたぞ、とばかりに、ぺろぺろと腕を舐めて毛ずくろいを始めるトラを見て、私はため息をついた。

「朝起きたら、二本の足だけで歩けたのだ。試しに前足でゲージの入口を持ち上げてみたら、案外器用に動かせたぞ」

「あぁ、そう……」

 私一人で焦っていても仕方がない。どういう理由かは分からないが、本人? 本猫? は気にしていないようなので、私もとりあえず騒ぐのを辞める。

「どうした、琴子。難しい顔をして」

 眉間に皺を寄せて座り込んだ私の顔を覗き込むと、トラは私の両頬を掴んで言った。肉球が凄くふわふわで気持ちがいい。

「琴子にニャン生の醍醐味(だいごみ)という奴を教えてやろう」

 そう言うと、トラは来い来いと手招きをして、日向に寝ころんだ。

「ニャン生の醍醐味とは、ぽかぽかの陽ざしに包まれてうたた寝をすることである。ほれ、琴子もこっちに来て寝ころんでみろ。気持ちがいいぞ」

 大の字で仰向けになって目を細めるトラの横に、私も控えめに寝ころんだ。

「…………あったかい」

 ぽかぽかとした陽気が、心地良い眠気を誘う。
 なんか、こんなにゆっくりするのは久しぶりかもしれない。こんなに、ゆっくり……。

 バッ! と飛び起きて、私は慌てて時計を確認する。

「って、仕事っ! ゆっくりしてる場合じゃないっ! 早く支度しなきゃ……!」

 仕事に縛られる現代人には、のんびり過ごしている余裕なんてない。バタバタと身支度を整える私を、寝ころんだままのトラが眺めて言った。

「どうした、琴子。いつも仕事に行きたくないと言っているだろう。どうして自分の時間を奪われて、無理して嫌なことを我慢する必要があるんだ」

「…………いいよね、猫は。自由に生きられてさ。人間は自分勝手には生きれないの!」

「何故だ。そんなもの誰が決めた」

「誰って……、そういうものだし……」

「人間は皆、琴子のように人の顔色ばかり伺って生きる生き物なのか?」

「それは……違うけど…………」

 猫のくせに、痛いところをつく。
 人目を気にして、人の顔色ばかり伺って、自分の意思なんて二の次で社会の歯車として過ごす日々。だけど、皆が皆そうやって生きてるわけじゃないことは分かっている。

 これは、私の性分(しょうぶん)だ。
 きっと、他の人はもっと要領良く、自分の為に生きているはずだ。

「誰の為に生きているのか、と言っていたな」

「……聞いてたんだ」

「簡単な話だ。自分の為に生きれば良いのだ」

「なんで、そんな風に言い切れるの。そんな簡単な話じゃないよ……。トラは猫だから、私の気持ちなんて分かんないよ……」

 勝手気ままに生きるトラを見ていると、自分の生き方がなんだか恥ずかしくて、面と向かって目が見れなかった。

 すると、トラはふっくらしたお腹を揺らして立ち上がった。そして仁王立ちで胸を張ると、ポンと胸の辺りを叩いて自信満々な表情で宣言した。

「周りを気にして何になる。我が、一度きりのニャン生よ!」

 堂々と言ってのけるトラの姿が私には眩しくて、羨ましさと同時に憧れた。私もこんな風に堂々としていたい。もっと、自分の人生を自分の為に生きているって言いたい。

「……ねぇっ、トラ……っ。私も……、私もトラみたいに自分の人生を、生きられるかな」

 そう言った私の声は、少しだけ震えていた。

「出来るに決まっている。ニャンと言っても、琴子にはこの私がついているのだからな!」

 ぴょん、と私の肩に飛び乗ったトラは、お日様の匂いがした。