吾輩はもう一度、今度は背後からそっと男に近づいた。
 
 漏れるため息。丸まった背中。かつて現場で若い衆を一喝し、梁の上を渡り歩いていたであろう棟梁の面影は、これっぽっちも感じられない。
 だからこそ、猫の手を貸すタイミングというものは、こういう影の隙間にこそ転がっているのだ。

「にゃあお」

 吾輩は静かに声をかけた。
 猫撫で声ではない。寂しさの底に落ちかけた人間を、すくい上げる声だ。

「……!」

 驚きと拒絶。だが、わずかに救いを求める気配が男の背中でふるりと揺れていた。

「こいつ……! 家の中まで……!」

 男は眉間に深いしわを寄せ、勢いよく竹ぼうきをつかんだ。その動作には、棟梁だったときの威勢(いせい)がかすかに残っている。
 それでも二度目は身を引かず、吾輩は男を見据えた。

 ──ふむ。打つ気はないな。

 怒りの匂いよりも、戸惑いの匂いが勝っている。

「にぁあお」

 同じ声色で返してやり、くるりと身をひるがえす。そして、ついてこいと言わんばかりに台所へ向かった。

「にぁあお、にゃあお」
「おいっ! いい加減に……!」

 男の手が、ぴたりと止まる。
 吾輩が向かったのは、先客が使っていた古い飯碗の前。ひっそりと置かれているが、埃は払われている。
 だが、もう誰も使わない飯椀だ。

「にゃあお」

 吾輩は踏み込む覚悟を示すように、一声だけ鳴いた。

 ──これは、諸刃の剣。

 怒らせるかもしれない。だが、閉ざされた思い出の蓋に手をかけるのは、この一手しかない。
 そして──男の喉がぎゅっと鳴ったのを、吾輩は見逃さなかった。

「……にゃあお」

 ここが勝負どころだ。
 吾輩はころころと喉を震わせ、甘く、そして救いの手を差し伸べるような声をあげた。

「……腹が減ってるのか?」
「にゃあお」

 本当は煮干しを食べたばかりだが。ここを逃す吾輩ではない。

「……待ってろ」

 男はしぶしぶ立ち上がる。足取りは重かったが、拒絶の気配は薄れていた。
 慣れた動きで戸棚を開け、ひとつまみの餌を手にする。その仕草には、かつて誰かのために台所に立っていた癖が残っているようだった。

「ほれ」
「にゃあん」

 吾輩は大げさにならない程度に喜びを示す。
 
「……美味いか?」

 吾輩は答えず、ただ口を動かす音だけを立てた。
 それで十分だ。こういうときは、行動で示せばいい。

「……そうか」

 誰かの姿と重なったんだろう。
 男がぽつりと呟いた声には、あたたかかった記憶の残り火が滲んでいた。

「それ食ったら、もうどっか行けよ」

 吐き捨てるように言って、男は再び軒下に腰を下ろした。
 その背中は、先ほどよりほんの少しだけ伸びている。枯木へ向けられた男の視線は、過ぎた遠い日々を思い出しているように柔らかかった。

 ⁂

 翌朝。
 男は昨日のように軒下に腰を下ろし、ぼんやりと枯木を眺めていた。
 地面についた霜が庭を白く縁取っている、年の瀬の寒空の下。男の吐き出した息が、朝の空気に霧散していく。凛とした殺風景な景色の中、この男は一体なにを思っているのだろうか。
 五度目の深い息が朝光に溶け込んだ頃──

「にゃあお」

 と、知らぬ存ぜぬと気まぐれを装うように、吾輩は姿を現した。

「……また来やがったか」

 言いながらも、昨日のように竹ぼうきを手に取らない。むしろ、吾輩のほうに手を伸ばしかけ──途中で我に返ったように引っ込めた。

 ──ふむ。なかなかの頑固者、といったところか。

 棟梁時代に鍛えられた性格や人格のせいもあるのだろう。素直になれぬ男の不器用さが、引っ込めた手先からひしひしと伝わってきた。
 吾輩は男の隣に丸く座り込んで、毛づくろいを始めてみせる。
 男は迷った末、ひとりごちるように呟いた。

「……腹、減ってんのか?」

 言ってから、自分ではっとしたように眉をひそめる。

「いや、違う。違うからな。昨日やったのは……アレだ、一時の気の迷いで……」
「にゃあお」

 吾輩はわざとらしく、飯椀のほうをゆっくりと見やった。男の口元がわずかに歪む。

「くそ……。なんで俺が猫に気を遣わなきゃいかん……」

 そう悪態をつきながらも、台所へ向かう足取りはやけに早かった。

「ほらよ」

 昨日と同じ餌を皿に置くと、男は視線を逸らしながら言った。
 
「頼むから、仏壇の前でだけは暴れるなよ。あれは、その……大事なんだ」
「にゃ」

 了解、というより「心得た」とでも言うべきだろう。吾輩は短く返事をした。
 
 たぶん、男は自分でも気づいていない。
 昨日まで枯木みたいだった声が、今は少しだけ温度を帯びていることに。