吾輩、気まぐれ猫神にて。


 それから、数週間。
 吾輩は毎日のように、男──マサフミの家に顔を出すようになった。
 居座るつもりは毛頭ない。数時間ほど軒下でゴロゴロと寛ぎ、気まぐれに姿を消すだけだ。
 吾輩は、人間の思い出を無闇矢鱈(むやみやたら)に上書きするようなことはしない。だから、この距離感がマサフミにとっても吾輩にとっても心地よい──と、まあそんな具合である。

 いつの間にか、軒下には古い座布団が一枚敷かれるようになっていた。
 吾輩は今日もその上で丸くなり、日差しを浴びながら毛づくろいを始める。

「……今日も来たのか。毎日毎日、お互い暇だな」

 口では文句を言っているが、マサフミは吾輩が来るよりも前に皿に餌を並べ、さらには水までも用意しているのだ。
 どうやら、もてなしのつもりらしい。それでも男は、相変わらずむすっとした顔で言う。

「別に……飼ってるわけじゃねぇからな」

 それを聞いて、吾輩は尻尾をふるりと揺らした。こういう人間のことを、人々は『天邪鬼』と呼ぶのだろう。

 ──ふむ。人間とは、実に面白い生き物だ。

 文句ばかり言いながら、猫の訪問を待ち、世話をしてしまう。自分でも認めたくないのに、無意識に楽しみを作ってしまう。
 その小さな矛盾が、今のマサフミの心を少しずつ満たすものへと変わってきているのだ。
 幸福の匂い──とまではいかなくとも、確実に、ほんのわずかだが漂い始めていた。

 ⁂

 年が明け、積もった雪が溶けきった頃。
 遠くの山々から、ウグイスの初音が響いてきた。冬の冷たさが少しずつ和らぎ、吹き抜ける風には、あたたかみが混じりだす季節。

「もう春になるのか……」
「にゃあお」
「マルが来た頃は、まだ雪の降る前だったのにな。早いもんだ」

 マサフミは雪解けの庭をぼんやり眺めながら、ははっとひと笑いして肩を脱力させた。

 気づいたら、吾輩は『マル』という愛称で呼ばれるようになっていた。
 先代の猫の名は『ミケ』だったらしい。どうやらそのまま『ミケ』にしようとしたようだが──吾輩は「シャーッ」と逆毛を立て、強く抵抗した。
 吾輩は亡き猫の代わりでもなければ、記憶の穴埋めをする存在でもないのだ。

 マサフミは困ったように頭をかき、少しだけ笑う。
 
「じゃあ……別の名前にするか。『マル』ってのは、どうだ」

 ふむ。まあ、悪くはないだろう。
 吾輩は尻尾を一振りしながら「にぁあお」と鳴いて答えてみせたのだった。

 名前が決まると、家の中の空気がまたほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
 長く冷えきっていた部屋に、ようやく春の光が差し込んだような──そんな変化を肌で感じた。

 庭では風に揺れた若葉がこすれ合い、さらさらとやわらかな音を立てている。冬の重さが消え、季節が軽やかに動き出しているのがわかる。
 その風の音に誘われるように、マサフミの視線があの枯木に向かった。

「今年は……咲くといいな」

 そう落とされた声には淡い期待と、名前にできない祈りが混ざっていた。
 マサフミの言葉に、吾輩はただ耳をぴくりと動かしただけだったが──その木に、小さな命がひそかに宿りつつあることを、吾輩だけが感じ取っていた。

 ⁂

 数日後。
 いつものように気まぐれのままマサフミの家に訪れた瞬間、彼の歓喜にも似た声が庭に響いた。

「来たか、マル! 見ろよ、蕾がついてるぞ」

 見上げれば、枯れ枝ばかりだったその木に、ぽつりぽつりと灯火のような赤い蕾がついている。
 それはまるで、失われたはずの色がひとつずつこの世界に帰ってきているようだった。
 
「これな……妻が大事に世話してた椿なんだ」

 マサフミは両手を膝に添えて、慈しむように椿の木を眺めだす。
 風に乗って流れてきたのは、淡い春霞のような匂いだったが──その中に混じった『幸福の匂い』を、吾輩ははっきりと嗅ぎ取った。

「にゃあお」

 マサフミの心が少しだけ軽くなったのを感じて、吾輩は足元へと歩み寄る。
 そして、言葉の代わりに頬を押し当てた。

 ⁂

 蕾がついた翌日から、マサフミの様子に少しずつ影が差しはじめた。
 
 朝、いつものように庭へ出ようとした彼は、大袈裟なくらいに咳き込んだ。立ち上がる動作も、以前よりひどくゆっくりになっている。
 軒下に腰を下ろしたまま、知らぬ間に眠ってしまう日が増えた。
 話しかけようとした吾輩の声に気づかず、ぼんやりと椿の木を見つめていることもある。

 竹ぼうきを持って追い払われたあの頃のマサフミの面輪(おもわ)は、もうどこにもなかった。
 それは、吾輩に気を許したからだけではない。
 春の光に溶けていくように、彼の背はほんの少しずつ細っていった。

 ──もう、長くはないな。

『病』という言葉は、彼も吾輩も口にしなかった。
 口にせずとも、わかっているだろう。

「せめて、蕾が開くまでは……」

 マサフミは何度も呟いた。
 吾輩は何も言わず、ただ彼の足元に寄り添うよう。寄り添うことでしか返せないぬくもりが、そこにあったのだ。