蕾がほころんだのは、麗しいくらいの日差しが差し込む朝だった。

 庭に出た吾輩の鼻先を、ふわりと甘い香りがくすぐる。その花たちは、長く閉ざされていた記憶から目を覚ましたように赤々と咲き誇っていた。
 
「……咲いた、のか」

 家の中から聞こえたのは、か細いながらも抑えきれない嬉しさを含んだ声。
 マサフミは支えるように柱へ手を添え、ゆっくりと軒下に腰を下ろした。
 
「はぁ……綺麗だなあ。やっと……だ」

 彼はそれから何をするでもなく、ただ椿を見つめ続けた。
 朝の柔らかな光が移ろい、昼の真白な日差しになっても、彼は視線を離さない。

 時折、むせ込むような咳をした。呼吸が乱れ、胸が苦しそうに揺れる。
 それでも、彼の瞳はずっと花だけを映していた。

 吾輩は彼の足元に身を寄せ、丸くなり、寄り寄り喉を鳴らした。
 それ以外に、できることはなかったのだ。


 やがて、涼しさを帯びた夕方の風が庭を渡りはじめた頃。
 木々の影が長く伸びて、椿の赤はひときわ鮮やかさを増していた。
 
「……マル。少し、横になってもいいか」

 数時間ぶりに聞いたマサフミの声は、すでに(かす)れきっていた。
 吾輩が短く鳴いて応えると、彼はふらりと身体を持ち上げて、そのまま布団へと横たえた。

「ちゃんと、咲いた……んだな」

 花を見つめながら微笑む。だがその顔には力が入っておらず、形を保つのも難しいようだった。

「マルが……来てくれたらおかげかもな……」
「にゃあお」
「そうだな……。最後に見れて、よかった……」
「にぁあお」

 彼の目が、椿の赤から遠くのほうへと向いた。
 
「ああ……チヨ……咲いたよ……」

 落とされた声は、誰の耳にも届かぬかすかな響きを残す。
 だが、吾輩だけが静かに聞き取った。
 
「少し、だけ……眠らせてくれ……」

 その言葉は花の香りに包まれながら、悠然と消えていった。

 ⁂
 
 彼の胸の動きが止まったのは、それから程なくしてからだった。
 心残りなく、生涯を閉じた人間の匂い──甘美でありながら、どこかほろ苦い。その苦みさえも、愛おしさとして胸に残る。
 人間の命とは、なんと奥深く、儚いものだろう。

 吾輩はそっと立ち上がり、庭の椿の木から一輪の花を折った。匂いをいただいた礼ではないが、マサフミの手にそれを添えてやる。
 夕暮れの光に照らされた花は、彼を(とむら)うように赤く揺た。

「にゃあお」

 吾輩は控えめに声を響かせながら、しばし彼の寝顔を見守った。

 ⁂

 夜。
 吾輩が縁側に出ると、椿の木の下に薄い影が二つ揺れていた。

 綺麗な長い髪の、(かんざし)がよく似合いそうな女性。そして、その女性に寄り添う三毛猫。
 月夜の下、二人は柔らかい微笑みは、春の夜風に誘われるように消えていく。
 その風に乗った椿の花びらが、ひらりひらりと舞い落ちて、地面に赤い絨毯を作り上げた。

 吾輩は、深い余韻の中で「にゃあお」と一声鳴いた。
 三人の愛しい日々の記憶を映し出した椿の香りが、家中を満たしていく。
 永遠の安らぎを象徴するかのように、月明かりだけが煌々と庭を照らしていた。