「よお、カイト。元気か?」

 聞き覚えのある声のようだ。カイトの肩がわずかに跳ね上がった。

「シュウジ……」

 入ってきたのは、カイトと同じくらいの歳の男。ラフな格好だが、目つきと立ち居振る舞いには自信が宿っている。売れっ子特有の匂い、とでも言えばよいか。
 
「お前、絵描きやめるんだって? 噂で聞いたぞ」
「別に。やめるっていうか……向いてなかっただけだよ」

 ふむふむ。やはり人間という生き物は、落ち込むとすぐに自分を矮小化(わいしょうか)する癖がある。
 吾輩からすれば不可思議な思考だが、それが人間の愛らしいところでもある。
 だからこそ、彼らには時々ひと押しが必要になる。ほんの少し、背中を撫でてやるだけでいい。
 そのために、吾輩のような存在がいるのだ。

「お前、猫なんて飼ってたのか」
「飼ってるっていうか……懐いた、っていうか」

 懐いた、か。まあ、あながち間違いではない。
 吾輩はカイトから漂う、人間くさい匂いに釣られているのだから。

「可愛いじゃん。おいでおいで〜」
「なぁん」

 猫撫で声で、あえて無視した。
 シュウジという男からは、すでに幸福の匂いがする。嫌いではないが、それだけでは吾輩の極上の餌にはならないのだ。
 
「嫌われたかあ。どうにも猫には好かれないんだよな、俺」

 そうであろう。猫は実に気まぐれだ。
 犬のように『来い』と言われて行くようにはできていない。呼ばれれば背を向け、にもかかわらず、誰にも呼ばれていないときに限って膝の上に乗る。
 それが猫の流儀であり、我々の誇りではないだろうか。

「お前、今これ描いてたの?」

 シュウジがキャンバスに目を配った。
 
「いや、それは……適当に描いてたやつだから。見せるようなもんじゃ……」

 なんと、適当とは。モデルになった吾輩に対してずいぶんと失礼ではないか。
 吾輩はぶんっと尻尾を振ってやった。
 
「いやいやいや」

 シュウジはキャンバスをぐいと覗き込み、そのあとで吾輩とキャンバスを交互に見比べた。その目がわずかに細められる。

 ふむ。この人間、少しばかりわかるタイプだな。

「うん、悪くないじゃん。むしろ今までのお前の絵より、生きてる感じがする」
「そうか……?」

 カイトの目がほんの少しだけ揺れる。その揺れが、吾輩にはたまらなく美味な馳走になっていく。
 シュウジは興味深そうに続けた。
 
「これ、応募したらどうだ? 今月〆切の、地元でやってる公募があるんだよ。賞金はまあ安いけど、出してみる価値はあると思うぞ」

 カイトはすぐには答えない。
 答えられないのだろう。心の中で、諦めと情熱が綱引きをしている。彼の手がかすかに震えるのが見えた。
 
「……今さら、俺が出してもな。落ちるのは目に見えてるし」

 口から漏れたのは、何とも弱気な言葉だった。
 これが挫折を重ねてきた人間の答えなのだ。諦めが先に立ち、希望はすぐに押し潰される。
 苦くて、喉にべったりとへばりつくガスのような匂いを放っていた。
 
「いやいや、そんなことないって」

 シュウジの無駄に明るい声が、そのガスを霧散させていく。心地よい春風が冬の名残りを連れ去るように、部屋の空気が少しずつ軽くなる。

「ほんと、昔のお前みたいにな絵で俺は好きだぜ。俺はこの絵を出してほしいと思う。いや、出すべきだ」
「お前、俺のこと買い被りすぎじゃね?」
「当たり前だろ。俺は学生のときから、お前の絵に惚れてるんだから」
「ははっ、シュウジだけだよ。今でもそんなこと言ってくれるのは」

 ──なるほど、なるほど。

 この二人には、神の手でも届かない絆があるらしい。
 シュウジは、カイトのことを本当に気にかけていたようだ。安堵の匂いが吾輩の鼻先にさらりと届いた。
 
「絵描き、やめんなよ。カイト」

 シュウジは軽く手を振り、玄関の扉を開ける。
 その背中を、吾輩は目で追った。

 ──ふむ。悪くない人間だったな。

 気まぐれな猫神様でも、まあ多少は懐いてやってもいいタイプかもしれない。

 扉が閉まると、静まり返ったアトリエに再び絵の匂いと筆の余韻だけが残った。
 カイトはキャンバスの前で深く息をつく。

「なあ、ピエール。俺、まだやれるかな……」

 答え──というよりは、後押しがほしいのだろう。吾輩はすっと立ち上がり、カイトの足元に滑るように寄って頬擦りをする。

「なぁん」

 短く、しかし背中を押すように鳴いた。
 カイトは息を呑んだように吾輩を見ている。その瞳には、少しだけあの日より明るい光が宿っていた。

 ⁂

 大事に梱包されたキャンバスを発送した日。カイトの手が少しだけ震えていたのを覚えている。
 緊張、不安、希望、期待、すべての感情を押し込めていたのだろう。

 その後の数週間は、特に大きなドラマはなかった。
 たが、カイトは描くことを止めなかった。むしろ、出会ったときよりも楽しそうに絵に向き合っている。
 クレヨン、水彩画、ボールペン──それを横目で見やりながら、吾輩もゴロゴロと猫らしい日々を過ごした。
 

 そして、ある日──結果通知が届く。
 カイトは慎重に封を開け、三つ折りの紙を広げていく。文字を追うカイトの目が見開かれた瞬間、声を発する彼よりも先に、吾輩は匂いを感じ取った。

「……やった! やったぞ!」

 吾輩は勢いのままに抱きつかれた。

「ピエール! 佳作だって! お前のおかげだ!」
「な、なぁん」

 苦しい。が、これはたまらなく幸福な苦しさだ。
 ある人は「佳作程度で」と嘲るかもしれないだろう。だがこの喜びは、苦悩と苦渋の闇に沈んでいた者にしかわからないものなのだ。
 その純粋な喜びの匂いを、吾輩は感謝を込めていただく。

 ──美味なり。

『幸福の匂い』──負から正へ振れた感情の波、それこそが吾輩にとっての極上の餌である。

「シュウジ! やったよ! 俺、佳作取ったよ!」

 吾輩を放したカイトは、真っ先にシュウジに電話をかけた。電話越しの声は、さらに喜びを膨らませている。

 ──もう、この青年は大丈夫だな。

 さてさて、これで吾輩の役目はおおむね終わりだろう。
 幸福の匂いが部屋いっぱいに満ちている。もう吾輩の出番はない。

 足音ひとつ立てず、気まぐれにふらりと姿を消すのが猫というものだ。カイトが気づいたときには、もう吾輩の気配すら残っていまい。
 それでいい。進むべき未来を自分の手で掴み直した今、吾輩はただの通りすがりの猫である。

 だがまあ、せめてもの忘れ形見にと、部屋の隅のスケッチブックにポンと一つだけ肉球の印を押しておいた。
 気まぐれな神の、ささやかな置き土産である。
 
 ──それでは、行ってみようかね。
 
 カイトの作品は、地元の展覧会に飾られているらしい。
 実は吾輩、モデルだけやって完成品はまだ見ていないのだ。
 どれ、最後にひとつ見ていってやろうではないか。
 吾輩は身をひるがえして、会場へと向かった。

「かわいいネコちゃんだね」
「かわいい……そうね、味はあるわね」
「うちもネコちゃん飼いたいなあ」

 子連れの親子の声が耳に入る。どうやら、目的の絵はすぐそこらしい。
 ぱっと目を向けてみれば──。
 
 ──これは、また。

 吾輩は思わず苦笑いをこぼした。
 そこには、ブサイクでふてぶてしい猫が一匹、堂々と鎮座していた。